第057話、恩寵―悪を滅ぼす光―【ミーシャ視点】
吸血鬼たちを中心としたアンデッドが支配するようになったセブルスの街。
廃棄された聖堂。
その地下深く――壁の至る所には、古き神を象った壁画が刻まれている。
ここは隠し通路の奥。
隠された階段を下った先には、川を渡り集うホタルにも似た光が広がっている。
魔法陣の明かりだった。
聖堂の底で祈りを捧げ――古き吸血鬼たちを退ける結界を習得するのはダークプリンセス、黒髪乙女のミーシャ。
全身黒の喪服、世間に見せる顔もないとばかりに容姿を覆うヴェールが光の中で靡いている。
ここでもかつては聖職者達が祈りを捧げていたのだろう。
乙女ゲーム「三千世界と恋のアプリコット」において、神に祈ることによって得られる恩恵は様々にあった。
一番の恩恵は新たな魔術の習得だろう。
ゲームが更新され魔術が追加された時、どこでそれを習得するか。課金が関係する案件という事もあり使われた施設は、教会や寺院。
独立した機関。
それは現実となったこの世界でも同じ。
だからミーシャは魔術習得のために祈っていた。
並よりは強い、けれど転生者としては弱いとミーシャは自覚をしていた。アンドロメダよりも弱いという戦力差を現実的に埋めるため、新たな魔術を習得することはけして間違った選択ではなかっただろう。
邪や敵意を払う結界は攻撃にも転用できる、それは先日戦った強敵アンドロメダ自身が証明していた。
黒衣の姫――喪服にも似たヴェールの下。
ミーシャの唇が動く。
「神よ――汝の叡智を我が手に――」
寺院の床で、魔法陣が回転する。
同時に――代価である金貨が溶けて天へと吸い上げられていく。
祈りとされているが理論を辿ればこれも魔導契約の一種。金という対価で、魔術を買っているのだ。
スキルも魔術も特技も、全ては結局同じもの。
魔力と呼ばれる非現実的な力をどう加工し、どう具現化させるか。
その差でしかない。
ミーシャは既にそれを知っていた。それは魔術師としてのレベルが上がっている証拠でもあった。
祈る手に、魔術文字が吸い込まれていく。
魔術名が肌に刻まれ、透けていく。
そうしてそれは言葉となって、口から紡がれた。
「”聖十字の障壁Ⅲ”」
光の障壁が、床から浮かび上がってくる。
魔術習得も、発動も成功だった。
それは闇属性ではない聖なる属性の結界。
闇の矢や、闇の魔弓などの闇系統の魔術を多く習得していたミーシャが、回復系統ではない聖なる属性の魔術に分野を広げようとしているのだ。
邪神が再臨してしまった場合の対応策の一つでもあるのだろう。
「ま、こんなもんかしら……次に必要なのは……」
攻略サイトを保存してあるスマホを取り出し、次の情報を探っていた。
邪神再臨だけは食い止めなくてはならないと、彼女は知っていたのだ。
ただ、もし邪神がこの地に蘇生されたとしてもミーシャはキースのみに協力を仰ぎ、他の勢力の手を借りずに対応すると決めていた。
彼女は邪神の正体を知っていた。
「絶対に、あたしがなんとかしないと……」
漏らす吐息は白く濁っていた。
寒さで息が僅かに凍っていたのである。
言葉自体も昔の彼女を知っている者なら、白々しいとせせら笑ったことだろう。
それは彼女自身も自覚していた。
それでも前に進むと決めたのだ。
だから彼女はスマホを操作し続ける。
黒い手袋ごしであってもスマホの画面が操作できるのは、魔力で動くようになっているからか。
「魔力って本当に便利よねえ、まだあたしがミーシャじゃなかった世界でも、そういうのって実はどこかにあったのかしら」
呟くミーシャは違和感を覚えた。
闇の中、魔力で起動するスマホの画面に照らされた乙女の顔が揺れる。
音がしたのだ。
情報を探る手を止めて、黒鴉姫ミーシャが振り返る。
「誰!?」
ミーシャは訝しんだ。
けれど気のせいではない。
階段を下る音は確かに聞こえている。
廃棄された寺院跡だからだろう。
誰かが上を通るたびに、天井から埃が落ちてくるのだ。
饐えた土の香りが、ミーシャの鼻孔をキツく刺す。
ミーシャは考える。
偶然入り込んだ? ありえない。ならば自分を探している何者か。
と。
しかし基本的に寺院や聖堂はアンデッドが入れぬ場所、更に聖十字の障壁が発動された聖なる場所なのだ。
