マティアス(1)
僕が八歳の時婚約者が出来た。
たまにお婆様のところに遊びに来るファンデルのお婆様のお孫さんだそうだ。
兄上たちはニヤニヤしながら「マティはもう婚約者が出来たのか。羨ましいなあ」なんてからかっていたけど八歳の僕には今一つわかっていなかった。
ファンデル子爵家に行って初めて見た婚約者はベビーベッドでスヤスヤ眠る赤ん坊だった。
赤ん坊の寝顔を眺めているとパチッと目が開いた。
そしてその赤ん坊は僕の顔を見てふわりと笑った。
フィーはよちよち歩くようになると僕の後ろをついて回った。
僕には兄上しかいなかったから僕の後ろを「まちー(マティ)まちー」とついてくるフィーが可愛くてしかたなかった。
僕は暇を見つけてはファンデル子爵家に入り浸っていた。
僕がファンデル子爵家に遊びに行くことは当時健在だったお婆様が全面的に後押ししてくれていた。
フィーが六歳の時僕は王立学園に入学することになった。
物凄い難関校だったけど、僕は猛勉強して合格をつかみ取った。勉強自体は好きだったのであまり苦ではなかったがフィーにたまにしか会いに行けないのは寂しかった。
合格して学園に旅立つ前、フィーに会いに行くと泣いて行かないでと言われてしまった。後ろ髪を引かれる思いで学園に入学したが、学園の楽しさに僕はすぐに夢中になった。
学園は知識の宝庫だった。学びたいことが山ほどあった。そして友達も知識を高めあっていけるような奴らばかりだった。僕は何度も論破され悔しい気持ちで勉強した。
やがて僕は魔石の魅力に取りつかれた。
魔石を研究し構造を分析した。
もしかしたら魔石を作り出せるかもしれない。そんな夢みたいなことを考えた。
フィーとは手紙のやり取りをしていたがフィーは僕の妹のような存在だった。
卒業間際、実家の領地で大規模な災害が起こった。
父上も母上も二人の兄たちも領地の立て直しのために走り回っているようだった。
僕は何か力になれないかと言ったが家族の皆は卒業を優先しろと言ってくれた。
僕の卒業論文が認められて無事卒業することが出来たら王宮の高等事務官として出仕することが決まっていた。
父上と母上が病に倒れた。
心労と疲労が重なり医者に少なくとも一年間の療養を勧められた。
我が家には悠長に療養するような余裕はない。
とりあえず爵位は長兄が継いだが、すぐにも爵位返上となりそうだった。
僕は高等事務官になるがほかの職よりは格段に給料がいいとは言え領地を立て直すには到底足りない給料だ。
そんな切羽詰まった我が家を訪れた人物がいた。
その人物は隣国の研究所の所長だと名乗った。
彼は僕の卒業論文を目にしてくれていた。
「私の研究所で働かないか?」
単刀直入に彼は切り出した。
「私たちは人工魔石の研究をしているんだ。研究に行き詰っていたんだが君の論文を目にしてね。新たな道が開けたんだ。是非君と一緒に研究がしたい」
それはとてもとても魅力的な申し出だった。
そのうえ彼は我が家の窮状を知って破格の申し出をしてくれた。
五年間分の給料の半分を前払い。それに支度金を上乗せしてすぐに払ってくれるという。
その金額はたいして大きくはないレンネップ子爵家の領地の復興にかかる金額より多かった。
提示された給料が王宮の高等事務官の二倍くらいだったのだ。
「どうしてこんなに破格の待遇をしてくれるんですか?」
僕の問いに彼は当然というような顔で答えた。
「巨万の富を生む研究だからだよ」
そしてその代わり条件があると言った。
「まず君は研究が成功するまでは帰国することができない。十年でも二十年でも。住居は研究所の敷地内だ。それから手紙等には検閲が入る。結婚をすることはできるが相手には我が国から調査が入る。そして結婚後は研究所の敷地内に住んでもらう」
つまり僕は研究が成功するまで軟禁状態ということだ。
それはフィーとの婚約解消を意味していた。
「もちろん研究が成功して人工魔石を売り出せば君は自由だ。研究所に残ってもいいし帰国してもいい。いつになるかはわからないがな」
結局僕はその条件を呑んだ。
隣国の研究所が出してくれる大金で領地が復興できて爵位も手放さなくて済む。両親にもゆっくり療養してもらえる。
兄上は僕の手を握って涙を流した。少しずつでも返していくからと言った。僕はそれを辞退した。兄にはあと四か月ほどで生まれる子供がいた。
義姉上も病に倒れた父上と母上の世話を身重の身体で頑張っていたのだ。
少しでも余裕が出来たら生まれてくる子供のために使ってくれと言った。
僕はこの時はフィーとの婚約解消を決意していたので家庭を持たない自分には不要なお金だと思っていた。
もう一つの問題は既に決まっていた王宮への出仕だったが隣国から話がいっていたようですんなりと出仕取り消しとなった。
そうして僕はファンデル子爵家に婚約解消の話に向かった。
フィーには泣かれた。何度も待っていると言われた。フィーと別れることは辛い事だった。
何とか説得してフィーとの婚約は無くなった。いや、説得は出来ていなかったがどうにもならない事だった。
でも本当は本当の僕の本心は……ワクワクしていた。
フィーと別れることは辛かった。僕は僕を慕ってくれるフィーが可愛かった。
でもそれ以上に……僕に期待をかけてくれた研究所の所長に報いたかった。いや、あんな大金を払ってくれるほど僕の価値を認めてもらえて誇らしかった。人工魔石を作る。——それは僕が学生時代夢に描いていたことだった。あの時夢のまた夢だと思っていた研究に自分が携われるのはすごく魅力的なことだったのだ。
隣国に旅立って僕は研究に没頭した。
研究所の仲間ともすぐに打ち解けた。魔石バカの集まりは僕と非常に波長が合った。
研究は楽しかったが時が経つにつれ僕は寂しさを感じていた。
例えば、寮から研究棟へ歩いていた時木陰からよちよち歩きのフィーが出てくるような気がする。
食事でトマトのシチューが出たときに「これマティ大好きでしょ。フィーの分もあげる」と差し出すフィーの笑顔が見える。
本を読んでいると膝に抱き上げて一緒に絵本を読んだフィーの小さな手やふくふくの頬を思い出す。
そして「マティ大好き!」「私マティのお嫁さんになるの」と言ったフィーの笑顔と共に「私待ってる」と言った最後に会った時のフィーの泣き顔を思い出すのだ。
研究は順調に進み、隣国に渡って七年。ついに人工魔石の試作品が出来た。当初考えていたよりもずっとずっと早い完成だった。
各国への販売の目処が立った後、僕は所長に呼ばれて今後どうしたいのかを聞かれた。
その頃には僕は毎日フィーの泣き顔と「私待ってる」という言葉を思い出していてフィーが待っているから早く帰国しなければという気持ちになっていた。
所長に帰国したい旨を伝えると本国に連絡を取ってくれた。
そうして僕は伯爵に叙爵され新設された魔石局の初代局長という破格の待遇で本国に凱旋することになった。