第074話、涙の意味さえ知らぬ者【ミーシャ視点】
廃棄された迷宮の奥に隠されていた冒険者ギルド本部。
結界のさらに奥に足を踏み入れた二人は驚愕していた。
かつてミーシャと名乗っていた名もなき喪服令嬢は、従者キースの腕から降りる――。
カツンと、まるで研究室のように冷たい床に、魔力靴の音が鳴る。
カツン、カツン……。
そこに生きてる人間は誰もいなかった。
けれど、人間だったモノは転がっている。
爛れた顔と正体を隠すヴェール越しに周囲を見渡し、女は思わず息を漏らしていた。
「なによ、これ……」
「死体ですね」
「そんなの分かってるわよ! だってここで邪神クラウディアの再臨の儀式が行われていたんでしょう!? なのに!」
そこにあったのは死体の群れ。
全て、鋼鉄の槍で刺されたような穴があいている。取り乱す主人に対し、従者は冷静なまま。
不謹慎を理解した上だからだろう、すみません――と、罠を警戒し足で死体を転がしキースが言う。
「アンドロメダにやられたようですね」
「それも分かってるわよ、でもどういうこと。賢王の話だと、おそらくあの不気味な女と冒険者ギルド本部は繋がっているって話だったけど、あの鷹目褐色野郎、あんなに偉そうにしてこっちから大量に課金アイテムを要求したくせに――読み違えたってわけ?」
「お嬢様――」
全てを見通す賢王との繋がりをうっかりと漏らす主人を諫めながらも、キースはスゥっと前に立ち。
シャン!
二刀の従者の剣を構え、怜悧な瞳で奥をにらんでいた。
喪服令嬢も慌てて黒の扇を手元に召喚。
繋がるカラスの羽に魔力を這わせつつ――。
「敵?」
「おそらくは――」
次の瞬間。
その透き通った清廉な声は、闇の奥から聞こえた。
ジャリジャリ、ジャリジャリ。
鋼鉄のドレスで床を削りながら歩く女が、そこにいた。
「あら? 死んだと聞いていたけれど――生きていたのね哀れなお姫様」
「アンドロメダ――」
「久しぶりねお二人とも、生きてくれていて嬉しいわ。でも、どういう事も何もないでしょう?」
女は微笑んでいた。
生々しい血を吸いくすんだ赤黒いドレスに、魔力の光が反射している。
周囲に漂うのは濃い血の香り。
当然、その正体は血の鋼鉄令嬢アンドロメダ。アイナ=ナナセ=アンドロメダ。
ミーシャだった女が言う。
「あなた――冒険者ギルドに雇われていたんじゃなかったの!?」
「雇われ? ああ、あの賢い王様が言っていたのね。本来なら知りえる筈もない答えを、情報量さえ集めてしまえば特定できてしまう能力。協力者と情報が増えるほどにその精度は増していく。いつかは気付いてはいけない世界の真理にすらたどり着いてしまうかもしれない、厄介な能力――それはともかく、アタシも疑問だわ。そもそもあなたたち、繋がっていたのね。敵なんじゃなかったの?」
独り言にも似た、長く独特な言葉はアンドロメダ本人。
「おあいにく様、世界がどうこうなろうっていう時に縄張り争いをしてるほど、人類は愚かじゃなかったって事ね」
「あら? それが愚か者の代表だったあなたの言葉かしら? 聞いているわよ、あなた――本当に酷いことばかりしていたみたいじゃない。生きていてくれて嬉しいわ。そして馬鹿な子ね。生贄が足りないと思っていたけれど、そっちから来てくれるなんて、やっぱりまだ子供ね。でも、転生者ってことは、生前の年齢を足したらもうおばさんなのかしら?」
アンドロメダの口からは僅かな魔力が漏れていた。
それは戦闘スキルの一種。
「挑発は無駄よ、これでもあたしはそれなりの上位プレイヤーだった。そういう類の精神状態異常を警戒していないとでも?」
「プレイヤー……そう、あの忌々しい連中」
