第048話、三章プロローグ―心を刺す棘―【ミリアルド視点】
本話には一部、人によっては不快に思われる表現があります。ご注意ください。
眉目秀麗、見た目だけは完璧な男。
皇太子ミリアルドの頭には、もはや遅い自業自得な後悔ばかりが浮かんでいた。
何故、気付かなかったのか。
何故、ここまで愚かだったのか。
滅びる寸前の国、クラフテッド王国。
皇子が使用する執務室。
傾く冷たい斜陽の中。
魔境への遠征から帰還したその皇太子ミリアルドは、過去の事件をすべて洗い出した資料を眺め――ぎしり。
絶望と自嘲の息を漏らしていたのだ。
「……私も、父も、この国もとんだ道化だったということか」
もはや名声も人望も失った聖騎士。
頭痛を堪えるように伸ばす腕が、眉目秀麗な容姿を覆うように動く。
暗い部屋の中。装備だけは大層な白銀の甲冑から、金属音が鳴っている。
昔は甲冑の音などあまり気にならなかった。
それほどに賑やかだったのだ。希望に溢れていたのだ。
けれど今はあの傾く日差しのように国も傾き――兵士の声も、家臣の声も使用人たちの声も聞こえない。
彼らの労働意欲は消失寸前。
仕えるべき主への忠義などとっくに消えている。
当然だとミリアルドは自覚をもって、彼らの怠慢を許していた。
いや、そもそも怠慢とすらもう思っていなかった。
ミーシャ姫の先を見る力で富を得ていた多くの重鎮たちは、酒に溺れている。
先を見ることができなくなった彼らは既に怠惰の底。
かつては賢人と言われていた者達だが、一度、享楽やズルを覚えてしまったせいで既に性根が腐っているのだろう。
王宮の中でまともに動いている人間は、もはや僅か。
ミリアルドはその数少ない一人。
神の声が完全に聞こえなくなってしまったという教会の者達の多くは、既に酒と薬で自堕落な日々を送っているという。
終わるのならば、楽しく。
現実を忘れ、心地よい酩酊の中で終わりたいと願う――その心もまた選択の一つではあるだろう。
教会は独立した組織。
彼らに関してだけはミーシャが関係していない、だからミリアルドも彼らを助けようとも思わない。
しかし、他の民は違う。
だからミリアルドは終わる王宮で考えるのだ。
最後の後始末をするために。
(もはや我が国が滅びるのは時間の問題。民を国外に逃がすか、いや……受け入れてくれる国などありはしない。オライオン王国ももはや我が国に見切りをつけている筈、同盟破棄も時間の問題)
ミリアルドは考える。
(おそらく山脈帝国エイシスの皇帝は我等を受け入れはしないだろう。わざわざ火中の栗を拾う愚かな王であったのならば、あの劣悪な土地にあったあの国は疾うに滅んでいる。ならばやはり、あの帝国にて自治権を許されている領主コーデリアに縋るしかない。しかし――)
それは――。
「私と妹、そしてこの国の民の蛮行により叶わぬだろうな」
ミリアルドは考える。
本来ならば全てを犠牲にしてでも、コーデリアに詫びなければならない。
だが、それよりも。
この国で消えようとしている無辜なる命だけを考える。
あれほどのことをしておいて、卑劣で自分勝手だとは既に聖騎士ミリアルドも理解していた。
どれほどの蔑みを受けるかも理解している。
しかし――。
(狂い自滅した王族であったとしても、最低限の矜持がある。人としての品性を欠く行いだと分かっていても、彼女に縋るしかない。彼女の優しさを利用するしかない。それが民の命を預かる王族の務め――)
愚直なほどに優しきコーデリアならばおそらく、かつて自分の家族を追い詰めた自領の民と、クラフテッド王国の王族や貴族以外ならば受け入れるだろう。
