第152話、エピローグⅡ:魔猫神の告知
聖コーデリア卿が治める暗黒迷宮。
その傘下に含まれるここは、北の魔境。
有翼人やエルフ、獣人といった亜人が多く住まう地域。
かつては無限に湧き続ける魔物に苦慮し――そして猛吹雪で閉ざされていた、人が住むには適していなかった場所。
三千世界と恋のアプリコットでは、イベント発生地域として用意されていたエリアである。
魔物や極寒の地に生きる動物すら生きられなかった過酷な世界が、永遠の冬だとすれば、今のこの地には四季があった。
あの日、この地域を訪れた聖コーデリア卿が吹き飛ばした極寒――死の気配は、冬にしか訪れない。
冬の極寒すらも、今の彼女ならば消滅させる事も出来るのだろうが、それでは寒い環境に適応した動物は死滅してしまう。だからこそ、この魔境には四季と言う概念が生まれていたのである。
現在の統治者は魔皇アルシエル。
その名は強者が代々引き継いでいるが、現在のアルシエルの中身はかつて天使であったもの。
大天使と名状できるほどの強大な存在である。
だが、戦いが終結したからだろう。
その仮面の下――舞台俳優のような精悍で甘い顔立ちには、穏やかな微笑が刻まれ始めていた。
時刻は朝と昼の間。
民たちはブレイヴソウル騒動で破壊された街並を修復している最中。
新しい時代がくると皆、知っているのだろう――誰しもが前向きで、その表情には笑顔が浮かび続けている。
活気で満ちていたのだ。
魔皇アルシエルは強大な存在。
それゆえに、自分よりも強大な存在の顕現にはすぐに気付いたのだろう。
明るい街の路地裏。
気配を消していた魔猫師匠が、くはははははっと魔皇を脅かすより前に、仮面の皇帝は即座に跪いていた。
闇に向かい、対となる無数の翼を畳んだ美麗な皇帝は――すぅ。
恭しく礼をしていた。
『大魔帝閣下、お戻りになられていたのですね』
闇の端っこが、ピコりと蠢く。
闇に潜んでいた魔猫師匠が耳を動かしたのだろう。
闇の中からネコの鼻先が出現し、次に満月のような赤い瞳と三日月のような猫口が現れ。
ニヒィ!
独特な猫の笑みと共に、大魔帝ケトスは闇から浮かび上がってきた。
人々が跪く魔皇に気が付き、そしてその目線の先にある獣神に気が付いたのだろう。
慌てて主にならい平伏の姿勢を取り始めている。
有翼人にして街の治安を守るホークマン達も空から舞い降りてきて、整列。既に路地裏の周囲は魔猫王を出迎える、神の降臨を歓迎する式典状態となっていた。
神父のような穏やかな声が、ネコの口から刻まれる。
『あれ、バレちゃってたか。でも大魔帝閣下の名も、仰々しい歓迎もやめておくれ、今回は魔猫師匠として顕現していてね。あまり重々しい名を出す気はないんだよ』
『つまり……また脱走なされたと?』
『おや、こっちもバレてしまっているのか……できる皇帝はこれだから困るね、まあ脱走はお家芸。私の周囲も脱走前提で仕事を進めているから問題ない。さて、魔皇アルシエル、君なら何故私がしばしば脱走するのか、その答えも分かっているね?』
問いかけに、魔皇アルシエルは仮面を外し頭を下げたまま。
『あなたはとても強大な魔。強大な神。強大な存在。けれど、大きすぎる存在であるともいえるでしょう……ですので、部下たちはあなたに頼り過ぎている傾向にある。故に、閣下はこうお考えなのでしょう。閣下がいなくとも、部下たちで滞りなく仕事ができるようにしたい』
『そう、その通り』
『と――もっともな言い訳を用意して、本当はただ書類仕事がお嫌いなのでしょうね。文字を理解し、目を通し続ける疲労はそれなりに重い。お気持ちは分からなくもないですが』
そ、その通り……と言わんばかりに小刻みに揺れるのは、魔猫師匠の尻尾。
もふもふふわふわな尾だけが応じていたが。
こほんと誤魔化し魔猫師匠はホークマン達に目をやった。
『手を止めさせて済まない。どうか気にせず続けておくれ』
『不躾で申し訳ありません。彼らもこれから先に残る聖コーデリア卿と獅子神オスカー=オライオンの神話、その登場人物であり、聖女の師であるあなたの存在に興味があるのでしょう』
『なるほどねえ! まあ私のような素晴らしい神を拝みたい気持ちは理解できるよ! と、言いたいところだが。すまない、少しプライベートな話になる。場所を変えようか』
魔皇アルシエルは頷き。
魔猫師匠を宮殿へと案内した。
◇
紅茶とジャムクッキーの香りが広がる応接室。
魔猫師匠は鼻をスンスンと蠢かしていた。
『おや、この魔力の香りは……コーデリアくんが来ていたのかい?』
『はい、ミッドナイト=セブルス伯爵王からのパーティに誘われたらしく、サヤカ嬢を連れにこられたのですが――まだ近くにいる筈ですので、お呼び止めいたしましょうか?』
