第136話、◆獅子英雄譚◆―その3―
◆【SIDE:オスカー=オライオン】◆
コーデリアが帰ってくる。
「どういうことだ――……」
不帰の迷宮の魔物達からの連絡に、王太子オスカーは瞳を揺らした。
鍛え上げられた獅子の胸中にあったのは、再会できるかもしれない喜びだけではない。
それは困惑だった。
聖女はやっと、解放された。
あの腐ったクラフテッド王国の呪縛から解き放たれたはずだったのだ。
なのに何故。
帰ってきたのだ、と。
だから王太子オスカー=オライオンは再び動き出す。
それは長い旅の再開だった。
この時の彼はまだ知らなかったのだ。
後に聖コーデリア卿と呼ばれるようになる、彼女の正体を。
彼女が、この世界と紐づけられた重大な存在であることを。
黄金髪の美丈夫。
愚者を演じる勘鋭き男がまず行ったのは、不帰の迷宮の捜索。
あそこは入り口の場所が変化する、特殊なダンジョン。
ネコの気まぐれのように、場所を自由に変えるのだ。
いつもはそれでもすぐに見つかった。けれど今回だけは違う。
見つからないのである。
まるで、今はまだ入ってはならないのだ――そう告げているかのように、世界のどこにもその入り口を見せなかったのだ。
◆
魔物達からの連絡が入り数日後。
夜の街。
喧騒が厨房まで響き続けている、クラフテッド王国の酒場にて。
表向きはミーシャに捨てられ――草臥れ、落ちぶれた格好をしている王太子オスカー=オライオンは報告を受けていた。
相手は若獅子の手の内にある者。
動きのおかしい、もはや破綻寸前な冒険者ギルド。全体的にきな臭さを漂わせているあの組織に潜む、工作員の女性である。
王太子は酒に溺れたバカな王族の顔で、女の肩を抱き寄せていた。
むろん、ただの演技だが。
肩を抱かれた部下、口元のホクロと眼鏡が特徴的な女スパイが唇を揺らす。
「以上が報告となりますが。殿下、なにかありましたか?」
「いや……」
秘書のような姿の女スパイはオスカーの部下。
職業は義賊。
オライオン王国出身だが、国自体ではなく王太子オスカーについてきている人材。
女は愚かな王太子が国を駄目にしていると判断し暗殺しに来たのだが、若獅子と対面し、戦闘となり――紆余曲折の後、女は愚者の演技を見破り一転。
若獅子の直属の部下となっていたのだ。
女スパイの目的は、クラフテッド王国にある冒険者ギルドへの復讐。
もちろん彼の上司たるオスカー=オライオンも、その内容を知っていた。
復讐するには十分すぎる動機だとも認識していた。
もっともそれは、彼らだけの、あの日の夜の物語。
その物語が表に出ることも、誰かに語られることもないのだろう。
あの日、唯一、話を信じてくれた若獅子を眺める女の表情は――どのような色をしているのだろうか。それは分からない、他の客席からは死角となって確認できないのだ。酔ったバカ王子が誠実そうな女の肩を、無理やり抱いているようにしか見えない。
演技とはいえ肩を抱かれた女スパイは、肌に触れる王太子の黄金髪に眉を下げる。
「隠し事をされても困るのですが。何かあったのですね?」
「……どうしてわかる」
簡易鑑定用の眼鏡の光を輝かせ女は、くすり。
人生の先輩としての余裕をもって告げていた。
「あれほど上手くバカを演じておられるのに、殿下は身内への隠し事が下手ですから。顔に出ていますので、お気を付けください」
「そうか――悪い。だが本当に、確かに気にはなっているんだが……オライオン王国とは直接的には関係のない話だからな。おまえさんが恨んでいるクラフテッド王国の冒険者ギルドをぶっ潰す話とも、本当に、離れた話で。なんというか、語るまではねえと思っていた、すまねえな」
黄金の獅子の鋭い瞳は、それ以上聞くなと物語っている。
女スパイは頷き、それ以上は追及しない。
けれど、やはり気にはなるのだろう。