ならばいっそこの手を汚す。
自分を含む王家の人間を全員始末し、無辜なる民だけを流浪させ拾わせるか。
しかしそれも早計か。
他の多くを生かすための惨殺は、はたしてコーデリアに受け入れられるか。いや、おそらくはそのこと自体に心を痛めるだろう。
ならば何か別の手段を……。
怜悧な印象のある黒狼。
その澄んだ横顔は民を思う王族そのもの。
今の兄皇子の姿を国民が目にすれば、ようやく正気を取り戻したと思う事だろう。
どんな手段を使ってでも民を守る。
そう頭を動かし続ける皇太子の髪が揺れる。
ミリアルドの黒曜石色の瞳も動く――静かに周囲を見渡し、輝く聖剣を召喚したのだ。
「ガルムの輝きよ――」
所有者の言葉に応じた聖剣から生まれる光が、斜陽に沈んでいた部屋を照らす。
朝日の如き輝きである。
使用者の心とは違い、スキルだけは一点の曇りもない光。
なのに、執務室は照らされない――。
部屋の隅。
大きな影があるのだ。
蠢く何かがそこにある。
「なにものだ――返答なき場合は、即座に斬る」
影から妙に艶めいた、気怠い女の声が響く。
『あら、怖い。坊やったらせっかちなのね――嫌いじゃないけど好きじゃないわ』
「戯言を――!」
ミリアルドによる探知魔術が発動――。
しかし蠢く影はいびつに曲がっただけ。
再びただの影に戻っていく。
「なに!?」
『姿を暴けると思った? ふふふ、残念。アタシとあなたとではレベル差がありすぎたようね――けどまあ、褒めてはあげるわよ? だってあなた、このアタシの気配を感じ取ったんですもの――他の連中は誰も気が付いていなかったのに』
他の連中?
ミリアルドの鼻梁に濃いシワが刻まれる。
猟犬の唸りのような、鋭く尖った声が美麗な黒皇太子の口から伝う。
「王宮の者達をどうしたというのだ」
『邪魔だから殺しちゃったわよ? アタシが欲しいのはあなただけ、正確に言うのならフォーマル=クラフテッド家の、王族の血だけですもの』
「そうか――ならば死ね!」
皇子の黒き瞳に――稲光のような魔力が走った直後。
ザン――ッ!
蠢く影は斜めに切断されていた。
ミリアルドによる剣技。
聖光を剣に纏わせ影を生み出し、幻影を実体化させ敵を裂く聖騎士の攻撃スキル「夢幻の剣閃」を使用していたのだ。
『あら怖い。声で女だと分からない?』
「女だからといって侵入者を許す程、私は人徳者でも差別主義者でもない」
『そう。顔だけは嫌いじゃないけど、やっぱり好きじゃないわね。ちょっと痛い目に遭わないと理解してくれないのかしら』
蠢く影から、女の白い腕だけが伸びてくる。
その手の先には、魔導書。
(魔術師――っ!?)
ミリアルドは詠唱を妨害するべく腕を攻撃。
魔竜の首すらも切断する聖剣の斬撃が直撃。
『きゃぁあああああああぁぁぁぁ!』
「はぁ――っ!」
悲鳴に構わず黒皇太子は剣を影に突き刺し、壁にその影ごと縫い付ける。
肉を抉るように、剣が影を抉っている。
ぐぐぐぐ、ぐぐぐぐっ……ぐ。
ぶじゅりと、赤い血が影と壁から染み出していく――。
壁に貼られていた国旗も、金刺繍の目立つ絨毯も赤く、赤く染まっていく。
しかし――。
皇太子は既に自分よりも遥か上にある存在を知っていた。所詮は井の中の蛙だと自覚していた。
(手ごたえがあからさま過ぎる、これは罠か――!?)
だから――彼は咄嗟に避けることができた。
ほんの少し遅れて、けたたましい音が鳴り響く。
金属が金属を抉るような――嫌な音だった。
ズジャジャジャァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァ!
