拾う人
心張り棒の行方など、今の丹波やにとってはどうでも良いことだ。まずは手の平にこびり付いた血を拭い取らねばならない。だからといって、自分の着ている物の袂や袖や上前、裾を使って拭くなどとんでもない。
丹波やは辺りを見回した。見えるのは、己の店の暖簾、三一侍呼ばわりした侍の袴、川辺の柳の幹と葉、そして旱続きで乾いた地面。
丹波やが選んだのは治左衛門の袴だった。丹波やは治左衛門の足下に飛びつく。治左衛門は左足を引いた。みごとにすかされた格好の丹波やは蹈鞴を踏んだうえ、地面の小さな凹凸に爪先を取られて、顔面から倒れ込んだ。
額と鼻と前歯が酷く痛む。起き上がるために、丹波やは両手を地面に突いた。
右手に湿り気を感じる。
顔を向けた。尨犬の死骸がある。目玉が割れた頭蓋からどろりと飛び出している。
「ひぎぃいいい」
肝が縮み上がるのに反比例して丹波やは猛烈な勢いで跳ね起きた。ただし上半身だけだ。
文字通りに腰が抜けていた。下半身は動かなかったから、丹波やの頭は後方へ弧を描いて高速移動する。のけぞった丹波やの後頭部は、地面に激突して鈍い音を立てた。
「ごぉぉあぁぁ」
文字に表すのが難しい音の悲鳴を上げた丹波やだったが、この時は上半身も動かすことも出来なくなったようだ。両腕を天に突き上げて、体を弓なりにし、口を開けたまま、青天井を見上げていた。
治左衛門は丹波やの体の真横に立った。丹波やの顔面を見下ろす。
「して、あれをどうするつもりじゃな? 丹波や」
治左衛門の指が丹波やの膝の先の方向を差している。丹波やはどうにか動かせる首を持ち上げた。示されている方角には、彼が殺した尨犬の死骸がある。
「ひぃぃぃ」
丹波やは手で地面を掴んだ。腕の力で後ずさろうとしたようだが、抜けた腰が言うことを聞かないのだろう。どうにか半尺ほど下がったものの、それ以上は動けない。
お陰で治左衛門は半歩も動かずに丹波やの顔を見下ろし続ける事が出来ている。
「動物の死骸の始末は、皮座の役人に頼むのが決まりじゃが……」
皮座とは、革製品の加工製造を行う職人たちが住み、働く場所だ。
皮革は甲冑や武具馬具の製造に欠かせない資材である。つまりは軍事物資だ。武家政権にとって革製品の製造加工は重要な産業となる。そのため、彼らは幕府や各藩の政権下でしっかりと統制されていた。それが皮座の制度だ。
皮革加工の職人たちは一定の土地にまとまって住むことが定められた。他の職業の人々との交友はおろか、移動居住の自由すらない。彼らは虐げられた窮屈な暮らしを強いられる。
だが政権から注文される『御用皮』を数通りに納品すれば、余剰の皮革は皮座役人たちが自由に『処分』することが許可されていた。その実入りは悪くない。
彼らが皮革の原料を仕入れる手段は、動物の死骸を集めることだ。彼ら自身が家畜を屠殺することはしないし、野生動物を狩るすることもない。
御用皮の注文数を上回る量の材料を仕入れられれば、自由に『処分』できる取り分が増えるのだかから、収集は熱心に行われた。
農家や宿場問屋、あるいは武家が飼う牛馬などの家畜は、怪我や病で死んでしまったとき、皮座に知らせることになっていた。報せを受けた皮座役人は速やかにその亡骸を回収してゆく。
野生動物の死骸を見付けたときも同様だ。皮座に知らせれば回収してもらえる。
「じゃがな、人目の多い町の中に野良犬・野良猫の死骸が落ちておったなら、皮座に知らせるまでもない。市中を巡り歩いておる皮座役人の『犬拾』たちが、見付け次第に拾って行くからの」
治左衛門は小島橋を渡ってやってくる人影に、手を上げて合図を送った。これに気付いたその男――竹籠を背負い、竹笠に手甲脚絆、草鞋履きで細身の――が、こちら側に曲がって来た。
犬拾という、半ば文字通りの仕事をするこの男は、小金のある浪人風の服装をしている治左衛門の側までやってくると、膝を突いて最敬礼……つまり土下座をした。
