浅草弾左衛門屋敷
浅草新町に豪勢な屋敷がある。その居間の奥に、屋敷の主が座していた。後ろに若い細身の男が控えているが、この二人の顔はどことなく似ているように見えた。
主には一種の風格を覚える。だが不思議な事に、大店の主人にも、小禄の大名にも見えた。
「この莫迦野郎ども!」
屋敷の主人が怒鳴った。
名を矢野弾左衛門という。役職は長吏頭だ。門付けを始めとする雑芸能民、革職人、竹細工職人、そして遊郭を支配下に置いている。その支配範囲は、関八州に及ぶ。
弾左衛門の大声を聞いて、庭先で鳥追いと傀儡師が、
「ひぃ」
「お許しを」
震えながら平伏する。
「ああ、違う、違う。そうではない」
弾左衛門は踊るようにわたわたと手を振り回した。
「あたくしはね、お前達を責めているのではない。お熊を助けてくだすったそのお殿様とやらのお名前であるとか御屋敷の場所であるとかをお訊ねしなかったのは、どういうことだ、と言っておるのだ。
肝心なことが解らねば、お礼の一言も申し上げられないではないか」
「何分にも、お熊の頭から血が吹いておりましたので、気が急いて、気が急いて」
女鳥追い――お寅は、涙と洟水にまみれた顔を僅かに持ち上げていった。
「その通りで、全くその通りでございます」
傀儡師の男――牛太夫も泣いている。
「まあそうだろう、そうだろうなぁ。うん、そうだろう」
弾左衛門も鼻をすすった。
「お前達がお熊を抱えて屋敷に駆けつけてくれたお陰で、手当が早くできたのだから、それはそれでよいことではあるからな」
長吏頭・弾左衛門は長吏たちを統括し、命令を下す権限を持つ男だ。名字帯刀が許され、一万石の大名と格式を同じくするとされている。
それが配下の子ども一人の怪我に慌ててみたり安堵してみたりするというのは、なんとも奇妙な話である。
「それでお頭さま、お熊の具合は……?」
こんどは牛太夫が頭を少し上げた。
「今、冥庵先生が手当をしておる」
弾左衛門がいいかけたところへ、計ったように、
「済みましたぞ」
襖が開いて、頭をまるまるとそり上げた初老の男性――冥庵医師が入ってきた。
腕に、黒くてふわふわした体毛に覆われた体を赤い着物まとい、頭に白い包帯を巻き付けた子ども――お熊が抱かれている。
お熊の体毛は、目蓋と唇に掌と足の裏を除いた全身に生えていた。
お熊はぐったりとしてはいるが意識はあるらしい。冥庵の首に右腕を回してしっかりしがみついている。
「お熊!」
お寅がばっと起き上がった。草履を脱ぎ捨てて庭の両端へてんでに跳ね飛ばし、庭を駆け抜け、沓脱石をとび越えて、泥足で室内をつっ走り、自分たちの支配者である弾左衛門を突き飛ばして、冥庵に飛びつくと、お熊を奪い取って抱きしめた。
「おっかぁ、ちょっといたい」
力ない声でお熊が言う。ただ、ふわふわした毛に覆われた顔には、笑みが浮かんでいる様子だ。
「ああ、ごめんよ、ごめんよ」
お寅も微笑み、お熊に頬ずりをしている。
突き飛ばされたが転ぶこともなかった弾左衛門も微笑している。
しかし長吏頭の私邸の私室に、一般の長吏たちがおいそれと入り込めるものではない。だから牛太夫は縁側に這い上がったあたりで、喜びの鼻水をすすりながら、そこから先に進むことを躊躇している。四つんばいの状態で、
「冥庵先生、それでお熊の容態はどんな具合なんでございましょう?」
「おうおう、それを説明せんとなぁ」
冥庵はまずお熊の頭の包帯を指さした。
「まずは頭の傷じゃな。棒きれで殴りつけられたというが、固いもので殴られると時折皮膚が裂けることがあるのじゃよ。それで一寸五分ほどの傷が出来た。
いや傷ができてがむしろ良かったのじゃ。殴られた力が頭の表面で散っているということじゃからの。もしこれがもっと奥の方……脳味噌の方まで力が及んでしまうと、手当が難しくなる。
での、傷の周りの毛を剃ってから絹糸で縫い合わせた。あとは血止めと痛み止めの膏薬を塗った。もう十日ほど経って傷がふさがったら、糸を引き抜いておわりじゃな」
「い……糸で傷を縫った……? 糸を引き抜く……?」
娘が体験したであろう痛みを想像してしまったお寅の足下がくらりとふらついた。
牛太夫が慌てて室内に駆け込み、お寅を抱き留めた。
「次に肩口の打撲じゃの。毛を剃って肌を直接見たら細長い痣がいくつもできておった。こりゃ頭を殴った棒きれと同じ武器かもしれんの。幸い大した怪我ではない。
打ち身用の付薬を貼っておいたから、痛みが引くまでは毎日張り替えて様子をみることだ」
「本当にたいしたことが無いのだな?」
弾左衛門が不安そうな目でお熊の肩の辺りを覗き込んでいる。
冥庵は小さいうなずきを返す。
「むしろ背中の打ち身の方が怪我としては少しばかり重いかも知れんのう。広い範囲で痣ができておる。蹴り飛ばされでもしたのではないかな。
毛を剃って付薬を貼ったから、こちらも毎日張り替えて様子を見るように」
お寅がお熊の背にまわしていた手を慌てて離した。それから改めてそっと背中を撫でる。
「ああ、さっきはおっかさんが乱暴に抱いちまったて悪かったよ。すまなかった」
お熊の背に触れている細く荒れた指先を、どういうわけか弾左衛門がうらやましげな目で見ていた。その目の色が急に変わった。
「お熊を痛い目に遭わせた『丹波や半兵衛』への『お礼』は追々考えるとして、だ。
まずはお熊を助けて下すった『お殿様』とやらを探して、お礼を申し上げねばならぬ。
……お熊も『お殿様』の顔を見ておらぬのだろう?」
「おつむがいたくて、おかおはよくみえなかったけれど、くろまめみたいなおめめと、おしおをふいたこんぶたいなおぐしのおとのさまでしたー」
その場の大人全員が『黒豆目玉に塩昆布頭の侍』を想像する努力をした。
「それだけではあまり役に立たぬなぁ」
苦笑いする弾左衛門に、冥庵医師が、
「ああ、その件じゃがの……ほれ熊公や、あれをお出し」
「あーい」
お熊が懐から折りたたんだ紙切れを取り出した。
「あーい、おかしらさまー。おくまは、おかおはよくみえなかったけれど、よくみえたところがあったので、そのえをかきましたー」
「ほうほう、何を描いたんだえ?」
紙切れを開きつつあったときの弾左衛門は、孫の手習いで書いた伊呂波文字を眺める年寄りのような顔をしていた。
それが、紙切れが開ききられ、描かれたものが見えた後、眉根に深い皺が入り、目の光が強くなった。
しばらく弾左衛門は紙を穴が開くほど見ていた。やがて考えがまとまったらしい。紙とそこに書かれたものに目を落としたまま、
「吉次郎、出かけるぞ。支度をしなさい。羽織袴、大小、それから駕籠だ」
控えていた細身の男に声をかける。この若い男は弾左衛門の嫡男の吉次郎という。
紋付袴と大刀小刀を捧げ持って来た吉次郎が、
「それで父上、どちらへ行かれますので?」
訊ねるのへ、弾左衛門は短く答えた。
「清水御門前だ」