壁に縫い付け貫いていた影から、不意に棘が飛び出していたのだ。
棘をかすめた白銀の鎧は、破壊されていた。
かすっただけで装備破壊のエフェクトが発生していたのである。
『あら? 殺すつもりでやったのに、避けたの?』
影の奥が揺らぐ。
女の赤紫色の唇が見える。
口紅だろう。
胴部分を刺されていた筈の影は無傷。
回避術式Ⅱで緊急回避を成功させていた皇太子は、息を整えながら言う。
「効いていないのか、バケモノめ――」
『酷いじゃない、アタシがバケモノなんじゃなくて殿下が弱いだけ。でも、そうね……あなたという人がちょっとずつ見えてきた。すぐに人のせいにする所がゲームと違う、そう、やっぱりこれってゲームじゃないのね』
影が蠢き、まるで唇に手を当てるようなしぐさで固まる。
「ゲームだと? なにを分からぬことを」
『ごめんなさいね、言っても分からないでしょうから言わないわ』
声は背後から。
吐息も熱も背後から。
湿った声は鋭い棘と共に、ミリアルドの肉を揺らしていた。
「ぐぅ……っ」
『あら、痛そう。背後からヤラれるのはお嫌い?』
女は影の中から抜け出し顕現。
その赤黒いドレスから生えていたのは、まるでケモノの生殖器のような棘。
女は背後からミリアルドを抱いていた。
ドレスから生える無数の棘が肉を貫通、徐々に、徐々に、男の背中から胸板に向かい貫いていたのである。
圧倒的な力量差の前では、男の抵抗も無意味だった。
身体が動かないのだ。
「ぐっ、うっぐぁぁ……」
『あら、可哀そうに。肺を貫かれたからまともに声も出ないのね? あぁ、でも、いいわ。可哀そうだけどかわいらしい。そうよ、そういう顔を見せてくれないと面白くないもの』
女の棘が歓喜するように蠢く、肉を抉られる男の血を吸っていた。
それはおそらく魔力と血の吸引。
『ミーシャ姫はどこにいるのか教えて貰えるかしら?』
何が目的だ。
開こうとした唇から声は出ない。
急速に、開く瞳孔と共に目も乾いていく。
『目的? 語ってあげてもいいけれど、朽ちるあなたにはもう関係ないの。だって肉を犯され血を吸われて、あなたはここで死ぬんですもの。だからもう痛い思いはしたくないでしょう? さあ、教えて頂戴。ミーシャ姫の居場所を』
フック状となった棘が、臓物を抉る。
肉の隙間を犯すように、奥へ奥へと沈んでいく。
「……ぅ、っ、――っ、っ……!」
『ほら、早くしなさいな。肺の中の魔力が尽きたら話せなくなるわよ? それとも、こうやって背中から鍛え上げられた美しい身体を穿たれ、穢されるのが好きなのかしら。だったら嬉しいわ。アタシと趣味があうもの』
拷問を受けても皇太子の口から魔力の声は漏れなかった。
そもそも場所を知らないのだ。
答えられるはずもない。
『そう、知らないみたいね。残念だけど、まあいいわ。そんなことだろうと思っていたし――あら、もう動けない? 穴だらけのあなた、とっても素敵よ。生きたまま美しい男の全てを抉って、部屋に飾って、肉と骨をね、少しずつ削って食べるの。するとね、いっぱい魔力で満たされるの――今度、人を殺すことがあったら試してみてね? アタシのおすすめ。それじゃあ、さよならね。綺麗でしなやかで……逞しい肉の筋を中まで見せてくれた皇太子さん――おやすみなさい。あなたにも素敵な来世がありますように、アタシも祈りを捧げてあげるわ』
言って、影から現れた赤黒いドレスの女は皇太子ミリアルドの耳朶に、背後から吐息を吹き掛け。
ぐぐぐぐぅぅっぅ。
『このアタシに殺された存在の蘇生は不可能。たとえどんな達人でも、どんな聖人でも蘇生などできやしない。だから、本当にこれでお別れ。楽しかったわ坊や、それじゃあ血をありがとう』