『いや、それには及ばない。かえって好都合……というか、たぶんコーデリアくんも同じことを考えて動いているのかな』
意味深な事を言う魔猫師匠が、ニャフフフフっと嗤うせいだろう。
かつて有名企業グループの社長だった男は違和感を覚えていた。
大事な話をしようとしているのだと、経験が語っているのだ。
端整な俳優顔の魔皇アルシエルは、眉間に硬そうなシワを刻んで言う。
『あの、なにかあるのですか?』
『まあまあ、そう心配する事じゃあない。いや、ちょっとは心配しないといけないのかな? うーん……とりあえず立ったままはなんだし、遠慮なく座り給え』
ゲストであるはずの魔猫師匠であるが、既に応接室を自分のテリトリーに書き換えたのだろう。
モフモフクッションの如きふわふわな魔猫眷属が、応接室に大量召喚されている。
当然、エリアの書き換えは上位魔術だが、魔猫師匠にとっては詠唱すらも必要としない領域に過ぎないのだろう。
そんな魔猫師匠が探るように、ずずずっと啜る紅茶越しに目線を送る。
『それはそれとして、サヤカ君は元気にしているかい?』
『え? え、ええ……』
『かなり大規模な人数を躍りで支援していたからね、ちょっと心配だったんだけど』
『聖コーデリア卿が治療をして下さったので後遺症もなく……お気にかけていただき、ありがとうございます。それで、いったい何の話で』
訝しみ指を組んでしまう魔皇アルシエルを見て。
ニヤニヤニヤ、魔猫はもったいぶった様子のまま。
『そう緊張しないでおくれ、悪い話ではない。おめでたい話だよ』
おめでたい話。
言われても魔皇アルシエルには理解ができなかった。
外から入り込んでくる朝陽の中――暖かい部屋で魔猫師匠は告知した。
『彼女をしばらく公務から外し給え。彼女本人にもしばらくは無理をするな、そしてちゃんと栄養のあるものを食べて、ゆっくりした方がいい――そうサヤカくんに伝えておいてくれないかな?』
『それではまるで――』
『ああ、まるでじゃないよ。おめでとう、一年もしたら君もパパになるだろう』
一瞬。
男にはなんのことか、理解するのに時間がかかっただろう。
天使と人間の間で、子が宿るとは想像していなかったのだろうか。
気付いたその時には――よほどの動揺と歓喜が浮かんだのだろう。魔皇アルシエルはピアニストのような大きな手で口元を覆っていた。
『ワタシたちに、新しい命が……』
『おや、そんなに驚かなくてもいいだろう。思い当たることはあるんだろう?』
『そ、それはまあ――』
どうやらかなり心当たりがあるらしい。
貫禄滲む皇帝の少しだけ赤くなった顔には、スーツが似合いそうな大人の男の色気があった。世の女性はそんな、渋さもある甘いマスクの男に心惹かれるのだろうが、あいにくと魔猫師匠は魔猫。
男の美醜への興味はあまりないようである。
むしろ、私の方がモテモテだしと、ふふん!
投げ出した足の肉球を輝かせながら、自慢げに言う。
『照れなくてもいいさ、命を育むことを我らが主も歓迎されている。異種族の、それも大天使と転生者たる人間の子どもとなると、どのような能力をもつか。そういった点でも興味があるけれど、そういうのは下世話だね。だから、私は素直に君を祝福に来た。おめでとう、魔皇アルシエルくん』
父となる魔皇は本当に動揺しているようで――魔猫師匠の前でみせているのは、長い手足の置き所に迷い困惑する男の素顔である。
珍しく情けない様子で、落ち着きを失っているのだ。
魔猫師匠はそんな男の反応も楽しみにしていたのだろう。
ニヨニヨニヨ。
ネコの丸い口が、にょほほほほ! っと歪んでいる。
『おやおやおや、どうしたんだい? もしかして余計なお世話だったかニャ?』
『い、いえ。あ、ありがとうございます。閣下……その、教えて頂いて』
『まあ、まじめな話だ。彼女に無理をさせて何かあったら事だからね。コーデリアくんが今頃祝福を与えているだろうけれど、私からも無事に生まれてくるように加護を授けておく。それでもやはり無理はしない方が良いとは思うよ。その方が君も彼女も安心するだろう』
『しかし――参りました。どうしたものか……』
呟く言葉は重かった。
甘いマスクの美壮年は、周囲に魅力的だと感じさせる端整な口元を押さえたまま。
二人は愛し合っていると知っている魔猫師匠はモフモフな首をこてんと、横に倒していた。
『あれ? どうしたんだい? てっきりもっと喜ぶものかと思っていたんだけど』
『もちろん、とても嬉しいのです。本当に……とても。けれど、大事なことを思い出したのです。ワタシはまだ、彼女にプロポーズをしていない』
真剣に悩む美形魔皇に、はぁ……?
