第052話、狂人【ミーシャ視点】
王家の魔女が扱う鏡に映るのは、何故か既に入国していた――美しき乙女。
セブルスの最高権力者である伯爵王と謁見する、いつものあの女の姿。
ゲーム時代の知識で先回りし、黄昏結界をなんとか突破し夜と霧の街に入り込んだ黒髪の女は唸りを上げた。
「なんで、またあの女は……っ、あたしがこれだけ苦労して入り込んだ街に堂々と入国してるのよ!?」
ぜぇぜぇ……と、肩を怒らせる姿はもはやおなじみ。
天使や転生者がかかわる事件があると必ずやってくる聖コーデリア卿の、かつての友。
悪逆非道の黒鴉姫ミーシャ=フォーマル=クラフテッド。
クラフテッド王国と山脈帝国エイシス、そして魔境と国交のある国全土で絶賛指名手配中の悪人である。彼女は現在、西洋風の喪服姿。
黒レースのヴェールが靡く帽子に、黒手袋に、黒の靴。
全身を黒と正体隠しの魔術で覆った、まさに黒鴉のような姿であった。
ここは廃れた寺院。
不死者の街となった後に廃棄された聖堂。
かつて課金システムを扱う場所だった教会関連の跡地に彼女は潜伏しているのである。
正体隠しのヴェールが顔を覆うおかげか、ミーシャであることは格下相手には気付かれない。
ただし、身分もなくしている彼女がどうミッドナイト=セブルス伯爵王と謁見するか。簡単にはいかない。けれどアンドロメダの脅威を伝える必要があった。
だから謁見の道を探していた。
とりあえず千里眼ともいえる、遠くを見る魔術で伯爵王の様子を探ろうとした。
そうしたら、いつものあの女がニコニコ笑顔で美貌の伯爵王とお茶をしていた。
「意味が分からない……いや、マジでなんなのあの女」
「いつもの事でしょうし、そこまで大げさに驚かなくてもよろしいのでは?」
言ったのは、共に鏡を覗いていた従者キース。
モブすら美麗な乙女ゲーム特有の整った顔立ちが、姫の横にある。
隙なく後ろに撫でつけた髪も様になっていた。
かつてモブだった男は執事服に身を包み、今は極悪人とされるミーシャと行動を共にしているのだが。
「仕方ないでしょ、昔からあの子は苦手なの」
「お嬢様は苦手な人ばかりなのですね――対人関係の構築を苦手としているので?」
「いつも一言多いのよ」
「一言で済むと?」
「あら、言うじゃない――でもまあいいわ、あの女がセブルスの街に来ているのなら伯爵王の身の安全は確保できるでしょ。心配が一つ減ったわ」
「シナリオ上でアンドロメダが襲うとのことでしたが――」
「そ、この世界の王族って言うのは設定上、かつて神と婚姻関係にあった、或いは神に遊ばれて子供を孕んだ人間の末裔。ようするに、王族としてのカリスマも平民以上の魔力も特殊能力も、結局は全部神様の血液ってわけ。ま、あくまでもゲームの時の設定ですけど、それでもたぶん基本は変わっていないと思うの。このままセブルス伯爵王の太古の濃い血が抜かれればアウト――神に近い血を用いた邪神再臨の儀式は成功する」
顔を隠す黒レースのヴェールの下で、ゲームを知るその唇が動く。
「あとはヒロインであるミーシャ、つまりあたしが血を奪われてもアウト。邪神は危険度最大級の状態で復活しちゃってゲームオーバーのバッドエンド。それだけは避けないとダメね」
「なるほど、お嬢様は我が身可愛さでそのような厳重な、多重の正体隠しをなさっているわけではなかったと」
「あのねえ……」
「分かっています、ただの冗談ですよ」
ふいっと横を向き――チラりとミーシャをみる従者の姿は、まるで飼い主の気を惹こうとしている大型犬のよう。
最近のキースは少し様子がおかしい。
おそらくは転生者サヤカのことで、心に何か変化があったのだろうが。
心のケアが必要ではないかとミーシャは感じているが、頑ななキースは耳を貸そうとしない。
強く言っても逆効果だろうとミーシャは違和感を覚えながら、それでも話を戻していた。
「あとはアイナ=ナナセ=アンドロメダをぶっ倒せば、今回の天使騒動は解決できそうではあるんだけど……」
「そもそもこちらの戦力で倒せるのか、そして敵がどこにいるのか。さらに言うのなら天使の存在は確認できていない……アンドロメダと戦っている最中に隠れている天使が出現し、あなたに『洗礼の矢』を突き刺されると面倒なことになる」
