第138話、◆獅子英雄譚◆―その5―
◆【SIDE:オスカー=オライオン】◆
それはまるで烏の死体。
普段見ることはない、けれど見てしまったら僅かな同情を抱いてしまう野鳥の死体。
黒い心に黒い髪、黒いドレスをスラム街のゴミ捨て場に沈め――。
恐ろしき転生者ミーシャは死んでいた。
そんな――ゴミの中の姫を眺めるのは、かつて門番兵士だったキース。
モブの男である。
クラフテッド王国の民はオライオン王国の民を下に見ていた。昔はそれほどでもなかったが、主権国家の支配たる姫がそうであったから、民も段々と心を揺すられそうなっていたのだろう。
オライオン王国の民ならば見下していいと。
だが、彼は違った。
門番兵士キースはオライオン王国の民であっても平等に眺めていた。
差別意識などなかったのだ。
オライオン王国の貴族や商人がクラフテッド王国の王城に呼び出された時であっても――笑みと共に迎え入れていた好青年。
その清らかさゆえに、姫の矜持を擽ったのだろう。
心汚くなっていった姫だからこそ、清廉な男を汚してやりたくなったのだろう。
キースという男は、ミーシャによって人生を狂わされた一人、オスカー=オライオンはそう認識していた。
実際、婚約者から無理矢理に引きはがされ執事にされたのだと――報告は上がっていた。
なのに青年は不思議な表情でミーシャの亡骸を眺めていた。
乙女ゲーム特有の、モブであっても端整な顔立ちには複数の感情が乗っていた。
愛憎の入り混じった、多くの想いを抱いた表情で綺麗な顔立ちで、ただ、やりきったと眠る姫の終わりを眺めていたのだ。
青年の長い指が、女の頬についた汚れを拭う。
その手つきには優しさがあった。
確かに男は女を憎んでいる筈なのに、それでも、その視線はゴミに沈んだ烏の遺体を憐れむようだった……その瞳は安らかなる死に顔を肯定しているようだった。
青年の手は死者への手向けだとばかりに、最後に死体にへばりつくゴミを浄化していたのだ。
彼らの中に何があったのか、オスカー=オライオンは知らない。
けれど察しはついていた。
ごめんなさいと叫び続けた乙女。
自分の居場所を守ろうとして、他人の居場所を奪い続けた外道な女。
その心の弱さだけはおそらく、彼も知ってしまったのだろう。
青年が姫の遺骸を抱き上げ、立ち上がろうとする。
埋葬するつもりなのだろう。
キースならばその死体を辱めることなく、眠らせるだろう――と、若獅子は退散しようとする。
だが。
その時だった。
ぞっとするほどの聖光と共に、それは現れた。
コーデリアだ。
◆
スラム街の路地裏で死んだ、外道なる女の最後。
その終わりを告げる、埋葬であるはずなのに。
見えていた――。
若獅子オスカー=オライオンの瞳には、それが見えていた。
聖女コーデリアが凛と佇んでいた。
自分よりも遥かに成長した――前に出会ったあの日よりも、更に成長したその魔力を抱いて。
言葉を選ばずに言うのならば――それは。
バケモノそのものだった。
神という存在が人間にとっての上位存在。けして届かぬ神々しくも悍ましき存在なのだとしたら、コーデリアはまさしくソレ。
だが、器だけは人間のまま。
仮にその出自に秘密があったとして、その強さに異世界の神の介入があったとして、器は人間なのだ。それはオスカー=オライオンと同じ種族、同じ器ということ。
オスカー=オライオンが何度か人間の限界を突破したように、それを、もっと、何度も、ありえないほどの数の限界突破をこなして、今、彼女はあそこにいる。
彼女は自分よりも先に、あの高みに辿り着いている。
それはオスカー=オライオンにとっては衝撃的な事実だった。
オスカー=オライオンの瞳は清らかで美しいバケモノに、奪われ続ける。
女神のような美しさに惹かれたのではない。
ただその気高い程の強さに、獅子の瞳は釘付けとなる。
谷底から天を見上げる若獅子。
