第092話、世界の終わりと乙女の恋―鷹目の皇帝―
かつてこの世界の設計図がゲームだったときの名残か、赤と緑のイルミネーションが輝く街。
某月某日。
新国家イシュヴァラ=ナンディカの玉座の間では、魔術モニターを通じて緊急連絡が行われていた。
案件は聖コーデリア卿の恋愛について。
誰かが彼女の心を射止めなくては、負けイベは乗り越えられない。
むろん、実力行使で負けイベをどうにかするという選択も裏では進められていたが――この世界を去ってしまうかもしれない聖女を引き留める意味でも、ここで彼女の心を掴むことができれば……。
そんな思惑も動き始めているのは事実。
聖女を慕うものたちは多くいる。
民も町長も衛兵も領主も、貴族も聖職者もそして王族も。
だが――。
この世界でもっとも知恵の数値が高いと思われる攻略対象。
賢王ダイクン=イーグレット=エイシス十三世は、美麗でしなやかな肉体美をエジプト風な異装から覗かせながら、大きな息を一つ漏らし。
嘆息に、声だけで生計を立てられるほどの凛とした声を乗せていた。
「ほう? 聖コーデリア卿に、恋愛……であるか」
「詳細はお伝えした通りです。あなたも攻略対象と呼ばれる存在なのでしょう? 聖女殿とフラグとやらを構築していなかったのですか?」
モニター越しに問いかけるキースの言葉が、書類の山が積まれた賢王の執務室に響く。
コボルト達も書類整理を手伝っているのだろう、お祝いムードで赤い帽子をかぶった彼らモフモフ軍団も、わっせわっせ♪ と働く中。
書類に囲まれた賢王は複雑な顔をしたまま。
「かの聖女をこの国、この世界に留めるには聖女殿に真に愛され、また愛してしまえばよいだけの話。心より結ばれれば道が開かれる――か。余もかつてはそのように考え、動いたことがあった。美を司るとされたスタイリストなる職業の者や、品のいい仕立て屋に異装を注文したりもした。会話もした、食事もした、共に語り合ったこともあった。なれど、清き聖女の心を落とすことはできなかった。何度も――試したことはあったのだ。だが、あれは気高き花。掴もうとすればスルリと逃げてしまう柳の葉よ」
それはまるで舞台の一セリフ。
声まで麗しい賢王の言葉をもし女中が聞いていたら、ぽぅっと顔を赤らめその心は奪われていただろうが――聖女には届かず。
賢王の語りに、キースは困った様子で眉を下げていた。
「イーグレット陛下は詩人でいらっしゃるようですね」
「まあそう言葉を濁すな。いや、茶化すな――か? ともあれだ。これでも様々に試した後なのだ、余はあの者を好きか嫌いで判別すれば、迷わず好きと判断するであろう。出会いも衝撃的だったからな、恋という感情も含んでいた可能性は否定はせぬ」
「では、あなたが――」
「急くな――王たる者ならば余裕を持つことも大事であると、先輩風を吹かさせて貰おう」
出会いを思い出していたのだろう。
聖女は突然舞い降りた。
あの日、あの時、あの瞬間に――。
それを一時の夢と勘違いし、賢王は戯れに迷宮女王を招き入れ。
そして、山脈帝国エイシスは救われた。
母は永久の氷から解き放たれ、汚染されていた聖職者は改心し、手をつけることができなかったスラム街はごく普通の街並みへと成長し始めている。
全てはあの日の出会いがきっかけ。
賢王は異装の隙間から褐色の腕を伸ばし、まるで砂漠の夜に浮かぶ満月のような、白く輝く銀色髪を掻き上げ――ふと微笑する。
苦く笑ってみせていたのだ。
「余では無理なのだよ」
「そのようなことは――」
「いいや、無理だ。余が最も愛するのは我が国、我が臣下、我が民。王とは国民の奴隷であるべきと、先帝の失態で身に染みておるからな。余は――コーデリア卿を一番にすることはできぬ。そして民を一番にすることを捨てた余では、不適当。おそらく聖女は失望を隠せずその心も離れてしまう。余は聖女殿に好かれている自信がある、単純な事実としてな、だがそれは恋愛ではない。恋ではないのだ。余とあの者の歯車が噛み合う未来を、余は掴むことができぬ……この慧眼をもってしてもな。故に、余では不可能なのだ」
言葉には一抹以上の寂しさが滲んでいた。
キースはそこに確かな愛を感じ取っていただろう。
だが僅かな愛を自覚しているからこそ、聖女を一番にできない自分はふさわしくない――そう、若き山脈帝国の皇帝は答えを出している様子だった。
