第142話、◆不帰の迷宮に帰る者◆―その3―
◆【SIDE:オスカー=オライオン】◆
迷宮の闇の中にあるのは獅子たる騎士と鶏の姿。
そして赤い瞳の魔猫達。
無数に突き刺された松明の火による熱の魔力光は、まるで野営のキャンプファイヤー。
その揺れる火に乗るのは鉄板。
脂が弾ける音と、溶けていく霜降りの香りが迷宮内に広がっている。
マイペースたる三獣神。
ロックウェル卿が腹が減ったというので、すぐに野営の準備。
携帯食であるハムを焙りながら――彼らは話を進めていたのだ。
神鶏ロックウェル卿は獅子に語り続ける。
この世界の秘密を。
この世界の成り立ちを。
そして、神鶏の瞳には見えている……最終決戦にいる者達さえ知らない。
この迷宮の成り立ちを――。
◆
そもそも何故”不帰の迷宮”が、かえらず……。
不帰と名付けられたのか。
それはブレイヴソウルの、魂の叫びからきていたのだろう。
帰れない。
あの日々にはもう、二度と帰れない。
そんな、世界を呪う言葉こそが、その本来の意味。
入った冒険者が帰れないからではなく、帰れない者達が棲む迷宮。
それが不帰の迷宮。
そう、ブレイヴソウルは帰れなかったのだ。
普通の手段ではどう足掻いても元の世界には帰れない。
それでも、この世界から戻ることが可能な手段はあった。
それは、この世界における例外。
いつのまにか侵入していた大いなる異物。
大魔帝ケトスの力を借りた転移魔術書。
かの猫神の力ならば、ビナヤカの魔像によって作られた世界の隔たりとて、無力。
実際、大魔帝ケトスは既に世界と世界の狭間を通り超えてこの世界にやってきているのだ。
大魔帝ケトスの力があれば、元の世界に帰ることができる。
それはオスカー=オライオンが出会った転生者。
帰還者の存在が証明している。
帰還した彼女はおそらく、神など信じてはいなかっただろう。けれど、口約束でも約束は約束だからと――結果的に神に祈りを捧げた。
その祈りが天へと届き、届いた祈りは、神と繋がりのあった大魔帝ケトスにまで届いた。
魔猫王にして魔猫の神は、繋がった祈りにより、獅子たる王族に力を貸した。
それは変えようのない事実だった。
だから帰ることは不可能ではないのだ。
多くの転生者たちの実績もある。
王太子オスカー=オライオンと共にこの迷宮でその書を手に入れ、彼らは無事に帰還した。
帰る手段はあるのだ。
けれど、違ったのだ。
この迷宮で戯れる彼らは違う。
ブレイヴソウルは違う。
彼らはそもそも死んでいる。
召喚時に死んでいる者が大半。
まともに生まれてくることもできなかったせいで、転生もできない。戦争の道具――勇者となるべく呼ばれた強大な魂ゆえに、消滅もできない。
産まれる事すらできなかった転生召喚の水子。
悍ましき人間の欲望に巻き込まれた、無辜なる魂。
ああ、なぜ我等が死なねばならなかったのか。
なぜ、昏くて寒くて何もない場所に、永遠に彷徨っていないといけないのか。
そんな恨みが彼らをこの世界に縛り続けているのだろう。
ああ、憎い。
この世界が憎い。
憎悪している。
その憎悪は凄まじく、全ての破壊を望んだ彼らの心は共鳴した……。
祈りの心は力となる。
それは憎悪とて同じ。
むしろ他者を恨む心は多くの力を生んだのだろう。
だから――彼らの願いが天に届いたのだろう。
いや。
はたしてそれを天への願いと言っていいのか。
彼ら自身にも分からなかったのではないだろうか。
ともあれ、彼らの祈りを聞き届けた者は――とある異世界の邪神。
大魔帝ケトス。
かの神は憎悪の魔性。
世界を呪い、憎悪する存在。
この世界の狭間に彷徨っていたブレイヴソウル、不帰の迷宮の魔物となる彼らは、三千世界で最も恐れられているケモノ。
三獣神が一柱。
最も力ある破壊神を呼んでしまったのだ。
召喚魔術とも違う、ただ存在が共鳴し合っただけなのだろう。
憎悪の魔性。
それはまるで宇宙そのものだった。
大魔帝ケトスと呼ばれる存在の、憎悪が具現化した姿。
それは全てを覆い尽くす憎悪の闇。
大いなる闇が、本来なら声を出せない場所で、声を出す。
気さくで端整な低い声で、次元の狭間を揺らしたのだ。
『やあ、私を呼んだのは君たちかい? 君たちの憎悪に招かれ、呼ばれて飛びでてなんとやら。……って、おいおい、せっかく世界最強の存在たる私を呼べたっていうのに、返事もなしかい? 誇りたまえよ、君たちは最強存在の召喚に成功したんだよ? あ、信じていないのかい? これでも本当に私は、それなりに強い神なのだけれど。ふむ、こんなに言っているのに返事がない……あまりに長い間、狭間に漂っていたせいで人間性も失われてしまったのかな……』
呼ばれた大魔帝ケトスは、じっと眺めていた。
世界に漂う彼らを、じっと。
じっと――。
