第148話、審判―外道なるモノたち―
崩れて壊れたはずの不帰の迷宮。
その最奥の神殿にて。
喪服令嬢ミーシャは考える。
異形なる獣の神々。
それは宇宙と呼ばれる三千世界を、自由に行き来できるほどの力ある存在。
彼らはこうして多くの世界を時に救い、時に制裁を加え、時にその滅びを観測する。
本当の意味で上位存在にあたる神性なのだろう。
今、こうしてこの世界も救われた。
滅びるために作られた世界の筈なのに、滅ぶことなく明日を掴むことができた。
けれど、その犠牲となったコーデリアはどうなる。
あの子は、いままでさんざんに人に尽くして生きていた。
苦労を背負って生きていた。
誰のせいだ。
そんなの決まっている。
初めて友達になったときは、ぐずぐずノロノロして、自分の意見を言えずにいたあの子の腕を引っ張り、大人の前から連れ去った。
あたし、この子と遊びたいの。いいでしょう、お父様、と。
その時のコーデリアは多くの人間の心を同時に読んでしまい、混乱していたのだろう。困惑していたのだろう。
当然だ、そこはあのクラフテッド王国の貴族たちが集まる場所。欲望と諍い、負の感情が渦巻く心醜い貴族の社交界。心綺麗な乙女がそんな心を読み取ってしまったら、唖然としてしまうに決まっている。
子どもだったミーシャはそんなことを知らない。
ただあの栗色の髪のとても綺麗な子が、大人たちに囲まれ泣きそうだったから救ってあげただけ。
手を差し伸べただけ。
あの時のミーシャには誰かを助けたいという、善意があった。
ああ、そうだったとミーシャは思い出す。
あの時は本当に、ただ、あの子を助けたいと、友達になりたいと思っただけだったのに。
嫉妬はいつしか積み重なり、醜い心を制御できずに姫は道を踏み外した。
それでも。
あの時、まだ五歳程度のコーデリアが困っていた時に助けた、あの感情は本物だった。
前世ではいなかった友達ができた。
ミーシャは嬉しかったのだ。
本当に、嬉しかったのだ。
けれど次第にそれが当たり前になった。
だんだんとその幸せが、当然だと思うようになっていた。
他にも自分を慕う、いや、利用しようとする社交界の友達ができて――だんだんとコーデリアのことが疎ましくなってきた。
誰もが言うのだ。
コーデリアは綺麗でかわいくて、それに不思議な力を持った聖女だと。
その時、幼いミーシャは思ったのだ。
これはあたしが開いたパーティーなのに。
なんでコーデリア、あんたが主役みたいになってるのよと。
そういう小さな傲慢が重なって、ミーシャは悪辣姫へと成り果てた。
ごめんなさいと言えなくて。
大きく道を踏み外したのだ。
今のミーシャが当時の自分を思い出し、あまりの未成熟さに息を漏らす。
それでも。
もはや取り返しのつかない失敗だらけの人生だったとしても。
償う事の出来ない罪を背負った最後だとしても。
「最後に、コーデリア。あなたを救いたいと願う、それってきっと、あたしの本音だと思うの」
思わず漏れた小さな声を拾うように、大魔帝ケトスは赤い瞳を細めていた。
『願うだけならば誰でもできよう。思うだけならば自由であろう。なれど、どれほどに過去を美化しようとも汝が行った罪は消えぬ。もはやどれほどの善行を積んだところで、汝の罰は抗えぬ』
「……ちょっと、大魔帝さま? あなた、もしかして勝手に人の心を読んでるの?」
『我等ほどのケモノとなれば、他者の心を読むくらいは――』
自慢げに髯を張る大魔帝ケトスの出鼻をくじくように、ミーシャは露骨に眉を顰め。
「うわ……女性の心を勝手に読むのって、どうなの? 最低……」
『……ミーシャよ。そなた……なかなかどうして肝が据わり過ぎておるな』
「しょーがないでしょ。開き直ってでもいなきゃ、あたしなんて図々しく生きていられなかったんですから。今だって同じ、でも、開き直りの悪人だからこそできることもある。いつまであたしの肉体がもつか分からないから、単刀直入に言うわ」
呼吸をして、数秒。
喪服令嬢ミーシャは言った。
「たとえ本当の賭けがオスカー=オライオンを対象にした、世界を救えるかどうかだったとしても、あなたたちはあたしとも契約をした」
『契約?』
「忘れたとは言わさないわよ、あたしか、あたしの息のかかった存在が全ての悪意ある天使をどうにかしたら。あなたたちはこちらの要求を叶えると魔導契約をした。あの契約はまだ生きている筈、そうよね? 裁定の獣神さん?」
