第055話、遅すぎる告白
かつては荘厳な管楽器が鳴り響き、栄華と繁栄を象徴させていただろうクラフテッド王城。
斜陽と共に沈んでいく国家。
その皇太子の一室と通信魔術の鏡を用い連絡を取っていたのは、美しき栗色髪の乙女。
聖コーデリア卿。
鏡の中。
かつてより傷が増えた美男子、孤狼を彷彿とさせる聖騎士ミリアルド皇太子が鋭い瞳を和らげ――言う。
「ミーシャが死霊たちの街セブルスにいる……か。コーデリア、君を疑うわけではないがその話、というよりもその女は信用できるのか?」
「少なくとも嘘をついていないことは感じ取れましたわ」
血の鋼鉄令嬢。
血塗られた二つ名でありながら、アンドロメダと相対した時にコーデリアが覚えた彼女への印象は「穏やか」だった。
望まず堕ちた聖職者としての側面が強く出ていたと感じていたのだ。
だからコーデリアは迷っていた。
ミーシャの事でも悩んでいた。
こうしてミリアルド皇太子と連絡を取っていた。
血の鋼鉄令嬢、アイナ=ナナセ=アンドロメダが残した魔導契約書。
魔導契約とは魔術によって取り決めた事柄を厳守させる、一種の儀式魔術。
そこに記されるのは、抗えない盟約である。
アンドロメダは魔術的な意味でも誓ったのだ。無辜なるモノは襲わない。襲うのは罪あるものだけだった、けれどこれからはさらに対象を絞る。
襲うのはかつてクラフテッド王国の王族であり、排斥された姫。
黒鴉姫ことミーシャ=フォーマル=クラフテッドに限るとされた契約である。
鏡に向かい契約書を映し。
コーデリアの唇から紡がれるのは、あくまでも事実を伝える声。
貴族令嬢としての声音を漏らしていた。
「この契約は正式な魔導契約の条件を満たしております、つまり、アンドロメダさんはこれからミーシャ姫しか殺すことができない。むろん、アンドロメダさん自身に害をなしたり、ミーシャ姫を殺すことの邪魔をしなければですけれど」
アンドロメダを襲えば反撃されるということである。
「魔術について私は君よりもはるかに知識で劣る。その契約。本当に大丈夫なのか? 契約を悪用し、わざとミーシャを殺す邪魔をさせて他の者を襲うという可能性も」
「そういった部分も悪用しないと明確に記されておりますので、ありえないかと」
「そうか――」
「ですので――彼女の強襲により、王城で皆殺しにされてしまったクラフテッド王国のお城の方々の心さえ大丈夫でしたら、もうこの案件からそちらの王国は手をお引きになられても問題ないかとは存じます。心情的な意味では、復讐を望まれている方もいるのではないかと思いますが」
「ただ、敵対行動を取れば」
「はい、契約は無効化され、彼女はあなたがたを狙えるようになる、とだけは――」
そんなリスクを追って、格上を追う必要があるかどうか。
国としての答えはもはや決まっているだろう。
だが。
「ミリアルド殿下、ミーシャの件ですが……」
「分かっている――だが、その前に王族としての私が君に質問をしたい。構わぬか?」
「イーグレット陛下から、ある程度は協力せよと言われておりますので――」
「……終わる国だからか」
「忌憚なき意見を申し上げさせていただくのならば、そういうことでしょうね、協力を断り変に逆恨みされても困るという意味合いも大きいのでしょう。本当ならアンドロメダさんにあなた方が殺された時、見捨てていれば……我が国としては都合が良かったのでしょうが」
そのまま民を救助するという名目で、山脈帝国エイシスがクラフテッド王国を吸収できたのだ。
「すまぬ、王族としての質問の前に聞きたいことができてしまった」
「殿下?」
「我等は、私たちは……私は。君に酷いことをしてしまった。それなのにどうして――助けてくれたのだ」
コーデリアは鏡という通信手段を使っているからこそだろう。
心をなんとなく知ってしまうという能力を使わずに済む、今だからこそ――。
隠さず本音を語る。