「あぁ、よいよい。そこまで頭を下げられると、持ち上げてもらうのが面倒になる」
「おありがとうございます」
犬拾は起ち上がったが、腰を低くして頭を下げたままでいる。
「犬拾どのよ、ここに犬の亡骸がある」
治左衛門が鋭い視線を丹波やに向けた。そしてすぐに犬拾の方へ穏やかな目を向けて、静かで小さな声で言葉を続ける。
「そこで寝転んでいる丹波や半兵衛という男が殴り殺した犬の、な」
反応は犬拾からのみあった。
「はい、川の向こう岸から見てござりました」
治左衛門の小さい声はすぐ側にいる犬拾には聞こえたらしいが、まだ地べたから起き上がれていない丹波やの耳までは届かなかったようだ。
「拾ってくれるかの?」
「それがあたし奴の仕事ですが……」
犬拾はチラリと丹波やの店先の柱の上方に目を向けた。
その場所にあるのは、数日前に丹波やが丁寧に丁寧に貼り付けた『仕切り札』だ。
「あの札は浅草新町の矢野弾左衛門屋敷に属する者たちに、『近寄ってはならぬ、かかわってはならぬ』と周く知らせるものです」
犬拾はその札を指さした。仙石治左衛門と丹波や半兵衛が彼の指先を追いかけて、まだ染み一点の汚れもない『仕切り札』に視線を注いだ。
治左衛門はニヤリとした。
丹波屋はポカンとしている。
「ご府内には何カ所か皮座がございますが、あたくしが属する皮座は、弾左衛門屋敷の内にございます」
治左衛門はニンマリとした。
丹波屋はギクリとした。
「ですから、あたくしはこちらのお店に拘わる事が叶いません」
治左衛門はニタリとする。
「では、この犬は持っていってもらえないのかね?」
「はい」
「持っていってもらえないとなると、犬の死骸はどうなるかの?」
治左衛門に問われた犬拾は、
「腐ります」
当たり前の事を言った。続けて、
「蠅が集り、腹が膨らみ、酷い臭いが立ちます。蛆が湧き、体がぶよぶよになり、皮膚が黒ずみ、ドス黒い腐汁が滲み出します。肉は獣に食い散らかされ、腸は鳥についばまれて、最後に残るのは、噛み砕かれてバラバラになった骨だけです」
淡々と言葉を連ねる。
丹波やは身を震わせ、頭を抱え込む。顔面蒼白となって騒ぎ出した。
「店ではない、ここは手前の店の中ではありません! 確かに店の前だが、道端です! 他人様の、天下の土地です! 手前の持ち物ではありません!」
「それは解っている。だが、お主がその手で殴り殺したのだから、この犬を死骸にした責任はお主にある。『仕切り札』を己がその店に貼り付けた丹波や半兵衛に、のぉ」
治左衛門も事実を述べたにすぎない。ただそれは丹波やには受け入れられない事実だった。
「仰らないでください、どうかそのことはお口になさらないでください。そのことが他人様に知られたら手前は……手前どものお店は……」
腰は抜けたままだが、丹波やは必死に上半身を起こした。
道の上に正座するような姿勢になった丹波やの目玉を、治左衛門が見据える。
「なに、儂がその事を口にするまでもない。ここいらにいる者たちは、疾うの昔に、皆そのことを知っておるのじゃ。お主のしでかしたことをのぅ」
治左衛門が両手を拡げて周囲を指し示した。
巽と乾に通る道筋、艮から坤に抜ける道、小伝馬町と亀井町に堀川を渡った向こう側の馬喰町あたりの町屋と商家、そして袋小間物問屋・丹波やの店の中。
そこかしこに大勢の人がいる。
そのことに、丹波やが気付いた。
背筋に冷たいモノが流れた。
批難と怒りと好奇の色をした無数の目が、丹波や半兵衛を見ている。睨み付けている。
「見るな、見ないでくれ、見ないで、こっちを見るな……」
丹波やは、歯をガチガチと鳴らし、体をガタガタと震わせた。
こうして必死の思いで起こした上半身を、丹波やは再び後ろに倒すはめになったのだ。
丹波や半兵衛は、脂汗で全身を濡らし、白目を剥き、泡を吹いて、気を失った。




