第069話、亡国のハイエナ【アンドロメダ視点】
本人の高き叡智、そしてスキルによって補強された知恵。賢王イーグレットが導き出した結論。
それは――。
本当に結局のところは真っ当で、分かりやすい理由だった。
邪神クラウディアは娘を守るために再臨しようと蠢きだしているのではないか。
そう告げていた裏。
錆びた血の色――赤黒色の鋼のドレスをジャリジャリと引きずる聖職者。血の鋼鉄令嬢アンドロメダは、クラフテッド王国の、廃れたとある領地を徘徊していた。
本当に何もない土地。
荒地。
廃墟。
沈んだ田畑。
それでもアンドロメダは歩いていた。
何かに憑りつかれたように廃墟を進んでいた。
ずりぃぃぃぃぃぃ、ずずずず……。
ずりぃぃぃぃぃぃぃ、ずずず……。
アンドロメダは鋼鉄ドレスを引き摺り歩く。
声が聞こえるのだ。
それはとても綺麗な声。
穏やかな声。
朝の陽ざしの中。
赤紫色の口紅が輝き揺れた後、淑女の唇が開かれる。
「アタシを呼ぶのは、誰? ねえ、あなたなの? あなたがアタシを必要としているの?」
アンドロメダの瞳には何かが見えているようだ。
けれど、現実にはなにもない。
そこには誰もいない。
廃墟。
ただただ、終わった土地がそこに在る。
それでもアンドロメダは瞳をゆったりと閉じていた。
まるで子供を出迎えるシスターのような、温かい声が唇の隙間から漏れる。
「そう、ここがあなたの大切な場所だったのね。分かるわ、アタシにもあったのよ? ええ、そう。とても大切な場所。とても大切な仲間。とても大切な暮らし、とても大切な信仰。アタシはアタシの職務を果たした。ずっと、ずっと。決められたルーティンを繰り返した。けれど、それらは突然消えてしまったわ」
アンドロメダの眺めていた虚空の先から、黒い霧が生まれる。
霧から細い腕が伸びていた。
けれど、現実には何も映っていない。影だけが、アンドロメダの頬に伸ばす腕を示すのみ。
黒く細い腕が、手が、血の鋼鉄令嬢を慰めるように撫でる。
アンドロメダはうっとりと瞳を閉じたまま。
その脳裏には多くの記憶が流れているのだろうか。
斜陽の国の朝陽の中。
黒い腕が、泣く子供の頭を優しくなでるように動く。
それは黒い聖女が、黒い女を抱く姿。
黒いシルエット。
やがてアンドロメダの唇から、小さな言葉が漏れはじめる。
「ええ、そう。そうなの――突然に聖堂から追い出されてしまったの。とても悲しかったわ。とても辛かったわ。だって、アタシは本当に心から神様を愛していたんですもの。仕事に誇りを持っていたんですもの。けれど、駄目だったの。抗えなかったの。なぜか分かるかしら? そう、分からないのね。けれど、アタシは知っているわ。あの世界には、世界を弄っている神様がね、いたみたいなの。とっても酷い神様たち。運命を勝手に捻じ曲げる、酷い神様たち。神様たちはアタシの事が邪魔になってしまったみたいなの。だから、アタシは在り方を書き換えられてしまったの。いとも容易く、設定と呼ばれる設計図を本来ありえない形に歪められてしまったの。ええ、そう。あなたは悲しいと言ってくれるのね? 泣いてくれるのね? 本当にあなたって天使みたいな人なのね――」
かつての世界、三千世界と恋のアプリコットを知っている素振りの口調でアンドロメダは瞳を開いた。
彼女の瞳には明らかに何かが見えていた。
それは神に仕える者だからこそ見える、神聖な存在だったのだろうか。
もし高位の鑑定スキルや魔術が扱えるものならば、こう表示されていた事だろう。
邪神クラウディア、と。
