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よそ者

作者: どくだみ

 恵理子が駅を降り立った時、海から吹き付ける風が、その頬を容赦なく叩いた。その強さは目を開けることを戸惑わせるほどであった。

 駅前から漁港までは銀座通りが走っているが、その寂れようたるや筆舌に尽くしがたく、半数の商店が口を閉じていた。海から吹き付ける風が一段と強いのは、そのせいもあるかもしれないと恵理子は思った。

(果たしてこんなところにスナックなんてあるのかしら……)

 恵理子が疑問に思うのも無理はなかろう。この寂れようではスナックがあったとしても、客が入るかどうかさえわからぬ。恵理子は懐から一枚の紙切れを出す。そこに住所と電話番号、そして、「マリ」というスナックの名前が書かれている。そこが新たな恵理子の勤め先だった。

 恵理子が駅前の横断歩道を渡ろうとした。トレーラーの運転手に恵理子は見えているはずだった。しかし、港工事の荒くれ者なのだろうか、トレーラーの運転手は歩行者など気に留めることなく、ハンドルを切る。トレーラーは首を傾げる蟷螂のような姿勢となり、恵理子の前、ぎりぎりを通過していった。

「ばかやろー!」

 怒鳴ったのは恵理子であった。

 恵理子はそのまま、不動産屋に紹介されたアパートへと向かう。銀座通りから横道に入った、海が見渡せる高台にあるアパートだ。見晴らしは良さそうだが、老朽化が進み、建てつけは悪そうだ。隣に大家の家がある。恵理子が挨拶に行くと、大家の奥さんはジロジロと下から上まで恵理子を眺めた。恵理子はその視線も気になったが、どこか眉間に皺を寄せるような表情の方が気になったものである。

「今日からお世話になります、金谷恵理子です」

「ああ」

 恵理子が挨拶をしても、大家の奥さんはそれしか言わず、鍵を無造作に手渡した。

「夜の商売だってね。家賃を滞納してもらっちゃ困るよ」

 その言葉には棘が見え隠れしていた。

 恵理子が部屋に入ると、およそハウスクリーニングなどしていない様子が窺われた。部屋の隅には綿埃が積もり、窓を開けるとそれが渦を巻く。天井からは裸電球が吊るしてあったが、球は切れていた。ただ、窓から眺める海の景色は絶景であった。それに少しばかり心を和ませてみるのもよいかと恵理子は思う。海から吹き付ける風は、相変わらず強かった。


 その日の午後、軽トラックが恵理子の引越し荷物をアパートに吐き出していった。女やもめの荷物はそれほど多くない。一番かさばるのは衣類だ。六畳間の半分が衣類で埋まる。恵理子は空いた場所に座ると、ぼんやり天井を眺めた。

(そうだ、電球を買ってこなければ……。それと、お隣さんくらいには挨拶しておくか)

 恵理子はいそいそと出支度を整え、銀座通りを目指した。

 銀座通りはそれほど長い距離があるわけでもない。駅前からせいぜい二百メートルくらいだ。その間に商店がひしめき合っているが、その半数がシャッターを閉めており、ここが寂れた港町だということを窺わせる。そして、銀座通りをまっすぐ行けば漁港に出るはずだった。

 恵理子はまず電気店に行き、六十ワットの電球を買い求めた。すると、電気店の店主はさも珍しいものでも見るかのように、恵理子を眺めた。

「六十ワット、六十ワットねぇ……」

 とぼけたように店主が言う。電気店の店主なら、自分の店の商品くらいすぐに取り出してこれそうなものである。しかも、品物はたかが電球だ。

 恵理子が電球と挨拶の品を買って帰る途中、辻で地元の主婦らしき女性が数人、固まっていた。その女性たちはヒソヒソと何やら喋りながら、恵理子の方を見ている。

「また、よそ者よ」

 恵理子の耳にはそう聞こえた。どうやら、ここでも居場所がなさそうだと恵理子は思う。どこへ行っても肩身の狭い思いをするのはなぜだろうか。恵理子は突き刺さる、冷ややかな視線を背中に受けながら、足早に歩いた。

 アパートに帰ると、ちょうど初老の男が帰宅するのが見えた。恵理子の隣の部屋だ。

「こんにちは。今度、引っ越してきた金谷です。よろしくお願いします」

 すると、男はにんまりと笑い、買い物袋を掲げた。買い物袋には一升瓶が入っている。

「儂は横田だ。あんたもよそ者だな。まあ、よそ者同士仲良くしようや」

 どこかでもう一杯ひっかけたのだろうか、その横田と名乗る男の顔は既に赤かった。

「横田さんもよそ者ですか」

「そうよ。ここはよそ者には冷たい土地柄での。私の友達はこれだ」

 横田がおどけながら、酒を掲げる。恵理子が思わず苦笑した。

「私は今日来たばかりなの。明日から駅の近くのスナック『マリ』で働くことになっているの。横田さんもよかったら、いらして」

「馬鹿言っちゃいかんよ。福祉の世話になってるんだぞ。スナックなんかで飲む金なんかあるわけなかろう」

「あら、ごめんなさい。じゃあ、今、お酌だけでもさせてもらおうかしら」

 恵理子のその言葉に、横田の目が三日月のように笑った。


 横田の部屋は、さすが男やもめと言ったところで、乱雑なことこの上なかった。壁にはヌードポスターが貼られていたが、それくらいで顔をしかめる恵理子ではなかった。

「漁港前に安く飲める店があるんだ。つまみは百円からだぞ。儂にはそういうところがふさわしい」

 横田は座るなり、自嘲的に笑った。横田の後ろの水槽があった。そこでは何やら赤い魚が身体を岩のようにして、ジッとしている。

「そのお魚は何?」

「ああ、これか。これはカサゴだよ。漁港で釣ったんだ。おかずにしてもよかったんだが、何となくとぼけていて可愛いんで、飼ってみたんだ」

「へえー」

 カサゴとは沿岸の岩礁帯に棲む魚で体長は十センチから三十センチほどの、鰭の鋭いずんぐりとした魚である。体色は赤みを帯びたものが多いが、黒っぽいものも目立つ。水槽の中にいるのは体長にして十五センチほど、赤い固体である。それは物臭のように、動こうとはせず、水槽の底にへばりついていた。

 恵理子には可笑しかった。横田のような男がこんな小さな、他愛もない魚を愛でていることが。

「それより、あんたも一杯やらんかね」

「それじゃあ、お近づきのしるしに」

 恵理子は横田の酒を貰うことにした。本当は生活保護を受けている男から貰う酒は気持ちが良いものではなかった。ただ、どことなく流れるやるせない空気を埋めるには、酒の力が必要だった。

