第144話、◆不帰の迷宮に帰る者◆―その5―
◆【SIDE:オスカー=オライオン】◆
帰れない者達のために作られた家。
不帰の迷宮。
そのダンジョン主たる邪神はケモノを彷彿とさせる神々しい姿にて、最奥の祭壇で唸りを上げていた。
闇の中で煌々と照る赤い光。
それは憎悪の魔性の赤い瞳。
この世界に招かれ漂っていた、ブレイヴソウルたちの王。
『我はケトス。大魔帝ケトス――異世界の邪神なり』
名乗り上げそのものが詠唱となっていた。
周囲の闇が剣となり、最終階層到達者である若獅子オスカー=オライオンの元へと向く。
魔術名は、《ダモクレスの剣雨》。
効果はおそらく、魔力によって闇を変化――雨の如き数の邪剣と変え、対象を貫く攻撃魔術。
呼吸さえ困難なほど、周囲の魔力は荒ぶっていた。
勝てる筈がない。
それは分かっている。だからこそ説得しなくてはならない。
弾ける氷塊を飲み込んだような冷たさの中。
男は肺の奥から声を押し出していた。
「お待ちください、邪霊たちの王よ」
『待てぬ――』
大魔帝ケトスが咢を蠢かす。
その瞳にあるのは、慈愛。
『人よ、獅子よ、気高くも孤高なるオスライオンよ。せめて、この程度を返せぬようでは汝の望みは叶わぬ、夢に破れた戦士が嘆く終わりなど、我は見たくなどない。故に、我は汝に試練を与える。試練を通過できれば、話を聞こう。しかし、この程度さえ切り抜けられぬのなら――我は終わりを与えよう。眠りを与えよう。常しえの夢世界へと汝を誘おう。耐えて見せよ、切り抜けて見せよ。生きて見せよ。その魂の輝きを我に見せよ。我は人の心の輝きを欲する者。憎悪の底より全ての命を呪うケモノ、すなわち――憎悪の魔性なり!』
夢が破れてしまうくらいならば。
ここで殺してその魂を回収する。
それは、大魔帝ケトスの本心からの慈悲でもあったのだろう。
会話に失敗したか。
王太子オスカー=オライオンの瞳に一瞬の絶望が浮かぶが、獅子はそれを直ぐに拭っていた。
固有スキル:”獅子たる王太子の心”が発動していたのだろう。
それは、くじけぬ心。
折れぬ心。
あの日みた、月光の下で見た聖女への憧れ、憧憬から獅子が掴んだ専用スキル。
獅子は剣を抜いていた。
暗黒大剣には黒い稲光が纏わりついている。
それは紛れもなく既にこの世界最強の力。
聖コーデリア卿と呼ばれるようになった聖女よりも、強大な力。
「我が名はオスカー。獅子王の息子、騎士国家オライオン王国が王太子。オスカー=オライオン! 神よ、それでも話を聞いて頂きたいと願う」
『ほぅ、闇の雷を武器に付与する力、か。確かに、剣に魔力を纏わせる技術は多くの世界の王族どもがよく扱う権能ではある。既にそなたは王の器なのであろう。いかに我が友、ロックウェル卿の助力と助言を受けたとはいえ――よもや人の身でそれほどまでの魔力を纏うとは、あっぱれ。見事なり。あくまでも子猫としてはという条件付きではあるがな』
称賛しているが、大魔帝が浮かべる闇の剣は消えていない。
どう足掻いても、戦いは避けられないのだろう。
もっとも、それは神にとっては戦いですらないのだろうとオスカー=オライオンは感じていた。
おそらくは、さきほどの言葉の通りなのだろう。
本当にどこまでできるか、どこまで我を通せるか、理不尽に抗えるか。
己の野望を果たせるかを測る、試金石。
仮に全てを救うという願いを果たせず、道半ばで倒れるほどの実力ならば――。
慈悲ある終わりを授ける。
絶望に獅子が遠吠えを上げるより前に。
闇のケモノは容赦なく、獅子を食らうのだろう。
今、ここで。
試練は避けられない。
それはいい。
だが、その前に獅子は大魔帝ケトスに約束させる必要がある。
ロックウェル卿は歌っていた。
ホワイトハウルを止めることができるのは、大魔帝ケトスのみ。
そして既にあの白銀の魔狼はこの世界を観測している。
力あるケモノ達と共に、世界を眺めている。
ミーシャの冒険を眺めている。
だから。
最終決戦と呼ばれる最後のイベントの前に、大魔帝ケトスを説得し、裁定の神獣ホワイトハウルへの抑止力となって貰わなくては、全てが終わる。
まずは願いを聞き届ける条件を提示させる。
話はそれからだとロックウェル卿は助言していた。
言葉を選び、慎重に、緊張の中で獅子が口を開いた。
「神よ――」
『良かろう――その話に耳を傾けよう』
「え?」
フライング気味に大魔帝ケトスが応じていたせいで、オスカー=オライオンの口からは驚きの声がつい漏れてしまっていた。
しばらくして。
大魔帝は、ハッとした顔を見せ。
うにゃにゃにゃ!