『いやいやいや、君。コーデリア君と戦って負けて、死んでだ時。おもいっきし、告白みたいな状態になっていただろう? あれ、もうプロポーズみたいなものじゃないかな?』
『しかし。やはり、女性とはプロポーズにロマンを感じるものなのでありましょう?』
『んー、まあうちの奥さんも……なにかというとプロポーズの話題にはなるねえ』
三人の妃、妻を持つ魔猫の神に前のめりとなった魔皇アルシエルが――ガシ!
魔猫の肩を掴んでいた。
『どうか! ワタシに女性のための、一生の思い出に残るプロポーズの仕方を教えてくださいませんか!?』
『うわ! 君、そーいう風に叫べるんだね。てか、本当にあの時の告白でもう心は通じてるんだし。そもそも、そーいうことをしないと子どもも出来ないわけだし。ぶっちゃけもう君たち、他の誰にも異性としての興味なんてないんだろう? プロポーズは確かに思い出になるだろうけど、必ず必要ってわけじゃないと思うけど……』
あの魔猫師匠を動揺させるほどに、魔皇アルシエルは真剣だった。
真剣過ぎた。
根がかなり真面目なのだろう。
『そうです、今はちょうど街を再建している最中。都市の中央に、彼女の巨大モニュメントを設置し……ライトアップ。ゴーレムの技術を転用し、町全体を動かしインド映画のような壮大な踊りを展開させ。最後にワタシが登場し、彼女に結婚してくれと……そうお願いする。いかがでしょうか』
『いかがでしょうか……って、君、そういう冗談はさすがにちょっと』
『冗談、とは?』
今までは騒ぎの連続で気付かなかったのか。
或いは本当に気が動転して、歓喜に揺れる魔皇アルシエルは錯乱状態になっているのか。
それとも相当に色ボケなのか。
魔皇アルシエルの瞳は笑っていない。
翼がバッサバッサと雄々しく揺れている。
ともあれ本気だと魔猫師匠は悟ったのだろう。
耳を後ろに下げ、イカの形の耳を作った師匠が引き気味に髯を揺らす。
『いや……神としての神託だけど。それ、絶対だめだと思うよ。ま、まあ回避できたとはいえ、大きな終末戦争があったばかりだ。強き皇帝に跡継ぎができるとなったら、それは明るい話題さ。国で祝祭するのは悪いことじゃないとは思うけど』
『祝祭……国民の休日、というわけですか』
『まあその辺りは知らないけど……てか、そろそろ顔を離してくれないかな。私をドン引きさせるって君、なかなかだよ?』
パートナーの懐妊を知り状態異常となっている男の頬を、ブニュー。
肉球で押し返す魔猫師匠は、やべえなこいつ……状態で、緊急転移。
『ともあれ、私は知らせたからね。サヤカ君にはコーデリア君が伝えている筈だけど、コーデリア君もコーデリア君でちょっとズレてるからねえ……私も向かう事にするよ。えーと……二人は』
『おそらくはもう、セブルスの街に向かっているかと』
公務となるとすぐに理性を取り戻したのだろう。
先ほどとのギャップに魔猫師匠は苦笑を落とし。
『了解さ。それじゃあまたくるけど、まあ過度に心配はしないことだ。父親の先輩として、いつでも相談に乗ってあげるよ』
告げて、魔猫師匠はその姿を闇の霧へと変えていた。
ザァァァァァっとそのまま次元の隙間へと身をくぐらせ、伯爵王が開催するとされるパーティを想いペロリと舌を覗かせているが。
モフモフなその耳は揺れていた。
どうやらいまだ興奮冷めやらぬ魔皇アルシエルが、大規模な宴を開こうとしているようなのだが。
そちらへの興味は、実はあまりない様子。
大魔帝ケトスこと魔猫師匠には見えていた。
そういうのは生まれた後に。
それに今は最終決戦で壊れた魔境の復興が最優先でしょう……と、赤い髪の美女に説教され、宴は中止。
本格的にグルメを味わえるのは約一年後のことになる――と。
ロックウェル卿ほどではないが、先を見える魔猫師匠の瞳には。
そんな彼らの甘くおかしいエピソードが見えていたのである。
とにもかくにも、皇帝に強き子が生まれるのは確実。
彼らの子どもは国民にも歓迎されるだろう。
もっとも、親バカで過保護となるアルシエルの姿も一緒に観測されているが。
それもまた一つの幸せだろうと。
明るい未来を観測しながらも、魔猫師匠はセブルスの街へと向かったのだった。
エピローグⅡ
魔境の皇帝:魔皇アルシエル ~おわり~