「もはやクラフテッド王国は捨てた国。そしてわたくしを捨てた国。どうでもいいと思う事も多いのです。たとえば王の護衛である方々の、おまえが全て助けろと絡みつくあの嫌な視線と心も。わたくしに怯え、内心ではすぐに消えて欲しいと願いながらニコニコと微笑む給仕の方々や、隙あらば殺してやると睨む騎士の方々の心が……わたくしを眺めておりましたから」
「おまえは、やはり……心が読めるのか」
「いいえ、少しだけ違いますわ殿下。読めるのではなく、勝手に流れ込んでしまうのです。読みたい時にだけに制御できているのなら、わたくしはもう少し器用に立ち回ることができたのではないかと、自分で言うのはおかしいですが……」
思い当たることが多々あったのだろう。
子供の頃。
コーデリアとミーシャとミリアルド。
彼らは長く共にあった。
コーデリアが言う。
「幼い頃のわたくしはいつも思っておりました。なぜ人は、笑顔を張り付けたまま心の中で他人を罵倒できるのか。なぜ喋る言葉と、心で漏らす言葉が一致しないのか。それが分からなかったのです」
「……。では、私が昔から君に抱いていた思いも」
「はい、殿下はわたくしを少し歳の離れた子供としてですが、好いておいででした。けれど、次第にその心は移り変わり、いつしかわたくしを嫌うようになってしまわれた。他の方々もみんなそうでした。わたくし、なぜ自分が嫌われたのか分からなくなってしまいましたわ」
それはおそらくミーシャの嫉妬。
そして――。
心が読める上に、腹芸のできぬコーデリア自身の純粋さのせい。
コーデリアは昔を思い出す。
子供であるにもかかわらず、大人よりも奇跡を使いこなせる聖女。貧乏領地のなんでもできてしまう薄気味悪い子供。けれど、奇跡は利用できる。悪用できる。領地の大人たちはコーデリアに頼みごとをした。
もっと、もっと。
無償で、ただで。
お前の父親のせいで、この土地は貧乏なのだと。領主の責任は娘の責任だ。だから、もっと奇跡を寄越せと。
だからコーデリアは聞いたことがある。
群れ集う領民。大人たちに、純粋な心で問うたのだ。
あなたがたはわたくしを畏れ、嫌っている。なのにどうして、それほどのウソの笑顔をいつも浮かべていられるのですか?
と。
彼らは笑顔で言った。
お嬢様を嫌うはずありませんと。
キラキラとした純粋そうな顔で。
心では、バケモノの娘と罵りながら。
コーデリアには分からなかった。
人の心がまったく、分からなくなってしまった。
成長するにあたり、心が徐々に大人へと近づくにあたりコーデリアは処世術を身に付けた。いつも笑顔を張り付けていれば、人は騙せる。だからホワホワとした天然な、愚かな乙女を演じるようになっていた。
いつしかその演技は本物となり、今の人格を形成したのだろう。
ほわほわな天然乙女。
その誕生には、泥よりも醜い大人たちのウソと本音がかかわっていた。
そして、コーデリアはますますミーシャ姫に依存した。
心を読めない。心を読まなくても済む、歳の近い友達。
けれど、ミーシャもミリアルドもコーデリアの傍から離れてしまった。
そのきっかけは、おそらくはコーデリアにもあった。
「好かれていた人に嫌われていく、傍にいてくれた方の心が離れ、手の平から零れて消えてしまう――わたくしは離れていく方々の心を必死に掴もうと、愛されようと、見て貰おうと――できる限り、懸命に働きましたわ。けれど、精いっぱいの貢献をしようと奇跡を振る舞う度に、わたくしはますます嫌われてしまうのです。人は力を畏れ、敬うと同時に妬む生き物……だからなのでしょうか。そしてわたくしは……人の心の機微を感じ取ることが苦手でした。だから、全てが空回りをしてしまう」
それは――今まで言えなかったコーデリアの吐露だった。
いつもニコニコほわほわ。
微笑みを絶やさぬ聖女の、誰にも口にしたことのない心だった。
「それでもミーシャの心だけは、わたくしには読むことができなかった。きっと、彼女が転生者だったからでしょうけれど。だからわたくしは、彼女を追い駆けた。その背中を、その心を。裏が読めない、読まなくてもいい友達がわたくしにはとても綺麗なモノに見えたのでございます」