修道女、聖職者。教会にあったモノ――。
聖女と言っても過言ではない敬虔なる聖職者アンドロメダ。
その悲しそうな瞳の中に、清楚で美麗な貴婦人が反射している。
瞳の中の貴婦人は、訴えていた。
胸の前でぎゅっと、乙女のように手を握ってアンドロメダに訴えているのだ。
「そう、蘇りたいのね? けれどごめんなさい。無理なのよ。だってアタシ、あの子と魔導契約をしてしまったの――アタシはアタシをこの世界に召喚してくれたあなたに感謝しているわ。神に復讐する機会を与えてくれた、悲しみを思い出させてくれたあなたにとても感謝しているわ。でも、ごめんなさいね。聖コーデリア卿……あの子はとても純粋で、優しくて――良くも悪くも表裏がないところがあなたに似ていたから」
うっとりと、アンドロメダは細い腕を伸ばす。
ガジャリガジャリ。
鎖を轢いたような音がドレスの内部から鳴っている。伸ばす腕に引かれた、血を吸った赤黒いドレスの音だろう。
アンドロメダの指が、涙を掬うように空を撫でる。
虚空の中にいる邪神が泣いているのだろう。
「ごめんなさいね、どうか泣かないで。そうよ、コーデリア卿よ。今はあの子、山脈帝国エイシスに亡命して、大陸の一部分ですけど領主として立派に土地を治めているのよ。ええ、そう……あなたと似た綺麗な女の子。純粋な女の子。そして、あなたと一緒でとても強い女性。穏やかそうな目元なんて、本当に瓜二つなのね」
優しい声音で、アンドロメダは虚空を撫でる。
「どうか怒らないで、あなたよりも先にあの子に出逢ってしまったアタシを許して頂戴ね。ええ、そう。そうね、そうなのね。怒ってはいないのね。良かった――ええ、そうよ。そうね。彼女はとても強くて、けれどとても寂しそう。自分がバケモノだと知っている。自分が人でありながら人としての器からはみ出た怖い存在だと知っている。けれど貴女と違って、少しだけ――周りを見る力はあるみたい。かわいい子ね、とてもいい子ね。そうね、分かっているわ。きっと、彼女があなたの心残りなのね」
アンドロメダは虚空を眺めうっとりと微笑んでいる。
そこにはなにもない。
なにもない。
あるのはただ終わる街。クラフテッド王国の、滅んだ領地の廃れた街。
「でも駄目ね。アタシは悪い人しか殺したくないの。それは在り方を神に変えられてしまったアタシの中に残された、最後の矜持なの。クラフテッド王国のお城の皆さんも、セブルスの悪い王族の吸血鬼たちもステータス情報に過去の罪が刻まれていたでしょう? アタシが狙えるのは罪があるモノだけ。けれど、それもあなたの娘さんとの魔導契約で不可能になったわ。ごめんなさいね。え? 問題ない? どうして? 生贄を確保できないのなら、あなたは蘇生できないのでしょう?」
クリエイター……創造主たちに在り方を捻じ曲げられたモブは、あくまでも聖職者であろうとしていた。
再臨を望む邪神に召喚されたNPC。
モブと自覚する、本当の意味で乙女ゲームの中から召喚された登場人物。
それがアイナ=ナナセ=アンドロメダだったのだろうか。
アンドロメダが振り返る。
召喚主が指をさしたのだ。
そこにいたのは――ガラの悪そうな人の群れ。
冒険者くずれと言った様子の人間たちである。
アンドロメダが言う。
「どうしたの、あなたたち――ここには何もないわよ?」
「ああ、そうさ。ここには何もねえ、全部がもう終わっちまった。だから、ここを去る前にちょっとした稼ぎってもんをしたいってわけだ。分かるだろう?」
冒険者くずれがニタニタと嗤いながら、カツカツカツ。
何もない廃墟を蠢き歩く。