「本当は酒なんか飲んでいたら、福祉事務所から怒られるんだろうがな。担当も滅多に来ないし、呆れて文句も言わんよ」

 恵理子が酌をすると、横田は笑いながらそう言った。爽やかなまでの、その笑顔に卑屈な影は見られなかった。

「ところで横田さんのフルネームは」

「横田栄三郎。儂はね、ここへ来て二十年になるんだ。でも、まだよそ者よ」

「まあ……。どうりで、周囲の目が冷たいと思ったわ」

「ふふふ、そうだろう。そのうち慣れる。儂なんか干渉されないから、気楽なもんだ」

「そんなもんですかねぇ」

「そんなもんだ。特に何もかも棄てた人間にとってはな」

「何もかも棄てた……」

 恵理子の言葉が詰まった。

「あんたも流れてスナックに落ち着いた身だ。お互い、身の上話を根掘り葉掘り聞くほど野暮じゃなかろう」

 それは横田の言うとおりだった。恵理子には消したい過去がある。だからこそ、故郷を離れ、各地を転々としてきたのだ。その理由はここでは述べまい。

「それもそうね」

 恵理子は酒をグイと煽った。その飲みっぷりが男勝りであった。

 部屋の窓から覗く海が絶景だった。海に夕日が沈んでいく。夕日と水平線が溶け合い、絵の具を流したようになる。海からの風は依然強く、窓をガタピシと鳴らしていた。恵理子には、この風は永遠に収まらないように思えた。だが、横田は気にも留めず、酒を煽っている。

 交わす言葉もなくなった。ただ、やるせない時間を埋めるために酒がそこに存在しているのみである。別に気まずいわけでもないのに、時間の流れが遅かった。恵理子は窓の外の夕日を眺めた。それはゆっくりと、だが地球の自転を感じさせる速さで沈んでいく。

「はあー、一人でもやるせないが、二人でも変わらんな」

 横田がため息をつきながら、吐き捨てるように呟いた。

「似たもの同士が集まっても同じってわけね」

 恵理子が横田の横に来た。横田がチラリと恵理子を見たが、再び空の茶碗に視線を戻す。恵理子はその茶碗に並々と酒を注いでやった。


 恵理子は翌日、スナック「マリ」で水割りを作っていた。この町は寂れていながらも、背中に哀愁を湛えた男たちが、酒の匂いを求めて夜をさまよっていた。

 既に二人の客がビールから水割りに飲み変えたところだった。ママの青木真理は奥に座って煙草をふかしていた。恵理子は煙草を吸わないが、煙草の匂いがそれほど嫌なわけでもなかった。

 ギィーッという音を立てて、スナックの扉が開いた。入ってきた初老の男の顔を見て、ママが嫌な顔をするのがわかった。

「いらっしゃい」

 恵理子は愛想良く、その男を迎えたが、ママはそっぽを向いたままだ。

「俺のボトルを出してくれ」

 ママが棚からボトルを取り出し、恵理子に無造作に渡す。その仕草がいかにも嫌そうだった。

「新顔だな」

「マミです。よろしく」

 マミとは恵理子の源氏名だ。恵理子は安いウイスキーのボトルで、薄い水割りを作った。初老の男はそれをグイと煽る。

「マミちゃんか……。なかなか可愛いじゃないか。なあママ?」

 だが、ママはだんまりを決め込んでいる。

「どうだ、俺の女にならねえか?」

 初老の男は恵理子の手を強引に掴んできた。

「ちょっと、冗談はおよしになって」

「冗談じゃねえよ。これでも地元じゃ顔が利くんだ」

 初老の男はシャツの腕を捲って見せた。そこには刺青が彫られていた。

「ちょっと、元さん。店の娘に次から次にチョッカイ出すんじゃないよ」

 ママが店の奥から痺れを切らせて怒鳴った。

「へへ、ママの言うことなんて気にしてられねえ。俺は決めた。マミ、おめえ一筋だぜ」

 元さんと呼ばれた男は、恵理子の手を離そうとはしない。

「いい加減におしよ。役所から生活保護を貰ってる身で女なんか囲えるわけないだろう」

 ママは激怒し、恵理子の肩を抱きかかえると、後ずさりした。

「生活保護……受けているんですか?」

「そうさ、こいつは楠本元五郎っていうワルだよ。福祉で金を貰っては、酒と女に金をつぎ込んじまうのさ。こいつのお陰で今までどれだけの人間が泣いてきたことか。うちの店だってそうだよ。こいつに言い寄られた若い娘がみんな辞めていった。中には手篭めにされたのもいるっていうじゃないか。こいつは根っからのワルだよ。この町の疫病神だよ」

 ママが捲し立てるように吠えた。

「このババア、よくも……!」

 楠本が椅子を倒しながら、勢い良く立ち上がった。顔を高潮させ、拳を振り上げている。他の二人の客は肩を寄せ合いながら怯えていた。おそらくは、楠本のことをよく知っているのであろう。

「待って!」

 楠本を制したのは恵理子であった。

「私も訳有りの女よ。抱きたいなら、それ相応の報酬を出してもらうわ」

「いいぜ。いくらだ?」

「三万よ。私が二万、お店に一万、併せて三万。生活保護を受けているあなたに払えるかしら?」

「馬鹿にするんじゃねえぞ」

 楠本がニタリと笑った。そこへママが口を挟む。

「人様の税金で女を買おうっていうのかい?」

「うるせえ、俺の金だ。俺の好きにして何が悪い!」

「じゃあ、三万で交渉成立ね」

 今度笑ったのは恵理子であった。楠本は財布の中身を確かめる。しかし、そこには一万円札が二枚と千円札が三枚しかなかった。

「くそっ、シケてやがらぁ。また来るからな。その時は、お前は俺の物だ!」

 楠本は捨て台詞を吐くと、乱暴にスナックの扉を撥ね退けて、出て行った。直後にママがその場にへたり込んだ。

「ああ、また悩みの種ができちゃったわ……」

 恵理子はまだ勢いよく開閉を続ける扉を、無言で見つめ続けた。


 この町には飯場があった。今は国道の拡張工事の作業員たちのための飯場として潤っている。そこに集う者の大半は、訳有りの言わば流れ者のような男たちである。

 土井栄一も例外ではなかった。歳にして三十そこそこだが背中に漂う寂寥は表現しがたいものがある。飯場の酒飲み仲間にも決して過去を明かさない栄一であった。

「今日の仕事は辛かったなぁ。どうだ土井、夜遊びでも行かねえか?」

 仕事が終わり、撤収作業に取り掛かっていた栄一に武田という先輩工員が語りかけてきた。

「ああ、いいっスよ」

「確か、駅裏にソープランドがあったな。まあ、こんな寂れた町のソープじゃ、ババアしかいねえかもしれねえが、こんな男臭え仕事してると、女の肌が恋しくなるってもんよ」

 武田は汗を垢だらけのタオルで拭いながら笑った。栄一はフッと笑うと、「そうっスね」と同調する。覗いた歯が不釣合いなほど白かった。

 宵闇が差し迫る前に、二人は駅裏のソープランドの門を潜っていた。先輩である武田が先頭を切る。すぐさま遣り手の婆が愛想笑いを浮かべて出てきた。口元は笑っているのだが、瞳は笑ってはいない。どこか客を値踏みする瞳だ。少なくとも栄一にはそう感じられた。

