第053話、夜駆けの不如帰【アンドロメダ視点】
鋼鉄ドレスごと腹を貫かれ、それでも影に溶け込み這って逃げる女。
アイナ=ナナセ=アンドロメダは聖職者ゆえの強大な回復魔術を行使しながら、黄昏の街を駆けていた。
一度死んだぐらいで死ぬはずがない。
それは敵も分かっているのだろう。
だから気配は追ってくる。
どこまでも。
どこまでも。
初めての敗走だがアンドロメダの心は落ち着いていた。
いや、冷静ではあったが心自体は揺れているのかもしれない。
なにしろ彼女は浮かれていた。
普段は獲物を追い詰め狩る側だった女の、その瞳が揺らいでいたのだ。
しかし、口元はいつでも笑っていた。
(あぁ、新鮮。これが追われる側の感覚なのね)
それは狂人の笑み。
狩るモノと狩られるモノ。
立場が逆転するなどありえない。
常時発動スキル、”自動回復Ⅴ”による自己治癒は完璧。どれだけ傷をつけられても、たとえ殺されても魂さえ無事ならば蘇生レベルで回復される。
だから死なない。
だから負けない。
だからどんな強敵でさえ、今までは狩ることができた。
たくさん、多くの悲鳴を感じることができた。
素敵だった。
綺麗だった。
男も女も、断末魔の叫びはいつだって正直なのだ。
けして嘘を言わない、真の悲鳴。
だからアンドロメダは血を集める時には、相手の最後の言葉を待っていた。楽しんでいた。それが彼らの人生の最後の叫びだと思うと、支配していると思うと、彼女は恍惚となってしまう。
それに彼女は思っていた。
(アタシには資格がある。あなたたちを狩る資格がある。だってそうでしょう? いままであなたたちは――)
……。
影を渡り歩く女の瞳が、とても遠くを眺めていた。
それは教会。
草臥れ廃棄された聖堂。
逃げる途中で何度も見かけた、既に廃棄された聖職者のための家。
彼女は自分がどんな存在なのかを自覚していた。
だから。
なにをしてもいい筈だ。
レベルも上がった。
目的のために必要な実力は身に付けた。
戦いにも慣れていた。
(なのに――)
壁を蹴りバネとし、その執事は猟犬のように直角的に襲ってくる。
タンタンタン。
それはあの男が壁を蹴り加速する音。
転移波動を追ってくる音。
まるで次元を渡っているようにさえ見える。
黄昏の中で――それは鋼鉄令嬢を追い続ける。
ぞっとするほどの赤い瞳は、細く締まり。
無言であるにもかかわらず、唸りさえ聞こえてきそうな獣の眼光を張り付けていた。
「ふふ――知らないの? しつこい人は嫌われるわよ」
思わず漏れたのは、歓喜の声だった。
血の鋼鉄令嬢アイアンメイデンの口元は恐怖と愉悦で揺れていた。
口に差した紅が、揺らめき詠唱する。
影渡り。
影渡り。
影渡り。
影に溶け込み、本来の実力を発揮できる夜を待つ。
(あたしの邪魔をするあなた、キースだったかしら。とっても素敵、とっても魅力的。だってあなたはアタシと同じ)
アンドロメダは影の中から上半身を出し、転移に近い高速移動をしながら振り返る。
バサリバサリと髪が揺れる。
風に靡いて、舞っている。
生きている証。
女の唇が。
告げる。
「”潜伏術式Ⅲ”――発動するわ」
袋小路に追い込まれた。
だから再び影に潜り――潜伏したのだ。
完全な姿隠しを成功させている。
これで見つからない。
後は袋小路で潜んでいるだけでいい。
単純なトリックだ。影を渡る能力であることは既にバレている。ならば袋小路であろうと影を渡り、壁を抜け、奥へと逃げると分かりきっている。
その錯覚を利用した単純な回避手段。
普通ならもう逃げきっている。
その筈なのに。
気配は立ち止まっていた。
カチャリカチャリ。
従者のベルトと、帯刀する剣の柄の音が響いていた。
周囲を見渡しているのだ。
モブだった男は、じろり。死の匂いを辿る魔狼のように、ずっと辿り続けている。
気付かれている。
その証拠に、声がした。