「アンドロメダ、あなたがどうしてプレイヤーを知っているの?」
キースはプレイヤーという概念を理解していない。
だから、疑問を浮かべている。
もっとも表向きはいつものように堂々と――分からないままで澄まし顔だが。
喪服令嬢の唇から疑問が漏れる。
「あなた、転生者なの?」
「違うわ、たぶんね」
「たぶんって、なにそれ。自分で自分を理解できていないってこと」
「あら? 変な事かしら? そもそも自分を正確に理解できている人間なんているのかしら?」
「そういう哲学は結構よ。転生者が知っている情報を知っているけれど、転生者じゃない。けれど天使でもない。あなたってなに? なんなの? 気持ち悪い」
強気な物言いで返す喪服令嬢。
それは意趣返しの挑発であったが、その頬からは汗が滴っている。
アンドロメダから漂う気迫に押されているのだろう。
スキルとしての挑発を受けても、アンドロメダはレジストする。
レベル差だろう。
けれど何故だかアンドロメダはふと切なそうな顔をして――眉を下げたままの微笑を作っていた。
「ええ、そうね。気持ち悪いかもしれないわね」
「なに、その顔。なんかむかつくわね」
女の唇だけが淡々と蠢く。
「いいえ、だってアタシもアタシが気持ち悪いと思っているんですもの。アタシはこの世界がゲームじゃないって事に気が付いた。それって、前はゲームだったと自覚していたって事でしょう? けれど、この世界はアタシが知っている道とは違う世界を歩んでいる。アタシの知らない、ゲームの世界が広がっている。けれどこの世界はゲームじゃないの。それって、とっても変な感覚なの。この世界にとって、アタシはなんなのかしら? そもそもアタシとはいったい、なんなのかしら。そう思ったら、ふふ、ごめんなさいね。なんだか悲しくなってしまったから。けれど、そうね。でもこれだけはわかるわ。アタシはたぶんこの世界のアタシじゃない。この世界のアタシはどうしているのかしら、そう思ったらとても切なくなってしまったの」
女は多少の狂気状態となっている。
正気ではないのだ。
それは三章のラスボスとして設定されていた時の彼女と似た状態。
けれど、何かが違う。
ミーシャだった女は考える。
「なるほどね――あなたの正体が分かったわ」
アンドロメダが初めてきちんとミーシャだった姫に目線をやった。
「え?」
「なによその反応、あなた自身は気付いていないの?」
「ええ、そうね。ねえ、どうかしら、どうせこのまま戦闘になるのでしょう? どちらの冥土の土産になるのかは分からないけれど、教えてもらえないかしら。頭を下げればいいのかしら? それともお金かしら? それともこの冒険者ギルドの皆様の首でいいかしら?」
「ギルドの皆様の首って、もう死んでるじゃない」
「あら? あなたが既に蘇生の儀式を使い始めているのは見えているのよ? だから、それを妨害してあげてもいいけど待っていてあげているの。でもお優しいのね、この人たち、とっても悪い人たちよ。稀代の悪女たるあなたほどじゃないけれど、いっぱい、悪いことをしてきた人たち。蘇生させる価値なんて、たぶんないわよ。そもそも集団蘇生なんて上位の技術、あなた如きにできるのかしら?」
狂気に憑りつかれた女に言われ、喪服令嬢はもはや隠さず蘇生の儀式を展開。
犠牲者となっている冒険者ギルド本部の人間の命を呼び覚まそうと、それなり以上の大儀式を継続させていた。
「いいのよ、罪ある者たちだからこそ世界のための奴隷にできる。この世界を維持させるための戦力にできる、あたしと同じでね」
「ふふふ、可愛らしいのね。罪人同士でつながって、なにをするつもりなのかしら」
