清水御門前御用屋敷
「ここらで止めておくれ」
弾左衛門が六尺に声をかけたのは、清水御門よりも大分手前だった。
駕籠から降りる弾左衛門の足下に素早く草履を置いた吉次郎が、
「御門までまだ一町ほどございますが」
「儂もな、恩人の御屋敷の御門前に駕籠で乗り付けるほど、面の顔が厚くはないよ」
「ご恩人限定のことでございますな」
「ふふん」
鼻で嗤って歩き始めた父親の後を、小荷物を抱えてついて行く吉次郎の口元にも笑みがある。
一町先の屋敷の門前には、六尺棒を携えた小者が二人立っていた。
その内の一人に弾左衛門が声をかける。
「わたくしめは矢野弾左衛門と申す者ですが、是非にこちらのお殿様にお取り次ぎを願いたく存じまして、まかり越しました」
小者は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかげな表情になった。
「お待ちいたしておりました。こちらへどうぞ」
小者の言葉に、今度は弾左衛門の方が驚いた。まるで自分が来るのを解っていて、待ち構えていたかのようではないか。
奥から出てきた案内役の小者が弾左衛門が長屋門の大扉を潜るように導き、大玄関から屋敷に上がるよう促す。
弾左衛門は驚きを顔に出さないように精一杯努めて、小者に訊ねた。
「こちらでよろしいので?」
身分制度が厳しい時代の武家社会において、町人やその下とされる身分の人々は基本的に武家屋敷には立ち入ることすら許されない。
もし許されたとしても、門は扉の小さい潜り戸を通るように言われるだろうし、屋敷内には決して入れず、良くて庭先に通されるだけだろう。
それだというのに、名字帯刀を許されてはいるが武士ではない弾左衛門が、堂々と門を通り、玄関から屋敷の中に招き入れられたのだ。
「お長官さまからそのようにせよと命じられておりますので、ご心配をなさらずに」
小者の言葉に首を捻った弾左衛門ではあるが、そういわれたなら案内役の小者について行くより他にない。
廊下を進むと、障子が開いた部屋があった。中では黒紋付き袴の侍たちがそろそろ暮れかかってきた日の光を頼りに書類を書いていた。
別の部屋の侍たちは何やら議論をしている様子だ。
更に進むと、ある部屋の前で小者はある部屋の障子の前に膝をついた。
「お長官様、矢野弾左衛門さまがお見えになりました」
「おお、思ったよりもお早いお着きだな。お入り頂きなさい」
中から聞こえた中年男性の声に一礼したあと、小者は弾左衛門に向かい直して礼をする。
ともすれば人々から貶まされがちな長吏という職分の自分を――少なくとも表面的には――丁寧に扱ってくれている。
嬉しいとも有難いとも思わなかった。
「どうぞ」
小者が障子を開けると同時に弾左衛門は深々と頭を下げた。
「矢野弾左衛門にございます」
「いや頭をお上げなさい。お入り、お入り」
中年男性の穏やかな声がする。弾左衛門は頭を下げたまま、虫が歩くような格好で座敷の中に入った。
「弾左衛門どのよ、ともかく頭を上げなされ。それでは話もままならない」
「は」
そっと頭を上げた弾左衛門の視野に、小袖着流し姿の治左衛門の姿が入った。
「さあお座り。今、茶を持ってこさせる」
治左衛門が指し示す方には、綿のたっぷり入った座布団が置かれている。
「よろしいのでしょうか」
「遠慮されてはこちらが困る」
治左衛門は微笑している。
示された座布団まで膝でにじり寄り、座った弾左衛門は、再び頭を深く下げてから、背筋をシャンと伸ばして治左衛門に正対した。
「殿様が私奴が参りますことをお見通しだったのは、なぜでございましょう?」
「見通し、というほどではないがな。
お主は長吏頭。関八州に何千ほども支配下の者がおると聞いておる。その情報網を使えば、儂の正体などすぐ知れると思うたまでじゃ。長吏たちの繋がりは強いというからな。
まぁ、事の起きたその日のうちに、弾左衛門どの御自らお越し頂けるとは考えもしなかったがの」
「早く参れましたのは、これのお陰でして」
弾左衛門は懐から折りたたんだ紙切れを取り出して拡げた。お熊が描いたものである。紙切れは治左衛門の膝先に置かれた。
描かれているものは、
「煙草入れ、か」
治左衛門は紙切れを取り上げた。