「いい娘を頼むよ」

 武田が遣り手の婆に入浴料を払う。続いて栄一も入浴料を払った。遣り手の婆はいささか卑しい手つきで、それを受け取った。

「はい、お二人さん、ご案内」

 武田が手前の部屋、続いて栄一がその奥の部屋に通される。

 栄一がベッドで煙草に火を点けると、キャミソールにガードル姿の女が入ってきた。まだ歳は若く二十そこそこだろうか。身体つきの華奢な女だった。顔は大して拙くない。

 武田が「ババアしかいないかもしれねえ」と言っていたことを栄一は思い出し、フッと笑った。だが、その笑いがどことなく虚無的だった。

 ソープランドでは女が主導権を握るのが普通だ。だが女は栄一に縋ってきた。

「何でも言うこと聞くから、好きにしていいよ…」

「名前は?」

「アイ……。お願い、優しくして……。嬲られるのは嫌……」

 アイの肩は震えていた。部屋は湯殿からの湿気で蒸れていたが、アイの震えは湿度と温度を忘れさせるくらい冷たかった。栄一は思わずアイの肩を強く抱きしめた。

「愛が……、欲しいの……」

 蚊の鳴くような声でアイが呟いた。栄一は初対面の男にそんな台詞を易々と吐くものだろうかと疑問に思いながらも、一層きつく抱きしめる。

「ねえ、キスしてくれないかな……?」

 ソープ嬢は普通、キスは拒むものである。下の口は売り物でも、上の口は売り物ではないからだ。しかしこの時、アイは黙って瞳を閉じ、栄一に唇を寄せた。栄一も何故キスをしたかったのかわからなかった。ただ、アイの脆くも崩れそうな佇まいにキスをオーダーせざるを得なかったのである。湯煙の中で二つのシルエットが重なった。


 ソープランドを後にした栄一と武田はスナック「マリ」へと赴いた。別に「マリ」の常連だったわけでもない。居酒屋よりもスナックで飲みたかっただけである。

「俺は四十がらみのババアだったよ。接客も良くない。お前はどうだった?」

 武田がしかめっ面をして水割りを啜った。

「俺も同じさ」

 栄一はアイのことを何故か隠しておきたかった。武田に教え、「自分も抱きたい」などと言われるのは嫌だった。

「ふん……。もう行かねえ」

 武田が吐き捨てるように呟くと、水割りを一気に煽った。

 苦笑を漏らす恵理子が薄い水割りを作る。ママは奥で煙草をふかしている。

「お、ありがとさん。せめてマミちゃんくらいのいい女がいてくれたらなぁ」

 武田が下品に笑った。

「夜遊びは身上を潰すわよ」

 恵理子は愛想笑いを浮かべて、武田の冗談をかわす。栄一はただ黙っていた。

 そこへバタンと無粋な扉の音を立てて、入ってきた者があった。楠本である。

 楠本の目は狂気で血走っていた。その手には財布が握られている。

「ほれマミ、金ができたぞ。三万……」

 奥で煙草を吸うママの顔が醜く歪んだ。恵理子は飄々と洗い物をこなしていたが、手を休めると、大きなため息をついた。

「お金を作ってきちゃったか……」

「娘がソープで客を取ったのよ」

 ママが嫌味たっぷりに耳打ちする。恵理子は「なるほど」と思う。ただ女を買うだけであれば、こんなスナックで買春をしなくてもよいのだ。ソープランドへ足を向けられない事情というものが理解はできた。しかし、娘の稼ぎで女を買おうという魂胆はいかがなものかと思う理恵子であった。

「約束は約束だ」

 楠本が一万円札を三枚、見せびらかす。三万円と言うのは、この町のソープランドに比べてもいささか高い相場だった。

「四万よ。昨日と相場が変わったの」

 恵理子が楠本を一瞥して言い放った。楠本の全身がわなわなと震えた。

「て、てめえ……」

 楠本が三万円を床に放った。それははらはらと舞い落ちる。

 顔を真っ赤に紅潮させた楠本が、拳を振り上げ、恵理子に殴りかかろうとした時だった。不意に楠本の足を払う者がいた。それは先ほどより静かに水割りを飲んでいた栄一だった。

 楠本は足を払われ、無様にも床に転がった。

「て、てめえ、何しやがるんだ!」

 楠本が吠える。栄一は楠本の方を向いてはいたが、椅子から腰を上げてはいなかった。完全に頭に血が上ったのだろう、楠本は懐から折りたたみのナイフを取り出した。「カチン」と不気味な音を立て、刃を剥き出しにする。それは薄暗い照明をもらって、鈍く光っていた。だが、栄一が顔色を変えることはなかった。

「てめえから死ねやーっ!」

 楠本が栄一に向かって突進してきた。栄一はフラッと椅子から立ち上がると、ヒョイとナイフをかわす。だが、次の瞬間には目にも留まらぬ速さで栄一の右腕が動いた。

 バシッ!

 乾いた音がスナックの中に響いた。楠本の身体は少し宙に浮いただろうか、仰け反りかえりながら倒れた。口からは少しの血と泡が出ている。目は白目を剥いていた。意識はなかった。

 その様を恵理子もママもただ呆然と眺めていた。武田はへらへらと笑っている。

「すげえなー、お前のカウンターパンチ」

 武田のその言葉にも栄一は答えなかった。

 栄一は楠本の襟首を掴むと、扉を開け、店の前に放った。そして何もなかったように水割りを啜る。

「ありがとう」

 恵理子が栄一の横に座ってお礼を言った。

「あんたもあんただ。その気がはなっからないなら、気を持たせるんもんじゃないぜ」

 恵理子は俯いてしまった。恵理子は場末のスナックでなら、多少の小遣い稼ぎで売春をしても構わないと思っていた。ただ、ソープ嬢をしているという娘の稼ぎで女を買う楠本が許せなかったのだ。

