フィロメナ(2)
「フィロメナ、もう今日は患者は来ないだろうから上がっていいよ」
カウエル先生に言われて私は伸びをした。
後片付けをして白衣を脱ぎ手早くまとめるとバッグに入れた。
「じゃあカウエル先生、お先に失礼します」
書類に何か書き込みながら「シャーク先生って呼んでくれって言ってるのに……」とぶつくさ言っているのを聞こえないふりして医務局を出た。
王宮の医務局。今の私の勤め場所だ。
去年女学院を卒業した。看護課程でいい成績を取れたので王宮の医務局に就職することができた。
と言ってもこの医務局の担当は王宮勤めの人達で王族とか宰相とか高位貴族の人達は侍医が診察する。
偉い人たちに会わなくて済むので気楽である。
半年ほど前、隣国で人工魔石の試作品が発表された。
これは凄いことである。近年心配されていた魔石の埋蔵量を考慮することなく魔道具が使用できる。それによってもっと生活に役立つ魔道具の開発が進み、人工魔石の需要が高まっていくことだろう。
隣国はこの技術を独り占めせずに各国のトップに売った。
大層な金額だそうだがその後の魔石の需要を考えれば安いものである。
王家が魔石事業を独り占めできればそれぞれの国で王家は多大な資金を得ることができる。
隣国は人工魔石の技術だけでなく各国の王家に恩も売ったのだった。
私は考え事をしながら王宮の門に向かう。
医務局は王宮の第二庁舎の一階にある。現在この第二庁舎の隣に新しい建物が急ピッチで建築されている。
こぢんまりした三階建ての建物で完成したらどこの部署が入るんだろうと少し楽しみだった。
王都のタウンハウスに帰ると弟が出迎えてくれた。
「おかえり、フィー」
「ステイン、学院はもう終わったの?」
「もうすぐ卒業だからね。あんまり授業もないんだ」
弟、ステインは王都の下級貴族が通う一般的な学院に通っている。
私は食堂に向かって歩きながら幼いころ病弱だったとは思えないほど成長して私より頭一つ分背が高くなった弟を見上げた。
現在タウンハウスに住んでいるのは弟と私の二人。両親は領地に居る。
一家全員が領地に居るときは必要なかったタウンハウスだが私とステインが王都暮らしの為小さいお屋敷を購入した。
使用人も執事とメイドと料理人の三人だけだ。執事もメイドも私たちも掃除もすれば洗濯もする。猫の額ほどの庭の草取りもしている。
弟も卒業後は王宮の事務官に就職が決まっている。ゆくゆくは領地に帰り跡を継ぐのだろうがもう少しの間は二人暮らしが出来そうだ。
「父上からフィー宛に釣書が届いていたよ」
私はため息をついた。
弱小子爵家の娘なんて何にも政治的な旨味はないが時々釣書が送られてくる。
「お断りの手紙を書いておくわ」
「会ってみる気はないの?」
「んーー、気が乗らないわ」
「まだ彼の事——」
「違うわ!」
私は急いで否定した。マティとはずっと昔に縁が切れた。もう何にも関係ない人だ。
「でもフィーは美人だからもてるでしょ。お付き合いしてくれって言われたことないの?」
「私なんて大したことないわよ。綺麗な人はいっぱいいるもの。そりゃ付き合ってくれって言われたことぐらいあるけど……」
「でも付き合ったことは無いんでしょ」
「気が乗らなかっただけよ」
そう気が乗らなかっただけ。私はもうマティを待ってるわけじゃない。
次の日。
「おはようメーナ、昨日はありがとねー」
声をかけてきたのは先輩看護士のマティルデ・ハーレン。この医務局をまわしているのは医師のシャーク・カウエル先生と彼女で、私は彼女の助手ぐらいの働きしかしていない。
それでも新婚の彼女が急な休みが欲しい時は代わりを務められるようになってきたと思う。
「おはようルディ。昨日は重病人も来なかったし楽だったわ」
私は彼女のことをルディと呼んでいる。最初「マティと呼んでね」と言われたのだがどうしてもそう呼ぶことができなかった。
それと同時にフィーと呼ばれることも嫌だった。家族以外ではあの人だけがそう呼んでいたから。
学生時代の友達にもメーナと呼んでもらっている。
「ねえ聞いた?人工魔石の功労者」
「何?」
人工魔石という言葉にドキッとする。
「ほら、隣国で半年くらい前に人工魔石が発表されたじゃない。その研究の功労者がうちの国の人だったんだって」
「へ、へえー」
「そのおかげでうちの国はかなり安くその技術を売ってもらったらしいわよ。その功労者が今度帰国して爵位を賜るらしいわ」
「す、すごいのね……」
マティが帰ってくるんだ……私は動揺する心を必死に抑えつけた。平常心……平常心……
「なんか反応が薄いわね」
「そう?私に関係ない雲の上の話だし……」
「あら、そんなことないわよ。その人の帰国に合わせて魔石局っていう新部門が立ち上がるんですって。そこの初代局長に就任するらしいわよ。もしかしたらこの医務局に来るかもしれないじゃない。お腹が痛いんです~とか言って」
マティと会うかもしれない……平常心を保とうとしても心臓がバックンバックン音を立てている。
マティと会ってしまったらどどどうしたらいいのだろう……
「メーナ、なんか顔色悪い?」
「えっ!?そそんなことないわよ。げ元気いっぱいよ」
その日は小さなミスを連発した。ルディが気が付いてカバーしてくれたので患者さんには影響がなかったのが幸いだった。
仕事終わりにカウエル先生に話しかけられた。
「フィロメナ、体調悪い?」
「いえ……大丈夫です」
「今日結構ミスしてただろう?」
私はいたたまれなかった。今日のミスは大したことではなかったけれど、私たちの仕事はミスが患者さんの体調や大事になれば命にもかかわってくる。私事で動揺してミスを冒すなんて。
「……すみませんでした」
「ああ、怒っているわけではないんだ。もちろんミスは冒さないで欲しいけど今後気を付けてくれたらそれでいい。それより悩みがあるなら力になろうかと思ってさ」
カウエル先生は優しく言ってくれたけど悩みがあるわけじゃない。そう、私に関係のない人が帰国するってだけの話。
「いえ、悩みはありません」
「そうか?もしよかったら夕飯でも食べながらゆっくり話さないか?」
カウエル先生は優しいけれどそれに甘えるのもなんか違う気がした。
「ありがとうございます。でも弟が待っているので今日は帰りますね」
私は一礼して医務局を出た。
「あーら、カウエル先生振られちゃったわね」
ルディの揶揄うような声が聞こえた。