実際に蘇生させた後に魔導契約を強制し、手駒にするつもりではいる。
喪服令嬢は既にこの事件の先を見越して動いていた。
キースもそれに同意し、従っている。
この世界を観測する異界の獣神たちも、姫が振るうダイスがどう転ぶか賭けの対象として眺めている。
けれど蘇生の目的は、手駒を増やす以上の意味があった。
それは生贄化の妨害。
邪神再臨を止めるためには、生贄を蘇生させてしまうのが手っ取り早いと彼女は知っていたのだ。
アンドロメダが言う
「それじゃあ、蘇生妨害もしない。蘇生が完了しても、その人たちは殺さないでいてあげるけど。教えて頂戴、アタシってなんなの? アタシはアタシが分からないの。掴もうとすると、それは霧のように消えてしまうの。聖堂を追い出され、理不尽に道を書き換えられ、アタシは神を恨んでいる。それだけは覚えている。けれど、それ以上が分からない。アタシはアタシを知りたいの。ねえ、いいでしょう」
喪服令嬢の答えは明確だった。
それは魔術師としての答え。
「あなたは召喚獣。それ以上でもそれ以下でもないわ」
召喚――世界に登録された魔物やボスを呼ぶスキルや魔術の総称。
その事実をアンドロメダがどう受け取ったのか、それは分からない。
そのまま喪服令嬢は蘇生を継続しながら、告げる。
「あなたは三章のボス。この世界の元となった設計図。『三千世界と恋のアプリコット』では敵として登場しているから……それは一種の魔物と呼べるわ。だから、腕のいい魔術師ならボス級魔物として呼び出すことも可能ってこと。あなたはゲームのアイナ=ナナセ=アンドロメダとして登録された魔物であって、新しく最初から本物の命として生まれ直した、”今の”この世界のアイナ=ナナセ=アンドロメダではない」
アンドロメダの瞳が揺れる。
「理解、できないわ」
「でしょうね」
自分が召喚獣だと、それも世界に登録されたNPCのようなものだと言われ、理解を脳が拒んでいるのだろう。
「けれどおそらく、NPCという概念もゲームという概念も知っているあなたなら気付いている筈よ。自分が召喚された存在だって事も、知ってはいたんでしょう?」
「そう、じゃあアタシは偽物なのね。この記憶も、あの記憶も」
女の言葉はからっぽだった。
けれど、その瞳の奥には様々な記憶が見えているのだろう。
喪服令嬢は知っていた。
アイナ=ナナセ=アンドロメダという存在が、途中から歪められた存在だと知っていた。
彼女にも家族といえる人がいたのだろうと、知っていた。
喪服令嬢が告げる。
「偽物かどうかは知らないわ。けれど、召喚士が呼ぶ魔物は基本的に世界に登録された状態にある情報を魔力でくみ上げて、魔物として召喚している。ようするにコピーしていることになるわ。だから本来なら一匹しかいない魔獣でも、二体同時に存在できたりする。けれど、こうも言えるわ。あなたが登録された情報から複製された存在だとしても、既に魔力で組み上げられた物体。本物であるともいえるわ。人間だって、結局は物体よ。細かい原子の集合体。そこに違いなんてないと魔術師としてのあたしは考える」
「慰めてくれているの?」
「さあ、どうでしょうね。あたしは事実を口にしているだけよ」
アンドロメダは清らかな微笑みを浮かべていた。
「変なのね、あなた。外道なのに優しいのね。そこだけは感謝するわ。けれど、どうか勘違いはしないでね。もちろん、とても悲しいと思っているけれど、切ないと思っているけれど――アタシ、嬉しいの。喜んでいるのよ」
だって、と。
女は堕とされる前は確かな聖職者だった、口下手だが、正しく在り続けたシスターの声と顔で。
言った。