そんな女の気配を察知し、成人した獅子は鼻梁に色気のある苦笑を刻んでいた。
「本当かどうかは分からねえ。だが、聖女が帰ってくるかもしれん」
「聖女……コーデリアがですか!?」
思わず出した声は酒の喧騒に消えていた。
失礼しましたと座りなおす女に苦笑し、若獅子が言う。
「ああ、不帰の迷宮の魔物が連絡をよこしてきた」
「不帰の迷宮の……。呆れました――殿下はあの極悪迷宮の魔物にまで手を出し、篭絡していたのですね」
女スパイの声は淡々と冷静だった。
「篭絡って、あのなあ……」
「違うのですか?」
「いや、まあたしかに女の魔物だったんだが……そういうのじゃねえぞ?」
「冗談のつもりだったのですが、本当に女性魔物だったとは。少し引きました――オライオン王国では後に、魔物さえ含んだ跡取り問題が大量に発生しそうですね」
女スパイは露骨に呆れの息を漏らしていた。
冗談ではなく本当に篭絡したと判断したのだろう。
普通、人間が魔物を誑し込むなど不可能だ。だが、この黄金髪の精悍な男ならばありえると、女スパイは妙な確信を持っていた。
実際、その直感は当たっていたのかもしれない。
「酒場の入り口で客にご飯をねだって転がっているネコ達、あれがそうなのですね」
「分かるのか?」
「鑑定眼鏡がレジストされましたから、なにかあるのだなとは――不帰の迷宮の魔物たちはあなたを監視しているようですね」
「――手は出すなよ」
「当然です、死にたくありませんので」
魔猫は珍しい。
だから誘拐しようとしている人間がいるが、悪意ある彼らが腕を伸ばした瞬間――影の中に引き込まれ、装備を剥がれて消える。
存在ごと消失しているのだ。
だが基本的には害はない。
可愛いからと悪意なく撫でる人間にはご飯を要求――腹や腰を撫でさせ、ゴロゴロと肉球をニパニパさせている平和的な魔物達なのだから。
「あいつら、こっちが話しかけても無視しやがるんだ。何を企んでやがるんだか」
「不帰の迷宮に直接乗り込めばよろしいのでは?」
「入り口が分からねえ、前はわざわざ、オレが泊まる宿の目の前に入り口を設置しやがる事すらあったのに――」
「ああ、そういえばあの迷宮は入り口を常に変えているのでしたね」
若獅子は剣を握る筋力――隆起の目立つ筋張った長い男の腕を伸ばし。
グラスの酒を一息で呷る。
「もしクラフテッド王国の冒険者ギルドが壊滅したら、少しは暇になるんだろう? おまえさんが探してくれてもいいんだぜ? はは、なんてな」
「まあ、考えておきます」
「冗談だ、本気にはするな」
「いえ、それくらいの恩義は感じているつもりですので。解決した後なら、構いませんよ」
女スパイが本気で協力するつもりだと理解したのか。
そこまでしてもらう必要はないと告げるように口を開く。
「いや、これは本当に――」
女は男の言葉を遮り言った。
「覚えておいてください、あなたに助けられた人は多くいる。たとえ世間がどう思おうと、たとえ世界がどう思うと、あなたがしていることを認める人はいる。だから自信をもって下さい」
「自信を持てなんて気軽に言ってくれるな」
「自分には何故あなたほどの人が自分に自信を持てないのか、その方が不思議ですけれど」
女スパイは純粋に疑問だったのだろう。
騎士の上位職、暗黒騎士でありながらありとあらゆる属性の魔術を使いこなし、治療や回復と言った魔術から蘇生の魔術すら使用できる。
それだけではなく剣技も優秀、弓や槍とて使いこなす、戦斧や大剣といった重戦士の武器さえマスターレベル。更に異世界の魔術や技術にまで精通している、まさに天才なのだ。
それなのに、若き獅子は口では黙っているが――自信がないのだと、顔から本音を漏らしている。
戦いを知る男の顔で王太子が、自らの大きな手を静かに握りながら言う。
「限界が、きちまってるんだよ」
「限界?」