「それにしてもお客さん、強いね。何かやっていたのかい?」

 ママが感心したように言った。

「いや、別に……」

「でも元さんに目、つけられたらこの町じゃ生きていけないよ。結構あいつ執念深いからさ」

「そういう輩はどこにでもいるさ。気にしていたら世の中、渡っていけねえ」

「肝が据わっているんだねぇ」

 ママが煙草をフーッとふかした。


 日曜日。漁港の漁船たちはまるで戦士がつかの間の休息をしているかのように帆を休め、停泊していた。

 そんな漁港の前に乾物屋がある。恵理子はそこで買い物を済ませた。乾物屋の親父は恵理子のことを覚えていた。この親父もまたスナック「マリ」の客なのだ。親父は「へへっ、夜の蝶、夜の蝶」などと下品な笑いを浮かべながら品を恵理子に手渡した。

恵理子はフラッと漁港の堤防の方へ行ってみることにした。そこは休日ということもあり、多くの釣り人でごった返していた。

 恵理子はそんな釣り人の中に見慣れた顔があることに気付く。そして近づくと声を掛けた。

「おじさん、こんにちは」

 麦藁帽子をグイと上げて覗かせた顔は隣人の横田であった。横田は恵理子とわかると、すぐに人懐っこそうな笑顔を浮かべ、「おお、こんちは」と返した。横田のバケツには何やら魚がたくさん泳いでいる。

「何を釣っているんですか?」

「ハゼだよ。この漁港では一番釣れる魚かな。ちょっと投げりゃキスなんかも釣れるし、あっちの岩場ではカサゴやメバルなんかも釣れる。おっと、また来た」

 そう言って、横田はハゼを抜き上げた。恵理子はハゼを繁々と眺める。長さ十五センチにも満たないその魚は、飴色に光り、釣り針を咥えて、未だ釣り上げられたことが信じられないような顔をしている。

「愛嬌のある顔をしているわね」

「そうだろう。大食いで結構、とぼけた魚さ」

 横田の瞳が三日月のように笑った。恵理子も微笑を返す。

「儂は独りやもめだからな、天ぷらなど揚げないが、煮つけでも結構、美味いもんだ」

「へえー……。何なら、今晩、うちで天ぷらを揚げましょうか?」

「おお、そりゃいい。じゃあ、儂は酒でも持っていくよ。まあ、二級酒だがね」

 横田の顔が更に緩む。横田はアオイソメと呼ばれる虫餌を器用に釣り針に付けると、仕掛けを放った。竿もリールも年季の入った、かなり使い込んだ物のようであることが、恵理子にも見て取れた。

「ねえ、もう少しここにいていいかしら?」

「退屈せんかね?」

「たまには海でも見ながらお日様に当たるのも悪くないわ」

 横田の醸しだす朗らかな雰囲気もあるのだろう、恵理子にはここのところのスナックでの嫌なことを忘れさせてくれるひとときだった。

 海鳥がギャーギャーと鳴いていた。


 栄一もまた買い物を済ませ、飯場に戻るところであった。栄一の飯場は小さな沢筋の道路を上った、旧道の出合いにある。車がなければかなり不便な場所なのだが、栄一をはじめ、飯場のほとんどの者は車を持ってはおらず、日常を歩いて移動していた。

 沢筋の道の途中、町営住宅がある。それはかなり傷みが激しく、いつ何時、崩れ落ちても不思議ではないくらい老朽化が進んでいた。家賃が月額千円からというのも頷ける話である。

 栄一が町営住宅の脇を通りかかった時、男の罵声が聞こえてきた。

「さっさと働いて酒代稼いできやがれ!」

 続いて「バシッ!」という乾いた音が響いた。人を叩く時の音だ。栄一はその罵声の主をどこかで聞いたような気がして足を止めた。

 すると古ぼけた扉から一人の若い女が出てきた。

「あっ、アイ!」

 思わず栄一は叫んだが、町営住宅まではいささか距離があり、その声は届かなかっただろう。

 アイは家の前で頬を押さえ、うずくまっている。すると、家から男が出てきた。その男を見て栄一は「あっ!」とまた叫ぶ。その男こそ、先日スナックで栄一が殴った楠本だったのである。

 楠本はアイの髪を引っ張ると、怒鳴った。

「おら愛子、さっさと仕事場に行けよ。ソープへよ。男手一つで育ててやったんだ。恩を返しやがれってんだ!」

 すると楠本はアイの背中を蹴り飛ばし、家の中へと消えた。

 栄一の瞳に殺気が宿った。瞳だけではなかった。殺気のオーラは全身から噴出し、周囲の空間を歪めるほどであった。だが、そこに人通りはなく、栄一の殺気に気付くものはいなかった。

 アイはそこからのっそりと動き出したが、沢筋の橋の袂でまたうずくまってしまった。

 栄一は頭を左右に振ると、ゆっくりと歩き出した。その背中にはまだ殺気を背負ったままだ。栄一の足元に醜い毛虫が一匹、這っていた。栄一は殺気を足裏に込めて、毛虫を踏み潰した。そしてまた、ゆっくりと歩き出す。もう、殺気は消えていた。

 

その日、栄一はソープランドへ足を向けた。財布にそれほど余裕があったわけではない。それでも行って、アイを指名せずにはいられなかった。

 アイは栄一の顔を見るなり「嬉しい」と言って抱きついてきた。頬がまだ赤かった。栄一は思い切りアイを抱きしめた。

「あっ……」

 アイは喘ぎ声にも似たため息を漏らした。その声を聞いて、栄一は言った。

「一緒に逃げよう……」

「えっ?」

「親父さんから逃げるんだよ」

「お父さんを知っているの?」

 アイは栄一から身体を少し離し、怪訝な顔で覗き込む。

「まあね」

「駄目よ。お父さんの借金を返しているの……。それにお父さんは私がいないと駄目なの……」

「君の人生だろう?」

 栄一は語気を強めた。だが、アイは伏目がちに首を左右に振る。

「俺は昔、ボクサーだったんだ。喧嘩をやっちまってね。相手に大怪我をさせて、ボクシング界からは永久追放さ。ニュースや新聞にも載った。人は誰も重い物を背負っているが、それを脱ぎ捨てる勇気も必要なんだ」

