第077話、血の鋼鉄令嬢編―エピローグ―
山脈帝国エイシスの皇帝の私室。
芳醇な葡萄酒の香りと甘いスイーツの香りが広がる部屋――事件の流れを追っていた賢王ダイクン=イーグレット=エイシス十三世は報告書を眺め、重い息を吐く。
騒動は一応の終わりを迎えた。
だが、ダークエルフを彷彿とさせる若き美貌王の目元には、濃い憂いが滲んでいる。
同席していたポメ伯爵こと、獣モードで寛ぐミッドナイト=セブルス伯爵王が犬口で告げる。
『どうしたというのだ、賢しくも小生意気な若造よ。全て、そなたの掌の上で踊った結果となったのだろう? 何をそれほどに酒に耽る必要がある』
「――余が動いたのはあくまでも後手、事態が既に動いていたからであるからな。このような結末を望んでいたわけではない」
賢王の鷹の瞳の前に並ぶ嘆願書にあるのは、冒険者ギルドの解体と再編を望む市民の声。
冒険者ギルド本部が行っていた多くの悪事が露呈し、それを上位冒険者たちが世界各国で漏らし、全てが明るみとなっていたのだ。
もはや滅んだとされる国、クラフテッド王国のかつての聖女の遺骸を盗んでいたこと。
討伐していたエリアボス、レイドボス、呼び方はさまざまにあるがゲーム時代にボスに分類されていた魔物を捕獲し、研究していたこと。
そして、その暗躍の果てに邪神を再臨させようとして逆に殺され、本部が壊滅していた事。
それだけでは噂は止まらなかった。
クラフテッド王国に起こった騒動。
聖女追放の裏にも冒険者ギルド本部が関わっていたのではないか、そんな根も葉もない噂までもが広がり始めている。
むろん、皇帝の慧眼はそれを否定しているが。
一つだけよかったことは、召喚獣ではないアンドロメダがこの世界で生きていたことだろう。
もっとも、あのアンドロメダとは別人であるがゆえに、そのままとなっているが。
我が子を大切に育てる、良き聖職者として過ごしていることが確認されている。
報告書によると、その影には魔物の気配、コーデリアの放った護衛が常につくようになったとされているが――。
「創造主に運命を弄ばれるルートとは外れたモノ、か……」
ポメ伯爵もまた報告書を眺め、王たる声で告げる。
『なるほど――噂が広まるのが早すぎる。アンドロメダ召喚からここまでの流れ……その全てが誰かの暗躍であったか、あるいは世界そのものがこの流れを導くように運命を改変しているか。ともあれ見えすぎる貴殿は頭を悩ませているという事か』
「対策は講じておるがな」
『なにやら魔道具や課金アイテムを集め、そして人員を集め企んでいるのだろうとは我が道化が語っていたが――』
道化師クロード。
あれも問題の種の一つ。
「霧となってやってきたと思えば、貴殿はそれを探りに来ておったのか」
『それは誤解だ。うちのアレはアレで有能。貴殿がやろうとしていることは把握しているようであるぞ』
「ようであるぞ? 伯爵よ、そなたは把握しておらんのか」
『アレに任せた方がうまくいく。今までもそうであったからな――』
「油断はせぬことだな。道化師クロード、創造主たるやつは創造主故の傲慢がある……少々この世界を読み違えている傾向にもあるだろうて。それにだ、具体的に助言するならば――聖コーデリア卿、あれが絡むと全てが狂う事はそなたもよく知っておるだろう」
コ、コーデリア!?
と。
その名を出され、伯爵王の白銀色の獣毛がぶわっと広がる。
トラウマを思い出したのだろう。
誘惑しても、誘導しても、声をかけても、まったく靡く様子もなく――恋に落とす作戦は大失敗。イーグレットと別ベクトルの美貌の王がみせた、初めての大敗北。
ぷるぷると犬の口を震わせ、ポメラニアン顔でぐぬぬぬぬぬぬ!