「ああ、オレの能力はもう伸びない。成長限界を何度も超えたが、今回はもう終わり。どう足掻いても、どう鍛えても動きはしない。オレは所詮、そこまでの男だったって事だ」
愚者の演技を忘れた若き獅子の横顔は人目を惹いた。
たった一瞬だった。
けれど、酒場にいる女性冒険者たちはその顔を見逃さなかった。一瞬だけの煌めき、黄金獅子の美貌に視線を奪われていたのだ。
女スパイは、意味のない会話へと誤認させる特殊な防音魔術を発動させ、会話を続ける。
「高望みしすぎなのでは? あなたに勝てる存在など、そうはいない。せいぜいが北の魔皇アルシエルか、永遠の黄昏の街、ミッドナイト=セブルス伯爵王ぐらい。四大国家の王たちは本人が強いわけではなく、ミーシャ姫も謎のアイテムを使用しないなら並の英雄と変わらない。驕り腐った騎士……聖騎士ミリアルドは話にならない」
「だが――」
男は女の言葉を繋いでいた。
「オレは不帰の迷宮を踏破できていない」
目線を逸らす男の前髪が、黄金色に輝いていた。
氷が回転するグラスの中に、崖の下から天を見上げる若獅子のような男の顔が反射している。
女は思わず笑っていた。
男が真面目な顔で、阿呆な事を言うからだろう。
「なんだ、いきなり」
「すみません、あなたがあそこの攻略を完了できなかったことで、拗ねているのだと気が付いて。それで、おかしくなってしまって。訂正します、高望みどころか自分がもっと遥か高みにあるべきだと、あなたはそう思っていたのですね。あなたは思慮深く、聡明だが、存外に子どもじみた部分がある獅子だということでしょう」
「意味が分からん」
「普通の人なら、あの迷宮を攻略する事はおろか、踏破できないことなんて別に悔しがりませんからね。けれどあなたはそれを悔しがっている。その時点であなたはもうどこかが人とはズレているって事ですよ。嫌いではありませんけどね」
ひとしきり笑った後。
「それよりも、聖女が帰ってくるというのは本当なのですか?」
「少なくとも、聖女を庇った不帰の迷宮の魔物たちはそう言っている」
「ならば、案外にすぐに解決するかもしれませんね――」
女スパイの言葉を王太子は訝しむ。
「どういうことだ」
「だって決まっているじゃないですか。力持つ聖女が帰ってくる、女が自分を捨てた国に帰ってくるんですよ? やることなんて一つですよ。分かりませんか?」
「復讐……か」
「ええ、だからこちらも彼女が帰ってくることを前提に動きましょう。打倒ミーシャもあと少し、教会にも王宮にもスパイは放っているのでしょう?」
聖女の目的が復讐かどうかは分からない。
しかし、本当に帰ってくるのならミーシャもおそらくは復讐だと考えるだろう。
死んだと思っていた聖女が帰ってくる。
殺したと思っていた憎い女が帰ってくる。
獅子の口角が吊り上がる。
野性的で、悪い男の色香を孕んだ笑みだった。
「確かに、動くには良い機会か」
「でしょう? ところで、スパイはいるってことでいいんですよね?」
防音魔術の効果時間を確認し、王太子は低い声で唇を動かす。
「ああ、何人かは協力者がいる」
「あのぅ――ちなみになのですが、その人たちも女性なのですか?」
「そうだが――それがどうした?」
実力があるのならば男女構わず使うだけ。
そこに何の問題があるのだと朴念仁の顔で若獅子は答えるのみ。
差別をしない能力主義といえるだろうが。
女スパイは眼鏡を下げて、呆れ声。
「本当に、そういうところだと思いますよ。王太子殿下」
「おい、あまり引っ付くな」
「演技ですよ、演技。自分は悪い王太子に騙されてお持ち帰りされるバカな女。あなたは悪い男。そういう体で店を出ましょう。もっと魔術を用いた打ち合わせもしたいですし」
無論、王太子に異論はなく。
女の肩を豪胆に抱き、女に金を払わせ夜の街へと消えていく。
コーデリアが本当に帰還したのは、一月後。
彼女は本当に帰ってきた。
彼は、知った。