 そう説得する栄一の瞳を、アイは恐る恐る見た。栄一の瞳は力強く、気迫に満ちていた。

「ああっ、抱いて。何も言わずに抱いて!」

 アイは栄一の懐に飛び込み、むせび泣いた。栄一はただ、アイを受け止めるしかなかった。ただ、いつか自分の誠意がアイに伝わると、心の片隅で信じていた。


 夕方、恵理子は天ぷらを揚げていた。横田が釣ったハゼの天ぷらである。はらわた取りなどの下処理は横田が行った。

 揚げたてのハゼの天ぷらを肴に、恵理子と横田は酒を酌み交わしていた。

「やはり、ハゼの天ぷらは格別だな」 

 横田がしみじみと言う。ハゼは天つゆではなく、塩で食べる。新鮮なハゼはそれが美味い。

「本当、おじさんのお陰……」

「いやいや、儂じゃあ、天ぷらなど揚げ物はできんよ。あんたのお陰だ」

 横田が恵理子に酒を注いだ。恵理子はそれをグイと仰いだ。男勝りの飲みっぷりである。

「儂にはこんな楽しみしかない……」

 横田が箸を置いた。そして、深くため息をつく。

「あんたに言うことじゃないかもしれんが……、先週、福祉事務所の役人が来てな。九州にいる娘に連絡を取ったらしい」

「それで?」

「今更援助はできないと断られたそうだ……。まあ、別れた妻にも娘にも随分迷惑をかけているからな」

「そう……」

 恵理子は黙って横田の話を聞いていた。横田の顔は既に赤かったが、気はまともなようだった。恵理子が聞きもしないのに、横田は続けた。

「儂はな、借金をこさえ、それを妻子に押し付けて逃げてきたんだ。おそらく娘も相当、儂のことを恨んでいるだろうよ」

 横田の目に薄っすらと涙が浮んでいた。そして、グスンと鼻を啜る。

「だがなぁ、死ぬ前にもう一度だけ、娘の声を聞きたいなぁ」

「おじさん、飲もう」

 恵理子が一升瓶を抱えた。横田が湯飲みを差し出す。恵理子はその湯飲みに並々と酒を注いでやった。

 古ぼけたトランジスターラジオからは古い流行歌が流れていた。傾いた夕日が部屋を赤く照らしていた。やるせない緋の色だった。


 その日も横田は港の堤防で釣りをしていた。今日はサビキと呼ばれる仕掛けでイワシを狙っている。潮回りが良くなると、大群でイワシが岸壁に回遊してくるのだ。横田はそれを狙っていた。

 夕方近くになると、西日もきつくなるが、横田は動じない。せっせとイワシを釣り上げ、バケツへ放っていく。生活保護を受けている横田にとって、この港で釣れる魚は貴重なオカズだったのである。

 そこへ恵理子がやってきた。

「おじさん、どうも」

「やあ」

「大分釣れているわね。これ、イワシ?」

「ああ、シコイワシだ。儂のオカズには十分だ」

 横田は満面の笑みを浮かべて答えた。

「何か嬉しそうね?」

「わかるか?」

 そう言って、横田が「あははは」と笑った。釣られて恵理子も笑う。何があったか恵理子にはわからぬが、横田はすこぶる上機嫌だ。

「実はな、娘の真由美から荷物が届いたんだ。福祉事務所に住所を聞いたんだろう。衣類と食料が入っていた。嬉しかったなぁ。こんな気分になるのは何年ぶりか……」

「そう、娘さん、真由美さんっていうんだ。良かったじゃない」

 恵理子は横田の脇に腰掛けると、自分のことのように嬉しそうに笑った。

「ああ、手紙も入っていてな。儂の身体のことを心配してくれているようでなぁ。送り主の電話番号が書いてあったんで電話をしようと思ったんだが、ちょっとまだそこまでの勇気はなぁ……」

「真由美さんも福祉事務所から電話が入って考えたんだと思うわよ。きっと死ぬほど迷ったと思う。でもやっぱり、たった一人の父親だと思えばこそ送ってくれたのよ」

「うんうん」

 横田の顔が西日に照らされ、皺がやけに深く感じられた。瞳は潤んでいる。横田がズズッと鼻を鳴らした。

「ところであんたは、これからお店か?」

「ええ」

「あんたのお店にも行ってやりたいんだが、何せスナックは高くてのう。福祉の世話になっている身では、そうおいそれと行けんわ」

「いいのよ、無理しなくて」

 恵理子は横田の肩をポンと叩いて立ち上がると、「じゃあね」と言って港を後にした。相変わらず海鳥はギャーギャーとやかましかった。


「いい加減、俺の気持ちもわかってくれよ」

 栄一はアイに詰め寄った。アイはキャミソールの落ちた肩紐を直しながら、視線を逸らした。

「あなたは私の境遇に同情してるの?」

 そう言ったアイの口元がやるせなかった。

「それもあるかもしれない。だが、君が好きなんだ。君をこんなところに置いておけないよ」

 栄一がアイの肩をしっかりと抱きしめた。

「私、好きなんて言われたの、初めて……」

 アイが栄一の背中に腕を回す。そして、力を込めた。アイの閉じた瞳からは涙が滲んでいた。

「ああ、アイ……」

 栄一がアイに唇を重ねる。アイは栄一の唇を貪るように吸い付いてきた。それはむしろ、セックスより生々しくも激しい接吻であった。お互いにお互いの唇とその内部の粘膜を貪りあう。そんなキスだった。

 滴の糸を引いて唇が離れた時、アイは決心したように頷いて言った。

「私、あなたに付いていくわ」

「じゃあ、俺も今の飯場、辞めるわ。今日、帰って親方に断りを入れる。昼前に駅で待ち合わせよう」

「もう、引き返さない。携帯の番号、教えて」

「おお」

 栄一がバッグから携帯電話を取り出した。アイも携帯電話をポシェットから取り出す。お互いに赤外線通信で電話番号とメールアドレスのやり取りを交わす。

「これで、このソープともお別れだよ」

栄一が爽やかに笑った。アイはどこか脆く、はかない笑みをこぼした。


 スナック「マリ」はその夜、大盛況だった。遠洋漁業船が帰港し、漁師たちが港に戻ったのだ。漁師たちは地元の居酒屋やスナックを飲み歩き、「マリ」にも相当の客が訪れていた。ママも恵理子も大忙しだった。

 ママは終始ご機嫌だ。地元の漁師たちは昔馴染みであるという。漁師たちは気風がよく、豪快に酒を飲み乾す。そして陸でしか味わえない、土の感触を二本の脚でしっかりと感じ取るのだった。それはつかの間の陸の暮らしだからこそ味わっておきたいものである。