貪欲に強さを欲するその視線の先にある、太陽。
自らも辿り着きたいと願う強さの頂に、彼女はいた。
悍ましいとさえ感じてしまう程の静――涼しげな微笑を浮かべたまま、崖の上で寛いでいるように見えるのだ。
スラム街の路地裏の奥。
ゴミの中でさえ、穢れが吹き飛ぶような。
純白の陶器を彷彿とさせるような、一切の汚れのない聖女の温かい声が降り注ぐ。
巫女長だったモノをいとも簡単に解呪した、栗色の髪の乙女。
コーデリアは最後に善行を積み、やりきり死んだミーシャをミーシャと知らずに――手を差し伸べる。
蘇生しようというのだろう。
キースはそれを拒絶した。
おそらくはミーシャの悪事を深く知っていたのだろう。
そしてその後悔も――。
だからここで死なせてやった方が、いい。
ここで終われば綺麗に終わる。
説得するもコーデリアの意志は揺るがない。
神が自分の意志を曲げぬように、コーデリアも自分の意志を曲げたりはしない。
聖女は構わず詠唱する――。
獅子の瞳でさえ捉えることができないほどの、膨大な蘇生の力――魔術式が美しき乙女の身体から放出されていた。
ぶるりと、獅子の背中の筋肉が揺れた。体幹とバネのある筋力を支える腰の隆起に、汗が浮かぶ。
それはあまりにも神々しい力だった。
やはり、悍ましく思えるほどの力だった。
この蘇生に悪意はない。
むしろ一般的には蘇生は善行であるといえるだろう。
しかし、おそらく本当にミーシャ姫が改心していたのなら、生きていることが幸福になるとは思えない。
若獅子にも執事たるキースにもそれは分かっていた。
だが、コーデリアにはそれが分からない。
彼女は空気を読まない。
その蘇生の是非は、後の歴史家たちであっても意見の分かれるところだろう。
だが、オスカー=オライオンは知っていた。
ここで死なせてやらなかった。
蘇生をしてしまった。
そのせいで、追放された聖女は意図せず達成してしまうことになったのだ。
これが何よりの、ミーシャ姫への復讐になったのだろうと。
反省と後悔、罪の重さを知ってしまったミーシャにとっては死は救済。
反面。
生きることが、最もつらい罰になるのだから。
ミーシャは蘇生され、自分が不幸にした男の腕の中で目を覚ます。
これからミーシャの贖罪が始まる。
長い長い、旅が始まる。
最終決戦と呼ばれるものが未来にあるのなら。
その時まで、死ぬ事を許されぬ業を背負って生きるのだ。
若獅子はなにもしなかった。
聖女が去った直後に、ミーシャ姫を殺してやることもできた。
それが優しさであると知っていた。
けれど、オスカー=オライオンはそれをしなかった。
蘇生され、温もりを取り戻した女を抱きあげるキースに連れられ――消えていく悪女。
その背を見送るだけだった。
それがオライオン王国を不幸にし続けた悪女への、獅子の復讐でもあった。
これで、もうクラフテッド王国がオライオン王国を虐げる芽はなくなる。
罪を知った今の姫ならば、もはや悪さをすることもないだろう。
あの走馬灯のような記憶の中。
ごめんなさいと叫び続けた、哀れで愚かな少女の言葉を信じたのだ。
だから獅子は見送った。
そんな若獅子を眺めていたのは――赤い瞳。
コーデリアよりも更に高みにある、人の器ではないナニカが背後に在った。
それは何の前触れもなく突然現れた。
ふと気が付くと、彼らはそこにいた。
ネコの姿で外を徘徊し始めている、不帰の迷宮の魔物たちである。
彼らは何故か列をなしていた。
それはまるで騎士が作る、主のための道。
その先頭にいるネコの前に甲冑をカシャリ……ぶっきらぼうに座り込み。
若獅子は言う。
「なーにやってやがるんだ、おまえ……あの恐竜魔物だろう?」
『ほう、よく分かったな! 感心感心。きさま、女を口説くセンスがあるようだな。褒美として今宵、我をモフらせてやっても良いぞ?』
我を存分にモフりたいであろう?