「どこへ逃げても、いえ隠れても無駄ですよ」
とても綺麗な声だった。
当たり前だ。
なぜなら男は元門番。何度か話しかけることになるのだから、とてもいい声を使われているのだから。
だからだからだから。
女は思わず姿を出していた。
「ああ、もっと聞きたいわ。あなたの声。あなたの悲鳴。あなたの叫び。どうしたらアタシに聞かせてくれるのかしら?」
場所を気取られている。
ならば、話してみたくなった。
水面に映る夜月のように揺らいでいた女は、影から抜け出し言ったのだ。
「ただのモブなのに。そんなに強い。アタシと同じ強くなれたモブ。それって、とても素敵なことだと思わない? あなたは――、本当になんなのかしら? アタシと同じ? いいえ、違う。けれどとっても不思議。貴方の事が知りたいと思うの。これってどういう感情なのかしら」
質問ばかりが闇夜を駆ける。
追跡者たるキースが言う。
「転生者と交わす言葉などない」
袋小路。
両面には壁。
退路は空と、引き返した先にある道。
そこには揺らぐ男が、ぞっとするほどの美貌を尖らせ構えている。
その指は既に再生されていた。
自力で治したのか、あるいはミーシャ姫が治したのか。
「あら辛辣。けれどあなたの主人は転生者なのでしょう? それって矛盾をしていると思うのだけれど」
「……。彼女だけは、例外です」
「そう、それって執着? 憎悪? なにかしら、愛だなんていわないでしょうけれど、もしも恋ならばきっとまやかしよ? だってアタシは本物の愛を知っているもの、本当の恋だって知っている。焦がれる思いも知っている。けれど――あなたたちのそれはただの傷の舐め合い、愛らしいけれど、惨めなだけだと思わない?」
返事はない。
ただその殺意だけは強く理解できる。
――お前を狩る。――お前を狩る。――お前を狩る。
――お前を狩る。――お前を狩る。――お前を狩る。
――お前を狩る。――お前を狩る。――お前を狩る。
そんな声が聞こえてきそうなドロドロとした殺気だった。
だからアイナ=ナナセ=アンドロメダは詠唱する。
声が聞きたい。
声が聞きたい。
声だけで生計を立てていられるような、そんな素敵な声が聞きたい。
あなたの悲鳴が聞きたい。
そんな欲を我慢できずに、アンドロメダは黄昏の中で魔力を浮かべたのだ。
血の色に染まった赤黒いドレスの中から伸びた白い女の腕。
その手に浮かぶ邪神魔導書が。
きしむ音を立て――開いた。
「闇魔術はいかがかしら、――”夜の不如帰”」
魔術を放った瞬間に、既に女の身体は壁の向こう。
ヒットアンドアウェイ。
どうせこの魔術では倒せない、だからこそ女は一度距離を取った。
大魔術の詠唱をする。
そのための時間稼ぎである。
”夜の不如帰”――発動されたのは不如帰の姿となった影の棘だった。
分類は攻撃魔術。
性質は投射攻撃。
鋼鉄を抉るほどの魔力の鳥が、散弾銃の如く飛翔。
対象に向かい遠距離広範囲の攻撃を仕掛ける、高位魔術である。
この魔術の優れたところは動きが直線ではない事、障害物や相手が避けた場合の軌道を追って、果肉を狙う鳥のように追撃するのだ。
だが。
壁の奥から聞こえてきたのは男の哀れな悲鳴ではなく、驚愕する姫の声。
「ちょっと!? キース! 無茶しないでって言ってるでしょう!」
「お嬢様、回復魔術をお願いします」
「回復魔術って、あなた――まさか!」
驚愕しつつも既に詠唱を始めている様子だった。
姫と従者。
彼らの絆が何なのか、それはアンドロメダには分からない。けれど既に卓越した連携が取れることだけは確かだった。
壁が――従者の剣に引き裂かれ。
ダダダダ――。
そのまま男は直進した。
「ああ、もう! 何考えてるのよっ――我、クラフテッド王家の血を引くミーシャが命じます。従者に盾を、従者に治癒の光を。”遅延回復Ⅲ”!」
攻撃魔術の直撃を受けてもソレは構わず直進してきたのだ。