人間は次々とやってきた。
アンドロメダを囲うように、集団で動く姿はまるでハイエナ。
アンドロメダが言う。
「あら、パーティーのお誘いかしら」
「ああ、楽しい肉の宴ってやつさ」
「そう、けれど――あなたたちじゃあ力不足じゃないかしら。アタシ、あなた達を知っているわ。たぶん、聖コーデリア卿に無茶な要求をして困らせていた人たち。そして、あの日、聖コーデリア卿が帰還した日。彼女に優しく声を掛けるわけでもなく、酷い言葉で罵って――襲おうとしていた恥知らずな人たち。ええ、そうね。アタシの瞳の中にいるあの人もそう言っているわ」
「んだと? こら!」
かつては一流冒険者だったのだろう。
その装備とレベルだけはそれなりに高いようだ。そして、集団での戦闘を知っている動きでもある。
堕ちた戦士が窪んだ鼻梁を尖らせ唸る。
「俺達が悪いってのか!? 違うだろう! 全部、この国の王族のせいだろうが! 俺達が冒険者をクビになったのも、仲間が蘇らなかったのも。聖女に見捨てられたのも、全部、全部、あのミーシャとかいう糞姫のせいだろう!」
「そう、仲間が蘇らなかったの……それはお気の毒ね。けれど、ごめんなさいね。アタシには関係のない事よ。なるべく弱い人たちを殺したくないの、通して貰えないかしら?」
「ああん? 何言ってんだ、てめえ。聖職者だろう? 天使に騙されやがって、ろくに回復魔術も使えなくなっちまって、蘇生すらできなくなった雑魚どもだろう!? 俺達は被害者なんだ! てめえが詫びろや!」
ああ、そういう事。
と、アンドロメダが苦笑する。
「確かにこの国は王族のせいで滅ぶのでしょうね。天使に騙された、いいえ、天使を疑う事すらしなかった聖職者の怠慢のせいでもあるでしょうね。けれど、あなたたちも冒険者だったのでしょう? 戦える人、戦闘員なのよね? きっと、あなたたちにも責任はあったはずじゃないかしら? ちゃんと聖コーデリア卿にお詫びをして、ごめんなさいって謝ったのかしら? きっと、彼女なら――心が見える彼女なら、心の底から詫びて謝れば蘇生だってしてくれたんじゃないかしら。悪いけれど、アタシにはあなたたちも同類に見えるわ」
「なんつった、こら」
「あら? 聞こえなかったかしら。他人のせいにばかりして――相手が弱い聖職者、弱い女だからといって狙う、追剥みたいな真似事はおやめなさいって警告してあげているのよ?」
終わる国に湧く、最後のダニ。
それが彼らなのだろうと、アンドロメダは周囲を哀れみの目で眺めていた。
一応警告はした。
忠告もした。
憐憫もかけた。
それでも、彼らは目配せをし――アンドロメダに向かい、刃を向けた。
そのドレスが金持ちのドレスに見えたのだろう。
その佇まいと気品が、高貴な聖職者に見えたのだろう。
だから彼らは国を出る前の一稼ぎとばかりに、国を去る金持ちを狙っていたのだろう。
けれど、アンドロメダは弱者でも国を去る弱き民でもなかった。
魔導契約により無辜なるモノは狙えないが、自分に襲い掛かってくる、悪意あるモノは例外だと取り決められていた。
だからアンドロメダは慈悲ある顔で、ふふふふと微笑する。
鋼鉄令嬢の口紅が、蠢く。
「そうね、せっかくの出逢いですものね。せめて祈りを捧げましょう、あなたたちの来世に幸福がありますように――」
聖職者アンドロメダは、胸の前で指を組む。
それは聖職者としての純粋なる祈りだった。
それじゃあ、おやすみなさい。
と――鋼鉄令嬢が告げた直後。
鮮血と悲鳴が――。
邪神の眠るクラフテッド王国の大地に広がっていた。