それにそもそもだ、ここは隠し通路の奥。誰も入れないほどに入り組んだ、地下聖堂の筈なのに。
ならば入ってこられるものは、ここを知っている者。
ミーシャは問う。
「キースなの?」
説明はしなかったがあの従者ならばこの場所を把握している筈。把握していなくとも、その能力でミーシャの居場所は特定できる。従者と主人。職業としての主従関係は、時にそういったテレパシーにも似た意思疎通が可能なのである。
それを利用し戦闘中に連携をとれるのだが。
今のキースならば間違いなく返事をする。
声を掛けられたことを喜び、頼りにされたことをどこかで嚙み締め――美麗なモブは苦く微笑むようになっていた。
だが。
返事はない。
それが答えだった。
魔術習得を焦って迎撃をキースだけに任せたのは判断ミスか。
手の先に闇の魔弓を発生させたミーシャは、音の方向を見上げる。
カツリカツリ。
甲冑の音が続く。
盗賊や狩人などが扱う斥候スキルや、それに類似する魔道具を使わぬその傲慢さはおそらく、騎士系統の職業にあるものか。
ミーシャは鑑定の魔道具を発動させた。
職業は――。
聖騎士だった。
◇
階段を下りきった聖騎士は、祈りを捧げ終わった乙女を眺めていた。
それは互いによく知った顔だったのだろう。
スマホに浮かんだのは出現した敵情報――その聖騎士の名は。
ミリアルド=フォーマル=クラフテッド。
ミーシャ姫の実の兄。
再会は突然だった――けれど、それは喜ばしい再会ではないと両者は知っていただろう。
地下聖堂を照らすヒカリゴケが映し出していたのは、神を祀る彫像。
美しき神々の像。
そして、共に育ってきた兄の顔。
ミーシャは気付いたのだろう。
兄は自分を殺しに来たのだと。
兄の手に握られている剣は、王族殺しの聖剣ガルム。
悪しき王族に対し強い特効エフェクトを持つ、猟犬牙を模して作り出された聖剣である。
当然だと少女は思った。
けれどまだ死ねないとも思っていた。
それは身勝手な自分可愛さではなく、邪神再臨に対抗する手段をまだ用意できていないという、まっとうな理由である。
どうするべきか。悩む中。
転生者としての知識を活かし暴虐を尽くしたミーシャが言う。
「兄さん、どうしてここに」
「罪人よ――貴様に兄と呼ばれる謂れはない」
声は刃よりも鋭かった。
兄の顔は既に他人同然。
殺意と敵意を滲ませた美形が、かつて心の絆を結んだ妹を睨んでいた。
ミリアルド皇太子が言う。
「情報通り、本当にお前はここに潜伏していたのだな――ミーシャ、いや、反逆の姫。堕ちた神子よ」
「――そう、兄さんはあたしを殺しに来たのね」
「兄と呼ぶなと言っているだろう――」
妹の肩は揺れていた。
それは怒りや恐怖ではなく、嘲り。
悪女は悪女らしく振る舞う。それが今の彼女の礼儀だと彼女は思っていた。
もしこの場で殺されるのなら、それでもいい。
自分の身に施した儀式が発動されると知っていた。
それは盟約の継承。
ミーシャは自分を殺した者に、自分が異界の神々から受けた恩寵を受け継ぐ儀式を行使済み。保有していた課金アイテムを使ったので、間違いなく儀式は発動されるだろうと信じていた。
受け継がれる恩寵とは、使命。
それはこの世界のために、天使を全てどうにかする。
異界の神々が観察し、賭けとしている遊戯の継承者に強制的に選ばれるのだ。
もちろん、弱きモノが継承した場合にも抜け道はある。
誰かほかの人に、自分よりももっと強い、天使をどうにかできる存在にその恩寵を継承することができるのである。恩寵で得られるのは全ての天使を無害化させる使命だけではない。
同時に、褒美も継承される。
ミーシャの場合は自分が犠牲にしてしまった、無辜なるモノたちを蘇生させること。そして、被害を受けた存在に、被害に遭った以上の幸福の加護を与えることにある。
恩寵を継承した者は、それと同等の願いまでなら叶えることができるのである。
ミーシャの願いは重い。
どの世界にも蘇生にはさまざまな条件がある――だが、その願いはそれらすべての蘇生条件を無視した奇跡。それと等価となると、ほぼ全ての願いを叶えることができるだろう。
それこそ世界を一つ支配する、という願いさえ叶えることができるだろう。
恩寵を受け継いだものには、前任者……今回の場合ならばミーシャの情報も与えられる。