そして、ニヒィっと宇宙の中で歪みを作る。
口のように裂けた亀裂から、ネコのアルカイックスマイルが作られたのだ。
『よし、ならば仕方がない。君たちがちゃんと心と理性を取り戻せる場所を作ろう。話はそれからだ。ん? どうしたんだい? ああ、世界を壊してくれないのかって? やりたいのなら自分自身の手でやることだ。私はそれを推奨もしないが、止めもしない。どうやら正当な理由で恨んでいるようだからね、それを過度に妨害する気もないよ。ただ、ここじゃあいつまで経っても君たちの望みは叶わないからね――ここから中に入る手助けをしてあげよう。え? なぜそんなことをしてくれるかって? そりゃあ決まっているだろう、私も分類はブレイヴソウル。かつて君たちのように漂っていた時期があってね、先輩みたいなものさ』
大いなる闇が、ニヒィっと笑みを作り続けている。
そして彼らが捕らえられていた空間、その壁を、ジャリっと猫の爪で掻き。
いともあっさり解除。
大いなる闇が太々しい顔の、ふわふわな魔猫へと集束していく。
多くの者が知る大魔帝ケトスの姿となった猫は、もふもふの首を振り返らせ。
手を差し伸べた。
『さあ、おいで。ここは寒いだろう――私と共に遊ぼう。私と共に楽しもう。話は君たちに人間性が戻ってから。それまでは、そうだね。迷宮でも作って、そこで待っていよう。迷宮に来る者たちは覚悟ができている者たちだ、きっと彼らが遊んでくれる。入り口に看板を置いて、自己責任を強調しようか? 私は責任とかそういう話が嫌いだからね、うん、そうしよう』
闇に誘われたブレイヴソウルの姿が、魔物へと変わっていく。
人となれた者はいない。
もはや、人間だった時の記憶……面影が消えかけているのだろう。
だから大魔帝ケトスは彼らの姿を、魂に残っている人間性の残滓をかき集めて変貌させた。
それはゲームプレイヤーがプロフィール画面で設定する、アイコン。SNSと呼ばれる人との交流を求めるアプリに設定する、自らを示すアイコン。魂から得られる情報をもとに、大魔帝ケトスは丁寧に、ひとつひとつの魂を壊さぬように魔物へと変えていく。
何人かはまだ漂っていた日が浅く、人間に戻れそうな者もいた。
だから大魔帝ケトスは言ったのだ。
『君と君と、あとそっちの君はたぶんまだ間に合うよ? 人間に転生させて、元の世界に帰そうか? そう、断るんだね。ああ、そうか。それほどに君たちは、この世界を恨んでいるのか。憎悪は魂を縛り付ける、時にその身も行動も制限する。もう、君たちはこの世界が壊れるまでは、戻れない。帰れないのか――。そうだね、それも仕方がないことかもしれないね』
それほどの恨みが、彼らにはあった。
この世界を破壊するまでは、帰りたくとも帰れないのだ。
『じゃあ迷宮の名は決まりだね。不帰の迷宮――君たちの新しい家だよ』
温かい声だった。
ブレイヴソウルは歓喜した。
笑ったのだ。
それは、彼らを初めて助けてくれた神が取り戻してくれた、彼らの生きていた証。
人間性だった。
大魔帝ケトス。
憎悪の魔性と呼ばれるネコは、世界で最も恐ろしき邪神。ただ邪神であっても、外道ではなかったのだろう。心の痛みを知っている、優しい邪神だったのだろう。
その伸ばされた肉球に、ブレイヴソウルたちは手を伸ばした。
魔物となったブレイヴソウルたちは、大魔帝ケトスについていった。
そして。
しばらくの時が過ぎた。
迷宮のダンジョンボス、大魔帝ケトスは気まぐれで――食っちゃ寝、食っちゃ寝。
お腹をどでんと出して、ぐーぐーぐー。
これは召喚されちゃったからだから、うん、書類仕事から逃げてるわけじゃないし……サボりじゃないから……セーフにゃ。
と。
寝言で言い訳しながら、二度寝、三度寝。
別荘での休暇とばかりに、マイペースに過ごしている。
不帰の迷宮は既にあの世界で、新ダンジョンとして機能していた。
ダンジョンができれば人間はやってくる。
魔物だからと一方的に狩られる道理はない。
迷宮に住まう魔物たちは、多くの冒険者を殺した。
けれどそれは自己責任。
彼らは迷宮の宝を目当てにやってきているのだ。そして彼らもまた、迷宮の魔物を殺す。
魔物もリポップをするし、彼らも死後、その罪を拭えば転生をする。
人間に復讐をしていると、憎悪が少しだけ和らいだ。
何匹かの魔物たちが、ネコの姿へと変貌していく。
それは大魔帝ケトスの眷属となった証でもあった。
数匹が魔猫化すると、その呑気でぐーたらで、無責任な姿に憧れを抱くようになったのだろう。
次々に迷宮の魔物は魔猫へと進化。
魂を昇華させていく。
ほぼすべての魔物が魔猫化するまでには、そう多くの時間を必要とはしなかった。
ある日、魔猫化した彼らに大魔帝ケトスが言った。
さあ、もう憎悪も和らいだだろう?
