チョコミントの日
先輩の好きなモノを教えてください。
その手紙にはそう書いてあった。
好きなモノって言われてもな……。
俺は冷たく冷えた缶コーヒーを飲みながら滲む汗を手の甲で拭った。
「またその黒い汁飲んでんのかよ」
彰は俺の体に体をぶつけて言う。
彰の言う「黒い汁」ってのはブラックコーヒーの事で、俺はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。
甘ったるいのが嫌いだと俺はいつも周囲の友人に説明する。
もうこの説明も少し面倒になってきた。
そのうち俺の飲むブラックコーヒーを友人たちは「黒い汁」と呼ぶようになってきた。
学校の中にある自販機にもブラックコーヒーはあるが、高校生には不人気で俺と、物理の教師の斉藤しか買わないと噂されている。
しかし、実は俺も決してこのブラックコーヒーが好きな訳ではない。
実は回りが飲んでいる甘いコーヒーが好きだったりする。
でもほら、俺の中に格好良いイメージがあって、その中の一つがブラックコーヒーだったりする。
「わあ、コーヒーブラックなんだ、なんか大人だね……」
高校に入学して間もなく、同じ学年のヒロイン的な存在の若竹友里にそう言われたのがきっかけで、それ以来、家以外ではブラックコーヒーを飲むようにした。
特別この若竹友里に恋愛感情がある訳ではなく、とにかく人と違う部分を作っておきたいと言うか……。
そう、要はモテたい気持ちからそんな我慢が始まった。
俺はコーヒーはアイスのブラックしか飲まないんだよ……。
真冬の凍えそうな日でもアイスのブラックだな。
友里はそれを聞いて周囲の友人に俺の事を意外に大人だと話したようだ。
それだけで俺のブラックコーヒー作戦の効果はあったと言える。
それから一年。
ずっとブラックコーヒーの日々を送っている。
今年の夏も暑い。
今年はワールドカップの影響か、我がサッカー部の新入部員も多く、入部希望者が多すぎて、入部審査をする程で、同じくマネージャー希望の女子も多かった。
三年生の先輩たちの厳選なる審査の結果、一番可愛かった女子と、二番目に可愛かった女子の二人がマネージャーとして世話をしてくれている。
本当にいい先輩を持ったと心から感謝している。
夏休みの練習は朝練のみで、朝、八時から始まり十一時には練習は終わる。
これは熱中症対策の一環で、学校側がそう決めた。
たまに練習試合や地区大会で一日ボールを蹴る日もあるが、普段の練習は土日と活動停止日の月曜を抜いた週四日練習する。
朝の涼しい内に練習をと言うのだが、朝起きると既に暑い。
汗だくになって学校まで行き、更に汗だくで練習する。
その汗臭い高校生活が俺の毎日だったりする。
練習終わりに学食の前にある自販機でいつものようにブラックコーヒーを買って飲んでいると、先輩たちが厳選なる審査で選んだ一番可愛いマネージャーから手紙をもらった。
その手紙に書いてあったのがさっきの質問だった。
ラブレターではないと分かった瞬間にテンションはマリアナ海溝付近まで落ちた。
「何だよ……。ラブレターかよ」
それを否定する俺の横から、彰はその手紙を覗き込んでくる。
「先輩の好きなモノを教えてください……。なんだやっぱりラブレターじゃないか」
彰は俺を冷やかす様に肘で突いてきた。
好きなモノ訊くだけでラブレターなのか……。
「お前馬鹿だな……。好きなモノ訊くってさ、それをプレゼントしたいからとか、そんな後に続くストーリーがあるだろう。そこから付き合う事になって、念願の初体験を……」
彰の発展性興奮症とも言える病的な話の展開に俺は呆れた。
「黒い汁って返事返しとけよ」
彰はそう言うと声を出して笑った。
「シャワー浴びて帰ろうぜ……。腹減ったし……」
彰は炭酸飲料をグビグビ飲み干して、部室の方へと歩いて行く。
夏前に引退した三年生が何人か練習に出て来ていて、その先輩たちが部室を利用した後、二年生が使える事になっている。
一年生はグラウンド整備をして部室に戻り、最後にシャワーを浴びて部室の掃除をして帰る。
部活カースト制度も伝統で、それを俺たちも無理に壊そうとも思っていない。
部室で水圧の弱いシャワーを浴びて、着替えると彰と二人でまた学食の前の自販機でブラックコーヒーを買った。
誰も買わないせいか、ここのブラックコーヒーは良く冷えている。
二本目のコーヒーを飲んでいると一年生たちが部室へと戻ってくるのが見えた。
それぞれに俺たちに挨拶しながら部室へと戻って行く。
一年前の俺たちもそうだったように。
その後ろにボールの入った大きな鉄製の籠を重そうに抱えるマネージャーたちが歩いてくるのが見えた。
