南無阿弥陀仏
「うぁあ、旦那様!」
丹波やの店の中から、中年が飛び出してきた。ここ数日、帳場に座らされていた大番頭だ。肩に銭一貫の刺しを二本、振り分けに掛けている。
丹波や半兵衛を抱えて体を揺さぶり声をかけている番頭に、治左衛門は穏やかな目を向けた。
「その者を早く家の中へ入れよ。それから急ぎ医者を呼んで診せたがよい」
言葉が終わるのとほとんど同時に、数人の丁稚や手代、番頭らが店から飛び出してきた。数名が戸板を担いで主人に駆け寄る。一人の丁稚が駆け出す。治左衛門の言葉に従って医者を呼びに行ったのだろう。
残りの丁稚や手代たちが半兵衛を抱きかかえて戸板にそっと乗せた。揺れないよう、傾かないように気を遣いながら、店の中へ運び込んで行く。
一人残った番頭が、治左衛門の足下で土下座をした。
「お侍様、手前どもの主人がご迷惑をおかけいたしました。お許し下さいませ。どうかこれを、これをお納めください」
番頭は震えながら担いでいた銭二貫文を捧げ上げる。仙石治左衛門はわざと犬でも追い払うような手つきをした。
「その銭はお主たちの主人の薬代の足しにするが良かろう。もし釣り銭が出るようななら、その分は店に門付が来た時の支払いにせよ」
番頭は涙と洟水を流した。水気がポタポタと落ちて、地面に吸い込まれる。
「ありがとうございます、おありがとうございます」
跳ね上がるように起ち上がった番頭が、店の中に駆け込んで行った。
番頭の背中が店の奥へ消えて行くのを見送った。
「あんな男であっても、店の者からの人望は厚いらしいのう」
治左衛門は心底から感心していた。彼が言葉を投げた先には犬拾の男がいる。
「人はいくつもの顔を持っておりますようでございます。父などを見ておると、そのように思います」
笠の下で犬拾の男は微笑していた。
「ははぁ、どうやらお主は弾左衛門どのの倅どのらしいな?」
「はい、吉次郎と申します。先日は私共の老父が御役宅に押しかけまして、大変ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございませぬ」
犬拾の姿をした矢野吉次郎が笠を取って深く頭を下げる。
「さすが弾左衛門どのの倅ともなれば多才よな。最初は願人坊主であったかな。その次は門説経、それから歌祭文で、辻講釈か。いやはや感心をするわえ。
ともかく、毎日姿を変えて丹波やの見回りをしていたのは、ご苦労なことであったな」
「お気づきでございましたか。いえ、私などのことよりも、殿様におかれましても毎日のご巡回、ご足労様でございます」
「なに、日本橋の北詰から伝馬町あたりをぶらぶらするのは、普段よりの巡視の道筋の一つじゃ。苦労も何もないわい」
からっと笑った後、治左衛門は黒尨犬の死骸へ視線を落とした。
「さて吉次郎どのよ。今日のその方は犬拾であるようだ。その哀れな犬を拾ってくれるかの?」
「殿様のご命とありましたらば、早急に取りかかりましょう」
「命令するつもりはない。儂が頼み事じゃ。この犬が哀れでならぬでのう」
「もしや、殿様は犬をお飼いですか?」
「私邸の方に、夫婦ものをの」
にこやかに答える治左衛門へ、吉次郎も笑顔を返す。
「然様でございますか」
吉次郎は尨犬に片手拝みをして軽く頭を下げた。
背負っていた竹籠を下ろす。小ぶりな筵が何枚か入っていた。一枚を取り出して犬の死骸の脇に敷く。
まだほんのりと暖かみの残る尨犬を、丁寧に筵に包み、優しく竹籠に収めた。
それから腰に下げていた小袋から掴み出した何かを、尨犬が倒れていた場所へ振りまいた。
白っぽくキラキラと光を弾く砂粒が、犬が流した血汐の跡を覆い隠す。
「犬の供養をしてくれているのかの?」
治左衛門が訊ねると、吉次郎は僅かに首を横に振った。
「違います。
犬の死を見てしまった、犬を助けることが出来なかった、と悔やむ人間が胸に抱いた懼れや懊悩を、『減らした気』にするための儀式です」
「ほう?」
吉次郎は口の中で経文なのか祝詞なのか呪文なのか解らないものを、治左衛門の耳にようやく聞こえるほどの声で唱えた。唱え終わって、そのままの幽かな声音で言う。
「私どもに出来るのは、実際に苦しみ命を失った生き物ではなく、そのさまを見てしまった者たちの為の『偽の儀式』です。
自分が何かをしなくても、あそこにいる誰かが何かをしてくれた。だから自分は何もしなくてもよいのだ――。人々にそう思って貰うことを期待して行う、つまるところは意味のないことに意味がある『儀式』です。
そも、生きとし生けるものの魂の救済は、阿弥陀如来様の職分にございます。わたしどもなどが手を出して良いものではございませぬ」
「なるほどのぅ」
治左衛門はキラキラとした砂の撒かれた地面に軽く頭を垂れ、手を合わせた。
「また舎利子、 若し諸の有情、彼の土に生ぜば、 皆不退転にして、必ずまた諸の険悪趣・辺地・下賎・蔑戻車の中に堕せず。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
治左衛門が阿弥陀経の一節を奉唱するのを聞いた吉次郎は、瞑目して、
「南無阿弥陀仏」
合掌して唱えた。頭を上げて、竹籠をゆっくり丁寧に背負う。
「ではお殿様、私は浅草の屋敷に戻ります」
竹籠が傾かない程度の軽い礼をする吉次郎に、治左衛門が微笑を返す。
「儂も役宅に帰ることにしよう。吉次郎よ、弾左衛門どのとあのかわゆいお熊坊によろしゅうな」




