第041話、〇〇修行~遥か高みにあるモノ~
青い空を背景にした大天使の翼が、聖女の美貌に影を落とす。
彼女は極寒の地を照らす燈火か。
明るすぎる太陽か。
魔皇が相手にするのは、コーデリア=コープ=シャンデラー。
サヤカの天使、魔皇アルシエルは既に戦闘態勢に入っていた。
だが民たちが周囲にいるため範囲攻撃は使えない。
まずは聖コーデリア卿を民衆の中から引き剥がさないといけない。
そう思った矢先。
聖コーデリア卿は微笑み、手に乗せた奇怪な魔導書を発動。
心を読んだかのような顔で告げたのだ。
「民を思う心は素敵なことだと思いますわ。ですので、場所を移すことを提案したいのですが。どうでしょうか?」
『民を巻き込まぬことには同意だ、なれど貴公とワタシが戦うとなると安全な場所など――』
「それでは、わたくしがご用意いたします――」
軽い宣言だった。
朝食の紅茶にジャムでも添えましょうか? そんな気軽さで、底知れぬ悍ましい魔力を纏った乙女は、栗色の髪を揺らした。
ダンジョン領域化された魔境全土に干渉したのである。
次の瞬間。
「”迷宮魔術:アリアドネの逆巻き”、発動させていただきますわ」
グゴグググギウギッグググゴォォ!
世界が軋んで、法則が乱れる。
次元と座標と空間が、全て同時に歪んだのだ。
魔皇アルシエルは自らの理性と常識、そして思考を疑った。
其れは――世界そのものが書き換えられるような衝撃。
乙女は障害物のない広い空間の中で、凛と微笑んでいた。
対する魔皇に浮かんでいたのは――動揺。
同時にこの謎の空間に巻き込まれていた、大勢の市民がザワつく。
魔皇はおそるおそる周囲を見渡した。
二人が立っていたのは円形舞台の上。
舞台を囲むように、客席がずらりとならんでいる。
それはさながら闘技場。
いや、さながらではなく闘技場そのものだった。
闘技場とはコロシアム。
コロシアムとはダンジョン設備の一種。
多くの魔物が棲家となっているモンスターハウス現象と同様、稀に発生するコロシアム型の殺し合いの場である。魔物同士の戦いや、侵入してきた冒険者と魔物が戦う姿をショーとして披露する特殊空間。
それが闘技場と呼ばれる場所だった。
それを聖女が狙って発生させたのだとは、スキルや魔術の知識があるモノならばすぐに理解できるだろう。
にこりと笑みを絶やさぬ聖女が言う。
「ここならば、周りを巻き込みませんでしょう? 皆様も戦いの行く末は気になっていらっしゃるでしょうし、わたくしも皆様の目がある状況でないと、後で難癖をつけられても困りますし」
『バカな……貴公は何者だ』
引き攣った声が仮面の下から漏れ出ていた。
けれど聖女はきょとんとした様子のまま。
「何者だと言われましても、わたくしは領主の娘コーデリア=コープ=シャンデラー。国を追われ亡命し、山脈帝国エイシスの賢王イーグレット陛下に拾っていただき、新しき地の領主となった帝国の末席に位置する者。それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
ご存じの筈ですわよね?
