第078話、幕間―優しいウソ―
滅びゆくクラフテッド王国の隣。
オライオン王国の静かな牧草地。
穏やかな風に吹かれた草と土、そして太陽の香りが広がる草原にて――。
聖職者の異装を纏う彼女は子供の手を引き、笑っていた。
家族と一緒に、幸せそうな笑みを浮かべていた。
本当に幸せそうに笑っていたのである。
子供は二人。母親は一人。
おそらくは休日のピクニック。
清楚で凛とした、まるで女神像のような母親である。
その顔立ちも微笑も、どこかがあの血の鋼鉄令嬢、アイナ=ナナセ=アンドロメダによく似ている。
けれどあの母親はアンドロメダではない。
彼女はゲームの登場人物。召喚獣。
あくまでもゲームのNPC。
ここにいる親子とは――違うのだ。
三千世界と恋のアプリコットを再現しているだろうこの”現実となった世界”では、よく似た別人といえるだろう。
もっともルートさえ同じ道を歩んでいれば、同じ血の鋼鉄令嬢となっていたのだろうが。
そうはならなかった。
彼ら家族は幸せなまま、今を歩んでいる。
魔猫師匠の干渉によりルートがズレてしまったように――彼女の運命も大きく道をズラしていたのだろう。
子供の手を引き。
ふふふっと聖母の如き微笑みをたたえる母親、その姿を遠くから眺めるのは、二人の令嬢だった。
令嬢の一人、血の鋼鉄令嬢は目を奪われていた。
赤黒い鋼鉄のドレスを武器とし、紫色の口紅を輝かせる彼女は召喚獣。
アンドロメダ。
この世界に登録されたボス魔物。
だから、再び召喚する事とて可能ではある。
だが並の腕では第三章ボスの召喚などできるはずがない、ならば誰が――。
答えは簡単だった。
親子を眺める令嬢はもう一人いた。
同じく聖母のごとき微笑みをたたえ、血の鋼鉄令嬢をここに連れてきた――アンドロメダの新たな召喚主。
聖コーデリア卿。
コボルトを引き連れる暗黒迷宮の領主である。
草原の香りの中。
化粧すらほぼ必要のない美貌の乙女は、幸せに生きる家族を眺めて告げていた。
「ここにお連れするかどうか、悩んではいたのです。あなたを召喚するかどうか、それも悩んでいたのです。けれど、あのままあなたに謝罪できずにお別れというのは、わたくし……なぜだかとても嫌な気がしましたの。だから、これはわたくしの我儘なのかもしれませんね」
「謝罪?」
「母の我儘を手伝わせてしまって、申し訳ありませんでした」
聖女コーデリアは頭を下げていた。
母に代わり詫びていた。
聖職者に人を殺させていたことを詫びているのか。それとも、召喚獣として使役し、命令に従うように強制していたことを詫びているのか。
分からない。
けれど心からの謝罪だとは理解できたのか。
聖職者としてのアンドロメダは察していたのだろう。
再召喚されたアンドロメダはしばし考え、静かに口を開く。
「あなたが謝ることではないわ。邪神クラウディア――彼女は彼女の意思で自らの再臨を望み、あなたを虐げた人々を生贄に捧げ蘇ろうとしていた。アタシにはその気持ちがとても分かるもの。お母さんなら誰だって、自分の娘が虐げられていたら、もしできる力と手段があるのなら――同じことをしたと思うわ」
告げるアンドロメダの、乾いた血で固めたようなウェーブかかった髪が――草原の風で揺れる。
家族を眺めて、その瞳も揺れる。
目線の先には、自分の子供ではない我が子。
子供は二人。
のどかな牧場で走り回って笑っている。その奥には聖職者の母。紅葉する大樹の下にはランチボックス。おそらく、それはお母さんの手作りサンドウィッチ。
家族の休日、家族の肖像。
それらは全て、アンドロメダが失ってしまったモノ。
アンドロメダが自分ではない家族を、かつてゲームだったときの記憶では”堕ちた聖職者”の家族として迫害されてしまった家族を眺めて、言った。
「とても不思議ね。あの子たちとアタシは何の繋がりもない、他人といえるわ。けれど、アタシはあの子たちを知っている。夫を知っている。あの子たちが好きな食べ物も、嫌いな食べ物も知っている。でも、アタシとは無関係なのね」
「申し訳ありませんでした、やはり、配慮に欠けていましたわね」
「あら、ごめんなさい。責めているわけではないの、むしろ感謝しているのよ。本当よ」
種族上は人間であるアンドロメダ。
その心を聖コーデリア卿は自動的に読んでしまう。
だからこそ、本音だとは理解できるのだろう。
だが同時に、寂しいと思っている心も伝わっている。
だからコーデリアは言ったのだ。
「わたくしは、やはり少し自分勝手なのかもしれませんね。良かれと思っていたのです、けれど、こうしてあなたを再召喚して、いざ子どもたちの前にお連れしてみると――浅慮だったと思いが浮かんで。ああ、またやってしまったのですね……と、後悔があとから浮かんでくるのです」
「あら? 後悔だなんてしなくていいのよ――だってアタシ……この子達の幸せそうな姿を見せてくれて、嬉しいと思っているのよ? でも、少しだけ寂しいのも事実なだけ。本音のだけ。嬉しいと寂しいが同時にあるだけ。あの子たちが生きてくれているだけで幸せなはずなのに、なぜかしら、アタシは少し欲張りで、あの子たちを抱きしめてあげたくなってしまうの。ふふふふ――まあ、この鋼鉄のドレスじゃあ無理だからしないけれど」
アンドロメダの今の言葉はブラックジョークでもあったのだろう。
彼女の攻撃方法は血のドレスを武器とし、抱き殺すことにあるのだから。