『余はアレとはもう、同じ土俵に立つ気など起きん。きょ、興が削がれたわ』
それは負けを認めつつも、負けてないもんと唸る犬そのもの。
「のう……あの娘といったい、なにがあったのだ」
『余の口からは言えぬ。あの娘、鉄壁ガードなどという言葉では形容が足りぬほどの鈍感であるぞ? 余も長くを生きたが、あれほどのあれはそうおらぬ』
「そ、そなたほどの男がそこまで言うのなら。よ、よほどなのであろうな……」
イーグレットもまたコーデリアの鈍感さを知っていたので、空気はとても微妙なことになっているが。
ともあれ顔を引き締め――。
今回の報告書に目を戻し――イーグレットは王としての口調でワインの吐息に言葉を乗せていた。
「聖コーデリア卿……か。彼女の母君の朽ちぬ遺骸の消失もそうだが……アレはなにやら今回の件でも悩みを抱えてしまったようだ。その特異な力のせいであろうが。自分一人で抱え込むのは、アレの悪い癖だ。余とは言わずとも、サヤカ嬢でもベアルファルスでもいい、誰かに相談すれば心も軽くなろうに……」
賢王がワイングラスを傾け、喉を上下させる。
酒の入ったその心には、様々な思いが交錯していた。
結果的に巨悪が巨悪をなす前に、冒険者ギルド本部は壊滅。
再編されるギルドでは、互いのギルドを互いに監視する新たな体制が作られる。それもイーグレットは既に根回しをし、計らっていた。
見る者によっては、あの賢王が全てを裏で操っているとみるだろう。
賢き王の瞳はそんな自分への畏怖や蔑みさえ予見できてしまう。
スキルを使わずとも、考えればすぐに分かる。
賢王は賢すぎる故に他者の心も動向も読む。全ての先を読んで、まるで見透かしたような顔で公務をこなし続ける。今回の件で、イーグレットへの世間と世界の評価は上がった。上がり過ぎていた。
だからこそ、男は孤立し始めていた。
昔からのイーグレットを知る者なら違う。けれど、こんな噂が内外に広がり始めていると当然、賢き王はその情報も掴んでいた。
曰く、もしアナタが鷹目の王と出会う前には覚悟を示せ――僅かな野心さえ抱かぬモノ以外は、避けて逃げよ。
美貌王の瞳が魔力で染まるとき。
それは審判と裁定の時。
なぜなら王は賢すぎる、その慧眼の範疇にあるモノは知るだろう。己の浅慮を。隠しておきたい全ての心が暴かれる、恐ろしき時を味わうだろう。
その心の中に、わずかな野心が滲んでしまえばそこで終わる――麗しき王は冷酷に、残酷に、ただ淡々と歴史の裏で野心あるアナタを消すだろう。
――と。
人間ならばふと、欲望が浮かぶときがある。
実際には実行しなくとも、悪感情が生まれてしまうときがある。
それを勝手に全て読まれてしまい、自らの手を動かさずとも計略で消されてしまうのだから。
だからこそ、男はこうして孤独を愛するようになった。
まだ療養中の母に相談することはできない。
それに相談すること自体が、母を巻き込むことになる。
ベアルファルスならば全てを受け入れ、話に耳を傾けてくれるだろう。しかし、彼はああ見えて面倒見がよすぎる。過保護すぎる。
おそらく、親身になり過ぎて彼の心身を蝕むだろうと賢き王には先が見えていた。
信頼している部下を失いたくない。
イーグレットはそんな思いの中で揺れていた。
今朝、側近の一人が王宮を去った。野心を抱いていたからだ。しかしそれは王にとっては些細な野心、放置していても問題のない、人間としての劣情だった。
見逃していたのはその側近が優秀だったからこそ。
けれど、側近は今朝、王を見て泣き咽び、頭を下げて懇願したのだ。
どうか、家族だけは。家族だけはお許しを……と。
そうして自らの悪事を暴露し、詫び、この王宮を去った。
咎められると思っていたのだろう。
ずっと、怯えていたのだろう。
ついに耐えられなくなったのだろう。
自白をされてしまったら、動かぬわけにはいかない。
王は王として、淡々と処分を下した。
規則がある以上、それを破った部下を公の場で特別視し、救済すれば秩序が乱れ国が乱れる。
だからそうするしかなかった。
皇帝となり、権力を増していくと共に――。
イーグレットの寂しさは増していた。
次第に、人間の護衛が少なくなり――今ではもう、コボルト達が彼の護衛につき始めてさえいる。
イーグレットは護衛のコボルト達に目をやる。
彼らは裏表のない種族。
野心があったとしても堂々としている、その野心とて子供の悪戯の延長。今度、皇帝の御膳を集団で取り囲み、じっと眺めて目の前で盗み食いしてやろうという程度のモノ。
怒られない範囲でのコミュニケーションであり、そもそも彼らはまったくイーグレットの慧眼を恐れていないのだ。
――いや、だってどんなに賢くても、雑魚。
――コウテイ、よわいよわい! ざここうてい!
――オレたちがポコンとやったら、このヒヨッコは死んじゃうゾ?