と、天然なのか真実を隠そうと仮面をかぶっているのか分からぬ対応である。
『底知れぬ存在であることこそが、我が神が貴公を危険視する理由か』
「我が神? まあ! やはりあなたもこの世界の裏で蠢く何者かと繋がりがあったのですね。そのお話を詳しくお聞きしたいのですが」
『貴様――どこまで知っている』
「どこまで?」
オウム返しする聖女の表情はやはりおっとり。
常に微笑んでいるせいで心が読めない。
やはりぞっとするほどの存在だと、魔皇は明らかに警戒を強くした。
そんな警戒など全く意にせず聖女は言う。
「師匠がおっしゃるには、この世界には天使と呼ばれる存在が暗躍している可能性があると。わたくしが亡命する事となったあの事件でも関わっていたと少しだけ耳にしました。わたくしはもう、二度と、大切な場所を失いたくないと思っておりますの。だから、情報を集めておきたいと願うこのわたくしは、魔境にも興味があったのです。大きな蠢く何かが北にはいると、そう感じていましたから。それが――あなたでしたのね陛下」
にこにこ、ほわほわ。
微笑む容姿は美しいが――。
細める瞳と完璧な笑顔は、まるで心を隠す糸目のよう。
そこに一切の隙は無い。
魔皇はギリリと自らの軽率さを後悔した。
十年間、北の魔境を統治し――同時に世界で一番不幸な踊り子たるサヤカのサポートをし、二重生活を続けていた男は思うのだ。
この聖女は別格。
いままで自分が感じていた価値観や、強さ、法則とは全く異なる異物だと。
そもそもだ、と周囲の魔力の揺らぎを眺め、相手の力量を計算する。
さきほど聖女がやってみせたのは、世界改竄。
原理としては理解できる。これは領主のスキルと類似していた。自らのダンジョン領域……すなわち領土と認識した場所を、好き勝手に弄ったのだろう。
魔皇アルシエルと聖コーデリア卿。
領主と魔皇が、単騎同士で戦い合う場所に両者を引きずり込んだ。
言葉にすれば簡単かつ単純だ。
ようするに、粗暴な言い方をするならタイマンの殺し合いをできる場所を用意しただけ。
けれどだ。
聖女がやってみせたのは闘技場を召喚しただけではない。
世界改竄と同時に観衆全員の座標を把握し、転移させ。
安全な客席へと移動させた。
それを全て一瞬で、ほぼ同時に――。
ある一定の実力があるモノならば、このおそろしい技術に驚嘆と共に畏怖を覚えたことだろう。
事実、聖騎士ミリアルドは今してみせた聖女の世界改竄に、ごくりと喉を鳴らしていた。
民衆の中の二人。
執事服の男と妙に高貴な黒衣の村娘も、ぞっとした表情で頬に球の汗を浮かべている。
そしてコボルト達は――。
魔皇アルシエルは慌てて周囲への警戒を濃くした。
そうだ、奴らは聖コーデリア卿の眷属。
なにをしかけてくるか、分からぬ!
と、目線をコロシアムの客席に移し――そして。
シリアスだった魔皇。
その仮面の奥から、ぬーんとした空気が漏れ出る。
『すまぬが聖女よ……あやつらはなぜ、移動売店を始めておるのだ?』
「わたくしのコボルトさんたちがなにか?」
『いや、もうよい……貴公らの行動をいちいち気にしていたら精神状態がおかしくなる』
舞台の上。
十年導いてきた観衆たちが見守る闘技場。
彼らは魔皇と聖女の成り行きを眺めている。
ここで決着をつけるという意思表示をすべく、魔皇アルシエルは動きを見せる。
ただ――相手の力量が把握できぬことで、相手が自分よりも遥か高みにいる存在だと確信したのだろう。
渋い男の、ハスキーな声が漏れていた。
『なるほど、聖コーデリア卿。あなたはとてもお強い、おそらくワタシよりも』
「良き経験、そして良き師匠に恵まれましたので」
『その花畑のような性格でありながらご謙遜をなさらぬとは、よほどの実力なのでしょうな。魔術を嗜むものとして、あなたの研鑽は称賛に値します』
花畑? と、コーデリアは首を横に倒すが。
魔皇アルシエルは広げたままの翼の先に電撃の魔力を纏い、意志ある神の植物、世界樹のステッキを召喚し装備。
『そして、我が臣民たちの安全を確保していただいた、その事だけは感謝しましょう。その清き心に感謝を、聖コーデリア卿』
「その感謝は素直に受け取っておきます、陛下」
『だが――魔術師の貴公が一対一の勝負を挑んでくるのは、愚策!』
世界樹の杖の先端が尖り、発動されたのは魔術による武器強化。
杖を剣へと変換していたのだ。
そのまま杖が剣になるエフェクトを目くらましに、稲光を纏った大天使の翼がバサリと鳴った。
刹那――。
天から降り注ぐ雷のように、魔皇アルシエルの身は飛翔していた。
音が遅れてやってくるほどの速度で、轟音を背負い斬撃を放っていたのだ。