さあ、遠慮するな。
と、ぐふふふふふ。
恐竜魔物だったネコは首のモフモフを撫でろと顔を差し出し、ネコにしては汚い笑みを作っている。
「あのなあ……オレはネコにも恐竜にもそーいう劣情を抱く趣味はねえっての」
『そうか、我を前にして劣情を抑えるとは――よほど清廉潔白な騎士と見える。良い、良い! ますます推せる! はあ、眼福眼福。尊い、尊い! ぐふふふふふ! あの御方にご相談して良かった!』
「おまえ……猫じゃなかったらアウトの顔だからな、それ」
『しかし、我はネコであるからこそ許される。それが世界の摂理というものよ。もっとその顔を見せよ、ぐふ。ぐふふふふ』
まるで英雄譚の騎士に惚れ込み過ぎる、少し変わった貴婦人のような反応である。
転生者たちの言葉に言わせれば、最上級ランクの女オタク。
という特殊な職業にある魔物なのだろう。
もっとも、オスカー=オライオンは転生者たちのその言葉を、あまり理解できていなかったが。
「それで、本当になんのようだ? ずっと入り口を隠しやがって」
『仕方あるまい。我らが神が新しい弟子の修行で出張しておられたからな、主がいないのならば扉は閉まる。当然であろう?』
「なるほど、コーデリアの修行を……だから、どこを探しても見つからなかったってことか。無駄足を取らせやがって……それならあの時みたいに、魔術で知らせてくれても良かったんじゃねえか?」
ぐふふふふと肉球で顔を押さえ、恐竜だった魔猫が言う。
『推しが我等を探す姿を観察する、それもまた推し活。この心が分からぬようでは、まだまだ乙女心を掴むにはレベルが足りぬということぞ』
「推し活だぁ?」
『分からぬのなら、それも良し。さて真面目な話をしようぞ。喜べ――獅子よ。オスライオンよ、汝は叶った。汝は許された、あの御方が謁見の許可を下さった。あの方の姿と声、心して堪能するとよい!』
いったい何のことだ?
そう愚痴るように唇を尖らせる筈だった。
けれど、そうはならなかった。
ネコ達が列を作る。
その奥から――とてつもないプレッシャーが出現したからだ。
言われずとも分かった。
それは。
この世にあってはいけないほどの、バケモノを超えたバケモノだった。
◆
悍ましく禍々しくも――コミカルな気配がニヤニヤにこにこ。
路地裏の影から嗤っていた。
それは黒くて、ふわふわな毛玉。
猫だった。
黄金の髪が、逆立った。
それは魔力。
王太子オスカー=オライオンは、ネコ達を庇うように前に出て叫んでいた。
「何者だ――!」
言葉に漏らした直後に後悔した。
そんな事、少しでも考えれば分かるはずだった。
けれど考えるよりも先に声が出た。
恐怖が、男の腹の奥から声を強制的に絞り出させていたのだ。
恐竜魔物が慌てて取り繕おうとするが。
それを太々しい顔の黒猫は制止し、分かっているとばかりにほくそ笑む。
その鋭き赤き視線が、吠えた若獅子に向く。
ヒゲが獅子の本音を観察するようにぶわりと広がり、その獣毛も、顔の動きに合わせて揺れている。
尻尾の先を僅かに揺らしたままに、ネコが言う。
『――ふむ、人間の分際で随分と良い声じゃないか。そうか、やはり君も攻略対象と呼ばれるステータスを持つ、あのゲームの登場キャラと類似した存在ということだろうね。しかし言葉には気をつけたまえ、君がコーデリア君にした仕打ちを私は許しているわけではない――』
ドヤ顔からは、存外に甘く低い男の声音が紡がれていた。
コーデリアという例外を除き。
既にこの世界では並ぶ人間がいない頂のレベルにある王太子オスカー……その彼をもってしても、その黒猫のレベルは推し量れない。