 そんな漁師たちに混じって、武田と栄一も飲んでいた。

「お前、辞めるんだって?」

 武田が水割りをグイと煽りながら、栄一に尋ねた。

「ああ」

「何で急に……。国道の拡張工事、まだ半分も終わっちゃいねえんだぞ」

「この町の風土は、俺には合わないみたいだ」

「ふーん」

 武田はつまらなさそうに水割りを飲み乾した。恵理子が早速、水割りのお代わりを作る。

「明日には出て行く」

「そっか……。じゃあ、これがお前とも飲み納めだな。しかしだな、ここで勤まらなきゃ、どこ行っても勤まらんぞ」

「うるさいな。説教は聞きたくない!」

 栄一は声を荒げた。この町での最後の酒ぐらい、静かに飲ませて欲しかった。

「そりゃ、悪うござんしたね」

 武田は臍を曲げ、そっぽを向いた。栄一はただ水割りに映る自分の顔を眺めていた。

 気まずい雰囲気が二人の間に流れていたが、漁師の連中はお構いなしに騒いでいる。

 そっと栄一の前に刺身が置かれた。

「これは?」

「戻りガツオよ。私からのサービス」

 恵理子がニコリと笑う。栄一もフッと笑った。恵理子にはわかっているのだ。飯場で暮らす者たちが皆、訳有りであるということを。栄一が「町を出る」と言ったところで、よそ者の恵理子にとっては、日捲りの紙を捲るくらいの事柄に過ぎない。そんな日捲りに同情と惜別の念を込めて戻りガツオをサービスした恵理子であった。

 その時、ドカンと荒々しく、スナックの扉が開いた。誰かが蹴飛ばして開けたのだ。

「おらぁ!」

 響く恫喝の声。一瞬、スナックの中に緊張が走ったが、漁師たちもまた荒くれである。侵入者を睨みつけていた。

「何だ、元さんじゃねえか。それに横羽会の若え衆が三人も、一体これは……」

 漁師たちがどよめいた。若いチンピラに囲まれて入ってきたのは楠本だった。

 楠本は栄一の横へ座ると、水割りのグラスを床に落とした。それはパリーンという甲高い音を立てて割れた。

「若えの、ちょいと顔貸してくんな」

 楠本がそうすごむと、チンピラの一人が栄一の胸倉を掴んだ。

「なるほどな、執念深いとは聞いていたが……」

「うるせえ、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ。さっさと表へ出ろい!」

 チンピラが吠える。だが次の瞬間、栄一の胸倉を掴んでいたチンピラは腹を押さえてうずくまってしまった。そのチンピラはだらしなくも、吐しゃ物を撒き散らした。栄一渾身のボディーブローが鳩尾に決まったのだ。

「野郎!」

 残りのチンピラ二人が一斉にドスを引き抜く。さすがに漁師たちも「おおーっ」と叫び、身を退いていた。

「わかった。表へ出よう」

 栄一は楠本と二人のチンピラと一緒にスナックの外へ出た。

 その途端だった。一斉にチンピラが栄一めがけて突進してきたのだ。ネオンの光を貰った二本の刃が、閃光のごとく走ったように見えた。だがそれは常人の目で見た場合だ。元ボクサーの栄一には、その間合いも、その速さもすべて見切れるものだった。

 頬に傷のあるチンピラのドスが宙を斬り、そのまま向かいにいたチンピラの腕を斬った。いわゆる同士討ちというやつである。

「て、てめえ……!」

 その機会を栄一が見逃すはずもなかった。うろたえるチンピラたちの顔面めがけ、次々とクリーンヒットを放つ。ガスッ、ドガッと鈍い音がしたと思うと、チンピラたちは次の瞬間にはアスファルトに口をつけていた。元ボクサーのパンチはどれも的確にヒットし、相手を脳震盪に至らしめたのである。

 楠本はその光景を呆気にとられて眺めていた。よく見れば身体がガタガタと震えているではないか。

「て、てめえ……、横羽会に喧嘩売って……ただで済むと……思ってんのか……?」

 そんな脅しが通用する相手ではなかった。この時、栄一の怒りは頂点に達していた。

(何故だ、何故こんな奴がアイの父親なのだ!)

 そう思うと怒りで心が爆発し、壊れてしまいそうだった。

「うわーっ!」

 叫んで向かってきたのは、楠本だった。敵わぬとはわかっていながらも、ナイフを振りかざし、栄一に突進してくる。その愚かさが栄一の怒りの起爆剤になった。

 老いぼれた楠本のナイフをかわすことなど、栄一にとっては造作もないことであった。栄一はガッシリと楠本の腕を掴んだ。

「このロクデナシめ!」

 拳ではなく、平手で楠本の頬を叩く。パシーンと乾いた音が港町に響いた。

「お前は人間のクズだ。お前なんかいなくなった方がアイのためなんだ!」

 栄一は喚きながら、何度も何度も楠本の頬を叩いた。そのうち平手が無意識のうちに拳に変わっている。

 やがて、楠本はぐったりと後ろへ倒れ込んだ。それでも栄一は馬乗りになり、「こん畜生、こん畜生!」と叫びながら、楠本の顔面を殴り続けた。

「おい、もう勘弁してやれよ。本当に死んじまうぞ」

 漁師の一人にそう言われ、ハッと我に返った栄一が拳を止めた時、楠本の顔は赤く腫れ上がり原型を留めていなかった。

 駐在は厄介ごと、特に暴力団絡みには関わりあいたくないようで、調書も取らずに引き上げていった。

「一体お前、どうしちまったんだ?」

 そう言う武田に、栄一は苛立ちを隠せず、ただ「放っておいてくれ」とだけ言い残し、漆黒の闇に消えていった。


 翌朝、恵理子は横田の家のドアをノックした。横田は「はいよー」と返し、すぐにドアを開けた。ランニングシャツにステテコという姿がいかにも貧相だった。

「おはようございます。あのこれ、戻りガツオとイナダ。スナックの残り物で悪いんだけど、食べてくださる?」

「おお、こりゃどうも。いつも済まないね。それにしてもスナックというところは刺身も扱ってるのかね?」

 横田は人懐っこそうな笑みを湛え、刺身の盛られた皿を受け取った。

「漁師町だからじゃないかしら。普通、乾き物とチョコ程度よ」

「そうだ。先日、真由美から貰った梨なんだが、儂一人では食いきれんから、あんたも貰ってくれ」

 そう言って横田が奥の間に入った時だった。不意に横田の家の黒電話が鳴った。

「はいはい、ちょっとごめんなさいよ……。もしもし……?」

 梨を抱えたまま受話器を耳に当て、横田が硬直した。

「ま、真由美……?」

 恵理子が玄関先から奥の間を覗き込んだ。

「真由美なのか!」

 横田の手から梨が落ちた。それは畳の上にゴツンゴツンと落ちた。

「ウッウーッ……」

 横田の嗚咽が聞こえる。そして、時々聞こえる「はぁ、はぁ」という息遣い。横田は常日頃から「娘の声を聞きたい」と言っていた。その願いが叶い、感無量なのだ。

 五分くらいして横田が奥の間から、出てきた。その顔は涙でクシャクシャだ。

「娘さんからの電話だったんでしょう。良かったわね」

 恵理子が優しく微笑みかける。すると、横田は更に顔を皺くちゃにさせた。

「娘が、真由美が一緒に暮らそうって言ってくれたんだ。娘と暮らせる上にこれで国の世話にもならずに暮らせる……」

 横田は顔を押さえて男泣きに泣いた。


 栄一はボストンバッグを携え、駅の改札でソワソワしながら待っていた。絶えず周囲に目を配っている。それは横羽会の復讐を恐れているというよりも、アイを捜しているからに他ならない。