だが――。
コーデリアの姿はすでにそこにはなかった。
斬撃を受ける直前に、空間転移で離れた場所に着地していた。
強敵であっても一撃で屠っていた必殺の一手だった。
けれど――見事に回避を成功させた乙女はまるで歴戦の英雄のような余裕。
「まるで疾風迅雷。なかなかお早いのですね。少し、驚いてしまいましたわ」
『避けただと!? このワタシの斬撃を……っ』
驚いた様子を見せる仮面の魔皇であるが。
彼はしたたかだった。
力量差を考えれば避けられて当然だと知っていた、けれど彼はあからさまに動揺したフリをしてみせていたのである。
全ては油断を誘うため。
動揺を継続しつつも、翼の先端が空に小さな魔法陣を刻んでいた。
翼の音による魔術詠唱である。「加速の術式Ⅲ」を発動。「筋力増強の術Ⅳ」、「狂戦士:魔力高揚Ⅱ」と、次々に自己強化の魔術を翼で空気を揺らし、発動し続けているのである。
しかし聖コーデリア卿は悠然と、魔導書を抱えたまま。
ゆったりと瞳を閉じていた。
「どうぞ、お好きなだけ強化をなさってください」
『なに――』
「弱い者苛めはあまり好きではありませんし……あまりに脆いと、そのぅ……お恥ずかしいのですが、わたくしは師匠と同じく手加減が苦手ですので、蘇生できぬほどに破壊してしまうかもしれないのです」
さすがに、魔境の長を蘇生できぬ状態で滅ぼしてしまうと賢王陛下に怒られますわ。
そう告げて、聖女は素直に強化の終わりを待つ構え。
それは強者のみに許される、高みの視線。
聖女の天然煽りが発動しているが、魔皇は挑発には乗らず。
ならばと強化魔術の重ね掛けをし続けた。
『これはおかしなことを――破壊、破壊とそればかりを気になさる。いやはや、理解に苦しむとはまさにこのことかと』
「本当に、気を付けていないと……。おっちょこちょいで国を壊してしまいました、となっても困るのです」
『貴公は破壊神の修行でも受けていたのですかな』
それは冗談で言った言葉だった。
しかし、聖女は驚いた様子で言う。
「さあ、どうなのでしょうね。強くなりたいとは願いました。あの方……師匠はたしかに、冗談めいてではありますが……わたくしには破壊神としての素質もあると笑っていましたけれど」
おそらく冗談ではなく真実であったのだろうと、魔皇は悟っていた。
聖コーデリア卿を鍛えたのは、異界の破壊神。
断言はできないが、可能性としては高い。
魔皇が言う。
『淑女への言葉としては無礼で失礼だとは承知であえて言わせていただきましょう。あなたの強さは異常ですよ、聖コーデリア卿』
「強いと褒めていただけるのは、今のわたくしには最高の誉め言葉かもしれません」
くすりと令嬢のスマイルである。
身体強化の重ね掛けが大天使の翼を輝かせる中。
魔皇は言った。
『その強さの果てに何を求める、バケモノの如き令嬢よ』
「わたくしはただ、恋をしてみたいだけなのです」
『――……』
当然、魔皇アルシエルは困惑した。
だが困惑になど気付かず、天然な乙女は夢見る少女の顔と声で瞳を開ける。
「正直申し上げますと、今のわたくしには愛や恋と言った感情がわかりませんの。忘れてしまったのか、失ってしまったのか……それは分かりませんけれど、それでもいつかはまた……そういった淡い希望は抱いております。だから今度こそは、本当の愛や恋を見つけた時には失いたくないと思っておりますの」
青空の下。
太陽のような微笑みを抱いて聖女が言う。
「だから、この強さはわたくしの花嫁修業。淑女の嗜みの延長なのですわ」
本音だと、その純粋な声で理解できる。彼女の言葉に偽りはないのだ。
むろん、観衆も困惑している。
直接言われている魔皇も、恐慌状態にさえ陥りかけている。
恋のため?
皆、理解ができないのだ。
もっとも――事情を知っているのだろうか。
観衆の中の二人は違った。
聖騎士ミリアルドは、罪悪感に囚われた顔。
黒衣の村娘は、いったいどんな顔をしていたのだろうか。
ともあれ、魔皇アルシエルはその尋常ならざる強さを花嫁修業と言い切った強敵を前にし、決意を魔力として燃やし。
『お待たせいたしました。それでは――再戦といきましょう、迷宮女王』
「はい、どうぞお手柔らかに」
強化を何重にも受けた魔皇。
その強化された魔皇さえも素の状態で圧倒している、異国の領主で聖女のコーデリア。
同時に動き――。
二人の統治者の影が、ぶつかり合った。
この規模の戦いとなれば、さすがに宮殿でも変化を察することができたのだろう。
この特殊なコロシアム空間の外。
赤き舞姫サヤカも、なにやら動きをみせようとしていた。