「その洗礼の矢にどこまでの効果があるのかは分からないけど、少なくともこの世界をゲームと認識させるほどの精神汚染効果があるのは確実。矢を受け狂ったあたしがまた何かをやらかす可能性は高いものね……」
ミーシャは知っていた。
自覚していたのだ。
生前も今も、熱中したり思い込んでしまうと周囲が全く見えなくなる悪癖があると。
親になにかを言われる度に、弟と比較されて、冷笑されるたびに悪化していた爪を噛む癖がでそうになっていた。
けれど、もうミーシャはあの時の少女ではない。
ミーシャ姫として暮らし、生前と同じぐらいの年月を生きている。
魂や心――精神年齢は肉体に影響を受けるとはいえ、もはや彼女の精神は成熟し始めていた。
もうミーシャは女子高生ではない。
爪を噛んだりしない。
「とりあえずこれ以上犠牲者がでないように、あたしが囮になるしかないわね。たぶん、邪神再臨の一番の生贄はあたしだから。って、なによその顔は」
「私は反対です」
「反対って……だって天使をどうにかしないとだし。血を抜かれそうになったら魔力を暴走させて、血を蒸発させるって手もあるわ」
「あなたが危険に晒される」
教会の聖堂で、キースはミーシャをまっすぐに眺めていた。
二人を照らすのは永遠のトワイライト。
黄昏色の逆光に、乙女ゲーム世界のモブの美貌が浮かび上がっている。
ほのぼのとした癒しキャラだった筈の男。その瞳はまるで唸る犬のように――煌々と照っていたのだ。
「キース……? ちょっと、最近本当に変よ、あなた」
「――あなたは全ての天使の対処が終わるまでは死んではならない、その手で汚し殺していった者たちのためにも。違いますか」
「そうね。享楽主義なあの異界の連中と契約したし」
「その通りです、死んで逃げるなど――世間が、そして後の歴史が許さないでしょう」
「世間が許さないって、なにそれ昔の作家にでもなったつもり?」
言葉を漏らした後で、そんな一節を知っているのは読書家の転生者ぐらいかと考え――。
ふぅ……。
責められているのだと悟ったミーシャに浮かんでいたのは、自嘲の笑み。
生きることを、自分の人生をもはや全て諦めた殉教者の顔だった。
「そうね、けれど一つあなたは勘違いしているわ。あたしが死んでも終わりじゃあないの。たとえば……そうね、契約の移行……あたしが死んだ時に代行者を選択しておけば、その代行者が役目を引き継ぐようにもできる筈よ。あの契約ではあたしの行動が”天使対処への助けになった”のなら問題ないと曲解できる、”あたし”が天使をすべてどうにかする必要もないと解釈できるから」
ミーシャは曲解を是とする魔術師の顔で考え。
「たとえばあたしが死んだときにあなたが契約を引き継ぐ、あるいは兄さんと連絡を取って詳しい事情を説明すれば代行者になってくれる可能性は高いわ。あたしは兄さんにも酷いことをしていたけれど、犠牲になった人たちを救済できると知ったらたぶん協力してくれると思うもの」
「やはり、死んで逃げると?」
「やめてちょうだい、そういう後ろ向きな考えじゃないわ。もしあたしが道半ばで倒れてしまっても、救済への術を考えておくことに越したことはないでしょう? それこそ考えてみなさいよ。貴方を含め――もしあたしを正当な理由で恨んでいる人があたしを正当な手段で殺した時に、その人が『あんたのせいで人を救えなくなった』って責められるのは違うでしょうし」
合理的に考えましょうと、ミーシャ姫はすでに開き直りとも少し違う覚悟を決めた顔である。
それでもキースは飼い主を見上げる大型犬の顔で。
けれど背丈の関係で姫を見下ろしていた。
男の長身で作り出された影が、黄昏に照らされ大きく揺らいでいた。
男の影が女の身体を包んでいく。
少し大人になった喪服の姫に覆いかぶさるように――酷く低く、執着を感じさせる声を漏らしたのだ。
「それでも私は、あなたには――生きて欲しいと思っています。最後まで生き抜いて、最後まで足掻いてその穢れた手を拭って――私に言う義務があるんじゃないでしょうか」
言う義務?
なにを?
戸惑うミーシャの顔が、僅かに揺らぐ。
「待って、キース!」
「分かっています――」
会話は途切れた。
理由は明白。
聖堂の影が――揺れていた。
直後。
どぶしゅぅぅうううううううううぅぅ!