コーデリアの微笑みの仮面が、僅かに軋む。
張りつけていた天然で愚かな娘としてのコーデリアではなく、かつてまだ、人間味の深かった、傷つくことを知っていた少女の顔が飛び出してきたのだ。
友に裏切られ、婚約者に裏切られ。
領民に裏切られ――それでも泣くことができなくなっていた、強く悲しむことさえできなかった――強き乙女になる前の乙女。
聖少女コーデリア。
通信鏡の中。
皇太子ミリアルドは知っていただろう。
今のコーデリアの悲しい微笑を、よく、知っていただろう。
それがまだ、どこか心がいびつになってしまう前のコーデリアなのだと。
「わたくしは……正直に、生意気に打ち明けますと――わたくしの半生は、彼女にだいぶ狂わされたと思っております。本当は思っても口にしてはいけない、責任転嫁なのでしょうけれど。でも、こうも思うのです。わたくしもまた、彼女を狂わせてしまったのではないか……と。人間世界と一定の距離を置き、魔物の皆さまに囲まれて平和に過ごす今になって、思う事がふとあるのでございます」
「コーデリア……」
「わたくしは、殿下やミーシャに好かれたくて、多くの奇跡を披露しました。けれどそれはおそらく、ミーシャの心を傷つけていたのでしょう。ミーシャのお城に招かれた時、わたくしは多くの兵士の言葉を聞いてしまいましたの。辺境貴族の聖女は奇跡をみせた、けれど姫はどうだ? 回復魔術が使えると言っても、あの辺境貴族の聖女の方が腕は上。しかも無償だ。ああ、ミーシャ姫も腕が悪いわけでもないのだ。けれど、所詮は二番手……、そんな言葉がわたくしには聞こえておりました」
もはや遠き過去の事。
捨ててしまった思い出の話。
「わたくしは、ミーシャに言いましたわ。手を抜いたほうがよろしいでしょうか、と。子供だったわたくしは親切心からそう言ってしまったのです。それが、ミーシャのプライドを踏みにじる言葉だったとは、当時のわたくしは本当に思っていなかったのでしょうね」
ミーシャが道を踏み外したのは――天使の存在に頼るようになったのは、おそらくはその頃から。
そしてミーシャはミリアルドをそそのかすようにもなり。
コーデリアとミリアルドの仲も、疎遠となっていく。
もう、戻ることはない過去。
取り返すことも、取り返す気もない過去。
コーデリアは遠くを見ていた。
本当に、美しい面差しで……誰よりも気高い美貌と心を持つ乙女だからだろう。
その姿はとてもよく栄えていた。
もしそれなり以上の画家が今の彼女を絵にしたとしたら、それはきっと、実力以上の名画として世に名を残したことだろう。
それほどに――美しく、そして悲しい微笑だった。
しばらくして。
微笑から木漏れ日を生み出すように。
コーデリアが言った。
「ミリアルド殿下。当時のわたくしはおそらく――殿下をお慕いしていたのだと思います」
慕うと告げる。
それは、貴族の女性が相手の男性に好意を寄せている事を告げると同義。
けれど――それは。
過去形の告白。
もはや、心はそこにないという意思表示。
心を整理するための言葉だと、すぐに理解できる言葉だった。
ミリアルドは美麗な鼻梁に、ほんの一瞬だけ、シワを刻んでいた。
整った唇から。
男の声は漏れた。
「そう、か……」
「ええ、そうだったようです。あなたたち兄妹に好かれたくて、わたくしはきっとあなたがたを多く傷つけたのでしょう。わたくしがあなたがたの道を踏み外させたのでしょう。ただ――その後の王家の蛮行まで、全てがわたくしのせいだと感じるほど自意識過剰ではございません。それでもきっかけは確かに……わたくしにもあったのです。ですから、わたくしはクラフテッド王国の王城でアンドロメダさん達に殺されていた方々を蘇生させました。貸し借りを作りたくなかった、そう言っていいと思います。これがさきほどの、なぜ助けたのか――その疑問への答えでございます」
ああ、だから口にしてくれたのか。
そう納得した顔で。
言葉を受け止め、ミリアルドが言う。