多くの死線を乗り越えていたからこそ、若き獅子には見えていた。
これは、絶対に敵にしてはいけないナニカなのだと。
王太子オスカー=オライオンがとった行動は――。
平伏だった。
黒猫の前に跪き、頭を下げる。
その眼に服従の証ともいえる、獅子の旋毛を見せたのだった。
王族が頭を下げることなどない。
獅子が敵に鬣の裏を見せる筈がない。
それと同じくオライオン王国にとって王族が相手に旋毛を見せる、その意味は降伏。
敗北と忠誠を認める仕草ともなっていた――。
地に頭をつけそうになるほどのプレッシャーの中――獅子は口を動かした。
冷たいスラム街の地面に、王太子の凛々しい声が響く。
「これは失礼いたしました――その魔力、その存在感。さぞや名のある魔物の王、魔物の神とお見受けいたします。ワタクシは騎士国家オライオン王国の第一王子にして、王太子オスカー=オライオンでございます。此度は拝謁の――」
『ふむ――そういう面倒なのも省略して貰っていいよ、まあ、誠意だけは認めてあげるけどね。どうか顔を上げておくれ、話がしたい。私はたとえ君が下等存在だとしても、差別をしたりはしない。私は等しく他者を見下している、その権利を有する、あの方に認められた史上最高の種族――ネコだからね。例外を除く、ほぼ全員を見下しているのだから、これもとても平等な事だろう?』
「し、しかしとても畏れ多く――」
つぅっと。
赤い光が細くなっていく。
黒猫が瞳を細めたのだろう。
『聞こえなかったかな? 私は顔を上げておくれと言ったのだけれど』
若獅子の勘が言っていた。
これは試されているのだと。
「どうか、お許しを――貴方様のような上位存在と、並ぶ権利はワタクシにはございません」
『ふむ、どうやら必要以上に怖がらせてしまったようだね』
おそらく、今顔を上げれば――殺される以上の何かが待っている。
そんな直感があったのだ。
カッシャカッシャ。
隠さず歩く猫の爪が、視線の中に入り込んでくる。
頭を下げ続ける若獅子の瞳に、モフモフな足が見える。
獅子の黄金髪が、肉球によってペシペシ叩かれる。
『そうか、君の中には獅子の獣性が流れているのか……ご先祖様に黄金獅子でもいたのかな。同じネコ科のステータス……ネコとしての共通点が、上位にある私に怯えているのだろう。まあ、どうでもいいけれどね。さて、問答も面倒だ。記憶を覗かせて貰うが、構わないね?』
「全て、貴方様の御心のままに――」
『おや、謙虚だね。コーデリア君を貶めた王子様ってのがどんな外道なのか、それを確かめに来たのだが、ふむ、どうやら本当に事情は複雑らしい。我が弟子の記憶はやはり曖昧、どうやら君に関する記憶の消去魔術を常時発動させたまま――打ち消していないようだからね。不帰の迷宮の子たちの言葉が正しかったという事か』
ふむと、黒猫の吐息が黄金色の髪を揺らす。
『事情は概ね把握した。本当にそれ以上の平伏は不快に感じる。楽にしたまえ。私は弱い者虐めが嫌いだからね。部下の目もある。これでは私が虐めているようで気分が悪い。分かるね?』
若獅子は即座に、騎士の忠義の構えを取る。
相手は太々しい顔をした黒猫。
その正体は分かり切っていた。
魔物たちが噂をしていた。
あの――。
そんな若獅子の思考を読んだかのような顔で、黒猫が言う。
『やあ、初めまして――獅子たる王の子よ。私はケトス。大魔帝ケトス――三獣神が一柱。魔王軍が最高幹部にして、君たちが言うところの不帰の迷宮のダンジョンボス。異世界の邪神さ』
やはりコーデリアを救った存在である。
『さて、いろいろと詳しい話が聞きたいが。その前に――一つだけ確かめさせておくれ』