血飛沫のように二人に向かい飛び掛かっていたのだ。
なにが?
影そのものだ。
ミーシャの瞳に映っていたのは、黒き血。
内臓の奥、裂けた肺から濃い血を吐き散らす幻影を見た。
けれどそれは実現しなかった。
それは直撃を受けた場合に起こっていただろう、死の幻影。
けれど。
そうはならない――。
姫を守る従者。
まるで忠犬のような執事の騎士が、完全に相手の動きを見切り動いていたのだ。
「お嬢様!」
「分かってるわよ――!」
ミーシャ姫を抱えて飛んだキースがバックステップをした瞬間。
黒の扇を召喚したミーシャが高速詠唱。
烏の羽で作られた扇が、ぶわりと膨らみ周囲に魔法陣を浮かべる。
「阻みなさい、”黒の障壁Ⅲ”――よ!」
生まれたのは闇の壁。
暗黒や、闇属性に分類される防御魔術である。
闇に阻まれた影が、あら? と、湿った気怠い女の声を漏らしていた。
「今のを、避けた? どうして? 気付かれていなかったはずなのに……」
「その無駄に艶っぽい声はアンドロメダ!?」
「あら? ミーシャ姫さまがなぜアタシの声と名を知っているの? アタシ、自己紹介をしたかしら? ねえ、どうしてなのかしら?」
疑問符ばかりを浮かべながらも、女は影から顕現した。
赤紫色の紅をさした、黒髪美女。
女はそのままガシャリガシャリと鋼鉄ドレスを纏った肢体で、歩き続ける。
魔力増強薬品を飲み切り、瓶を女に叩きつけながらミーシャが唸る。
「それはこっちの台詞よ、どうしてここが分かったの!」
「だって、あなた転生者でしょう? なら、この黄昏の街に点在する隠れ家も知っている筈。他にも空き家となっていた施設は多くあったから、ひとつひとつ回っていただけよ? けれど、そうね。アタシを追っているのなら、ここに隠れている可能性は高いと思っていたから真っ先にきたけれど――正解で嬉しいわ」
「あー、そう。やっぱりあんたも転生者なのね」
否定も肯定もせず。
「綺麗な声ね、心は醜そうだけどそこは嫌いじゃないわ。アタシも同じですし」
アイナ=ナナセ=アンドロメダは壊れた笑みを浮かべ。
ドレスの裾を僅かに捲り、優雅に礼をしてみせる。
「初めましてミーシャ姫。アタシはアイナ。アイナ=ナナセ=アンドロメダ。たぶんあなたと同じこの世界を知っている者よ」
「自己紹介どうも。それで、あんたの天使はどこにいるのかしら? ぶっちゃけ、あんたに用はそんなにないのよ。これ以上悪さをしないで、天使を素直に引き渡すのなら――見逃してあげる」
キースの腕から降りたミーシャ姫がヴェールの奥で浮かべていたのは、濃い汗。
勝てないと本能的に悟っているのだろう。
ミーシャは一般人よりは遥かに強い、おそらくは人類で強者と呼べる兄、聖騎士ミリアルドよりも明らかに強いだろう。しかしその強さは常識の範囲内にとどまっている。
転生者同士や、転生者とは別案件である異世界のアレらと比較するとなると弱者に分類されるだろう。
「あら? 怖いの?」
「っ……誰が!」
「分かるわよ。あなた、死にたいのね。静かに、ゆっくりと休みたいのね? 逃げたいのかしら。どうでもいいと思っていたけれど。いいわ、可哀そうな子。お姉さんが抱いて、肺と心臓を犯して、眠らせてあげる」
壊れた女の瞳が、うっとりと恍惚に歪んでいた。
闇色に照る障壁が――バキリ。
女のドレスから伸びた棘にミーシャの結界は破壊されていた。
「げっ、マジ……!?」
「マジなんてはしたない言葉は駄目よ、お姫様。それにしてもこの程度だったのね、あなた――それじゃあこの冷たく悲しい世界じゃ生き残れない。だから、殺してあげる。あなたの身体もアタシが愛してあげる」
怠惰で退廃的な女の気怠い声が、ミーシャの形相をハッと怯ませる。
だが。
ミーシャも既に覚悟を決めているのだろう。
「誰があんたなんかに怯むもんですか! あんたよりもあの女の方がよっぽどヤバいんだからね!」
あっかんべぇをしてみせる余裕をみせ、顔のヴェールを靡かせ黒衣の姫は詠唱する。
構えたのは闇の魔弓。
闇属性の魔力を引き絞り、弓矢のようにして放つ攻撃魔術。
だが練度が足りない。
戦いに関して彼女はまだまだ素人だった。
そして、敵の方が戦いに慣れていたのだろう。
闇の矢が放たれるよりも先に、鋼鉄ドレスの女は動いていた。
「残念、綺麗な魔術だけど――遅いわ」
「しま……っ――!?」
しまったと最後まで言葉を漏らすより先に、女は仕掛けていた。
抱擁が姫の身体を戒めようとしていた。
転移していたのだ。
抱き着くことが攻撃ならば、転移との相性は抜群。
女は敵の殺し方を心得ていた。
姫は殺意から自分を守る術を知らなかった。
その差が、この事態を招いた。
やられる!?
