第045話、来世に託す言葉
ここは死した者達が進む道。
冥界への道。
彼らは深い闇の中にあった。
赤き舞姫サヤカと、魔皇アルシエル。
共に踊り終えた彼らは深淵の中を進む。
周囲にあるのはまるで氷のような壁と、進むべき順路を示す仄暗く浅き水。
水を進んで彼らは逝く。
肺の奥を冷やす程の寒気が伝っている。
彼らは知っていた。
一度死んだ彼らは――ここが死した魂が眠るべき、あるいは、消えるべき場所だと知っていた。
遠く離れた場所で光の柱が落下している。
おそらくは転生の光だろう。
踊り子が言う。
「かつてのわたしたちは一度死に、あのような光に導かれ――そしてこの世界で生まれ変わり再会しました」
『ああ、そうだね』
「奇跡は何度も起こりはしないでしょう。今度はもう、消えるのかもしれませんね」
『それでも、君に謝ることができてワタシは――』
甘いマスクの壮年天使が言った。
赤髪の美女が言う。
「わたしも、あなたに謝ることができてよかったと思っています。図々しいでしょうか?」
『いいや、ありがとう――そして、すまなかった』
「もうお互い謝罪はなしにしませんか?」
『どうして』
「わたしの方がずっと、色々と拗らせていましたから。あなたに必要以上に謝られるとわたしがもっと謝らないといけなくなりますし」
そうかな、と甘いマスクの男は苦笑する。
苦みと甘さ、そして人生の疲れと貫禄が魅力となっている男だった。
『せめて最後は共に――』
男が女の手を引いた。
まるでエスコートのようだった。
女は手を預け、微笑んだ。
「もし、違った出会い方をしていたら。わたしたちはどんな関係を築いていたのでしょうね」
終わりの道を進む男女が言う。
『考えたことがなかったと言えば、嘘になってしまうかもしれませんね』
「またどこかの世界で巡り会えたら――今度もわたしと踊っていただけますか?」
『ああ、喜んで』
「それで、その、少し気になっているのですが――どうして、わたしの踊りをあそこまで好きになってくれたのか……聞かせていただいてもいいですか」
端整な顔立ちの男は困った顔をしてみせる。
『どうだろうか――少し気分を悪くするかもしれない』
「かまいません」
『――いえ、やはり止めておきましょう』
「何故です」
男はエスコートする手をそのままに振り返り。
『もし続きを聞きたかったら――また会いましょう。次の人生で再会した時。どうでしょうか?』
「ロマンティックですが、少し気障ですね」
嫌いじゃないですけど、と。
女は笑った。
男も笑った。
一生を費やし共に過ごした恋人や夫婦よりも、今の二人の心は繋がっていた。
握り合う手が、徐々に光の粉となっていく。
消滅だった。
二人は互いに薄くなっていく身体を見た。
赤い靴を鳴らし、女は最後に踊りの仕草をしてみせた。
「いつか来世で――」
『必ずあなたの踊りを見つけます。だから――』
また踊っていてください。
男は言った。
女は誓った、また会う日のために――。
踊りを愛していようと。
しゅぅぅぅぅぅ……。
魂が消える。
意識も薄れて、消えていく。
消えゆく二人の身体が光に包まれる。
冥界へ。
ただ静かな終わりへ。
魂の安寧へ――。
その筈だった。
突如、消滅現象が解除され――起こったのは爆発音。
ズーン!
と、闇を切り裂くような一条の光柱が、天から撃ち落される。
「きゃ!?」
『これは、いったい――っ』
爆風を受けた二人の身体がわずかに再構築される。
赤い髪が、ぶわりと揺れた。
大天使の翼も、バサリと開く。
「いったい、これは――」
『分からない、けれど――』
とてつもなく強力な何かが、天空を割っている。
女の肩を抱き身構える天使。
動揺する彼らの耳を。
空気の読めない。
そして読まない者達の声が揺らす。
「あら? この辺りの筈だったのですが……」
『んー、じゃあちょっと見てくるから、君はそっちで詠唱を』
冥界の空が、バカっと割れ。
次元を割って――それは顔をねじ込んでいた。
黒々とした巨大な猫が、カカカカカカカ!
赤い瞳を開いて、うにぃ!
猫の丸い口が、蠢く。
『あー、失敗だ! コーデリアくん! もうちょっと西だねー! 座標がずれてるからー! 修正しながら詠唱しておくれー!』
「師匠! どうしましょう~、全然関係のない海魔を蘇生させてしまったみたいなのですが~……」
女の肩を抱く男。
肩を抱かれる女。
二人はジト目で東の空を見る。
なにかよくわからない、軟体動物の怪物が光を辿って地上にメチメチと浮かび上がっていた。
死者たちの道。
その天を強引に割って顔をねじ込んでいる、常識外れの存在。
魔猫師匠の声が響く。
『海の魔物だろう? その辺に放流すればいいんじゃないかな~!』
もちろん、よくない。
けれど師匠を尊敬する聖女の声が響く。
「わたくし、この子を飼いたいのですけれど~!」
『オッケー! じゃあ、ついでに持ち帰ろうか!』
「では眷属契約をしてわたくしの庭の池に……まあ! 駄目でしょう! コロシアムの観客さんたちはご飯じゃないですよ~! え? ミリアルド様がなんとかしてくださるのです? 既にぼろ負けしそうですが……はい、え? はい。それではお任せしますが……」
彼らはまだあのコロシアムにいるのだろう。
どうやら蘇生してはいけない怪物を蘇生させてしまったようで。
ガガガガガググググッゥゥゥッゴゴゴゴゴゴ!