俺は一年生の男子部員に声を掛けて、マネージャーのもっている籠を持ってやれと命令した。
これは先輩の特権で、この命令に逆らう事は出来ない。
三人の男子部員がマネージャーのところへスパイクの裏を鳴らしながら走って行く。
そして交代してその籠を部室へと持って行った。
その後から一年生と二年生の四人のマネージャーが俺たちに礼を言いながらマネージャーの部室へと歩いて行った。
運動部のマネージャーはマネージャーだけの部室があり、その部屋を使っている。
その部屋に入った男は誰もいない筈で、中がどうなっているのか想像もつかなかった。
「先輩」
ふとそんな声がして、俺と彰は振り返る。
さっき俺に手紙をくれた一年生のマネージャー、高木だった。
高木明日香。
「明日香」と親しみを込めて呼ぶ部員も少なくないが、俺は彼女の事を「高木」と呼んでいた。
そのままアイドルグループにでも居そうな可愛い子だった。
高木は俺の傍に走ってきて、手に持った缶コーヒーをじっと見た。
「コーヒー。いつも飲んでますね」
そう言ってほほ笑むと、小走りにマネージャーの部室へと帰って行った。
俺はその背中を見送った。
それを見てた彰は肘で俺を何度も突いた。
「何だよ……。明日香かよ……。あの手紙の主は……」
そう言って冷やかした。
メールもSNSもあるこの時代に手紙ってのは新鮮だった。
俺は家の方向の違う彰とは途中で別れ、一人、家路を歩く。
ポケットに入れた高木からの手紙を出してもう一度読んだ。
好きなモノか、好きなモノってなんだろうな……。
俺はその手紙を家に帰るまでじっと見つめていた。
立っているだけで汗が滲む暑さ。
汗で手紙の端に皺が寄っていた。
家に入るとリビングで大学生の姉貴が涼しげな格好でアイスを食べながらテレビを見て大笑いしてた。
大学生は気楽で良い……。
俺は半ば呆れてソファに座り、高木の手紙をテーブルの上に投げ出してた。
エアコンの効いた部屋は天国だ。
姉貴の食べるアイスが美味そうに思えて、冷蔵庫へアイスを取りに立つ。
リビングに戻ると俺がテーブルの上に置いた高木の手紙を姉貴が読んでいた。
俺は文句を言ってその手紙を姉貴から取り上げると、姉貴もニヤニヤと笑い、俺の横に座った。
「我が弟ながら、やるねぇ。このスケコマシ」
スケコマシってなんだ……。
姉貴の好きなモノってなんだろう……。
姉貴に訊くと、姉貴は少し考えて、
「うーん。お笑い……ビール、牛乳プリン、お寿司、後なんだろう……。おしゃべり、服、広瀬アリス……エグザイルかな」
何なんだ、このまとまりのない答えは……。
姉貴は俺に微笑んだ。
「それで良いんだよ。好きな人の好きなモノって何でも知っておきたいんだよね」
姉貴は食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に放り込んで、ソファを降りて床に座った。
「ちゃんと返事してあげなよ……。向こうは真剣なんだと思うよ……。ひどい事したらお姉ちゃんが許さないからね」
お笑い番組をやっているテレビから視線を外す事もなく姉貴が言った。
返事って……俺も手紙書くのか……。
無表情なまま姉貴が振り返った。
「良く、見てごらんよ……その手紙……」
姉貴の言葉に俺は高木の手紙をマジマジと見た。
姉貴は呆れた顔して立ち上がり、手紙の入ってた封筒を俺に手渡す。
「ほら……。恥ずかしいからさ……。女の子ってはこんな事するんだよ……」
姉貴は顎でその封筒を指した。
俺は封筒を見て、中を開けた。
その封筒の内側に高木のSNSのアカウントが小さな文字で書いてあった。
「数学も英語も成績なんて悪くても生きていけるけどさ、女心分からない男は生きていけないよ」
姉貴はそう言い放つとテレビを消した。
「さあ、お姉さまはバイトに行く時間なんで、女心の分かっていない馬鹿な弟は放置します」
そう言うと微笑んでリビングを出て行った。
その姉貴の姿を見送って、俺はその封筒の内側を覗き込むように見た。
どうやってこんなところに書くんだよ……。
俺はその封筒を破かないように開いて、内側に書いてあるアカウントを見た。
そしてポケットからスマホを取り出してそのアカウントを入力しようと画面を開いた。
待てよ……。
好きなモノの返事、先に考えなきゃな……。
俺は立ち上がってリビングを出た。
そこに着替えた姉貴が腕を組んで立っていた。
「あんた、まさか「先輩の好きなモノ」ってのを今から考えようとしてるんじゃないでしょうね……」
鋭い姉貴の読みに俺は多分たじろいでいた。