影色の不如帰に貫かれ、抉れた腹筋がミーシャ姫による遅延回復魔術で再生されていく。
追撃の速度は落ちていない。
姫による遅延回復を信頼しているのか、内臓が抉られようと――男は黄昏の中を長い脚で掻き分け続ける。
血塗られた男は美しかった。
だから一瞬、惚けた瞳でアンドロメダは狂人を見てしまった。
ぽぅっと、肌が赤く染まり。
気づいたときには再び腹に従者の剣が突き刺さっていた。
「あなた、狂っているのね」
肉を切らせて骨を断つ、そんな生易しいレベルではない捨て身の攻撃にさすがのアンドロメダの肺も揺らいだ、喉から勝手に声が出た。
驚愕の吐息に声を乗せることになったのだ。
腹を突き刺されたままの女が、くすりと微笑み。
殺意で瞳を尖らせる美貌のモブの頬に手を当てる。
女の指が、男の頬骨から顎を辿り――男の冷たい唇をなぞっていた。
「素敵、とっても素敵だわ。あなた――でも、今日はこれでおしまい。黄昏と夜の中にいる限り、アタシは絶対に死なないわ。アタシを倒したいのなら覚えておいて、アタシを殺せる手段はあるってことを。だから、また会いましょう」
「また会いましょうじゃないっての!」
狂人女が影に溶け込む気配を感じ取ったのだろう。
ミーシャ姫が闇の魔弓を完全に制御し――。
風を切る勢いで――解き放つ。
シュゥウウウウウウウウウウウゥウウウウウウウウゥゥゥゥッゥ!
天使すらも滅ぼすために威力を追求した、高出力の闇属性の矢。
しかし既に女は影の中。
それは地面に突き刺さっただけだった。
完全に影となった女が、貫かれた腹の痕を撫でながらうっとりと蠢く。
「ミーシャ姫、あなたを殺して――あたしはとても素敵な声を聴くわ。あなたの悲鳴と、あなたに執着するその猟犬さんの絶望の嘆きと、そしてあの人の声」
「あの人……ですって?」
「ゲームだったここを知っているのなら、あなたも知っている筈よ。ふふ、それじゃあアタシが狩るまで死なないで頂戴ね」
気配が完全に遮断される。
もはや絶対に発見できない影の中。
アンドロメダの耳には彼らの声が聞こえていた。
「ちょっと! 本当に邪神を復活させるつもりなの!? 転生者なら、それがやばいことぐらい知ってるでしょう! ……って! もういないし――っ!」
「お嬢様、お怪我は」
「あたしは大丈夫よ、それよりもあなたよ、あなた! あぁああああああぁぁぁぁ! なんなのよ、もう! 自分がそんなにボロボロになって攻撃って」
「しかし有効な手段です」
男が淡々という。
「それに、私はお嬢様の腕を信頼していますから」
それはまるで自分が役に立つとアピールする犬。
あるいは――あなたを信頼しているから、あなたも私を信頼しろと訴える犬。
あなたのためにここまで傷つくこととて厭わない。
あなたのために、ここまでしてもいいと見せつけるような姿。
だから。
おまえもこちらをもっと見ろ。
そんな、昏い対価を要求するような、鋭い獣の瞳だった。
男の瞳はじっと、まだ少女と言える女の顔を眺めている。
けれどだ。
ミーシャ姫は、はぁ……と気の抜けた声を出し。
男の昏く湿った瞳にまったく動じず――ベシっとその美麗な頭にチョップをいれ。
「信頼って、あのねえ……ヒロイン由来の回復魔術だってタダじゃあないのよ。無限の魔力なんてない。あのクソ天使との契約が切れた今は――悔しいけどあたしは弱いの! あたしより強くなったからって、先輩面するんじゃないわよ!」
いつもより昏く黒い顔をみせていたキースであった。
それでもミーシャの態度は変わらない。いつものように強がりと我儘をみせている。
キースもまた、その心に安堵したのか――飼い主を見上げ安心する忠犬のような顔をみせていた。
「ええ、分かっています。どこかで魔力補給をしましょう」
「それより先に、あなたの手をみせて。まだちゃんと回復しきれていないでしょう」
「心配ですか?」
「当たり前でしょう」