その声はまるで魔術そのもの。
穏やかな教会の神父が罪人を諭すような、告解を促すような――凛々しくも、けれど同時に、ぞっとするほどに人間の情欲を煽る――。
静かな声だった。
『どうして。彼女を殺してあげなかったんだい――』
黒猫は不敵に嗤っていた。
王太子オスカー=オライオンは賢い若者だった。
だからすぐにピンときた。
それはミーシャ姫を差しているのだろう。
「歴史に名を残すだろう悪女ミーシャ。彼女は彼女自身で、その罪を償うべきであると――ワタクシはそう考えます」
『ふむ、でももしもだ。またやらかしたらどうするつもりなんだい? 彼女は君の国を虐げていた主犯。私だったら念のために殺してしまうけれど、どうなんだろうか』
「あれにはもう、悪事は無理ですよ」
若獅子は言った。
その魂に触れ、走馬灯を読み取った彼には見えていたのだ。
「あの日に、コーデリアにごめんなさいと言えなかった。逃げてしまった。そのせいで、全てが狂ってしまったアレはこれから多くの罵倒を受けるでしょう。罵声を浴びるでしょう。誰もが彼女とその名を呪うでしょう。それは今、この場でその胴を薙ぐよりも大きな罰となる――ワタクシは王太子としてそう判断いたしました」
『六十点、ってところかな』
いつのまにか取り出した玉座の上。
黒猫は嗤いながら拍手をして。
肉球をプニプニ。
『君が彼女に同情してしまった、それが抜けている。正直、あれの魂はもう手遅れだ――おそらく死した後に地獄に落ちるだろう。長い長い、苦しみを死後の世界で過ごすだろう。同情してはいけないほどの罪を重ねてしまっているからね、子どもであり女性であっても私もあまり過度には手を伸ばせない……。しかしそれが人生だ。善行も悪行も、いつかは自分に帰ってくる。今を生きながらえても彼女はいつか、その拭いきれない罰を受ける筈だ。まあ、それは彼女の物語。私や君が気にする事でもない』
六十点と言っていたが。
どうやら大魔帝ケトスは若獅子の回答に満足しているようだった。
これで、気に食わないからオライオン王国を滅ぼす、などという可能性はなくなったと思っていいだろう。
精悍な頬に滴り落ちる汗が、ぽつんと音を立てていた。
落ちた汗をハンカチで保存する恐竜魔物、その奇行をジト目で眺める若獅子の目の前。
大魔帝ケトスは親近感のある声で言う。
『ああ、そんなに緊張しないでおくれ、私は君に感謝をしているんだ』
「感謝、でありますか?」
『ああ、転生者たちをあの方の世界に……地球に帰してくれてありがとう。あちらの世界に帰った彼女たちの誰かが、向こうで神様に祈っていたらしくってね。あちらの神様が君にお礼を言っていた。私はね……その神様の事が大好きなんだ。あの方が、ケトス、その子の力になってあげなさいと言ったんだ。だからいいよ、私は君に力を貸そう。気持ちに応えよう。具体的には、そうだね。一つだけならどんな願いでも叶えてあげると約束しよう』
それはおそらく、最初の女教師が言っていた言葉。
元の世界に帰ったら、祈ってあげるわと冗談で言っていた言葉。
そしてその冗談を、彼女は元の世界で実行し――。
そして奇跡的に、繋がった。
元の世界の神と、この大魔帝ケトスとは繋がりがあったのだろう。
大魔帝ケトスは、その身を神々しい巨獣に変えていた。
気配も唸る声も魂も、僅かに変わっている。
フォルムを変えた黒き魔猫はもう一度告げた。
重々しい言葉が、周囲を圧迫する。
『さあ、願うがいい――獅子たる血を引く人間よ、我は汝の願いを叶えよう。其れがたとえ世界を壊す願いであっても、其れが世界を救う願いであっても……良き願いでも構わぬ、悪しき願望でも構わぬ。どんな願いとて一つだけなら、叶えてみせる。それが我、偉大なる御方に仕えし魔――大魔帝ケトスと呼ばれし大いなる闇なり』