 昼前には駅に来る約束になっていた。時計は十一時五十五分を指していた。上りの電車の発車を知らせるベルが響く。それが栄一の心を無性に焦らせた。

(アイのやつ、遅いな……)

 栄一はこのままアイが来ないのではないかと心配になる。しかし、アイは「もう、引き返さない」と誓ってくれたではないか。

 栄一の手にはまだ、楠本を殴った感触が残っていた。栄一は強く拳を握った。何度も何度も殴りつけたその拳を見て、栄一はアイの父親に勝ったような錯覚に陥っていた。

(あんなクズ……)

 そう心の中で吐き捨てる。楠本を卑下することにより、自分を優位に見せたかった。楠本を制圧することにより、自分を正当化させたかった。しかし、楠本を散々殴った後の虚無感は如何ともしがたかった。だからこそ、アイを連れてこの町から一刻も早く立ち去りたかったのである。

 時計は正午を指そうとしていた。栄一が焦れたように、親指の爪を噛んだ。

 そんな時、不意に栄一の携帯電話が鳴った。アイからの着信だ。

「もしもし、アイ、遅いじゃないか」

 栄一は不満そうな声色を電話にぶつけた。

「ごめんなさい。行けなくなっちゃたの……」

「何だって?」

 栄一がボストンバッグを落とした。

「ごめんなさい。お父さんが昨夜、大怪我をして入院することになったの。本人は転んだって言ってるけど、どう見ても殴られた傷なのよ」

 電話の向こうでアイも相当慌てていることが窺えたが、そのまま引っ込める栄一ではなかった。

「父親のことなんかどうでもいいじゃないか。娘をソープで働かせて、その金で酒飲んだり、女買ったりしてたんだぞ!」

「うち、生活保護受けているんだけど、ソープで働いていることは内緒なの……。そのお金がないとお父さんは生活できないの」

 アイは泣きながら生活保護の不正受給を打ち明けた。

「君のお父さんは人じゃない。このまま縛られ続けられたら……」

「でも、私のたった一人のお父さんだもん。世界でたった一人の家族だもん……」

 それは溝だった。今までの人生をすべて捨ててきた栄一にとって、アイのその言葉は埋めようのない深い溝だったのである。

(もう、何も言うまい)

 栄一は返す言葉もなく、電話を切った。そして、ボストンバッグを肩に掛けると、背中を丸めて改札へ向かった。人もまばらな駅では、その寂しい背中をいつまでも追うことができた。

 プラットホームにはいささか強い風が吹いていた。

「ふっ、馬鹿な……」

 栄一の口元が嘲笑するように笑った。

アナウンスは上りの電車の到着を告げていた。


 夕暮れの漁港でやはり横田は釣り糸を垂れていた。夕日に照らされたその横顔はどこか浮かない。今朝ほど、娘との同居の話を涙して喜んでいた彼が一体どうしたというのだろうか。バケツの中を覗いてみると、魚は一匹も入ってはいなかった。

「おじさん、どうしたの、憂鬱な顔して」

 恵理子はここのところ必ずといってよいほど、出勤前に港に立ち寄っていた。

「ああ、あんたか……。今朝はありがとう」

 そう言う横田の言葉には、まるで覇気がない。

「あら、一匹も釣れてないじゃない」

「今日は駄目だ。釣りにも集中できん……」

「何か心配なことでもあるの?」

 すると横田は「うーむ」と唸った。まるで苦虫でも潰したかのような顔をしている。

「あんなに娘さんと同居できるって喜んでたじゃない」

「それよ……。一度故郷を裏切り、棄てた者がもう一度戻るっていうのは相当な覚悟がいるもんだ。あんたも流れてこの地に来たんだからわかるだろう」

「それはそうだけど……」

 恵理子は言葉に詰まった。

「すべてを赦してもらったわけじゃないだろうな。今の儂にはまだ勇気がないんだ。儂はとんだ臆病者よ……」

 横田はバッグからカップ酒を取り出すと、蓋を開け、グイと煽った。その姿を見て、恵理子は「はーっ」とため息をついた。

「でも、帰れるだけマシよ」

「そんなもんかの……」

「そうよ。贅沢よ……」

 恵理子が伏目がちに、ややもすると恨みのこもった声色で言った。

「儂、やっぱり故郷へ帰るわ。謝る人にきちんと謝らんとな……」

 横田が遠くの水平線を見つめながら、呟くように言った。

「おじさんの身体はもう、おじさん一人の物じゃないのよ。くれぐれも飲みすぎには気をつけてね。まあ、飲み屋に勤めてる私が言うのも説得力ないんだけどさ」

「儂、顔色悪いか?」

「あんまり良くないかも……」

「そうか……。明日にでも町の診療所に行って診てもらうかな……」

 横田が視線を竿先に落とした。だが、魚からの返事はない。

「ごめんね、おじさん、もう行くね」

 やるせない雰囲気に耐えられなくなったのだろうか、恵理子が腰を上げた。

「ああ、お仕事、頑張って……」

「ありがとう」

 恵理子が港から去った後も、横田は釣り糸を垂れ、物思いに耽っていた。もうすぐ太陽は海に沈もうとしていた。


 恵理子が横田の異変に気付いたのは、翌日の正午過ぎ、買い物を済ませてからである。

 横田の玄関先には人だかりが出来ており、その隙間からブルーシートが見えた。

「はい、どいて、どいて」

 鑑識と一緒に出てきた男に恵理子は見覚えがあった。確か福祉事務所の担当だ。一度だけ横田の家を訪れていたのを見かけたことがあった。

「あんたが第一発見者?」

「はい……。訪問したら血を吐いて倒れていて……」

「鍵は掛かってなかったんだな?」

「はい……」

 福祉事務所の担当は腰を屈めるようにして、高圧的とも取れる警察の聴取にこたえている。

(何てこと。故郷に帰れることになったのに……!)