じぃぃぃぃぃっと姫を見下ろし、端整な男の唇が動く。
「それは従者を失うから……?」
「あのねえ、あんたはこんな人格破綻者のあたしについてきてくれているのよ? 悪いと思ってるの、心配なんだから、あんまり無茶はしないで」
「あなたは我儘で傲慢で、寝相も悪くて性格も悪いのに――そういう事も言えるのですね」
「……吹っ飛ばされたいのかしら」
手を翳したミーシャが回復術式Ⅴを発動させる中。
キースの瞳は回復魔術を詠唱し続けるミーシャの姿を、じっと、眺め続けている。
その腕が――姫の肩を抱き寄せるかどうか。
揺れていた。
「治ったけど……キース? どうしたの、まだ痛んだ?」
「いえ、なんでもありません。それよりも、まだあの女が潜伏している可能性もあります、場所を変えましょう」
結局、黄昏と逆光の中で男は微笑み。
その腕が姫の肩を抱き寄せることはなかった。
けれど、影の中の女は彼らの複雑な関係を眺め――ふふっと邪悪な笑みを浮かべていた。
◇
(あの娘を目の前で、いえ、それとも誘拐でもして拷問して、むごい死体を晒してやったらあのモブ門番はどんな顔をするのかしら?)
女は影から抜け出し、姿を変えて吸血鬼に偽装。
夜の街へと溶け込み。
ふふふふと、美しきモブの美しい悲鳴と嗚咽を妄想しながら街を歩く。
どんな殺し方をしよう。
どんな再会をしよう。
そう悩んでいたからだろう。
前を見ずに歩いていたアンドロメダは、一人の女性とぶつかってしまった。
不審に思われても面倒と判断したのだろう。
アンドロメダがただの一般吸血鬼のフリをして――。
「あら、ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそすみません――あら? まあ! 大変! わたくしとじゃれていたコボルトさんの爪が刺さってしまったのですね、ドレスの先が裂けてしまったようですわ!」
そこにいたのは、おろおろ、そわそわ。
見慣れぬコボルトの護衛を引き連れる謎の女。
栗色の髪をした、今まで殺してきた美女の中でも最上位にあたるほどの容姿端麗な乙女である。
コボルトがくわっと口を開き、ごめんなさいと一斉に頭を下げていた。
ドレスが切れているのは先ほどの戦いのせい。
この美女のせいではない。
なのに――彼女は少し天然なのか、疑う事を知らない純粋な心の持ち主なのか。
「本当にごめんなさい、わたくし……いつもこういうドジをしてしまって」
なぜ人間種がこの街に?
そう思ったが、アンドロメダは眉をさげ。
声を変えて、ぐぎぎぎぎっと顔を軋ませる。
「気にしないでください、急いでいるのでアタシはこれで」
慣れない言葉と笑顔だったからだろう。
アンドロメダの声も顔も、少しだけ引き攣っていた。
それが怒りを堪える所作に見えたのか――。
ガーン!
と、栗色の髪の乙女はあわわわわわ!
「お待ちになって! そーいうわけにはまいりません!」
「あ、あの……本当にいいですので」
「ああ、どうしましょう! そうですわ、とりあえずわたくしの砦で、新しい衣装を――善は急げと言いますし、すぐに参りましょう」
そのまま女は空気を読まずにアンドロメダの肩に手を置き。
うるうるうる、弁償させてくださいましと話を聞かずに無詠唱で何かを行使。
転移魔術の波動である。
いくらなんでも不自然だ。
罠かと警戒した女が叫ぶ。
「え!? ちょっと、本当に大丈夫――なのですが!?」
「いいえ、ご遠慮なさらないでください。全てわたくしが悪いのです、もうわたくしったらいつもこうで――本当にそそっかしくて、すみません」
「だから、人の話を少し聞いて――」
言葉は、途切れ。
測定できない規模の転移魔法陣が発動された。
本来なら転移妨害を発動させていたアンドロメダの結界を破り、強制転移させたのである。
それが――血の鋼鉄令嬢アンドロメダと。
聖コーデリア卿との奇妙な出逢いだった。