驚いた。
復讐に帰ってきた聖女は、大きく成長していた。
コーデリアのあの日の記憶、あの日の物語と再び繋がった。
◆
これは聖女の物語と交錯する、若獅子の物語。
彼女の記憶との接点の記憶。
それは優雅な天使か精霊か。
刃を向けられても栗色の髪の乙女はニッコリと微笑み、余裕を一切崩していない。
彼女の名はコーデリア。
復讐に戻ってきた聖女。
彼女はやはり魔術の影響か、かつて婚約者だったオスカーをろくに覚えていなかったが。
それでも若獅子は覚えていた。
帰還した聖女に向かい、冒険者ギルドのモノたちが襲い掛かっていた。
逆恨みだ。
もはや蘇生の期限が迫る仲間の灰に、焦っていた。
けれど教会の者たちも冒険者たちも、コーデリアに無償でそれを治せという。
コーデリアは考え。
それを拒絶した。
正確に言うのなら、正当な代金を支払えば応じるという答えだった。
もはや自分は追放された身。
助ける義理はないと判断したのだろう。
しかし、冒険者ギルドの者たちは怒り狂った。
助けられる力があるのに、何故助けないのだと。
おまえには助ける義務があるだろうと。
しかし、そんな義務を切ったのは、はじめに聖女を裏切ったのは彼らの方。
拒否された蘇生が、自分たちの驕りのせいだとは気付いていない。
聖女を脅せば何とかなると思っている。
コーデリアはやはり、成長していた。
自分の意見を言えるようになっていた。本当に、ほんの少しだが他人の言葉を疑うことができるようになっていた。
頷くだけの人形ではなくなっていたのだ。
だから自分を騙そうとしてきた今の彼らを拒絶できたのだろう。
聖女と彼らは戦いとなったが、それがどうなったかは言うまでもない。
復讐と言っても、国家転覆どころか世界の破壊すらできる筈の力を身に付けて帰ってきたのに――装備破壊と武器破壊までに止めていた。
結局、残酷な復讐者にはなりきれない優しい性格のままなのだろう。
だが、王太子オスカーが見たのは、それだけではなかった。
獅子は震えていた。
その身も心も、歓喜していた。
見てしまったのだ。
聖女の放つ、その魔術。そのレベルの高さを。
圧倒的に美しい魔術式の波を。
聖女コーデリアは成長していた。
そう、本当に成長していた。
それはより一層、神秘的で美しくなった容姿ではなく――その魔力と魔術。
見目麗しい聖女は、身震いするほどの魔力を内包していた。
ただそこにいるだけで、足が震えるほどの魔力を隠し持っているのだ。
明らかに、自分より強い聖女がそこに凛とたたずんでいるのだ。
多くの冒険と出会いを果たした王太子オスカーは、既に自分の限界を感じていた。
もはや人間の器の上はない。
これ以上の崖は、登れない。
もう、成長できないのだろうと。
そう自分に諦めを覚えていた――。
けれど。
世界を抜けだし異世界神の弟子となっていたコーデリアは違った。
修行の果て、自分を遥かに超越した力を身に付け帰ってきたのだ。
ドクンドクンと音が鳴っていた。
獅子の心臓が、止まらない。
戦う者としての矜持が、胸を打っていた。
確かに以前からコーデリアには惹かれていた。母の亡霊に良くしてくれた不思議な乙女に惹かれていた。
しかし、今は憧れだけではない。
もっと違う情熱的な感情が動いていたのだ。
死に物狂いで成長し続けた若獅子の戦闘力に、たった一年ほどの修行で追いつき、追い抜き、大きく先の高みへと昇った聖女に――獅子の心は揺れていた。
黄金色の髪が揺れる。
自分もあそこに辿り着きたいと、心が躍る。
「ああ、オレもまだ伸びるのか。まだ先があるのか」
若獅子は思ったのだ。
強くなりたいと。
コーデリアはここまで成長したのだ、自分とて、まだ強くなれるのだろうと。
お前の横に並びたい。
それがあの時に。
聖女が復讐に帰ってきた、あの日に――。
若獅子が抱いた、そして再び燃えた本心からの熱い感情だった。