うにゃっと口を開いたまま、ギリリと顔を引き締め唸る。
『そ、そなたの心に免じただけ、汝の善行に免じただけである! か、勘違いはするでないぞ。ともあれ、一度口にした以上は、我も神だ。汝の言葉に、耳を傾けよう。さあ、願いを言え。聖女コーデリアがあの日、望んだように。貴様の願いを聞かせよ。それが褒美――不帰の迷宮の踏破報酬としよう。尤も、それは我の攻撃を耐えてみせた後の話であるがな!』
大魔帝ケトスは鼻息をふんふん。
興奮した猫のようである。
ロックウェル卿の言っていた通りであった。
大魔帝ケトスは願いを叶えるネコの魔導具の物語を知り、片耳をピンと跳ねさせていたという。
他者の願いを叶える性質をもつ、異世界の四つ星。
願いのケモノ四星獣――ネコの置物と、熊猫と鯰猫、そして猫柳の樹。
四柱からなる、盤上遊戯の神々達。
彼らの物語を聞き、魔猫は目線のみを上に向け――ニヤリと嗤っていたという。
大魔帝ケトスは願いを叶えるケモノの噂を知り。
その逸話を読み耽り。
真似したくなっていたのだという。
ようするに、この魔猫。
条件を満たしたら願いを叶えてあげるよ!
という、童話にある願いを叶えるランプの魔人ごっこをしたいのである。
だからこそ、不帰の迷宮のダンジョンボス。
主となっているのだと、全てを観測する卿は歌っていた。
だが、これはコミカルに見えても、世界のためには必要な行為。大魔帝にとっては重要なイベント。
邪神たる大魔帝の、破壊衝動を抑えるための戯れなのだろう。
こうした遊びで、憎悪を抑えているのだろう。
だから、これは遊びであって遊びではない。
世界を壊さぬための大魔帝ケトスなりの、大事な儀式なのだ。
世界を壊さぬように、常にコミカルであり続ける。常に、遊びとグルメで心を鎮め続ける。
未来永劫。
この三千世界そのものの寿命が尽きるまで、永遠に。
とても悲しきネコなのだと、ロックウェル卿は語っていた。
この世界での戯れが終われば、また別の世界へと飛ぶのだろう。
新たな遊びとグルメを求めて。
故に、こそ。
本当にこの迷宮を踏破すれば願いを叶えてくれるのだろう。
だからオスカー=オライオンは願った。
「あなたの友、白銀の魔狼ホワイトハウル様による滅びを――あなたの手で防いでいただきたい。それが願いであります」
『なるほど、我にも少し話が見えたぞ――確かに、あやつならばこの世界を容赦なく裁くであろう。だが、それほどの願いならばちと足りぬな。完全制覇、つまり我を倒せるほどならば願いを全て、かなえてやっても構わぬが。いかに神の助力を得たとしても、それは不可能。だが、それではつまらぬ。故に……全てと言わずに、一時的ならば止めて見せよう。条件は……』
闇の中で輝く赤色を細め。
魔猫は考え、告げる。
『そうであるな――、一でいい』
「一、でありますか?」
『そうだ。たった一でいい、我に痛みを与えてみせよ。ダメージと呼ばれる現象を発生させてみせよ。我にダメージを与えるほどに強き決意ならば、その心を汲み取り、我が友を抑えるなどという傲慢な願いとて一時的には叶えてやろう。だが、我が止めるのはホワイトハウルによる滅びのみ。我自身がこの世界への関心を失い、聖女とその他、我が気に入ったものだけを連れ帰るとなった時、それを止めるつもりはない。さあ、選べ。それを承諾できぬというのなら、我を倒すか、或いは別の願いに切り替えよ』
たった一。
そう言っているが――。
獅子は闇を見上げた。
本当に、宇宙そのものが睨んでいるようなのだ。
これに一でもダメージを与える。
それがどれほどに難しいことか、成長したからこそ見えるのだ。
大魔帝ケトスがいるのは、遠い強さの果て。
谷底から崖を見上げる獅子、その崖の上の更に奥。
見果てぬ闇の頂上で、背筋が凍り付くほどの冷たい顔で、崖の下で蠢く脆弱なる命を眺めているのだから。
それでも。
やるしかないのだ。
魔導契約書を発生させ。
羊皮紙に自らの名を刻み、獅子は言う。
「我が名はオスカー=オライオン、あなたの提案を受け入れます」
『良いのか? 先ほども告げたが、我が止めるのはホワイトハウルのみ。我がこの世界を見捨てて終わるとなった場合の抑止力にはならぬぞ?』
「大丈夫でしょう――ワタクシは、コーデリア……彼女を信じておりますから」
闇の獣が眉を顰める。
『分からぬな。それは卿の予言であるか?』
「いえ、ワタクシがそうであったように。きっと、あの聖女ならば――あの日、母を喪い絶望したオレを救ってくれた彼女ならばあなたを必ず説得し、この世界に残らせるでしょうから」
『……。聞かせよ、獅子よ』