ぐじゅ。
皇太子は自らの心臓が破裂する音を聞き。
そして意識を失った。
◇
死んだ筈の皇太子。
自分よりも遥か格上の存在が自信満々に蘇生はできないと豪語したのだ。
本当に、蘇生は不可能なのだろう。
……。
普通ならば。
目覚めた黒髪の皇太子が気まずそうに言う。
「やはり君が助けてくれたのか、コーデリア……」
「もう二度と戻らない。そのつもりだったのですが……もはや捨てた国とはいえ――さすがに要人全員が暗殺されたとなっては、動かないわけにはいかないでしょうし」
聖女は苦笑していた。
「穴だらけで事切れていた殿下と再会することになるとは、さすがに思っていませんでしたわ」
そう。
この世界には例外がいた。
どんな達人でも、どんな聖人でも蘇生できないほどに破壊された人間、本来なら諦めるしかない遺骸を治せる聖女がいる。
「あなたたち、殿下をこのままにはできません。なにか掛けるものを」
言われて皇太子ミリアルドは自らの身体を見る。
鎧を破壊され、拷問を受けたような惨状を晒す身体がある。
鍛え上げた肉体であっても、より強き相手の前では蹂躙されてしまう。
敗者の姿――惨たらしい死に痕、負け戦の証が目立つ皇太子の半裸体に毛布を掛けたのは、牢獄で何度も出会った淑女オーク。
「あ、ありがとう……レディ」
『あたしと殿下の仲ですもの、遠慮などいりませんわ』
「そ、そうか――」
その横をコボルト達がわっせわっせと行進。
肉がぐじゃぐじゃ、内臓がどべー……っとむごい惨状を鼻歌のように歌って、犬顔コボルト達は索敵スキルを発動させ、モフしっぽをぼふぅぅぅぅぅ!
わっせわっせ!
と再び走り出し、彼らは周囲に敵がいないかを探しながら警戒している。
負けた恥よりも、無残な身体を晒していた汚辱よりも気になるのは民の命。ミリアルドも国内の気配を探ろうとスキルを発動させようとする。
「まだ無理ですわ、殿下」
「他の者たちは……」
「街は無事です。王宮内に遺骸が残されていた、殺されていた方々の蘇生も完了していますわ。どうやら、蘇生できるとは思っていなかったようで――連絡を受けて転移してみれば、血の海。けれど、遺骸はそのままになっていましたから」
コーデリアの非常識さを甘く見た敵のミスである。
「ありがとう、本当に……」
「いえ、人として当然なことをしたまでです」
言って、聖女はそっとミリアルドの手を握る。
むろん、生き返ったことを喜んだ――わけではない。
冷たく固まっていた皇太子の手には、温もりではない感触。
皇太子はそっと手を眺める。
そこには聖女の綺麗な字でこう書かれていた――。
請求書、と。
クラフテッド王国様、蘇生代……と、蘇生された状況と人数、職業などが事細かに記入されている。
全員分の請求書を王子の手に握らせたのだ。
ミリアルドは、強くなった、かつての思い出の少女の顔を見た。
「あの師匠の教えか」
「ええ、一方的な恩の押し売りはよろしくないから対価は貰えと」
「そうか、助かる……。請求もされないままならば――私も困ってしまう。元より、君に会わせる顔など厚顔無恥な私とて持ち合わせてはいなかったからな……」
また借りができてしまった。
しかし、一体何が起こったのか。それを聞きたかったのだが。
コーデリアが言う。
「いったい何があったのです?」
聖女も事態を把握してはいないらしい。
突如として起こったクラフテッド王国への急襲。
命を取り戻したとはいえ、今回の事件は王家惨殺から始まったのだった。