思わず目を瞑りかけたミーシャ。
その心が激しい痛みと、視界に移る血飛沫を覚悟した直後。
起こったのは、気の抜けた音。
トン、と。
小さく肩を叩いたような、僅かな音だった。
衝撃が――両者の間に走る。
接近していた女達の間の抜けた声が、ミーシャ姫のヴェールを揺らしていた。
「え?」
「え……?」
初めの声はアンドロメダ、後に続いたのはミーシャの声。
アンドロメダが視線を下に落とす。
そこには――大きく筋張った男の拳が、めり込む形で腹に突き刺さっている。
戸惑う女の瞳が、自分の腹と美麗なる従者の顔を交互に眺め。
「どうして? あなた、ただの門番兵士でしょう?」
言った直後。
その細き身に衝撃が襲ったのも、アンドロメダの方だった。
掌底が――女の腹を歪め、衝撃となって襲っていたのだ。
砲台から発射された球のように――。
ギュゥウウウウウウウウウゥゥゥッゥゥ――っと、女の肉塊が飛んでいた。
アンドロメダだった。
しかけたのは従者。
キース。
黄昏の中で、その瞳は赤く染まっている。ストイックな従者の礼装からは、禍々しい赤き魔力が揺らいでいる。
肉塊となった女、アンドロメダがなんらかの自動回復効果で再生されていく中。
黄昏の暗さの中でミーシャは分からず、呟いた。
「キース……? あなた、いったい、何をしたの」
「すぐに殺します。お待ちを――」
明らかに以前よりも異常な強さを見せる従者キース。
その身のこなしは、まるで熟練の暗殺者の動き。
見えなかった。
ミーシャにはその動きが追えなかった。
再生したアンドロメダ。
アイアンメイデンも本気になったのだろう。
ゲーム内でも使われていた聖職者の遺骸で作られた髑髏の杖を構え、結界を構築。
やっとその表情に焦りが走り始める。
「なに、この子、モブキャラでしょう……っ」
「この世界はゲームではない。あなたがたの玩具でもない。だから、人を殺したならば責任を取ってください。取る気もないのなら――死んでください」
「いいわ、だったらあなたから先に愛してあげる――」
おそらくミーシャでは破れない分厚い結界にキースが包まれる。
「駄目よキース! こいつは結界を攻撃にも使ってくるの!」
「問題ありません」
従者キースは凍てつく殺意を顔に張り付けたまま直進。
結界に指を突き刺し、縦に引き裂き割っていく。
ザクロの実が引き裂かれるように、結界が嫌な音を立てて断絶されていく。
初めて女の唇から生気に満ちた声が漏れていた。
「正気!?」
おそらく。
アンドロメダの瞳には、男の顔が見えていた筈だ。
それは黒。
結界の隙間から。
ズズズズ、ズズズズと掌の肉を溶かし、骨を覗かせても構わず結界を裂く――男の顔。
黄昏を背負い。
鼻梁を闇に染めた男の表情が見えていただろう。
「結界は、同じ魔力質量をぶつければ崩壊する。魔術の基本だそうです」
だからといって、自分の肉を焦がしながら結界に魔力を流す狂人はそうそういない。
それでも男の骨の手が、結界を絶ち。
ぐぎぎぎぎぎぎ。
瞳から、目視できるほどの魔力の揺らぎを放ち。
背筋を凍らせるほどの、冷たい声音で従者は言った。
「しかし感謝もしています。天使と繋がっているのなら、あなたを殺せば解決ですから。どうかお願いです、彼女をこれ以上苦しめたくないのです――だからあなたは此処で死んでください」
お願いします、と。
ずじゅ。
単調な、僅かな音を立て。
自分よりも狂気に身を染めている男に動揺する女――アンドロメダの腹に、従者の剣が突き刺さっていた。




