非常口
「開かない扉」が「開いていた」時、決して近寄ってはいけません。
さて、そう言われた時にあなたならどうしますか?
「非常口」
建築基準法において、適用を除外される場合があるものの、高さ31m以下の部分にある3階以上の階には、火災時などの非常用進入口の設置が義務付けられている。
誰にとっての『非常』なのか。何に対しての『非常』なのか。
これは、L県にある大学で起こった非常口にまつわる話……。
◇◆◇
俺はL県の大学に通う大学2年生。
俺が所属するゼミは7人で、3年生が2人、4年生が2人、俺を含めた2年生が3人いる。
今は夏休みのため、ゼミに来る人数は少なく、研究に勤しむ4年生2人と俺しかいない。
4年生の先輩は、頼れる兄貴分のアキラ先輩と、いかにも遊んでそうなミキ先輩の2人だ。
俺は家でゴロゴロするのも嫌だったので、ゼミに顔を出している。
だが最近、ミキ先輩は変な噂話ばかり気になっている様子だった。
「ねぇアキラ。今年ってさ、例のあの年じゃない?」
「あの年って……あの噂の非常口?」
「そうそう。私超怖いんだけど。」
「あんなのただの噂話だろ? そんなのにビビってたら何もできねーよ。ほら、早くデータまとめろよ。」
「なーんだ。ビビらないのか……。つまんないの。あ! タカシ君はどう?」
「いや……。俺はあんまりそういうのに興味がないので……。それに、その話も聞いたことありませんし……。」
正直言うと、興味がないわけではない。
だが、その噂話についてはなんの情報も知らないのだ。
ここはミキ先輩の話に乗ってみようか……。
「あの……。ミキ先輩。その話って、どんな話ですか?」
ミキ先輩は目をキラキラさせて、堰を切ったように話し始めた。
「興味あるんじゃん! じゃあ教えてあげる! あのね、このゼミがあるX号棟には、ちょっとした噂話があるのよ。」
「噂話って?」
「何年かに一回。このゼミがある階、つまり7階にある普段絶対に閉まっているはずの非常口の鍵がなぜか開いていて、外にある階段の手すりから人が飛び降りるって噂。聞いたことない?」
「いや……。聞いたことないですね。」
「えー! なんで!? ウチの学部生はみんな知っていると思ったのに! もしかしてタカシ君って、友達いないの? あ、夏休みなのにわざわざゼミに来るっていうことはそういうこと? ごめーん! 傷つけちゃって!」
「ちょ……ちょっと! ちゃんといますよ! 友達くらい!」
「おいお前ら。さっきからうるさいんだよ! ミキ! 早くデータ整理!」
ミキ先輩は舌を出しながらそそくさと自分のデスクに座り、パソコンのキーボードを打ち始めた。
アキラ先輩に助けられた……。これ以上話していたらミキ先輩にどんな噂広められるかわからないからな……。
それにしても、あの非常口の鍵が開くって?
トイレの近くにあるから何回か見たけど、確かに行くたびに鍵が閉まっている。
『立入禁止』のコーンが並んでいるので、非常口の意味がないだろって思っていたけど……。
そういう噂が流れているからか。
なぜか身震いがしたので、気を紛らわせようと俺はゼミ室から出て、自販機がある休憩所に向かうことにした。
「お、タカシ。休憩か? よし、俺もちょっと休憩するわ。ミキはデータ整理続けてろよ。」
ミキ先輩は早くあっち行けと言わんばかり、払うように手を振った。
◇◆◇
休憩所はゼミ室の隣にあり、普段は大勢いるが、今は夏休みなのでほとんど人がいない。
俺は自販機に小銭を入れ、鈍く光る商品ボタンを押した。
ゴトンと落ちた異様なまでに冷やされたアイスコーヒーを手に取り、休憩室のソファに座った。
休憩室は広く、膝より上から天井近くまである、広い窓がある。
だが、この窓は「はめ込み式」で開けることができない。
まったく、なんでこんな窓にしたんだろう。換気できないじゃないか。
「タカシ。お前、さっきの話どう思う?」
アキラ先輩も自販機からアイスコーヒーを取り出し、俺の隣に座って話を始めた。
「さっきのって……。非常口の話ですか?」
「あぁ……。」
「うーん……。いまいちピンと来ませんね。第一、そんなことがあったらニュースになるじゃないですか。そんな話、聞いたことありませんよ?」
「……。」
アキラ先輩は沈黙した。
「アキラ先輩?」
「……。実はな……。本当のことなんだよ。」
「え?」
「本当にあったことなんだ。」
「ちょっと待ってくださいよ。もしかしてミキ先輩と口裏合わせていませんか?」
「……。俺。見たんだ。」
「見たって何を?」
「……飛び降りた人を。」
「え……。」
「俺が1年生だった時だ。その日はレポートをどうしてもその日に仕上げないといけないと思って、教授に頼み込んで夜遅くまで残らせてもらったんだ。それで、聞いちゃったんだよ。」
「聞いたって?」
「『ドスン』って鈍い音を。気のせいかと思ったんだけど、外で教授たちの声が聞こえてさ。気になるじゃん。で、慌てて外に出て……。」
俺は背中に悪寒が走るのを感じた。
アキラ先輩はゆっくりと俺の方を見て、唾を飲み、口を開いた。
「血まみれで倒れている人影を見てしまったんだ。」
俺は鳥肌が立ち、恐怖がピークに達した。
その時だった。
「ワッッッ!!!!!」
突然の声と背中を叩かれた衝撃で俺は思わず大きな声を出してしまった。
「うわぁぁぁぁ!」
後ろを振り向くと、ミキ先輩がケタケタと笑っている。
続けてアキラ先輩も笑い始めた。
「タカシー! お前って結構ビビりだな!」
やられた。この二人、いつからこんなこと企んでたんだ?