本当にただ世界のため。自分のため、国のためと割り切れる男ならば自分が聖女の伴侶に名乗り出たのであろう。
愛を語り、世界平和を語り、その手の甲に口づけの一つでも落として見せたのだろう。
心が見える聖女ならばこう思うはず。
世界のために愛をささやく若く麗しき皇帝、その心に応えたい。
と。
おそらくそこには薄氷のように薄い心であるが、愛は生まれる筈。
だが、その選択を皇帝は捨てた。
賢王ダイクン=イーグレット=エイシス十三世。
彼は非情なる王の一面も持っているが、今回だけは頷けなかった。聖女の恋心を大切に感じているのだろう。一人の乙女の大切な恋心を重んじているのだろう。
非情になりきり、冷たい皇帝を演じることができなかったのだ。
「余では、あやつを幸せにしてやることはできぬ――」
イーグレットにとってコーデリアは、教会権力に圧され、部下にも頼り切ることもできず、燻り、道を失いかけていた時に迷い込んできた、栗色の鳥。
本当に、特別な存在であることは間違いない。
だが。
そんな彼女をはじめ、国のために賢王は利用した。
聖女はそれを理解した上で全てを許したが、賢王自身は自分を許せてもいないのだろう。
余に、聖コーデリア卿と並んで歩く資格はない。
そう告げずとも、その顔立ちから言葉が読み取れる諦めの表情が浮かんでいた。
モニターの中の新しき王が悩める賢王を見て。
苦笑に美貌を滲ませ言う。
「そこまで真剣に考えていらっしゃるのなら、十分に資格はあると思うのですが」
「それは世間の目であろう。余の慧眼ではない」
「こちらの知恵者の判断では、コーデリア卿の伴侶となれる可能性が高いのはあなた、そう思っているようですが」
「あの女か、ふん――喪服令嬢と名乗っているそうだな」
「そう冷たい言い方はおやめください。アレでも私の国の宰相のような存在です」
鷹の目を輝かせた若き皇帝は、存外に冷たい声音で応じていた。
「天使からの扇動も解け、自らが起こした過ちを知り心変わりもしたようであるが――余はあの者の言葉を信用はしているが信頼しているわけではない」
「手厳しいですね」
「王族として、いや、それ以前に人としてはならぬことをしたのだ、当然であろう。あの女の所業を見ていると、余は思い出したくもないあの男を思い出す……」
「お父上……十二世陛下、ですか――私も幼き頃に戦禍の影響を受けた身。先帝陛下がされた非道の数々は、存じておりますが……」
新国王キース、彼もイーグレットの父が蛮行の限りを尽くしていたことは知っていたのだろう。
だがどこか様子がおかしい。
キースの瞳と唇は王たる貫禄の中で揺れていた。
言うべきかどうか。
悩んだ顔をほんのわずかに見せた後、言うべきと判断したのだろう。
モブとしては美麗すぎるほどに成長した王の顔で告げようと、口を開き始める。
「可能性としての話ですが――」
「よい、言いたいことはわかっておる」
「しかし、お耳に入れたきことが――」
「分かっておると言っておる。可能性の話だけならば、余の固有スキルともいえる”慧眼”が全てを眺めておるからな――」
イーグレットの唇がつまらなそうに、呟いた。
「余の父も、或いは天使の洗礼の矢を受けていたのではないか。そういう話であろう? 申し訳ないが……その話は些か不快だ」
突如として人が変わってしまった。
神話の時代から続く長い歴史の中で、暴君と化した時の王による暴走や戦乱が起きた際に――そのような記述が何度かでてくることがある。
だが、もしもだ。
王となりその権力に溺れて人が変わってしまったのではなく、そこに天使の介入があったのだとしたら。
考えたことがあったのだろう。
そしてその可能性はけして低くはないと、その慧眼が答えを導き出していたのだろう。
だとすれば――イーグレットの父、十二世も。
「道化師クロードならば多くの転生者の事件に関与していた筈。今の彼に聞けば――」
「良いのだ。もう……父のことは。仮に稀代の悪女ミーシャ姫のようにきっかけが洗礼の矢であったとしても、犯した罪は父自身の罪。洗礼の矢とは理念や思考に、ほんのわずかな方向性……ベクトルを加える程度の洗脳に過ぎぬと、余は判断しておる。つまりは、それらの罪は己の中から滲み出た悪意。悪性。我欲。自らの欲に抗いきれずに犯した罪だ――報いを受けて当然である、それだけの話だとは思わぬか?」