目の前には、神としての悍ましきケモノがいた。
いつのまにか、場所も路地裏ではなくなっている。
ただただ大きな獣が、若獅子を見下ろしているのだ。
獣毛の一本一本が、憎悪の赤で燃えるように揺れている。
大魔帝の言葉を信じるのならば、この恐ろしき獣とて誰かの部下なのだろう。
世界の広さに魂を怯えさせながらも、獅子は言葉を漏らしていた。
「どんな願いでも……」
『うむ、酒池肉林とて可能である』
よくいう、と若獅子は思った。
大魔帝ケトスは何でも願いを叶えてみせるといいながら、その前に記憶を探りチェックしていた。
若獅子、王太子オスカー=オライオンが私欲のために悪い願いを叶えるような人間だったとしたら、そのまま頭部を破壊する気だったのだろう。
なかった事にするつもりだったのだろう。
悪人ではないと確かめてから、どんな願いでもと言い出しているのだから。
根は善良な神なのだろう。
若獅子オスカー=オライオンは願った。
それは自分を強くする事か。
違う。
それは愛しい女の心を奪う事か。
違う。
若獅子は違和感を持っていた、あんなことがあったのにこの世界に帰ってきたコーデリアに違和感を覚えていた。
まるでこの世界に呪われているかのように。
まるで、どうあってもこの世界に帰ってきてしまうかのように。
コーデリアにはなにかあるのではないか――と。
あの聖女には、絶対になにかがあるのだと。
だから彼は願ったのだ。
コーデリアを自由にするには、どうしたらいい。
力を貸してくれ、と。
大魔帝ケトスは頷いた。
『願いは理解した。いいだろう、魔導契約をしようぞ獅子よ――我にすら分からぬ何かを直感で読み取る、孤高なる唸りを上げる獅子よ。オスカー=オライオン。そうさな。まずは汝に我の友を紹介する。名を神鶏ロックウェル卿。全てを見通す、我にすら見えぬ未来を眺める観測者の名だ』
「あなたが救っては、下さらないのですか?」
『そのつもりであったが――なにやらおかしい。我の干渉力すら断ち切る秘密が、我が弟子コーデリアにはある。其れゆえに、我は最も信頼する友の一柱を紹介するのだ。なに、心配するなロックウェル卿は我に匹敵するほどの獣神。あやつは多少変わり者でな――人間を永遠に怨嗟しておるが、まあ我の紹介といえば問題なかろうて』
これは若き獅子が掴んだ奇跡。
あの日、若き獅子が救った女性たち――。
転生者を助けたことで積んだ徳がこうして繋がっていた。
因果応報、悪因悪果。
そして善意善果
世界は巡り巡っている。
若獅子が転生者たちへと、救いを伸ばしたその腕が――。
聖女を救う物語へと発展していくのである。
だが。
コーデリアを救う。
解放する。
その願いにある困難さをまだ若獅子は知らない。
あの恐ろしき迷宮の王、大魔帝ケトスでさえ――。
その言葉の重さを、その意味を、まだ知らない。
この後、オスカー=オライオンは約束通りに別の神と出逢った。
ロックウェル卿と呼ばれる魔と出逢い、そして――。
この世界とコーデリア、その全ての秘密を先に知ることになる。
獅子の英雄譚は、まだ終わらない。
だが、物語は一時的に戻りだす。
戻れなかった転生者、生まれることができなかった転生者。
ブレイヴソウルを内に孕み、人類すべてを敵として戦う獅子――その英雄譚の果てにある。
あの最終決戦へと。
人類すべてを敵にしても。
相手にコーデリアがいたとしても――。
オスカー=オライオンは圧倒していた。