厳正で公正なる白銀の魔狼ホワイトハウル。
彼は契約や取り決めにおいても公平なのだろう。
たとえ下劣な姫であっても、契約に関しては正しく意見を述べるのだろう。
罪を裁くその咢が、淡々と告げていた。
『如何にも――あの契約は生きておる。汝が条件を満たしたその時、キサマのせいで不幸となった存在の救済を約束した』
そう。
悪辣姫ミーシャのせいで不幸となった者を、ここにいる異常な神々は救う義務がある。
一柱で奇跡を起こせるほどの獣神が群れているのだ。
そしてオスカー=オライオンもまた、ミーシャ姫によって不幸になった人物。
ミーシャ姫の暴虐により死んだ魂と共に、救済がされると約束されているのだ。
「――なら」
『愚かな――どう交渉するのかと思えば、その程度か。早合点をしたな、娘よ』
「早合点って、なにいってるのよ! 契約は契約でしょう! 神であっても契約違反なんて許されるはずないでしょうが!」
『吠えるな、小娘――』
裁定者たる狼。
ホワイトハウルが言葉を遮り、瞳が開けていられぬほどの聖光を放っていた。
咆哮である。
神々しい獣毛を膨らませ唸るホワイトハウルの姿を、光り輝く鳩が写真に収める中。
『――キサマは条件を満たしてはおらぬ』
「は!? どういうことよ!」
『穢れし姫よ、キサマは全ての天使を止めることはできておらぬ。それになにより、黄金獅子はキサマに同情しておった。その心と過去に触れ、キサマを憐れんでおった。黄金獅子、オスカー=オライオン自身はキサマのせいで不幸になっているとは自覚しておらぬ。故に、願いの対象外』
ミーシャが叫ぶ。
「なっ、そんなの屁理屈じゃない! 神のくせに恥ずかしくないの!?」
『契約は契約だ。屁理屈以前の問題として、全ての天使を対処できていない以上。そもそも、条件を満たしておらぬ。故に、願いは成立せぬ』
たしかに、白銀の魔狼の言う通りなのだ。
ミーシャも実はそれは理解していた。
オスカー=オライオンの件はともかく、この世界にはまだ天使が存在する。
魔皇アルシエルがそうであったように、エイコ神による扇動を受けていない天使は存在する。あの大天使だけが例外などという都合のいい現実などない。
表舞台にでてきていない天使が存在する以上、全ての天使に対処できていないのは事実としかいいようがない。
ミーシャは頭を働かせる。
どう屁理屈をこねるか。
どう捏造するか、悪党としての頭を動かしたのだ。
だが。
ミーシャは答えを得たが、それはできないと感じていた。
ミーシャの出した外道な答えは、時を止めてあるこの状態で、天使を対象とした魔術を放ち全ての天使を殺すこと。
対処はできているという事実はできる。
けれど――もはや彼女にはできなかった。
力が足りないのではない。
そんなこと、できないと理性と心が否定するのだ。
たとえ、願いにもあるミーシャのせいで不幸になった人間の救済により蘇生されるとしても、今のミーシャはそこまで外道な手段を取ることができなかった。
そんな心を読んで、どこか感心したような顔でホワイトハウルが告げる。
『ほう、皮肉な話であるな。真っ当な心と常識、良識を取り戻したからこそ……汝は全てを台無しにする、か。さて、手段はもう見えぬようだな。残念だがこれで対話は終わりだ。我等はこの地を去る。後にケトスがコーデリアと眷属たるキースを迎えに来るだろうが、それで終わり。最後にまともな判断しかできなかった外道なる姫よ――さらばだ。己が過ちを悔やみ、冥府の劫火で焼かれるがいい』
「待って――!」
ミーシャは探る。
手段を探る。
けれど、どれも誰かを犠牲にする答えしか浮かばない。
ならば、土下座しかないか。
いや、公正なる審判のケモノに土下座など意味がないだろう。
土下座で全てが解決するなら何度でも頭を地にこすりつけるが――。
その時だった。
声が響いた。
『お待ちなさいな、侵入者の方々』
「その声は――」
『お待たせしましたね、ミーシャさん。こちらがあなたが接触していない全ての天使です』
それは人を小馬鹿にするような、けれど美しい声。
道化師クロードの天からの声だった。
不帰の迷宮に、まだ見ぬ天使たちが出現していた。
彼らはまだ停止した時の中。