現世ではとんでもない大混乱が起こっている様子である。
が――。
張本人たちはどこ吹く風。
のーてんきな声が響く。
『ねえねえ! そーれーよーりー! 早くしないと蘇生の~! 制限時間が来ちゃうよ~! 時間切れになった後の蘇生って~、めちゃくちゃ条件が面倒だから~! 急がないと~!』
「分かりました、では――てい!」
能天気な声が続いて――ギュィィィィィン!
光の柱が、天使と踊り子の西側に落とされる。
今度もまたミス。
光に導かれ、名状しがたき蠢く虚ろな怪物が引き上げられるが。
『ああ、惜しい! 微妙に進みすぎ~、あともうちょっと東だよ!』
「師匠! この黒いドロドロすらいむさんはどうしたら~!」
『たぶんショゴスの亜種だし、迷宮に配置して部下にしちゃえばよくない?』
なにかとんでもないことになっていると、慌ててサヤカが叫ぶ。
「ちょっと、あなたたち! なにをしているのですか!?」
「まあ! サヤカさんですわ!」
嬉しそうな天然女の声がして。
「なにと言われましても~! わたくし~、このままですと魔境の長たる魔皇陛下を暗殺した形になってしまいますし~、蘇って他の方々に事情を説明していただかないと~、とても困るのですけれど~!」
「そ、そりゃそうですけど!」
「魔皇陛下はおそらく~! 何者かに見張られていて~! サヤカさんのために一度死ぬしかなかったのですよね~! ですけれど~、ここはわたくしの迷宮の一部ですし~! 並の存在では外部干渉はできませんから~、内密に動くこともできますので~、ご心配なく~!」
言って、再び光の柱がズドーン!
今度は山ほどの大きさのある、角ある巨獣が光に導かれ外の世界へと這いずり出ていく。
魔皇アルシエル。
天使の男が言う。
『あれは……っ、世界黎明期時代に存在したとされる神獣ベヒモットゥ!?』
「ちょっと! あなたたち! 外してばっかりで、蘇生させちゃまずいものまで次々と引き上げているわよ!?」
これ以上はまずい。
それは天使も踊り子も理解していた。
おそらく、闘技場で暴れる蘇生された伝説の生き物たちを目にする観衆たちも同意見だろう。
分かっていないのは、あの聖女とネコだけ。
早く蘇生されないと、世界が危ない。
あいつらはなにをしでかすか、分からない。
空気の読めない魔猫と聖女が、次々と世界の法則を乱す。
だから。
魔皇アルシエルが言う。
『た……たしかに、ワタシたち天使や転生者であるあなたの事情を知らない者達には、聖女が魔皇を理由なく殺したように見えるでしょうし――』
「わたしたちもこのまま素直に、来世に行かせて貰えそうにないですしね」
聖コーデリア卿と魔猫師匠。
彼らがこれ以上、世界に混沌を撒き散らす前に――と。
サヤカは大天使の傍らに。
魔皇が少し気まずそうに踊り子に言う。
『それで、あの――さきほどの約束は――』
「もちろんちゃんと聞かせて貰いますよ。どうしてわたしの踊りを好きになってくれたか――やはり知りたいですから。逃げないでくださいね」
『少し、長くなりますよ』
「構いませんよ。たぶん、これからたくさん時間はあるでしょうから――」
二人の視線が合わさる。
そのまま言葉は交わさず。
けれど、心は重なっていたのだろう。
二人のシルエットも、重なっていた。
サヤカは温もりを感じていた。
それは肩を抱き寄せていた男の大きな手から伝わる、体温。
しばらくして――。
離れた男の唇が、ハスキーな低音を漏らす。
『すみません――』
「あら? どうして謝るのですか?」
『確認せずに、その――』
女は男の唇に立てた指をあて、微笑む。
「ごめんなさいは、なしにしましょうと言いましたよね」
『ええ、互いに――それはやめようと』
「だから、こう言いますね。こんな身勝手なわたしですが――これからもわたしと一緒に、居てくれますか?」
それはまるで、少しだけ遠回しな告白。
魔皇アルシエルの絶世の美貌が、僅かに揺らぐ。
彼の瞳に映るのは、燃えるような情熱的な赤。
踊り子はくすりと微笑み、黙っているままの男に言う。
「もしかして、お嫌でしたか?」
『いいえ、そうですね。これからも――よろしくお願いします。きっとワタシはもう既に、あなたとあなたの踊りをとても愛――』
言葉の途中で、ズドン。
空気の読めない聖女の蘇生の魔術が、二人を直撃。
大事な言葉をキャンセルしてしまった自覚のない二人の、悪意のない声が響く。
『よぉぉぉし! 成功だ!』
「やりましたわね、師匠」
二人は憮然と沈黙しつつも、再生されていくその身で天を見上げた。
冥界の天には、どでかい穴。
阿鼻叫喚となっている闘技場が、映っている。
『それじゃあ、彼女を抱いて自分の翼で戻ってきておくれ~!』
「まあ! ミリアルド様が軟体動物にボコボコに負けていらっしゃいますわ!」
『うにゃははははは! 弱いね~、彼、今度鍛えてあげようか?』
感謝はある、迷惑をかけた後ろめたさもある。
けれどだ――。
はぁ……と、息を吐いた二人は同時にこう思っただろう。
あの師弟、ほんきで空気が読めないな……と。




