『リン』
『リン』
私の学生時代には、猛暑日やましてや酷暑日などという言葉はなかった。
その年も、冷夏という表現が似合う涼しい夏で、そのまま秋になろうとしていた。
私は、大学の最後の年を迎え、教員免許を取得する最終段階に来ていた。
教員になりたいという気持ちが、全くなかったわけではなかったが、それを職業にしようという強い思いが欠けたまま、教育実習をやる時期を迎えた。
教育実習は、基本的に自分の母校でやるのが普通だったが、東京出身の私は遠く離れた大学に入ったため、その大学のあるI県の田舎町Y市の市立中学校で行うことになった。
実際に実習初日に行ってみると、まだ穂の先が青い田んぼの真ん中に、その中学校はあった。田舎の学校にしては、広大な校庭ではなく、校舎も比較的こじんまりしていたように思う。
その中学で教育実習を行うのは同じ大学からきた私を含めて3人、面倒を見てくれるという40代と思敷き表情が乏しいサカジマという男性教諭に連れられて、校内を案内してもらった。教室も廊下もきれいに掃除が行き届いていた。
私は、3年生のクラスをいくつか担当すると言われた。
一クラスは30から40人程度、I県らしいというと語弊があるかもしれないが、皆方言が強く、顔も東京人を見慣れている私からするとあか抜けない感じだった。
私の教える科目は日本史ということだったが、この時期でまだ侍の時代に入ったばかりの状態で、卒業するまで終わるのかな と心配になる感じだった。
既に高校へは皆行くような時代に入っていたので、中3ともなれば高校受験への関心が高まってくる時期だと思っていたが、殆どの生徒はそんなことははるか先、自分には関係ないくらいの雰囲気を醸し出していた。
でもいざ実習生が授業を始めれば、雑談することなくつたない説明に耳を傾け、きたない字の板書を一生懸命ノートに書き写してくれた。当たり前といえば当たり前だが、初めて教壇に立った自分にとっては、非常にうれしかった。
少しお互いが慣れてきた5日目の放課後、一人の女生徒が私に近づいてきて、「マツダ先生、お願いがある。」と突然言った。その子はリンといい、美人とまではいかないが丸顔で目の大きな女の子だった。彼女は中国残留孤児の2世で、中学生になってから両親と日本で生活しているのだとサカジマ教諭から聞いていた。日本語もまだ自由に話せないので、授業中は あてて答えさせなくていいと言われていた。確かに自分から発言することはなく、静かにしていた。
そのリンがいきなり「お願いがある」と言ってきた。そして「好き」と私の目を見た。「えっ」というと、リンは窓に見える校門の方を指さした。
そこには、250CCくらいのバイクが1台と3名の男子生徒が笑いながら話していた。バイクを背によりかかるようにしている生徒は、頭をリーゼント風に固め、制服のズボンも幅広で、見るからにやんちゃそうな子だった。他の二人も所謂教師が眉を顰める風体をしていた。私はその感想を隠しながら、「どの人?」と聞くと、「2輪の人」という。「私、あの人好きだが、日本語ダメ。話せない。友達いない。字もうまく書かないね。どうしたらいい。先生 手紙書きます。」という。
まっすぐに切りそろえられた前髪のすぐ下の目は、ごはんをくれるのを今か今かと待っている猫のような訴え方だった。
私は、実際に20cmくらい後ずさりしたと思うが、なぜか目をそらすのはいけないと自分に言い聞かせていた。そして「いいけど」と言ってしまった。
リンの表情は、スイッチを入れたスタンドランプのようにぱっと明るくなり「ありがとう」といった。
さてどうしたものか。その男子生徒の情報も、サカジマ教諭から得るしかない。尋ねると、サカジマ教諭は露骨に嫌な顔を見せた。聞く前の想像通り、校内で有名な問題児でハヤシ タカオというのだという。タカオは中1の時に大きな怪我で長期入院した関係で休学、中学生では珍しく1年留年しているのだという。それで中学生でバイクに乗れる年齢になっているのかと納得した。地元の高校生ともやり合って勝ってしまうほどケンカが強く、学校も何度か警察に呼ばれている、来年3月で卒業だからそれが待ち遠しいとサカジマ教諭は言った。
その時までは私はまだ授業でタカオに会っていなかったが、その時は翌日に来た。予想に反してタカオは授業中に騒いで、授業を妨害するようなことはなかったが、ほとんど寝ていた。確かに顔をよく見ると、眉を剃って細くしていたが、整った顔をしており、当時若者に人気のあった岩城滉一に少し似ていた。
リンはこの顔が好きなのかな と思っていたが、2日後の昼休み時間の校庭で偶然見かけた光景でなんとなく謎が解けた。リンが男子生徒数人に囲まれている。どうも日本語がおかしい、中国残留孤児だ ということでからかわれているようだった。顔を覆うリン、そこに通りかかったタカオが「おまえら そんなことして楽しいか」と怒鳴りつけた。タカオの顔と剣幕におされ、男子生徒は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。タカオはリンに声をかけることなく、そのまま体育館の方に行ってしまった。リンはじっとタカオを見ていた。
『ハヤシ タカオ様
いつも、いじめられている私を助けてくれてありがとうございます。
すごくうれしいです。そしてタカオさんのこと大好きです。
私は、日本にきて頼れるお友達がいないです。
よかったら、私と付き合っていただけませんか? リン』
「これでどうかな」というと リンは「ちょっと恥ずかしい。でもこれ自分の字で書く。タカオさんに渡す。先生、ありがとう。」とほほ笑んだ。