「ありがとう。それではそれよりも前に口にしていた質問、本題に入らせてもらっても構わないか?」
「はい、わたくしにお答えできることならば」
「私は……ミーシャを含め、国を終わりへと導いてしまった我が王家は滅んでも仕方がないものだと思っている。私も父も、そして妹のミーシャも」
コーデリアは言葉を待つ。
「ただ、血の鋼鉄令嬢。あの者がミーシャを殺し血を吸い上げ、邪神再臨への生贄とした場合。この世界に与える影響はいかほどか、無辜なるモノを殺さないと誓った契約は確かだろうが、アンドロメダの計画を実行させて良いモノなのか、そこには疑問がある」
「そうですわね……例えばですが、邪神と言っても様々です。かつては聖なる善神と崇められていた神であっても、他国に占領され、文化を塗りつぶし同化を目的とするために悪と断定されてしまった場合。邪神であっても良き神、という可能性はありますので」
「なるほど……魔術師の意見だな」
「はい、それにわたくしの師匠も分類上は邪神ですし」
さらりと告げたコーデリアに、ミリアルドはもはや慣れた空気で言う。
「そ、そうか。それはあまり口にしない方がいいとだけは言っておく。ともあれだ、つまりは邪神であっても再臨してみなければ、世界と敵対するかどうかは分からないということだな」
「伝承には残されていないのです?」
「こちらの図書館を調べさせているがまだ情報は、そちらは?」
コーデリアは首を横に振り。
「ただ――邪神についてはサヤカさんが詳しくなかっただけなので、やはりミーシャならばその辺りも詳しいのかもしれませんわね」
「私は一度、ミーシャと会おうと思っている」
ミリアルドの顔色を読んだのだろう、コーデリアが僅かに顔を曇らせ。
「それは――アンドロメダさんよりも先にミーシャを殺し、生贄にさせないため。でしょうか」
「その可能性も検討している。しかし、鏡越しであっても心が読めてしまうのだな」
「いいえ、通信魔術では心は分かりませんわ。わたくしはわたくしの心で、殿下の心中を察したのでございます」
言葉には少しの寂しさが滲んでいた。
「そうか、すまない邪推であったな」
「いいえ、心を読めるこちらが悪いのです。相手を嫌な気持ちにさせてしまうということは、重々承知しておりますから。お気になさらないでくださいまし」
コーデリアの美しい口から紡がれたのは、他人行儀の貴族の言葉。
もはや遠い距離感。
コーデリアもミーシャもミリアルドも、皆、心も思い出も感情も離れてしまったのだろう。
ミリアルドが言う。
「今まですまなかったな、おそらく、もう二度と会う事も無いだろう」
「いつか、他国で会うかもしれませんわ」
「いや、私も妹ももはや貴女に合わせる顔などない。かつて我が国の領主の娘だった聖女、コーデリア=コープ=シャンデラー。貴殿の歩む道に祝福を。どうか幸せになってください」
相手が告げた、その直後。
通信魔術は途絶えた。
アンドロメダはミーシャを追う、ミリアルドもミーシャを追う。けれど、もはやコーデリアには関係のない話。
その筈なのに。
コーデリアは通信の途切れた鏡を見た。
泣くことも、嘆くこともできなくなった天然笑顔の乙女がそこにあった。
いつかのあの日。
ミリアルド皇太子への想いを捨て、涙消しの魔術を使ったその時に。
全ての恋心は、消え去った。
もう二度と、恋などできない。
する気もない。
それが本音なのだろうか。
愛や恋を知りたいと、天然乙女のコーデリアは語っていた。
けれど、本音は?
コーデリアには分からない。
人の心が分からない。
建前と心。
それらを使い分ける、人間たちの恐ろしい心が分からない。
怖いと感じているのだ。
おそらく、例外である師匠を除けば世界で一番強い乙女が、最も恐怖するモノ。
その名は人間。
最強の乙女は人間という生き物に恐怖を感じていたのだ。
だから。
笑顔の仮面をかぶり続ける。
「わたくしは……」
いったい。
どうしたいのか。
それは彼女自身にももう、分からなかった。




