蛭子大黒
店の間口の下半分を幔幕で覆い隠している。その異様な景色に惹かれて、道行く人々のうちで、時間のある者、好奇心の強い者が立ち止まった。
幕の向こう側、つまり店の中から、三味線の音が聞こえてくる。
ここは小伝馬町三丁目の汐見橋側の端、まだ木の香の残る中古の商家の店先だ。軒看板には「呉服太物 矢澤屋」と太々とした文字が浮き彫りにされている。
幔幕の上へひょこりと男の頭が飛び出した。
「さあさあ、遠いお方はもうすこし寄ってくださいませ。通る他人様の道を塞がぬように、お向かいのお店に御用の方のお邪魔をなさいませんように。私共の声と囃子が聞こえる様に。ずずいとお近くへどうぞ」
トトン、と小太鼓の軽やかな音が鳴る。
「ここに罷り越しますは牛太夫一家。只今よりの人形芝居、お暇のある方もない方も、近う寄ってご覧下されぇー!」
小太鼓の音に合わせて、控えめな拍手が鳴った。
傀儡師・牛太夫の頭が幔幕の下に引っ込み、代わりに現れたのは、人の子どもほどの背丈がある蛭子神の傀儡だった。
三味の音に合わせて、蛭子神は軽やかに動く。幔幕の外側に向けて釣り竿を振り、釣り糸を垂らす。
地面に落ちた釣り針が、幔幕の下にするりと引き込まれる。蛭子神が竿を上げると幔幕の裏側から作り物のスルメ烏賊が出てきた。人々の中から笑いが起きる。
釣り上げた蛭子神が嬉しげに――傀儡の表情が変化する筈も無いのに、その場にいる者たち全てにそう見えた――烏賊を魚籠に入れ、また竿を振る。
幔幕の下から釣り上げられたのは昆布で、蛭子神は苦笑いして魚籠に押し込んだ。聴衆も笑う。
三度目は生きの良い作り物の鰹が釣れた。鰹を愛して止まない江戸市民たる観客たちが声を上げ、手を叩く。
蛭子神は暴れる鰹を魚籠の中へ押し込んで、釣り竿を振った。
立派な鯛が釣り上げられた。人だまりから歓声が上がった。
竿が振られ、糸が落ち、針が幔幕の下に引き込まれた。
釣り針に何が掛かったものか、糸がグイグイと引かれる。
引いたり引かれたりを幾度かくり返したが、最後には蛭子神の巧みな竿捌きが勝った。
幔幕の下から黒いものが転がり出た。
一面二臂、真っ黒な顔に烏帽子をかぶり、白い袋を背負って右手に小槌を握り、袴を穿いて米俵の形をした履物(?)を履いている。
大黒天だ。蛭子神の傀儡と同じほどの大きさがある。
蛭子神の投げた釣り針が体のどこかに引っ掛かっているらしい。大黒天は蛭子神の竿が上がれば後ろへ、緩めば前へと引かれつつ、頭と手脚をカクカクと揺り動かす。
一部の人々がコソコソと話し合う。
「あら、かわいい大黒天さまだねぇ」
「いい顔の人形だが、ありゃどこから操っているんじゃろうな?」
「あの幕の下からではないかえ?」
「それにしても差し金も糸も見えねぇじゃねぇか」
小首を傾げたのはほんの一握りの者で、大半の聴衆は劇に熱中している。
さて、釣り糸に引かれた大黒天は、斜め後ろへ目を送った。蛭子神が困ったような微笑を浮かべてるのを認めた大黒天は、顔を笑みで満たす。
「おん・まかきやらや・そわか!」
そう叫んで、三尺ほども飛び上がった大黒天の小さな体が、楽々と幔幕を飛び越える。
「おお!」
大きな歓声が上がった。
さすがに大半の人々はこの大黒天が傀儡でないことに――すこぶる小柄な生きた人間の扮装であることに――気付いたようだ。
幔幕を飛び越えた大黒天は蛭子神の足下と同じほど高さに降り立った。大黒天は蛭子神人形と向かい合い笑い合う。
三味線の音が強くなった。それに合わせて、大黒天と蛭子神は並び立って歌い踊り始めた。
「大漁大漁と蛭子が言えば
五穀豊穣と大黒が応う
商売繁盛、延年転寿
子孫繁栄、暖衣飽食」
三味線が奏でる音の拍子が次第に早くなる。大黒と蛭子の踊りも、合わせて速度が上がって行く。
「ここのお店の主人と言えば
生まれ故郷に別れを告げて
遠く京の都の大店に
二十と余年のご奉公
暖簾分けをば許されて
花のお江戸にご開店!」
幔幕の横手から矢澤屋の主人である矢澤屋五郎右衛門が現れて、聴衆に頭を深々と下げる。大きな拍手が起こった。
拍手が収まるのを待って、五郎右衛門が人々に向かって語り出した。
「手前、生国と発しますれば信濃国小県郡矢澤郷。京の三条通富小路西入ルにございます大黒屋にて学び、今日この日この場所で皆々様の御前に罷り出ますを許され候。
これよりは末永く、ご愛顧いただけますよう、よろしく御願い奉りまする」
五郎右衛門が先ほどよりも更に深く頭を下げると、人々も先ほどよりも大きな拍手を送った。
その頃には、間口の半分を覆っていた幔幕は取り払われていた。人々の目に入ってくるのは、店の中に所狭しと置かれた反物や吊しの着物の美しい色だった。
そして蛭子神を操っていた傀儡師も三味線の演奏者も大黒天も、すっかり消え去っていた。