それは子どもの頃の情景ではなく、大人となった今の感情。
その日、若獅子は自覚をした。
迷宮女王を片手に、優雅に恐ろしい魔術を解き放った聖女に。
コーデリアに。
獅子はもう一度、心を奪われたのだ。
◆
聖女の帰還と装備破壊により、ミーシャは動揺。
彼女がまったく無能であったため、クラフテッド王国の貴族はほぼ機能停止。
仲間内での責任のなすりつけ合いで膠着状態。
ミーシャにそそのかされ――コーデリアへの人質を探す聖騎士ミリアルドは、屋敷妖精の手によりどこか遠くに飛ばされ。
ようやく正気に戻り始めていたミファザ国王が動き出すが、時は既に遅い。
クラフテッド王国は終わりの道を転げ落ちていくことになる。
土台が腐っていたクラフテッド王国の冒険者ギルドは、その悪事を隠そうと動く本部の指示により、解体。
聖女に頼りきりでまともな回復魔術も使えぬ教会は、愉快犯のミーシャの天使に支配され、機能停止。
騎士団はまともな武器を失い、戦力を大幅に失い四苦八苦。
その裏では、若獅子オスカー=オライオンが放っていたスパイたちが暗躍する。
全てはオライオン王国を守るため。
クラフテッド王国の民には多少の罪悪感もあるが、オライオン王国の民を守るためならば躊躇はできない。同じ民ならば、男は自らの民を選ぶ。
もっとも、まともなクラフテッド王国の民は既に、もっとずっと前から――オライオン王国へと亡命、逃げ込んでいるという経緯もあるが。
オスカー=オライオンは容赦なく、駒を進めた。
長年に渡る、同盟と言う名の狼藉と植民地支配に対抗するための決断だった。
どうしようもない事態となり、クラフテッド王国はいつものようにオライオン王国に圧力をかけてきた。
強権を振るい、援助と言う名の搾取を要請するようになったが、今回ばかりはそうもいかなかった。
聖女の帰還に心を入れ替え――真人間になったと噂される王太子オスカーが帰還したのだ。
謁見の間には、多くの貴族と王族。
そして家臣が集まっていた。
王に恭しく跪くのは、勘当同然だった若き騎士、オスカー=オライオン。
獅子王と呼ばれた王はその時、初めて知った。
息子の凛々しき若獅子の顔を見た。
そこには女遊びに耽るどうしようもないバカ息子はいなかった。
そこには、王族としての気迫と貫禄を鼻梁に刻む――凛々しき息子がいた。
そして悟ったのだ。
なぜ、あれほどの事態になってもオライオン王国が滅びなかったのか。
なぜ、これほどに肥沃な大地を維持できていたのか。
なぜ、部下たちの多くが愚かな息子の帰還に前向きだったのか。
獅子王は天を仰いだ。
王は立場上、拭うわけにはいかぬのだ。
だが、それは止めどなく浮かんでくるのだ。
涙がこぼれぬようにと、上を向かずにはいられなかったのだ。
いつからだ――、王は考えたのだろう。
獅子王は優秀と言える王ではなかった。だが、けして愚かな王というわけではない。
だから気付いた。
おそらくはずっと前から。
クラフテッド王国から疑われぬように、全ての民、全ての貴族、身内にすらバカにされると知っていながら愚者を装い――国のために動いていたのだと。
父たる王が息子に言う。
「もはや余はそなたに意見を言える立場ではない。褒美を取らせよう、なんなりと申せ」
「それでは陛下、ワタクシは不帰の迷宮に潜る権利を頂きたく存じます」
凛々しき若獅子の声が謁見の間に広がる。
王も家臣もざわついた。
あの極悪迷宮の噂はこの世界の民なら誰でも知っている。
「不帰の迷宮に? なぜ」
「帰還せし聖女コーデリアはあの地で修行をしていたのです。ワタクシもあの頂へと、同じ高さへと昇りたい。そう願っているからであります」
「なるほど、追放された聖女があの地で修行を……しかし、なぜそなたがそこまで」
王太子は答えた。
皆の前で、黄金に輝く太陽のような顔で。
彼女に恋をしたのだ――と。