大魔帝ケトスは言った。
『なにゆえ、それほどに藻掻き苦しみ足掻くのか。コーデリアはたしかに面白い。善良で、感情を押し殺したまま、泣くことも出来なくなった心儚き哀れな乙女。あれは実に不思議な娘だ。不器用な娘だ。見守っておらんと、なにをやらかすか分からぬ――我ですら先が見えぬ乙女だ。なれど』
大魔帝ケトスは言った。
『そなたがそれほどに身を焦がし、魂を犠牲とする。それが我には分からぬ。確かに、聖女コーデリアは良き娘だ。なれど、若獅子オスカー=オライオンよ。おぬしがあれと関わった時間は、あまりにも短い。それにあれは自らに忘却の魔術をかけおった。不器用ゆえの勘違いが生んだ――汝を忘れ続ける、自らへの魔術をな。オスカー=オライオンよ、気高き獅子よ。汝がどれほどに尽くそうとも、あれはそれを覚えられぬ。あれはそれを忘れてしまう。掴めぬ夢の蝶の如く。汝の手のひらから零れて離れ、遥か遠くに飛び去ってしまうであろう』
聖女コーデリアが自らにかけた忘却の魔術。
その魔術式を波紋にして広げてみせ、大魔帝ケトスが無に映像を作り出す。
それは、何度も聖女を助ける獅子の姿。
オスカー=オライオンは何度も聖女を助けていた。
その度に、聖女はそれを忘れてしまう。
覚えておくという事ができない。
聖女の忘却の魔術は完璧だった。完璧すぎた。
『あれは良き娘だ。善良なる魂の持ち主だ。だが、敢えて言おう。我にとって、あれを助けることは造作もない。この世界にある、他の全てを犠牲にすれば良いだけなのだから。敢えて言おう、獅子よ。我はそれでもいいと感じておる。ブレイヴソウルたちもこの世界の終わりを望んでおる。それは正当なる憎悪。我と同じ憎悪。だが、おぬしは違う。おぬしがあれを助けるのならば、己が全てを犠牲とする必要がある。それが人の器の限界。どれほどに上限を超えようと届かぬ、現実の壁がそこにある。だから、我が弟子とて敢えて冷たく告げよう――あくまでも三千世界全てを神の目線で眺めた上での話だ。あの者に、お前の全てを犠牲にしてまで助ける価値はない、お前が犠牲にならずとも、我がこの世界を犠牲としてあの者を助けるのだからな。故に思う。何故におまえは、それでも藻掻き足掻き、苦しむのか――聞かせよ、獅子よ』
問いかける大魔帝ケトス。
憎悪の魔性に獅子が返したのは、深い感情を抱いた苦笑だった。
「ワタクシは……いえ、オレはあの日、あの月の下で見た彼女を忘れられない。それが理由でしょう」
大魔帝は言葉を待った。
しかし。
獅子の言葉は続かない。
理由を続けぬ獅子に、大魔帝が訝しむ。
『それだけか? 本当に、それだけの理由で、たったそれだけの覚悟で――貴様は我と対峙しようと?』
「言葉にすれば、忘れられない。それだけなのでしょう、ただ」
『ただ?』
「オレは母が好きでした。けれど、母はオレをそこまで愛してくれていなかったのかもしれません。オレよりも、国や父を愛していたのだと思います。それでも、それでもです――オレのたった一人の母でした。大好きだったのです。その母の亡霊を導いてくれた、母の温もりを思い出させてくれた聖なる乙女。あの日の出会いはほんの数時間。けれど、オレにとっては一生すらも超える大切な時間でありました。おそらく、オレは」
獅子が言う。
神を見上げて、遥か高みにある上位存在に向かって。
宣言した。
「彼女を愛してしまったのでしょう。あの日、あの時、あの瞬間に――」
愛ゆえに。
それは極めてシンプルだが、重い言葉。
憎悪の魔性とて、愛は知っていたのだろう。
『愛に価値など、つけられぬ……か』
獅子の覚悟を聞いた闇は。
嗤った。
『情景に縛られ続けるなど、愚かなり人間よ。なれど、その心。嫌いではない、嫌いではないぞ。人間よ。だが力なき心など、所詮は儚き泡沫よ。ならばその覚悟を見せよ、口だけではなく、その決意が力となることを我に証明してみせよ!』
大魔帝ケトスが肉球を伸ばし。
魔導契約書に名が刻まれる。
『魔導契約を結ぶ。承認せよ――我が名は大魔帝ケトス。汝との契約を交わす者なり』
魔導契約書に、契約が結ばれた。
願いは、滅びの一端となっている三獣神ホワイトハウルを一時的に止める事。
条件は、大魔帝ケトスに一でもダメージを与える事。
契約は完了。
▽憎悪の魔性:大魔帝ケトスが出現する。
神は契約に縛られる存在。
それは相手が猫神だとしても同じだろう。
だから獅子は叫んでいた。
「異世界の邪神よ! 荒ぶる憎悪の魔性よ! ――参る!」
あの日の情景を忘れられぬ獅子。
オスカー=オライオンは遥か遠い宇宙に向かい、吠えたのだ。