「本物のアタシの家族は、生きているって事でしょう? 歪んで狂ったアタシを知らないのでしょう? ゲームの時のあの人たちはアタシのせいでとてもつらい思いをしたでしょうけれど、この世界では違うのでしょう? アタシは召喚獣。偽物。けれど、この世界のアタシとその家族は違う。転生者と天使のおかげで、ルートが既に歪んでいるから、この世界のアタシもアタシの家族も無事だって事ですもの」
それは。
家族を想う聖女の、清らかな心。
喪服令嬢が、あ……っと声を漏らす。
鋼鉄令嬢アンドロメダ。
その目尻に、温かい涙が浮かんでいたからだろう。
「良かった――みんな、無事なのね」
自分が偽物だからこそ、理解したのだろう。
本物の自分たちはゲームとは違う。
創造主達の”神の悪戯”によって酷い目には遭っていない。
それが分かったからこそ。
彼女はとても美しい顔で、無事を祈って天を仰いだのだろう。
「アタシの記憶にあるのは何度も何度も繰り返し闇落ちさせられ、何度も何度もプレイヤーに殺される記憶。幾人の人がアタシを殺したのかしら。幾人の人がアタシを討伐したのかしら。記憶もあいまいなの。ねえ、知っているのなら教えて頂戴。召喚獣のアタシは人間? それともNPC? 今、こうして泣いているのはアタシの意思なのかしら? それとも、設定された感情なのかしら?」
問いかけの途中で、声が止まる。
そう考えていること自体が、既にあなたの意思でしょう?
そう返そうとしていた筈だった。
けれど、様子がおかしいと気づき喪服令嬢が訝しむ。
「アンドロメダ?」
「あら? ここは――どこかしら。あら? あなた、ミーシャ姫じゃない。生きていたのね」
召喚獣を制御するシステムが働いたのだろう。
僅かな時間の記憶を忘れ、アンドロメダが、今ここで再会したかのような言葉で告げていた。
キースは、僅かに瞳を細める。
その表情にあるのは憐憫だろう。
アンドロメダが不思議そうに自らの頬を拭い。
涙の跡を眺め、その意味も知らずに告げる。
唇が、独り言のように。
蠢く。
「あら? どうして、アタシ。泣いていたのかしら。ねえ、あなた何か知らないかしら? アタシ、なぜかあなたにすこし感謝しているみたいなの。ねえ、何か知っているかしら。頭が痛いの。なにかを思い出そうとすると、誰かが邪魔するの。きっと、怒っているのね。命令に背こうとすると、怒られるのね。あら? あなた、とても綺麗な声ね。そう、このお嬢さんがあなたの娘さんを虐めていたの? 冒険者ギルドも王国も、教会も、酷い人たち全員を消したいの? もう二度と、虐められないように……そう、そうね。どうか泣かないで、クラウディア。あら? でも、あのお嬢さん、アタシをとても悲しそうな目で見ているわ。あなたのことも、悲しそうな目で見ているわ。ねえクラウディア。きっと、あの子、あなたを知っているのよ。そう。でも。分からないわ。悪い子だっていうのは知っているけれど――アタシ、ちょっと聞いてみるわね。ねえ、あなた――アタシってなんなのかしら。何か知っているのかしら?」
血の鋼鉄令嬢。
その周囲を取り巻く邪悪で神聖な気配が、あの子を助けたいのと纏わり嘆く。
その邪悪な気配こそがアンドロメダの召喚主。
ギルド本部に盗まれた聖遺物。
邪神クラウディア。
聖コーデリア卿の母なのだろう。
とても不安定だった鋼鉄令嬢アンドロメダ。
召喚獣としての彼女は、召喚主の命令にあらがえない。
その揺れる体と心を眺め――男が言う。
「お嬢様――」
「ええ、分かってる。元凶のあたしが言えた義理じゃないけど……もう、休ませてあげましょう」
「どちらを」
「決まっているでしょう――両方よ」
執事と喪服令嬢は――それぞれの武器を掲げた。