「ちょっと勘弁してくださいよ! マジでビビりましたよ! こんなことされたら誰でもビビりますって! アキラ先輩真剣な顔で言うんですもん! ミキ先輩もいつからいたんですか!?」
二人はずっと俺を指さしながら笑いが止まることはなかった。
「ハハハ……。いやー、悪い悪い。ミキを見習ってたまには俺もふざけようと思ってさ。」
「変なところ見習わないでくださいよ! じゃあ、今の話って……。」
「あぁ、全部俺のでっち上げだ! 安心しろ後輩!」
恐怖を感じてしまった自分が情けない。
時間よ、数分前に戻してくれ。
だが、違和感に気付いた。
ミキ先輩の笑い声が全然聞こえなくなっていたのだ。
ミキ先輩の方を見ると、窓の方をずっと見つめている。
不思議に思い、声をかけた。
「あの、ミキ先輩?」
すると、ミキ先輩は唇を震わせながら窓の方を指さした。
「ね……ねぇ、あれ……。二人は、見える?」
その方向を見ると、窓の外で女の人が歩いているのが見えた。
どこかうつろな表情で、ゆっくりと歩いている。
「あの女性がどうかしたんですか? ただの……」
俺が話を続けようとした時
「タカシ! 見るな! 絶対窓の外を見るな!」
アキラ先輩が大きな声で俺に言った。
ビクッとしたが、また冗談かと思い、思わず笑ってしまった。
「もう騙されませんよ。窓の外に女の人がいるだけじゃないですか。」
するとアキラ先輩は急に小声になり、俺に静かに語り掛けた。
「お前……。気付かないのか? このX号棟にはベランダが『無い』んだぞ。それに、ここは7階だ……。だったら……どうやったらこの窓の外を歩けるっていうんだ……。」
俺は全身に寒気を感じ、慌てて目をふさいだ。
そうだ、ミキ先輩は? ずっと窓の外を見ていたんじゃないのか?
ゆっくりとミキ先輩の方を見ると、全身が硬直している様子がうかがえた。
目を見開き、指先が震えている。
次の瞬間。
「キャァァァァァァァァァァ!!!!!」
耳をつんざく声が休憩所に鳴り響き、ミキ先輩はそのまま倒れた。
慌ててミキ先輩に近づき、様子を確認する。
どうやら、気を失っているようだ。
ミキ先輩を抱きかかえる時にチラッと窓の外を見てしまったが、そこにはもう誰もいなかった。
「ミキ! おい! しっかりしろ!」
アキラ先輩が呼びかけ続けたおかげか、ミキ先輩はゆっくりと目を開けた。
気が付くと慌てて後ろに飛びのき、震え始めた。
「ミキ……。一体何があったんだ?」
「……。女の……人が……。」
「女がどうした?」
「……女の……人が……私を……見たの……。」
ミキ先輩の話を聞いて、俺もアキラ先輩も何も言えなくなっていた。
外はすっかり日が暮れており、煌々と電気が点いているのは俺たちのゼミ室だけだった。
「ミキ、今日はもういいから。早く帰った方がいい。データの整理は、俺がやっておくから。」
「うん……ごめんアキラ。今日はもう……帰る。」
「おう。一応、着いたら連絡よこせよ。それと、一応これやっとく。」
アキラ先輩はポケットからお守りのような物を出して、ミキ先輩に渡した。
「これ、魔除けに効果があるお守りだ。何もないよりはマシだろ。」
「……ありがとう。」
そう言うとミキ先輩は慌ててゼミ室に戻り、自分の荷物を持って帰っていった。
「どれ、俺はもう少しやっていくが、タカシはどうする?」
アキラ先輩だけ残していくのも気が引けるので、俺も残ろうと思った。
「俺ももう少し残ります。」
アキラ先輩は少しほっとした表情を浮かべ、パソコンのデスクに座り、作業を始めた。
大丈夫だ。もう何も無いだろう。
あの女性も幻覚だったのかもしれない。
そう思い込もうとした時だった。
――――――ガチャッ
何かが開く音がした。
この音は、鍵が開く音?