コーデリアは苦笑し。
「笑っていいのかどうか、判断に困りますわ」
「そうね、アタシも自分でもどうかと思ったわ」
空気は少し、軽くなった。
女はただ静かに、幸せな家族を眺める。
彼女の記憶は全てゲーム。現実となったこの世界とは違い、ゲーム。
虚像でもある。
それでも――。
アンドロメダが言う。
「ゲームの中のアタシはね、聖職者であると同時にお母さんだったの。あの子たちではないあの子たちの、お母さん。歪められてしまうあの日までは、本当に、幸せだったのよ。だから神を睨んでいるの、恨んでいるの。だからアタシはあの日、声に応じたわ――クラウディアが言ったの、復讐したくはないかしら? って」
「じゃあやはり、あなたが狙っていたのは……」
「ええ、そうね。道化師クロード。アタシの運命を捻じ曲げた創造神の一柱ともいえる彼よ。そのために、アタシは伯爵王を狙っていた、生贄の道具にしようとしていた。だって、クラウディアが言うんですもの。アレを狙えば必ず道化師が釣れるわよって――まあ、召喚された後のアタシは既にすこし、狂っていたから……結局、そんな復讐さえも霞んで。こうなってしまったけれど」
それはコーデリアとの出会いのせいでもあったのだろう。
あの時、ドレスを傷つけてしまったと誤解して接触したことで、運命がまた一つ変わっていたのだ。
アンドロメダが言う。
「話を戻すわね。だからアタシにはアタシの目的もあったの。だから、あなたのせいでもお母さんのせいでもないの。それにね、アタシはねお母さんだから。あなたのお母さん、クラウディアの気持ちがとても良く分かるのよ。だから、あなたが謝る必要なんてないわ。ありがとうコーデリアさん、あの子たちの幸せそうな姿をもう一度見せてくれて、思い出させてくれて――とてもうれしいわ。本当よ。だから、そんなに悲しそうな顔をしないで」
悲しそうな顔。
コーデリアは無自覚だった。
けれど、悩んでいたのは事実。
アンドロメダが思春期の子どもに問いかけるような、少し大人になった子どもを諭すような声で言う。
「ねえ、どうかしら。悩みを聞かせて貰ってもいいかしら?」
「心が読めるのですか?」
「バカね、けれど純粋でかわいらしい子ね――お母さんになった身ならね、その顔を見れば誰だって分かるわ。あなたが悩んでいることぐらい、アタシにもね。いいでしょう? アタシは所詮、召喚獣。言い方は悪いかもしれないけれど――出したり消したりできる、便利な道具みたいなものですもの。あなたが失敗したのだと判断したら、消せばいいだけの話でしょう?」
アンドロメダの言葉には優しさが滲んでいた。
まるで母のような、偉大な包容力が含まれていた。
大きな雲が流れるせいか――辺りは少し暗くなった。
雲の下。
曇りを帯びたコーデリアの口が、ゆったりと動く。
「今回の騒動はわたくしのせい、だと思うのです。わたくしが……自らの手で復讐を果たす勇気がなかったから、逃げてしまったから、お母さまはあなたを召喚したのでしょう。わたくしがお母さまに会いたいと願ったから、お母さまを動かしてしまったのでしょう。全て、わたくしが優柔不断なばかりに……多くの方に迷惑をおかけしたのではないか、そう思うと、なんだかとても申し訳なくなって――」
「内罰的なのね、それは美徳といえるかもしれないけれど――お母さんとしては少し、悲しいかもしれないわね」
アンドロメダは考え、なにやら思いついたのか。
ふと瞳を閉じて祈りを捧げた。
純粋な心が奇跡を生んだのか。
聖女の顔を覆っていた雲が、散っていく。
光が天を差したのだ。
祈りは天に通じたのか。
一瞬だけ――アンドロメダはかつての敬虔な聖職者としての一面を強くのぞかせ、その顔に懐かしい母の笑顔を浮かべていた。
「コーデリア、お願いだからもう少し――あなた自身をあなた自身で愛してあげて頂戴。それがお母さんとの約束だったでしょう?」
「お母さま……?」
「今だけ、少しだけ、この子の身体を借りたのよ。だから、いらっしゃい」
抱きしめてあげるわ、と母たる顔でアンドロメダが言う。
コーデリアは知っていた。
心が読める彼女は知っていた。
それは優しいウソなのだと。
アンドロメダはクラウディアの行動や思考を真似ているだけ。
彼女ならばこうするだろうと動向を予測し、同じ行動をとって見せただけ。
そもそも、アンドロメダに邪神クラウディアを召喚するだけの力はない。
けれど。
一時であっても、アンドロメダとクラウディアの精神は融合していた。
だから――。
そこにいるのは、あの日の母そのものに見えた。
幸せな家族が幸せを享受する、牧草地。
草原とサンドウィッチの香りが漂う、温かな場所。
祈りにより、晴れた空。
輝く太陽の下で――。
「さあ、いらっしゃい――かわいい子」
母は娘に手を差し伸べた。
コーデリアは母を演じる女に正面から抱きしめられ、瞳を閉じた。
あの日を思い出すように。
母の思い出を、辿るように。
クラウディアを演じる女もまた、瞳を閉じた。
我が子を愛する母のように。
もう二度と抱きしめられない我が子を、抱きしめるように。
二人の中にあったのは、おそらく。
かつてあったあの日の思い出――
「ありがとう……」
それはどちらの言葉だったのだろうか。
雲は流れて。
どこか遠くへ運ばれていく。
温かな太陽が、親子を優しく照らしていた――。
第三章、幕間 ―終―