「私も、スターウォーズ好きなんですぅ。良かったら今度一緒に観に行きましょうよぉ」
姉貴はニコニコしながら言うと、表情を一変させた。
「そんなにスターウォーズ好きな女子なんていないのよ。そんなモノはデートする口実よ口実」
姉貴は俺の襟を掴む。
「あんたの好きなモノ訊くよりも、あんたと話がしたいのよ……。女心偏差値低すぎよ」
姉貴はニヤリと笑うと手に持ったバッグを振り回しながら出て行った。
俺は姉貴に感心した。
しかし、その姉貴の浮いた話は聞いたことがない。
二階にある俺の部屋は恐ろしく灼熱で、エアコンが効き出すまで着替えて、昼飯を食うことにした。
キッチンに行くとお袋が仕事に行く前に作ってくれたと思われる山盛りのチャーハンが置いてあった。
俺はそれをレンジに入れて温める。
冷蔵庫に入ったサラダとドレッシングを取り出すと食卓の自分の席の前に並べて、温め終えたチャーハンをレンジから取り出した。
お袋のチャーハンは美味い。
これも俺の好きなモノの一つかもしれない。
しかし、周囲より大人だというイメージを植え付けた俺が、「お袋のチャーハン」なんて書けない。
何が大人に見えるだろう。
姉貴の椅子の上に置いてあった雑誌を見つけ、俺はパラパラとめくった。
この夏、トレンドのアイテム……。
なになに。
女性向けのファッション誌だから、流行のファッションがメインの記事で、俺の役に立つモノは載っていなかった。
「今年もやっぱりチョコミント」
そんな見出しに俺は釘づけになった。
チョコミントアイス。
昔どうしてもあの青いアイスが食べたくて、買ってもらい、一口でギブアップした記憶があり、それ以来チョコミントアイスを食った覚えがない。
そして強烈に大人のアイスのイメージを植え付けられた。
チョコミントか……。
これは使えるな……。
俺は急いでチャーハンを食べ終えて部屋に戻った。
SNSに高木のアカウントを入力する。
考えてみると部活のメンバーのアカウントはそんなに登録されてない。
もちろん四人のマネージャーのアカウントは一つも登録されてなかった。
冷蔵庫から甘い紙パックのコーヒーをグラスに注いで部屋に持ってきた。
本当はこれくらい甘いコーヒーが好きだったりする。
ブラックコーヒーの味なんてわかるのはもう少し大人になってからでいい。
高木のアカウントを登録して、スマホをベッドの上に放り出した。
彰といい姉貴といい、そもそも高木みたいな子が俺の事なんて相手にするのか……。
俺はベッドに体を倒して天井を見た。
本当に好きなモノを聞きたいだけだったらどうするんだよ……。
格好悪くないか……俺。
俺はそんな疑問に苛まれながら目を閉じた。
午前中の練習の疲れと冷えた部屋の心地良さでまどろんだ。
「馬鹿じゃないの。好きなモノくらい隣の席の男子にだって訊くわよ。」
「自意識過剰なんじゃない」
「モテてるとでも思ってるわけ、キモいわよ」
俺の中にそんな言葉たちがハウリングしながら響いていた。
やめろ……。
そんなんじゃない。
奈落の底に落ちていく自分の体が浮いているような気がして俺は目を覚ました。
変な汗をかいて、Tシャツの襟元が湿っていた。
変な期待させやがって……。
おかげで嫌な夢見たじゃないか……。
俺は着替えを持って風呂へと向かった。
汗を流すためというより頭をすっきりさせたかった。
シャワーを浴びて、部屋に戻る。
ふと、ベッドの上に投げ出してたスマホに気付き、手に取った。
高木のアカウント登録をしたことをすっかり忘れてた。
俺はスマホの画面を開けた。
先輩、登録ありがとうございます。
そんなメッセージが高木から入ってた。
それだけのメッセージなのに、何故か俺はドキドキした。
そしてなんて返そうかとその画面をじっと見つめていた。
こういう時、何を返せばいいのか……。
姉貴でもいれば聞けるのだろうが、今はバイトに行っている。
彰が言うように、このSNSからデートすることになって、付き合う事になって、アレも……。
ダメだ。
一人で考えていると変な方向に行ってしまう。
もっとまじめに考えよう。
俺は濡れた頭をタオルで拭きながら窓の傍に立った。
周囲は俺の事をどう見ているのだろうか。
頑張って特に好きでもないブラックコーヒーを飲んで頑張ったんだ。
大人に見られているだろうか。
そうだ。
チョコミント……。
好きなものはチョコミントアイスだって事にしよう。
それで更に俺は大人に見られるだろう。
チョコミントアイスを好きな高校生はいないだろう。
俺は周囲より大人に見られる筈だ。
他には何かないだろうか。
大人に見られるためのアイテム……。