「ナイス! って、素直に感謝したいところなんだけど。なんであんた、この時間が止まった空間で動けているのよ! このぶっ壊れ性能のケモノ達はともかく、あんたのレベルじゃレジストできないでしょう?」
道化の勝ち誇った声が響く。
『おやおやおやおや、お忘れで? わたくしとエイコ神はそちらとは別の世界、地球にいる。あなたの終わる命をギリギリで引き留めている……時間停止状態、時属性の停止魔術もここまではさすがに対象外ですからね、自由に動けているというわけです。今、彼女と同時にデバッグモードの端末に火を噴かせながら、必死にそちらに干渉しているのですよ』
「火を噴かせながらって……」
『比喩ではありません。本当に、その神々の空間に干渉するには演算能力があまりにも足りない。エイコ神が天才だからこそ、その領域に届いているだけであって本来ならすぐに破綻している計算式。あまり長くはもちませんので。お急ぎを――』
かなりの無理をしているのだろう。
「と、とにかく、助かったわ。それで、どうすればいいの!」
『彼らはエイコ神によって洗脳状態となっている天使。あなたの解呪で状態異常の解除を』
「解呪って、あのねえ! クロードさん、あなたそれでもゲームクリエイターなの!? 解呪は心清らかな存在か、かつての腐った巫女長みたいな、聖職者の職業によって無理やり資質を引き出さないと発動できないでしょ! 弱い解呪程度なら発動できるけど、あたしにはエイコ神による洗脳を解けるほどの解呪は発動できない。そういう、清い心で相手の呪いを解くとか、そういう能力は無理よ!」
あまりにも本人の性質とかけ離れた魔術は、発動できない。
魔術の基本である。
以前、コーデリアが復讐に帰還した時のクラフテッド王国、その聖職者たちが回復魔術を使えなくなっていたのが良い例だろう。
けれど道化師クロードの声はそれを否定した。
『あなたのステータスには変動がある。おそらく――今のあなたなら発動できますよ』
「なるほど、そういう事ね。もしこれで発動できなかったら、さすがにちょっと文句を言うから覚悟しときなさいよ!」
『はいはい、あなたのそーいう図々しいところだけは認めますよ。褒めてはいませんがね。いいから早くおやりなさい、もうあなたの寿命も僅か。交渉の途中で消えたらそれで終わりなのですから』
「だぁぁぁぁあぁぁ! 集中してるんだから、急かすんじゃないわよ! それじゃあ、やるわよ」
道化師クロードとエイコ神がミーシャのステータスを弄り、本来なら使えない筈の解呪を使用できるようにしたのだろう。
そう判断したミーシャは祈りを捧げ。
その握った手の隙間から、光が満ちる。
解呪は発動されていた。
創造神によって歪められていた天使の戒めを、解いたのである。
ホワイトハウルはじっと、聖なる魔術の発動を眺めていた。
天から道化師の声が響く。
『さて、神々よ。此方が創造神として、神の視線で観測している範囲は世界全土。天使はこれで全て無害化、ミーシャ姫の手によって道を正された。救われたと解釈できます。そしてその他の天使は初めから条件の外……元から洗脳も受けておらず、悪意のない個体しか残っていない。条件はクリアされたのでは?』
モフモフな耳を蠢かしたホワイトハウルが天を睨み言う。
『汝がビナヤカの魔像により生み出された人間、道化師クロードか』
『そうですが、なにか?』
『隣にエイコ神がいるのであろう。話がしたい、繋げ』
『……お断りいたします』
道化師クロードの声のみが響く。
全てを悟った声で、ホワイトハウルが瞳を閉じる。
『そうか――あの小娘、外道姫より先に逝きおったか』
「な……!」
それに驚いたのはミーシャだった。
「どういうことよ! だって、オスカー=オライオンは自分以外の全てが救われる未来を掴んだんでしょう。なんで、なんでこの世界を作った、全ての元凶のあの子が死んでるの」
『あやつは汝等の世界、全ての命に強固なるバフと無敵状態を付与したのだ。何の代価も犠牲もなく、そのようなことができる筈があるまい。そして、あの娘も罪を多く犯し過ぎた。汝らの世界をゲームだと思い込もうとし、そしてゲームではないと気付いていた上で多くの悪を為した。その、せめてもの罪滅ぼしに、己が魔力、すなわち命を削ってでも世界のためにプログラムを走らせ続けた。これはその代償。ケトスが言っておっただろう? 奇跡など容易くは起こらぬ、そこには必ず奇跡を起こすことになった因や、代価が存在する……これは、小娘自身が選んだ贖罪の結末。我等が口を出せる範囲にある事柄ではないのだ』