「先輩……。今の音、聞きましたか?」
「ん? 何か言ったか?」
作業に夢中になっている先輩は何も聞こえていない様子だった。
俺も気のせいかと思い、自分の作業を続けた。
――――――ヒタッ ヒタッ ヒタッ
これは、聞き間違いではない。
明らかに何かが廊下を歩く音が聞こえる。
「ア……アキラ先輩……。」
「なんだ? どうした?」
「何か、聞こえませんか?」
「はぁ? 何を言って……」
――――――ヒタッ ヒタッ ヒタッ
音が段々と近づいてくる。
俺と先輩は机から立上り、互いに寄り添うようにして入口の方を見つめる。
音が聞こえる方向がおかしい。
目の前に来るかもしれないそれは、非常口の方から聞こえてくるのだから。
俺たち以外には誰もいないはず。
じゃあ、そこにいるのは一体……?
ゼミ室の入り口の先には暗闇が広がっている。
あぁ、くそ! こんなことなら俺も帰ればよかった!
――――――ヒタッ
音が止まった。
いる
そいつは、そこにいる。
全身に鳥肌が立ち、寒気が体中を駆け巡っている。
――――――バチンッ
突然ゼミ室の電気が消え、俺の視界は一気に奪われた。
「うわぁッ!」
恐怖のあまり、おもわず叫んでしまった。
「先輩!! 何か見えますか!? 先輩!!!」
先輩からの反応は無い。
俺は暗さに慣れようと目をつぶり、先輩を探した。
「先輩!! どこですか!?」
――――――ドンッ
何かが俺にぶつかった。
「先輩。そこにいたんですか。」
「違う。そこにいるのは、俺じゃない。」
ぶつかったものと、先輩の声がする方向が明らかに違う。
では……。ここにいるのは……?
意を決してゆっくりと目を開けた。
そこにいたのは……。
窓の外で見た女性だった。
「ヒィッ!」
腰が抜けてその場にしゃがみ込んだ。
その女性は獲物を狩る野生動物のように俺の顔をジーっと見つめてくる。
俺は呼吸をするのがやっとで、何も話すことができない。
するとその女性は悪魔のような形相になり叫び始めた。
おまえじゃないいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!
俺は思わず両腕で顔を隠し、叫んだ。
「うわぁぁぁぁ!!!!!!」
やっと出せた声が叫び声だった。
すると、電気が点く音がし、ゼミ室が明るくなった。
気が付くと女性の姿はいなくなり、何事もなかったかのように静けさが戻った。
俺と先輩は互いの肩に手を乗せ、その場にへたり込んだ。
◇◆◇
後日、アキラ先輩から噂話の元になった話があったことを聞いた。
「10年以上前の話なんだけど、この大学にいた学生と、どこかの飲み屋の女が付き合っていたらしく、ちょっとしたことで口論になったんだって。それで、その学生が浮気をしたらしく、女が興奮してあの非常口の扉を開けたらしい。最初は脅しのつもりだったらしいんだけど……。」
「そんなことがあったんですか……。ところで、ミキ先輩は大丈夫でしたか?」
「あぁ。特に何もなかったようだな。もうすっかり吹っ切れたようで、今は前よりパワフルになってるよ。」
「何事もなくてよかったです。アキラ先輩は大丈夫ですか?」
「俺も大丈夫だ。すまなかったな、嫌な思いをさせてしまって。」
「いえ、全然大丈夫です。ただ、今度何かごちそうしてくださいね。」
「わかったよ。その代わり、残すんじゃないぞ。」
先輩とのやり取りを終えて、俺はゼミ室を後にした。
帰り際、非常口の方を見ると、やはり『立入禁止』のコーンが並んでおり、鍵もしっかり閉まっている。
あの夜の出来事は、幻だったのだ。
そう思うことにしよう。
もう、忘れよう。
俺は非常口とは反対方向にあるエレベーターホールに向かおうとしたその時だった。
――――――ガチャッ
……俺はもう一度、非常口を振り返った……。
「非常」とは、「異常なこと」とも捉えられます。
解釈は人それぞれですが……。
長文読んでいただきありがとうございました。
ありそうな……なさそうな……そんな話を思いついた時に書いていきたいと思います。