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それはそれ、これはこれ。

 蕎麦(そば)を食べ終わった治左衛門は、()(どん)に取りかかる前に一度(はし)を置いた。


「ところで浅草新町のお(かしら)どのよ」


 (あお)(くび)大根の汁で饂飩をすする弾左衛門に語りかける。弾左衛門も箸を置かざるを得ない。


「はい、なんでございましょうや?」


「丹波やの主人(あるじ)があの後どうなったか、お主は知っておるかの?」


「殿様はどの辺りまでご存じで?」


「さて、と。

 あれから数日の後、半兵衛本人と奉公人たちは、(おお)(でん)()(しお)(まち)にある本店だとか本家だとかやらに呼び戻された。

 それから半月程の後、店の権利が売り出された。

 随分と安価であったのに、それ、あの犬殺しの件やら、半兵衛が前後不覚になった件やらがあって、(げん)が悪いだのなんだのというので買い手が付かない。

 それを矢澤屋五郎右衛門が買い取った結果、今日この日の蕎麦が(うま)い。

 ……という所まで、かのぅ」


 治左衛門が()()と笑い、弾左衛門がクツクツと笑う。そのクツクツ笑いを押さえ込んで、弾左衛門が、


「なんでも丹波や半兵衛は丹波屋本店の(いん)(きょ)の三男で、今の(おお)(だん)()の下の弟に当たるそうですよ。

 近江(おうみ)の親戚筋のお(たな)に預けられて修業を積んで、丹波屋から()(れん)()けを許されて出したのが、()(でん)()(ちょう)三丁目のあの店ということでございますな。

 ところが、開店早々に半兵衛が倒れてしまい、どうにも店が立ちゆかなくなったということで、お(たな)は閉めることにして、ご本人は(おお)(でん)()(しお)(まち)にある丹波屋本店に引き取られたわけでございますな」


「あの者が病になったことで店が傾いたと言うことは、あの者には(おお)(だな)(まか)される相応な商才があったと言うことか」


 治左衛門が小さく深く息を吐き出した。弾左衛門がうなずく。


商売(それ)と人柄とは別なのでございましょうなぁ。

 ともかくも。

 丹波や半兵衛はしばらくは寝たきりだったそうですが、(ひと)(つき)(はん)ほど()ったころには起きたり寝たりぐらいにまでは調子が戻ったそうで。

 それで(かな)(すぎ)(むら)()(ぎし)辺りにある丹波屋本店の(りょう)に移されて、今も静養を続けているそうでございます」


 この『寮』とは、茶室の建築(つくり)を取り入れた小ぶりな別荘を指す。豪商や豪農、大名などの金持ちが構える別宅の一種だ。


(かい)(ふく)しているのじゃな。それは何よりだ」


「それでですね、殿様」


 弾左衛門は一つ息を吐いてから、言葉を続けた。


「なんでも、お(ない)()ばかりか手代・小僧のうちの幾人かが、自ら願い出て寮に詰めて旧主の世話をしているという話です」


「ほほう……あの男、店の者たちからは人望が厚かったか」


 その『事実』をあまり肯定したくないらしく、治左衛門は軽く首を横に振った。箸を取り上げ、()(るみ)()()だれに()(どん)を漬けて(すす)り込む。


「身内にだけはいい顔をしていた、という事かも知れませぬよ」


 口を閉じた弾左衛門は、膳の上に目を落とした。

 少し離れた席で、()(ぐつ)()(おんな)(とり)(おい)と丹波の荒熊の親子が、()()(あい)(あい)と楽しげに食事をしている。治左衛門の口の端に笑みが浮かぶ。

 蕎麦の(ざる)も饂飩の笊も空になっている。


「人というのはよく解らぬものじゃ。考えても始まらぬわ」


 席を立った治左衛門が牛太夫一家の席に近づく。

 牛太夫が慌てて箸を置き、(はな)(みず)をすすった上で鼻を手の甲で拭いてから、居住まいを正した。お寅もお熊も、家長に(なら)って背をしゃんと伸ばした。


「今日のその(ほう)らの()(もの)は全く素晴らしかった。(がん)(ぷく)()(ふく)というのはこのことであろうな」


「お殿様にお()めいただけて、嬉しゅうございます」


 深く頭を下げる牛太夫に続いて、お寅もお熊も頭を下げる。

 治左衛門は懐から(かい)()に包んだものを取り出した。


「儂からの褒美……いや、よく操じた(えび)()神と、よく演じた(だい)(こく)(てん)と、よく(かなで)でた(べん)(ざい)(てん)への寄進じゃ。少ないが、取ってくれ」


「いえ、お(たから)はあらかじめ矢澤屋の大旦那から十二分に頂戴いたしておりますので」


 激しく遠慮をする牛太夫を(いっ)(かつ)したのは弾左衛門だった。


()()(もの)、殿様に恥をかかせるつもりか」


「いや弾左衛門どのよ。受け取って貰った方が儂の恥になるやもしれぬ。(なに)(ぶん)、当家は貧乏旗本じゃ。悲しいかな、五郎右衛門程には包んでやれぬ」


 治左衛門は少々気恥ずかしげに微笑した。確かに牛太夫の膳の上に置かれた小判の包みは厚いものではない。


「お、お有難うございまする」


 牛太夫一家は先ほど以上に深々と頭を下げた。弾左衛門も手を突いて頭を下げている。

 出口に向かって一歩踏み出した治左衛門だったが、振り向いて一言、


(こう)(ふく)であったぞ」


 お珠が姉さんかぶりを取り、


「かたじけのうございまする。お褒めの言葉を(やど)にも伝えておきます」


 丸々とした体を更に丸めるようにして頭を下げた。


「うむ、よろしゅうな」


 治左衛門はそれ程広くはない室内をぐるりと見渡した。

 弾左衛門、牛太夫、お寅、お熊、矢澤屋のお珠。

 それぞれの顔に笑顔を投げ、治左衛門は再び出口に向かった。今度は立ち止まることなく外へ出る。

 町はざわめいていた。多くの人々が行き交っている。

 堀川の向こうを見やると、空の町駕籠が止まっているのが、治左衛門の目に入った。

 手を上げて呼ぼうとした治左衛門だったが、止めた。


「いや、今日は歩いて戻ろうぞ」


 仙石治左衛門は(ぬり)(がさ)()をきつめに締めた。



 了


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