ホワイトハウルの瞳から、遠見の魔術が発動される。
投影された魔術に映ったのは、ナルキッソスの如く人目を惹く美青年、道化師クロード。そして、その足元で寄り添い。
ひっそりと息を引き取った、年齢よりも幼く見える新部栄子の姿がある。
栄子はとても幸せそうな顔をしていた。
やり切った顔をしていた。
その横に座る道化師クロードの頬には、涙の筋が流れていた。
記憶を制限していたビナヤカの魔像の消失と共に、記憶妨害が解けたのだろう。
今の道化師クロードは全てを知っていたのだ。
自分自身が、栄子が恋をするためだけに作られた、特別な人間だという事を。
だから、その栄子を失った今。
道化師クロードには何も残されていない。
生まれてきた意味を知ったときには、既に栄子は、うざったい後輩は死を覚悟した奇跡を起こし続けていたのだから。
道化師はいつから泣いていたのだろう。
いつから、涙でメイクを落としていたのだろう。
それでも。
道化師の男は平静な声を出し続けていた。
泣いていることを、エイコ神が死んでいることを知らせぬために――。
それは道化師としての能力だったのだろう。
ミーシャが、乾いた声を喉の奥から零していた。
「そんな……」
『この娘も、実に哀れであった。だが、実に残酷な娘でもあった。ゲームだからと思いこみ、悪事を行ったそなたならば分かるであろう? ミーシャよ』
エイコ神の目的は世界を破壊して先輩を取り戻すこと。
そもそもが世界を破壊する事が最終目標だったのだ。
だから、本当に……多くの悪事をなしていた筈。
『なれど……その最後は、生まれて初めて恋をした男の傍。罪を拭いながら、愛する者の脇で死ぬことが許されたのだ。そしてなにより愛する男をこの世界に連れ帰る、他の何を犠牲にしてでも……その願いは叶ったといえる。案ずるな、その魂は無下にはせぬ。この者はビナヤカの魔像に扇動されていた、そして最後に大いなる善行を為した。その罪を過度に責める気は我にはない』
映像の中の道化師が言う。
『それよりも異界の神よ。これでミーシャ姫との契約は履行されるはず。悪辣姫のせいで不幸となった全ての命……犠牲となったクラフテッド王国の無辜なる民や、犠牲となった他国の人間全てを救済していただきますよ』
『契約であるからな。仕方あるまい。だが、黄金獅子は帰ってはこぬ。そなたの横で死んでおる、全ての元凶も同じ。契約の対象外だ』
ミーシャが食い下がる。
「それくらいサービスしてくれてもいいじゃない! あんたたちが勝手に人の世界で賭けをしていた、それは事実。好き勝手に動いて、好き勝手に行動するケモノじゃあ知らないんでしょうけど。賭け事をする場所には場所代がかかるのよ! てか、大魔帝ケトス! あなたならそれくらいは知ってるでしょう!? 場所代分の追加の奇跡ぐらい、この世界に払いなさいよ!」
大魔帝ケトスが肩を竦めてみせ。
『だってさ、ホワイトハウル。どうする? 実際に場所代を払っていないのも、賭けるときに肖像権的なアレを払っていないのも、そもそもこの世界に不法入界しているのも事実だからね。私はそれくらいならいいと思ってるんだけどねえ』
『ならぬ――』
『ええ、なんでさ』
ケチケチシベリアンハスキー、と悪態をつく大魔帝ケトス。
その顔を眺め、白銀の魔狼は告げる。
『我は裁定者。我が姫やエイコ神を許してしまっては、誰が怒る』
『何の話だい』
『姫の悪性に苦しめられた者たちの恨みを、エイコ神に消されていった者たちの嘆きを、我が拾い上げ、我がその者たちの代わりに怒らずに――誰が怒る。この者達によって苦しめられた者たちの憎悪を蔑ろにしろというのか? 我にはできぬ。犠牲者たちの正当なる恨みを拾い上げる、それが我の矜持であり、仕事でもあるのだ。ミーシャ姫とエイコ神。こやつらによって、何人が死んだ。何人が消えた。何人がその人生を狂わされた。加害者側の事情など被害者には関係なき事』
そりゃそうだけど……と、尻尾を左右にふりふり。
大魔帝ケトスが言葉に窮する中。
裁定の獣は、滅んでいった哀れな魂を包むように、慈しむように……静かに天を仰ぎ。