賢王の言葉を理解した上でだろう。
キースが言う。
「いったい、今まで何人の人間や亜人が――天使や転生者によって動かされていたのでしょうね」
「失ったものは二度と取り戻せぬ。考えるだけ無駄だ」
「しかし……」
「はっきりと言おう。かつて門番であり、執事だった男キースよ。あの女が為した罪は一生消えぬ。どれほどの善行をなしたとしても、過ちは消えぬ。その恨みや憎悪、恩讐は必ずや報いとなりあの者の魂を地獄の業火で焼くであろう」
皇帝としての、攻略対象者としての慧眼が赤く輝いている。
その眼光は猛禽よりも鋭く強固。
スキルを使用した上での警告なのだろう。
だが警告を受け止めたキースは存外に落ち着いた様子で応じていた。
「はい、それも理解しております。心配していただきありがとうございます、陛下」
「ならば――」
「いえ、それでも私は私の意志を貫き通します。あの方が全てを賭してこの世界のために動くと決めたのならば――そのサポートをし、支え、そして待ち続ける。そう、既に決めているのです。ですから、あの方が世界を救うまでは、私はあの方の味方であり続けます」
世界を救うまでは。
そう言い切った新しき王の顔を眺め、その決意の裏の何かを察したのだろう。
賢王は言う。
「余には関わりのなきことだ、好きにせよ――ただ、まあ、なんだ。別に無理にとは言わぬが、そうであるな、余も、ほんの少しぐらいの助言ならば、与えてやれるやもしれぬな?」
「ありがとうございます」
「勘違いはするでないぞ。あくまでも少しだけだ、別にそなたら異国の者の運命がどうなろうと、余の知ったことではない」
強く否定することが逆にキースの苦笑を誘ったと自覚したのだろう。
咳ばらいをし、イーグレットは告げる。
「ともあれだ、話を戻すが――聖コーデリア卿の例の件について余が動くことはない、そうそちらの宰相とポメラニアンの部下に伝えよ」
「本当によろしいのですか? あなたはあの方を……」
「故にこそだ――」
僅かであっても恋慕を自覚している。
だからこそ、皇帝は動かない。
大人たちの政争に巻き込まれた哀れな美青年が、生まれて初めて自覚した――恋。
「おそらく。余はあの者が好きなのだろう、ならばこそ……余はこの手を伸ばすべきではない。そう思っておる」
鷹の目の皇帝は――。
とても優しい顔をしていた。
決意は固い。
そう判断したのだろう、キースが言う。
「となると、別の候補を探さねばなりませんが――」
「ふむ。彼女と並んで歩く資格のある者に、余は心当たりがある」
言われたキースはモニター越しに眉を顰め。
「と、おっしゃいますと」
「余の部下、戦鬼ベアルファルス。あの者ならば――他の候補者と違い負い目は皆無。そしてあやつならば、かの聖女を幸せにできるであろう。力もある、信用もできる。そして奴もアレに世話になった身、大義名分さえ整えてやればおそらく――首を縦に振るであろうて。余はあやつらならばと確信しておるのだ。妥当な人選であろう?」
慧眼にも見えぬ先を見る顔で――。
魔猫師匠の眷属ともいえる、既にどこか人の枠を外れた男キースが言う。
「お言葉ですが陛下」
「なんだ、不満か?」
「いえ、もしあの戦鬼が聖女殿の心を射止めるのならば、それは喜ばしいことだとは思いますが。陛下は少々聖女殿と同じく人の心の機微、特に恋愛において欠けている部分がおありなようで。一つ、お忘れではないですか?」
「ほう? 気になることを言う。良い、聞かせよ」
「年齢差ですよ。親子のような差ともいえます――聖コーデリア卿側はともかく、戦鬼の方は気にするのでは? それに、おそらく戦鬼の性格上……今回の件には反対の筈。なにしろ聖コーデリア卿の心を無視しているともとれますし……世界のために未成年者の、それも恩人の、世界を延命させるための婚約者選びを無理やりにしなくてはならないとなったら――戦鬼は聖コーデリア卿を大切にしているお方だと聞いております、激怒するのではないかと」
些事に過ぎぬと、一蹴した賢王であったが。
新国王キースの懸念は的中。
話を聞かされたベアルファルス講師の怒声が、賢王の部屋に響き始めた。