タバコも吸わないし、酒も飲まない。
そもそも高校生ではご法度だし、子供が嫌いなモノを好きな事が大人に見えるモノなのか……。
待てよ。
まず大前提として大人に見られてどうするんだろうか。
大人に見られたいって気持ち、背伸びしたいって気持ちは正解なのだろうか……。
前に姉貴に聞いた事がある。
四つ上の姉貴はもう歳は取りたくないって言う。
けど高校生の俺は早く大人になりたい。
たった四つの違いでそうなる。
もしかすると男と女の違いなのかもしれない。
俺もいつか歳を取りたくなくなるのだろうか。
そんな事を考えながら俺はスマホに手紙のようなダラダラした文章を書き込んでいた。
そしてそれに気付き、可笑しくなった。
何やってんだよ……、俺は。
我に返って書き込んだ文章を消した。
そして、きれいに消した画面を見て息を吐く。
俺はその画面に、
「チョコミント」
と、それだけを入力して送信した。
高木からのメッセージは秒速で返ってきた。
多分俺からのメッセージをずっと待っていたのだろう。
チョコミントって何ですか
普通はそう来るわな……。
俺は変なやり取りに微笑んだ。
好きなモノ。
チョコミントアイス
再びそう書き込んで返信した。
高木の返信はまた秒速だった。
なんかの川柳だったか、
「想いの強さはメッセージの返信の速さでわかる」
ってのがあった。
その川柳が本当ならば高木は俺の事が相当好きなのだろう。
そうやって男はどんどん調子に乗って行く。
大人なんですね。
私、あれ一口しか食べれなかったんですよね
高木のメッセージは、SNSに慣れているのか会話をしようとする文章だった。
俺はその会話が苦手で、SNSのやり取りが続くと直ぐに電話をかけてしまう。
チョコミントはやはり大人の味なのかもしれない。
高木も俺と同じで一口しか食えなかったようだ。
俺はくすくすと笑い、その高木からのメッセージを何度も見た。
俺の返事を待ちあぐねたのか、高木からメッセージが入ってくる。
意外に普通の好きなモノで安心しました
そんなメッセージの後ろに笑っている絵が付いていた。
普通じゃないモノって何なんだよ……。
俺はベッドに座り、体を倒した。
そして顔の前にスマホを掲げて高木からのメッセージを見る。
どんなモノが好きだって思ったんだよ
俺は会話が続きそうなメッセージをあえて返した。
俺はもしかしたら、大人ぶるって事を勘違いしていたのかもしれない。
大人ぶっているのではなく、俺はお前たちとは違うんだぞって虚勢を張っていたのかもしれない。
それがブラックコーヒーだったりチョコミントアイスだったり。
それが今、とても馬鹿らしく思えた。
そして高木よりも彰よりも周囲の誰よりも自分が子供に思えてならなかった。
高木からのメッセージが返ってくる。
裏でお酒飲んだり、タバコ吸ったり、そんなのかと……
またメッセージの最後に笑った絵が付いている。
俺の真っ黒な文字だけのメッセージとは大違いだった。
続けてメッセージが来る。
チョコミントかぁ。
私も挑戦してみようかな
高木のメッセージを見て微笑む自分に気付く。
またメッセージが来る。
今度一緒にチョコミントアイス食べに行きませんか
俺の心臓は一拍打つのを忘れたようだった。
そうなんだよ……。
高木からしてみれば、俺の好きなモノを聞く事なんてどうでも良くて、こうやって俺と会話をする事が目的だったんだ。
そしてそれが普通の事で、高校生らしい事なのかもしれない。
このSNSの向こうで高木もドキドキしながら待っている筈だ。
このまま俺が返信しなかったら高木は死んでしまうかもしれない。
それくらい心臓はペース配分を間違っている筈だった。
今の俺にはそれがわかる。
それは俺も同じだから。
大人な俺はすぐに返事をした方が良いのだろうか。
答えはすぐに出た。
良いに決まっている。
よし、行こう。
とりあえず二口目も食べれるチョコミントアイスを食べに
今の俺の精一杯の返信だった。
そこからの延々と高木とのやり取りは続いた。
しかしその内容はどうでもよかった。
俺は高木とSNSで会話をしながら近くのコンビニへ走った。
そしてありったけのチョコミントアイスを買った。
背伸びした分の代償をちゃんと払わなければいけない。
それが大人ってもんだ。
そしてそのチョコミントアイスの味がそんなに悪くないって思ったのは俺があの時より少しだけ大人になったからだろうか。
高木とのデートでチョコミントアイスを食う事は出来そうだ。
そしてそのデートも無理に大人ぶる事はない。
チョコミントアイスと同じ様に、徐々に慣れていけば良い。
それが大人になる事なんだから。