ケモノは悲しき唸りを上げていた。
『他者を害するということは、とても悲しいことだ。突然に平穏が奪われるということは、とても恐ろしいことだ。ミーシャよ、今のお前がコーデリアとオスカー=オライオンを助けたいと願うように、彼らも願っていたのだぞ? 殺さないでくれ、助けてくれ、どうして、こんなひどい事をするのだと……。たしかに、彼ら自身は救済の対象だ。何らかの形で、現世へと戻ってくるだろう。それが我等の奇跡、我等の力。これほどのケモノ神が集まれば、不可能はない。だが――犠牲となった瞬間の、彼らの無念を思えばこそ、容易い奇跡など我は認めぬ。認めてはならぬと我はそう思うのだ』
それが白銀の魔狼ホワイトハウル。
三獣神の矜持なのだろう。
正論であると、ミーシャ姫は感じたのだろう。
『我は間違ったことを言っているだろうか。答えよ、姫よ。殺戮者よ。どれほどに取り繕おうが、汝が為した罪は消えぬ。オスカー=オライオンが戻らぬのも、全てがお前の過ちが帰ってきた結果。助けたいと願った犠牲者たちの恨みが今、汝に帰ってきているだけ。我は我が判断を間違っているとは思えぬ。それでも、友のためにオスカー=オライオンを救いたいと願うのならば――申し開きをせよ、我を説得してみせよ』
「それは……」
言葉を探すが見つからない。
ないのだ。
もう、手がない。
ここで踏ん張らないといけないのに、もう、なにもない。
ミーシャは焦る。
けれど。
焦っても、何もでなかった。
今までやってきたことが返ってきただけ。
そう言われてしまえば、否定できないのだ。
自業自得。
二度と取り返せない過ちとは……こういう場面で、自らに深く突き刺さるのだろう。
黒衣と黒い髪を揺らし、ミーシャはぎゅっと唇を噛む。
あきらめたくない。
けれど、なにもないのが悔しい。
どうして自分はこれほどまでに醜く、穢れているのだろう。
後悔が、滲む。
もっとまっすぐ生きていたら。もっと正しく生きていたら。
こんな結末にはならなかった。
どこかで踏みとどまっていたら。
もっと誰かのために動いていたのなら。
答えは他にあったはずだ。
返せる言葉があったはずだ。
それでも何かないか、ミーシャは願った。
強く願った。
誰に対して願ったのか。
それはミーシャ本人にも分からなかった。
祈る相手の分からぬ祈りなど、誰にも届かなかった。
なにも現実は変わらない。
もはや手は尽きた。
あと一歩、あと一歩のところまでは話を進めたのに。
届かない。
だから、とても悔しいのだ。
そんなミーシャの顔を見て。
裁定の獣神は残念そうに告げていた。
『ない、か――。仕方あるまい。それでは話はこれで終わりだ。良いな、ケトスよ』
『さて、それはどうだろうか』
『もはやこの姫にカードはない。ケトスよ、キサマがこれ以上過度に加担するというのならば――今度は戯れではなく本気の戦いとなろう。神々が支配した楽園の時代より生きる我の力、最も古き三獣神の権能、あまり甘くみるでないぞ』
世界が、振動する。
本気の唸りを見せるホワイトハウル。
彼は被害者や犠牲者の側に立ち、その怒りを拾い上げているだけ。
どちらの主張も間違っているわけではないのだろう。
だが。
大魔帝ケトスは不敵に嗤っている。
『もし、他にカードがあったとしたらどうしようか?』
『なに?』
『今まではミーシャくん自身がもっていた交渉の手札だろう? けれど、彼女自身も気付かぬうちに持っていたカードなら、どうだい?』
大魔帝ケトスのモフ毛が揺れていた。
明らかにこの魔猫は、ミーシャに味方をしている。
世界に味方をしている。
おそらく最初から全て、そうだった。
口では辛辣さを滲ませていたが――その行動すべてが、世界のために動いていた。
猫はツンデレ。
素直になれないだけで――大魔帝ケトスはこの世界を存続させるために、世界の味方であり続けていたのだろう。その証拠に、大魔帝が動くときは全ての事象は好転していた。
けれど、それは今までの話。
この審判の前では無意味。
もはや手はない筈。
なのに。
『さあ、耳を傾けてごらん――私には聞こえている。君たちにも、そろそろ届く筈さ』
コミカルな神が穏やかな微笑を浮かべていた。
それはまるで聖職者の、祈りを聞き届ける清廉な顔。
モフモフな猫の耳が――ぴくり。
誰かの声を聞こうと揺れていた。