その後どうしたかは、わからない。リンにもタカオにも何回か教室で会ったが、特に変わった様子はなかった。リンも何も言ってこなかった。
渡せなかったかな、迷っているのかな…などと思っているうちに教育実習最終日になり、大学に戻ることになった。
資料を鞄に詰めていると、リンが寄ってきた。「マツダ先生 ありがとう。これ」といってあられ煎餅の入った小さな袋菓子を差し出した。「これくれるの、ありがとう。それで、タカオ君とは」と言いかけた時に、「先生さようなら、元気でね」と背中を向けて教室を走り出て行ってしまった。
私は、ちょっと肌寒さを感じる駅までの道を、稲刈りはいつ始まるのかなと思いながら歩いていた。
それから私は教員免許を取得したが、結局教職にはつかず、東京に戻って中堅どころの機械メーカーに就職した。
就職してから8年ほどたった夏、この年は全国的に非常に暑かった。
私は担当する顧客先にI県が新しく加わり、忙しくしていた。
この日も上司の課長とI県の顧客に会いに行って、新しい機械設備の見積を説明してきた。時間を見ると17時でちょうど仕事は店じまいというところ、駅までの道で二人とも汗だくになり、ビールが飲みたいなという話が出て、軽くそのあたりで飲んでから帰ろうということになった。
駅前の居酒屋で、ビールジョッキを2、3杯飲んでいるうちに、よくあるパターンで、上司がもう一軒と言い出した。翌日が週末だったこともあり、付き合うことにした。
居酒屋から100mくらいふらふら歩いているうちに青い看板のカラオケスナック「あおい」というが目に留まって入ることにした。
店内はカラオケ用の小さなステージとテーブル席が2つ、後はカウンター席というよくあるもので、ママを含めてホステスは3人だった。他の客はいなかった。上司が、「「あおい」は「青い」に掛けてるの。おもしろいねぇ。」と切り出した。ママは「よく言われるけど、後で気づいたの。「あおい」は私が銀座で働いていた時の源氏名で、青は好きな色なの。たまたまよ」と話し、何飲みますかとつなげた。二人ともウィスキーの水割りを頼み、もう一度店内を何となく眺めていた。
すると、「先生、マツダ先生ですよね」と声を出して若いホステスが近寄ってきた。上司が「先生ってだれだ」と大笑いする中、私はそのホステスの顔を最初に見た時は全く誰だか分からなかった。しかし隣の席に座ったのでよくよく見てみると丸い顔、大きな目は化粧でかなり奇麗になっていたが、あのリンだった。
「元気だった?」「色々あったけど今はなんとかやってる。」とリン。
上司は気を利かせたのか、ママと会話を始めた。
「中学の時より話せるようになたけど、今でも日本語下手です。マツダ先生はお元気でしたか?」
「先生にはならなかったんだよ。「先生」はやめて。今は普通の会社員。」
「I県にいますか?」
「いや、東京の会社、住んでいるところも東京。今日は出張なんだよ。」
「会えてうれしいです。」
私は、タカオの手紙ことを思い出し始めていた。そんな時リンの方から
「中学の時、先生にお願いして書いてもらった手紙、タカオに渡した。ちょと付き合ったよ。でも1年くらいで別れた。ケンカで少年院に入ったから。
良い人、でも怖い人。今 何してるかわからない。」
「そうなんだ。ちょっと気になっていたんだよ」
リンは、その後付き合った男の話、高校は中退した話、地元にある工場にいくつか勤めたが どれもきつかったのでやめて、このスナックにきた というようなことを話してくれた。一緒にカラオケもした。時間はあっという間に過ぎた。
さすがに上司も帰りの電車が気になる時間になってきて、「そろそろ引き上げようか」と言ってきた。
その後I県には何度も行く機会はあったが、午前中の用事だったり、早く帰らなければならなかったりで、担当していた3年間で、「あおい」に行けたのは数回だったと思う。その数回も、彼女が出勤しない日だったこともあり、殆ど会えずに月日が流れた。
そんなある日、出社してみると机の上に白い封筒があった。
「病気になた リン」とだけ書いてある白い便箋が1枚入っているだけだった。
住所も書いていない。消印はI県。
「あおい」で渡した会社の名刺でここに手紙を出してきたのか。
夕方、店の始まる時間を見て「あおい」に電話してみると、ママが出た。
「リンは半年以上前に辞めた、理由は言わなかった」とのことだった。
気になったが、どうしようもない。担当も変わってI県に行くこともなくなっていた私は、次第にその手紙のことも忘れかけていた。
その年の夏、この年は異常に台風の多い年だった。全国各地で被害が発生し、毎日のように報道されていた。
結婚して、東京郊外の中古マンションを手に入れた私は、その日も朝食を取りながら何気なくニュース番組を見ようとテレビをつけた。昨晩上陸した台風の豪雨によってI県で大きな土砂崩れがあって山あいの病院が埋もれたという。
とはいえ、私は、現地は大変だなあ とくらいにしか思わなかったが、亡くなった被災者の名前が流れてきたとき、箸が止まった。
「昔非常にお世話になった人が被災して亡くなった。弔問に行ってくる」と妻に言い残して、I県に向かった。
現地は、まだ水や土砂が町中に大量に残っていて大変な状況だったが、被災した病院は全棟ではなく一部だったようで、重要施設としてそこへのアクセスの復旧は優先されていた。
病院の人の話では、リンは、重度の子宮がんになり、色々転移もして手術など出来る状態ではなく、その病院の緩和ケア病棟にいたという。そこが土砂に埋まってしまった。もう遺体に面会することは出来なかったが、穏やかな顔だったという。
リンはいつも私の前に突然現れて、突然消えた。
今年も今年で また異常な夏だったが、間もなく終わろうとしている。