私なら君たちを連れて帰ることができる。
さあ、帰ろう。君たちの世界へと、あちらの冥界神とは連絡をつけてある。
君たちは、転生できるんだ。
新しく、やり直すことができるんだ。
けれど、彼らは拒絶した。
あまりにも長い間、この世界を憎悪していたせいだろう。
赤い瞳が主たる大魔帝に向かう。
ブレイヴソウルとしての正体を覗かせ彼らは言う。
主よ、あなたには感謝しております。
けれど。
我等は、帰れません。
帰りたくとも、帰れないのです。
この憎悪は消えてはおりません。
けれど。
あなたのおかげです。
”この世界を滅ぼすまでは”帰れない。
そう思っていました。
けれど、今は”この世界が滅びるまでは”帰れないに変わりました。
けれど。
やはり思うのです。
この世界を壊したいと、我等の人生を踏みにじったこの世界の者達に。
復讐をしたいと。
ああ、滅ぼしたい。
滅ぼしたいと、我等の正体がそう訴えるのです。
我が主よ、憎悪の魔性よ。
なぜ、そのように憐れむ瞳で我等を見るのですか?
憎悪を眺める大魔帝ケトスは言った。
この世界の命、全てが悪というわけじゃあないからね。
君たちと同じ、優しい心の持ち主もいるということさ。
けれど、そうだね。
君たちはこの世界への憎悪を忘れられないのだろう。
君たちの憎悪ももっともだ。
ならば私も、もうしばらくはここにいよう。
ここで君たちの憎悪を見守ろう。
本来なら君たちを癒し、輪廻の輪に戻してあげたいのだけれど……私の力は強大過ぎる。手加減ってモノが大の苦手でね、君たちの原型すらも破壊してしまうかもしれない。
だから。
私は待とう。
いつか君たちの心を救ってくれる存在が現れる、その日を――。
私はケトス。
大魔帝ケトス。
魔王軍最高幹部にして、異世界の邪神なり。
って、人がせっかく格好よく名乗り上げをしているのに、なんだい、その顔は。
いつかとは、いつだって?
ん、そうだねえ。
それは私には分からない。
適当だ? 無責任だ?
当たり前だろう、私はネコだ。責任なんて言葉は似合わないだろう?
ああ、ほら。
そんな噂話をしていたら、誰かやってきた。
あれは転生者だね。
君たちの同胞かな。
そうだね、同郷だろうね。
職業は……教師かな。
少し挨拶をしてくるよ。
私の勘が言っている。
彼女を助ければ、そのいつかが現実的なことになるかもしれないとね。
魔物たちは考えた。
そのいつかが、いつになるのか。
そのいつは、いつだ。
何度も考え。
しばらくするとすぐに忘れてしまった。
なぜなら彼らは既に魔猫になっていた。
主人と同じく、ぐーたらで、けれど遊び好きな猫となっていた。
それでも誰か人間が来れば、その姿を魔物に戻して遊んでやる。
あの日の憎悪を晴らすために。
けれど。
魔物は見た。
彼を見た。
獅子を見た。
何度もやってくる、あの男を見た。
魔物たちは言った。
謡うように言った。
ああ、主よ。大魔帝ケトスよ。
あなたが語っていたいつかが、今。
この時にやってきたのかもしれないと。
恐竜魔物、かつてオガサワラ=ハルミと呼ばれた魔物は切られた胴体をくっつけて。
若獅子に語り掛けた。
その時すでに――世界に、ブレイヴソウルと若獅子のスチルが追加されていた。
また一つ、真実が暴かれる。
不帰の迷宮の謎と、大魔帝ケトスがしていたこと。
そして、ブレイヴソウル――。
迷宮の魔物があの日のオスカー=オライオンに語り掛けたわけを。
全ては最終決戦に繋がっている。
あの日と繋がっている。
だからこの真実も、全てを観測するロックウェル卿は獅子に語り聞かせるのだ。
◆
神鶏ロックウェル卿からの神託を受け。
溶けるハムの脂の香りの中。
闇の中に輝く、赤い瞳……ブレイヴソウルたちを前にし――。
若獅子オスカー=オライオンが言う。
「彼らはこの世界を壊すまでは、帰れない。ゆえにこそ、この迷宮の名は”不帰の迷宮”……。人間が帰れないからではなく、彼らが帰れないからこその、不帰。それが真実、ということですか。なんとも、虚しい話でありますね」
鉄板と松明の灯り。
その揺らぐ焔に反射し映る――精悍な男。
獅子たる美青年の顔には、確かな憐憫が浮かんでいた。
それは、オスライオン氏と妙に懐いてくる恐竜魔物たち、その生い立ちとなりたちへの……深い同情だった。
獅子は知ってしまった。
だからこそ、この迷宮の魔物。
ブレイヴソウルとて、彼の守りたいものに含まれてしまったのだろう。
獅子と鶏の邂逅は続く。