胡桃の実の根付け、鹿角の煙管入れ、印伝皮の煙草入れ。
まるで紙の上に――色こそ無いが――実物が置かれているかのようように、真に迫った絵であった。
驚くべきは、印伝の文様の勝虫が一匹一匹細かく正確に描き込まれていることだ。
さらには煙草入れの止め金具の『○に草書の無の字』の図案――。
「ふむ……」
治左衛門は紙に穴が開くほど絵図を見つめていたが、ふっと起ち上がり、小物をしまっている箪笥の小引出を開けた。
取り出されたのは、胡桃の根付けと、鹿角の煙管入れと、『○に草書の無の字』の金具が点いた勝虫柄の印伝皮の煙草入れだ。
元の座に戻って座り直し、絵図と煙草入れを交互に見比べる治左衛門が言葉を発するのを待たずに、弾左衛門が自分が今ここにいる理由を始めた。
「その金具の『○に草書の無の字』の御紋は、信州上田五万三千石、仙石越前守様の替紋であったかと存じまして。
その仙石様のご親族のうち、御在府であられて、昼日中に町中をふらふらと歩くことができるお方は、さて誰であろうかと考えました。
考え及びましたのが……」
「御先手鉄砲組頭、加役・盗賊並びに火付御改役長官・仙石治左衛門政勝、か。
……いやいや、察しの良い事だ」
火盗改めの長官さまはカラカラと笑う。実に楽しげであった。
「不思議であるのは、なぜ儂の煙草入れをここまで事細かく知っていたか、よな」
「お熊が見覚えておりました」
「お熊……もしやあのとき丹波の荒熊を演じていた小さな子ども、か?」
「はい。あれは不思議な子でして、チラリと見たものでもすっかり覚えることが出来るのですよ」
弾左衛門は自慢げな微笑を浮かべている。
「では、お熊の覚えたものをお前の所の可愛いお抱え絵師どのが、本物がそこにあるような絵にしたというのだな?」
「いえいえ、お熊当人が描いたのでございますよ」
「なに?」
治左衛門は眼を見開いた。
絵をまじまじと見直す。
線に歪みがある。震えがある。滲みもある。かすれている所もある。何度か引き直した線もある。
そう見れば、幼い筆致だとも見える。
「あんな幼子が?」
治左衛門が深く嘆息すると、弾左衛門は得意げに応える。
「六つ、でございます」
「弾左衛門どの、お熊は芸人ではなく絵師として仕込んだ方が良くないかね?」
「それがそうとも限りませんので」
「と、申すと?」
「お熊は見た物を見た通りにしか描けません。
目の前の茄子を一つ置けば、そこにあるがままの一つの茄子を描けるでしょう。
ですが、見も知らない八百屋の店先にある茄子を思い浮かべて描けと言われたなら、さっぱり描けないはずです。
それでは、虎や龍や、昔の武将や、あるいは清国の景色など、見ることが叶わぬものを描かねばならない『絵描き』は、務まらぬことでありましょう」
薄い微笑を湛えている弾左衛門の眉間に薄い縦皺が寄った。治左衛門の眉間にも同じほどの皺ができている。
「そういうものか」
「あたくしどもも幼いお熊に見合う仕事は何であろうかと悩みましてございますよ。
それでよくよく考えて、まずはそれ程難しくはない『芸』をさせ、他人様の目にさらされても怯まない度胸を付けさせよう、と決めたのでございます……が、ねぇ……」
「考えは良かった。だが、出た場所が悪かった、と言う事じゃな」
「その一点におきましては、紛れもなくあたくし奴の差配に落ち度がございました」
弾左衛門は苦笑する。治左衛門はふわりとした微笑を返した。
「お主、お熊に入れ揚げておるな」
「あの子は……あたくし奴が拾い上げましたので、どうしても目をかける格好になってしまいます」
「ほう」
素直な驚きの声が治左衛門の口から漏れ出た。
弾左衛門は目蓋を閉じた。
※火盗改めの役宅は、清水御門前御用屋敷に固定された天保十四年(一八四三年)まで、その役についた御先手組頭の拝領屋敷をそのまま利用した。
そのため長官が変わるごとに場所が変わっていた。
つまり、本来ならこの時代の火盗改め役宅は、清水御門前御用屋敷を利用していない。
※この時代の仙石治左衛門の拝領屋敷がどこにあったのか調べきれなかったため、清水御門前御用屋敷と仮定させていただいた。
……鬼平でも『ここ』って事になってたので許してくだしあ。