と犬笑い。
明らかに格下の、庇護対象として認識しているのである。
だからイーグレットもまた彼らを信頼し、心を預け始めていた。
そう――。
人間を侍らすことを躊躇い。
魔物を侍らせるようになったその姿は――似ている。
まるで心を読んでしまう聖女、コーデリアのように――。
「同類、相哀れむ……か」
皇帝の口からは自分が抱く聖女への思慕が漏れていた。
そんな言葉を横からすくって、伯爵王が声だけで生計を立てられる王たる声で揶揄を飛ばす。
『ふふ、賢王とて見えぬものがあるか。いっそ、あの娘に相談してはどうなのだ? アレと貴殿は少しだけ似ている。自分でもそう感じたからこそ、今の言葉が漏れたのであろう?』
「……。ブドウの汁をくっちゃくっちゃと犬歯の隙間から垂らしながらドヤ顔をされても、いささか反応に困るのだが?」
『気にするでない。余とそなたの仲ではないか』
「さほど仲が良いわけではなかろうに……」
賢王はしっしっと犬を軽くあしらう顔であるが、ポメ伯爵はムフゥ!
『なに、どうでもいい相手だからこそ、こうしてどうでもいい態度をとれるのであろう? 余はどうでもいいそなたのことを気に入っておるぞ? いつかは敵対するやもしれぬが、今は敵対を選ぶことは確実にない。貴殿は自国の損得で動くからな、その点だけは信用できると我が道化のお墨付きだ』
「ええーい、たわけ! 人に乗るな! モフモフめが、酔っておるな!?」
だが実際、どうでもいい相手だからこそ言える言葉もある。
飲める酒もある。
伯爵王は伯爵王で重責を抱えているのだろう。
だからこそ、こうして気分転換。
気晴らしにやってきた伯爵王はポメラニアンモードで霧となって顕現したのだと、賢王は気付いていた。
『余はこの国のグルメを気に入った。吸血鬼は美食であるのだ、酒はうまく肉も芳醇。果実もたわわと実っておる。はてさて、軍事よりもグルメを優先し確保している、その思惑は――余にも教えていただきたいものであるがな』
「そこまで分かっておるのなら、聞かずともよかろうて」
ポメ伯爵がグルメを漁るバカ犬の顔で、けれど部下の道化と似た性質の瞳で。
スゥっと獣の瞳を細めていた。
『魔猫師匠と呼ばれる、異物。異界からの干渉者にして鑑賞者。それらと交渉するための文化を育てている、といったところか』
「やはり分かっておるのではないか」
『おや、否定せずともよいのか?』
「見破られていることを隠しても意味がない。それに、そこまで分かっているのなら――告げることもできる、か」
賢王は酒を置き。
これはちょうどいい機会だとばかりに、空気を変え。
告げた。
「貴殿の道化にも伝えておけ――異界の獣神たち、アレとは絶対に敵対するな。これは命令でも忠告でもなく、この世界に生きる王としての嘆願だともな」
『……それほどの存在なのであるか』
伯爵王は知らない。
この世界に入り込んだ異物のおそろしさを、知らない。
だからこそ、賢王はこの世界を存続させるための人類としての声で言う。
「伯爵王よ、今頭上を見上げると何が見える?」
『天井……いや、その先か。夜空の星。そして月が見えるが――よもや、アレはあの魔力を生み続ける月と同格の存在だとでも?』
「いいや、読み違えておるぞ伯爵王。余は思うのだ、感じるのだ。この慧眼は常に畏れ、訴えておる。アレは星などではない、アレは月などではない。もっと大きく昏い、底知らぬ闇」
ぶるりと本能的な恐怖に獣毛を輝かせる伯爵王。
空を透視する吸血鬼の王たるケモノに、褐色肌の男は震える声で――。
告げた。
「言うならばアレは宇宙。星々さえも支配する夜空の如き、果てなき神であろうよ」
星々どころか、それらを支える夜空。
宇宙のように広大な存在。
全てを見通す王の、そんな言葉に伯爵王が言う。
『なるほど……な。そんな神に祝福された存在が聖コーデリア卿、というわけか』
「聖コーデリア卿だけならばよかったのだがな。おそらく、あと二人ほど……この世界にはアレの恩寵と加護を直接的に受けたモノがいると、余は推測しておる」
『まだおるのか……っ』
伯爵王が、全身の獣毛を膨らませ。
ぶるり。
『そのものと、そのものの目的は分かっておるのか』
「一人はおそらく従者であろう、な。だがもう一人は、まだ余にもわからぬ。しかし、強き者であるという事は確かであろう。これからまた一つ時代が動く。願うならば、平穏な時代であって欲しいものだが――異界の神々がわざわざ覗きに来ておるのだ、そう簡単にはいかぬのであろうな」
告げて賢王はワインを傾ける。
注がれるブドウ色を覗きこむ慧眼には、何が見えているのか。
ともあれ二人の王は遅くまで酒を楽しんだ。
彼らは利害が一致しているからこそ、互いがまだ裏切らないと知っていた。
だから遠慮のない関係となっていた。
けれど、伯爵王は吸血鬼にしてポメラニアン。
コボルト達と同じく人外。
賢王イーグレット。
人ではない者の方が、心安らぐその現状は――。
本当に、あの聖女とよく似ていた。
第三章 ―終―