 瞬時に恵理子は横田が死んだことを悟った。

 福祉事務所の担当は警察にペコペコと頭ばかりを下げている。警察の中でも若い刑事は、俗に言うキャリア組なのだろうか、年老いた刑事を呼び捨てにし、顎で使っていた。そんな光景を見て、恵理子は気分が悪くなった。

「ちょいと、金谷さん……」

 恵理子に声を掛ける者があった。振り向いてみると大家であった。

「横田さん、変死だってねぇ。これだからよそ者の、身寄りのない一人暮らしは嫌なんだよ。あんたは若いからそんなことないだろうけど……、気を付けておくれよ。それにしてもまた、福祉から葬式の時だけ名義を貸せなんて言われるのかねぇ。ああ、嫌だ、嫌だ」

 大家の厭味に恵理子は愛想笑いを返すと、自分の家へ入ろうとした。

「すみません。お隣の方ですか?」

 キャリアと思しき刑事が恵理子に近寄ってきた。

「そうですが、何か?」

 恵理子はこの刑事が生理的に嫌いだった。だから、つっけんどんな言葉で返したのである。

「昨夜から今朝にかけて、どこで何をしていましたか?」

「昨夜はスナックでお仕事、今朝は家で寝ていました」

「何か横田さんの家で異変は?」

「さあ……」

 恵理子はつまらなさそうに答えた。刑事は「チッ」と舌打ちし、手帳に何か書き込んでいる。

「それであなたと横田さんとの関係は?」

「何も関係ありません。私はよそ者ですから……」

 恵理子はそう言い放つと、家の扉の向こうに消えた。安普請の扉はガタンと派手な音を立てて閉まった。キャリアもそれ以上、恵理子を追おうとはしなかった。


 大家の話では、横田の死因は肝硬変による食道静脈瘤の破裂だったとのことである。

 恵理子が驚いたのは、横田の娘が遺骨の引取りを拒否したことだった。何でも、親族から「あいつの骨を入れると墓が穢れる」と猛反対されたそうな。仕舞には霊媒師まで登場し、横田の納骨に反対したという。

 その話を聞いて、恵理子は横田が死ぬ前日、釣り糸を垂れていた時の迷いを思い出していた。横田の心配は杞憂に終わることはなかったのである。

 結局、横田の遺骨は町役場管轄の無縁仏に納められることになった。

 この町には潮流の関係で流れ着く遺体も多いと聞く。それに旧国鉄のトンネル工事では全国から人足が集まったものの、落盤などで命を落とす者も多く、身元不明の者も多かった。だから、この町には役場管轄の無縁仏があるのだ。

 横田の納骨には恵理子と大家も立ち会った。恵理子は志ばかりの花を供えようと持参したが、無縁仏は花が似合うような墓ではなかった。

 荒れ果てた墓石がゴロゴロといくつも並んだ一角にあり、作業服の町役場の職員は面倒臭そうに、墓石を持ち上げると、人がやっと一人入れるくらいの小さな穴に入って、別の職員から骨壷を受け取った。

「新入りです。よろしく頼みます」

 穴に入った職員がやっとのことで這い上がってきた時、その背中には大きなミミズやムカデが貼り付いていた。墓石を戻したところで、町にゆかりのある寺の住職がスクーターでやってきた。そして、手短に読経を済ませる。職員は服に付いた土を払い落としている。大家は表面上、信心深そうな顔をして住職の経を聞いていた。恵理子はただ項垂れてたいが、別に経を聞いているわけではなかった。

(故郷に引き取られていたら、それこそ川や海にばら撒かれていたかもしれない……)

 散骨という手段がないわけではないが、無縁仏にせよ、墓があるだけまだマシに思える恵理子だった。

 

「えー、マミちゃん、辞めちゃうのー?」

「何だよ、やっと馴染みになったと思ったのになぁ」

 スナック「マリ」の客たちが一様に口を揃えて言った。恵理子は皆に愛想笑いを返すと、お猪口を渡し、一人一人に酒を注いで回る。恵理子からの別れの挨拶だ。

「それにしてもよ、先日の喧嘩は見物だったな」

「ああ、あの日雇い、もう町にいねえぞ」

「何でも、元さん、あの日雇いに殴られた怪我の後遺症で、今じゃレロレロらしい。確か娘がいたよな。娘も大変だなぁ」

「確か駅裏のソープで働いているぞ。あそこは地元の人間は行かねえからな。行くのは飯場の奴とか、流れ者とかよそ者よ」

「あのソープは横羽会の息がかかっているからなぁ。元さんの娘もやたらなことじゃ抜けられんだろう」

「その横羽会も黒寅組との抗争があってよ。昨日、幹部から若え衆まで大分しょっ引かれたらしいじゃねえか」

「良くも悪くも、元さんや横羽会みたいのが、この町の治安を守ってきたところはあるんだがねぇ……」

「それも昔の話よ……。この町も随分と廃れちまったもんだ」

「漁業もパッとしねえし、斜陽だな……」

 そんな客たちの話を恵理子は受け流しながら聞いていた。ママはつまらなさそうに煙草をふかしている。

「マミちゃん、次はどこへ行くんだい?」

 ぶっきら棒にママが尋ねてきた。だが、恵理子は答えなかった。ただ、客に酒を注いで回る。

「そうかい。野暮なことは聞きっこなしだね」

 ママは不機嫌そうに、煙草を灰皿に押し付けた。

「私はよそ者ですから……」

 恵理子がボソッと呟いた。


 恵理子は駅に向かう前、港に立ち寄った。経も平日というのに、多くの釣り客で賑わっていた。だが、そこにはもう、横田の姿はない。

 遠くへ仕掛けを投げる者、足元に仕掛けを落とす者、皆それぞれのやり方で魚と対峙していた。そんな光景を恵理子は目を細めて眺めた。

 ふと、空を仰ぐ。そこには鮮烈な鰯雲が広がっていた。その真下を海鳥たちがギャーギャーとやかましく行き交う。鰯雲の存在感に威圧され、まるで怯えているような泣き声に聞こえた。恵理子にはまるで鰯雲が海鳥を襲い、食らわんとしているかのように見えたのである。

「鳥を食べるイワシとは……」

 鰯雲は空の彼方まで続いていた。

 恵理子はふと、振り返る。港から見える高台には自分の住んでいたアパートや、横田が眠る無縁仏がある。それらを遠目に望むと、「さよなら」と呟き、恵理子は港を後にした。

 銀座通りは今日も寂れていた。

 電車に乗り、車窓から見る町の風景はやはり寂れていた。恵理子はもう二度とこの町の地を踏むことはないと感じていた。磯場に荒々しく波が打ち寄せているのが見えた。それは虚勢を張った町が「二度と来るな」と言っているような気がしていた。

 恵理子はつまらなさそうに、眠ったふりをした。上り電車は長いトンネルに入った。



(了)


 この作品の中に出てくる「ラジオから流れてくる流行歌」とは西崎みどりさんの「さざなみ」をイメージしました。どことなくやるせない雰囲気、出ているでしょうか?

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