事情も正確に伝わる。
なので自分で天使をどうにかできないと思えば、他人にこの恩寵を授ければいいだけなのだ。
ミーシャは兄を見る。
兄なら……いや、おそらくは力が足りないだろう。
それでも兄なら、全てを知った上で――天使を倒せる誰かにこの恩寵を継承してくれる筈。
だから。
悪役令嬢ミーシャは武器でもある烏羽の扇を召喚、かつての自分の声で言う。
「そうね、あたしはもう排斥された女。あなたを兄と呼ぶ資格もないのでしょうね。けれど、あんまりじゃなくって? クラフテッド王国は今まで散々にあたしを神子と讃えて、あたしの知る未来に沿って甘い蜜を吸い続けた。あたしは確かに悪人だけれど、あなたたちもそう変わらなかったでしょう?」
女は妹の顔ではなく悪女――悪役令嬢の顔で応じていた。
転生者としての魔力が魔法陣にも反映され、煌々と照り始める。
黒衣を纏い、黒き扇を握る悪女はさぞや悪い顔に見えただろう。
対する兄ミリアルド皇太子は白銀鎧に身を包み、カチャリと聖剣ガルムを構え。
攻略対象としての美貌を輝かせる――。
「これは王命だ――そして我が意志でもある。散っていった我が国の民のため。貴様の命、譲り受ける」
「あたしの命を?」
そんな魔術に心当たりがあったのか。
くくくっと悪役令嬢ミーシャが嗤っていた。
「あたしよりも弱いあなたが?」
挑発である。
ここで死ぬのならそれでいい。
思いを託すのなら、兄でもいい。
むしろ自分よりも兄の方が罪は軽い。
ただ愚かな妹の口車に乗せられ、操られていただけなのだから。
世界的に指名手配されつつある自分よりも、兄ミリアルドの方が動きやすい筈。
ミーシャは思った。
ああ、そうか。
あたし、ここで終わりにしていいんだ、と。
役目を担った兄はこれからきっと、大変な思いをする。ミーシャが見聞きした、生まれる前から今に至るまでの全ての情報が流れ込んでくるだろう。
途中から改心……いや、ほんの少し心を変えた妹の行動を知ったとしたら兄は泣いてくれるのだろうか。
ミーシャは考える。
天使に騙された可哀そうな妹? いいえ違うわ、やはり同情はされないでしょうね。だって、選んできたのはあたし。非道な行いをしたのもあたし。ゲームだからといって、なにをしてもいいと無辜なる人々を虐げていたのは自分自身。
遺族たちに謝罪をしたのか?
していない。
直接に会って、詫びたのか?
していない。
世界のために天使を追う、そんな言い訳ばかりを先に浮かべて――被害者たちと向き合うことをしてこなかった。
兄の聖剣ガルムが吠える。
悪を討つ聖なる光となって、突き進んでくる。
結界が破られた。
魔術波動が浮かぶ中。
轟音の中。
届かぬ声が、ミーシャの口から紡がれる。
「ああ、ずっと――あたしは責任から、罪から逃げていたのね……」
今だってそうだ。
兄の方が、全ての天使を無害化させるのに適していると、自分の命を諦めていた。
こうして自分が楽になる道を選んでいるのだから。
だからミーシャは思いを心に残した。
継承される恩寵と同時に、声が聞こえますようにと。
それは呪いにも似た、本音であり。
遺言だった。
それも、前に死んだ時と全く同じ、遺言。
結局、生まれ変わっても何ひとつ変わっていなかったのだと少女は思った。
少女の身体が、聖なる光に包まれる。
悪を滅ぼす聖剣の光に消えていく。
遺言は言葉とはならずに、魔力の中に沈んでいた。
彼女が残した言葉――それは。
たった一行の言葉。
けれど、彼女が人生を振り返って、何度も思ってきた言葉。
生まれてきてごめんなさい――。
と。
世界に対しての、懺悔だった。
その筈だったのに。
「ごめんなさい、キース……」
口からは違う言葉が零れていた。
言った瞬間。
彼女はハッとした。
この死もまた、身勝手な死だと。
キースを置いて逝ってしまう、無責任な自分に気が付いたのだ。
瞳が揺れた。
泣いている、あのモブ男の顔が見えた。
それは、このままだと起こってしまうだろう未来。
生まれてきたことを懺悔するより先に、やらないといけないことがある。
どれほど謗られようと。
なじられようと。
生きる義務が自分にはある――。
だから――。
罪人ミーシャは光に包まれながらも、詠唱した。
生きなければならないと、強く願った。




