第110話、イシュヴァラ=ナンディカ【黒幕視点】
迷うことなく愛を語る新部栄子。
その様子を眺めた魔猫師匠は言う。
『君が君自身の意志で選んだ道ならば、私は特に何も言うことはないよ。けれど、あの世界、その物語の始まりを確認することに協力してくれるぐらいは、構わないだろう?』
「異論はないっすよ」
本当に栄子自身にもあの世界の誕生に心当たりはない。
そもそもあの世界が発生しなければ、これから出逢う事になる先輩もゲーム世界に誘拐されることもない。
あの世界を終わらせるヒントになるかもしれない。
だから栄子は頷いた。
栄子の中から抜け出たのは――十五歳の栄子の幻影。
かつて高校生だった栄子が歩きだし、魔猫師匠と栄子の魂はそれを少し離れた場所から窺っている。
魔猫師匠がガジガジガジ。
夏祭りの屋台から購入したりんご飴を齧る姿を見て。
「これ、過去の記憶の追体験なんすよね? それ、どうやってるんすか?」
『それって?』
「屋台から次々と盗んでいる食料の事っすよ、あたしは過去の映像に触れられないんすけど?」
『ああ、そもそもこの空間自体が私の魔術、既に術中。童話魔術と呼ばれる”童話を現実世界で再現する魔術”の中に入り込んでいるからね。ここそのものが私の魔術空間だから、術者である私ならば中のものを現実化できるわけだよ』
「凄い技術だっていう事はわかるんすけど、その技術で買い食いって……」
まともに話をしてもどこかがズレている。
価値観が人間とは違うのだろうと、栄子は映像に集中する。
「まあいいっすけど、さっきからつまんない映像ばっかり続いているだけっすよ? 本当に何かあるんすか」
『さあ、どうなんだろうね』
「どう……って、あのっすねえ……あなたがここに何かあるかもしれないって勝手にあたしの記憶にアクセスしてるんすよね!? 魔猫さん、ちょっとテキトー過ぎはしないっすか!」
ぐぬぬぬっとギャグっぽく唸る栄子。
そんな栄子に苦笑をして長い猫の髯を揺すり――。
『ハハハハハ、そう怒らないでおくれ。力ある神、特にケモノの神は全体的に行動が無責任でテキトーなのさ。それに、見えないからこそ、わからないからこそ――私たちは直接ここに見に来たわけだし』
「これで実は何にもありませんでしたってなったら、さすがにブチ切れっすよ?」
『何もないなんてことはないよ』
「どうしてそう言い切れるんすか」
『契約を盾に、人間の魂を取り込み転生させる。そして転生者を殺した相手も取り込み、天使と化して転生させる。そんなアプリが実在している状況が既におかしい。おかしい現象には必ず原因がある。原因があって結果があるのに、結果だけしか見えていない。だから私は原因を探していた――君や、会社としてのイシュヴァラ=ナンディカや、君の周囲の過去を追ったが何一つ、原因が見えてこなかった』
「んで……唯一、見えなかったのが閲覧をキャンセルされてしまうこの時間軸ってわけっすか。だから絶対、ここに原因がある。そう思ってるんすねえ……」
言いながらも栄子と魔猫は過去を追従する。
高校生たちは山の入り口。
彼らはそれぞれにラフな格好。それほど価格も高くない夏の装いや、軽装。
立ち入り禁止の立て札を外し、彼らは山の奥へと消えていく。
奥に入っていく。
『おや、不法侵入だね』
「あたしが外したわけじゃないんで、セーフっすよね」
『世間から見ればそうかもしれないけど、神様的にはアウトだったかもしれないね』
「神様……ねえ」
『君たちの地球は西暦の誕生とともに魔術の発現が確定された世界、神の実在も証明されている世界。まあもっとも、多くの人は魔術や魔術から派生した異能、超常現象なんてものには気付きもしていないが』
君たちの地球という言葉に違和感を覚えたのだろう。
「地球って一つじゃないんっすか?」
『ああ、そうだよ。言葉はいろいろとあるけれどね、パラレルワールドに多元宇宙論。聞いたことぐらいはあるだろう?』
「物理的にあり得るらしいっすからねえ」
栄子も当然知っていた。
高校生たちの肝試しを眺めながら、教師の声音で魔猫が話を続ける。
『一つの宇宙を三千世界、すなわち”三千大千世界”として定義した場合――少なくとも私は既に、三つの宇宙を観測している。始まりの世界、終わりの世界、そして今君たちが住む世界。始まりの世界は魔術の概念が薄いいわゆる普通の現代社会が続いている世界、終わりの宇宙は魔術の存在が確かにあったが、既に滅んだ宇宙だから話から除くとして。君たちがいるこの世界の、この地球には、いわゆる魔術や神が実在しているのさ。君たち一般人が気付いていなかっただけでね』
普通ならば信じない。
それどころか意味すら通じない。
おそらく、後に魔猫師匠と栄子の物語、その顛末を纏められた資料が保管されたとして――閲覧者の九割は意味不明だと感じるだろう。
けれど栄子は意図を読み取り、理解していた。
「まあ理論としては分かるっすよ。信じる信じないは別として、てか、既に滅んだ宇宙があるってのはマジなんすか?」
『ああ、主を殺された悲しみに泣いた大魔王、その涙によって滅ぼされた世界だよ』
「うへぇ……大魔王て……。おもいっきしファンタジーじゃないっすか……」
『ファンタジーの塊みたいな私という存在を前にしているんだ、そうおかしな話じゃないだろう? コーデリア君だって乙女ゲームの聖女様。イーグレット君だって、乙女ゲームの戦えない美貌の賢王。君の世界に居たら浮いちゃってるだろう? それでも彼らは生きている。だいたい、君だってファンタジーな世界に介入している、悪い神様みたいなものじゃないか』
「否定はしないっすけどねえ」
その辺りの問題は敢えて棚上げにしてだろう。
「つまり、この世界には神様なんてモノが本当に存在する。魔術もある、異能もある。だから、こういう境内やかつて祀られていた神も実在する。言いたいことは分かったっすよ。ようするに、これからあたしたちの誰かがなんかしちゃうんすか」
『さあ、そこまでは――でも、ほら。動きがあった』
魔猫師匠の指摘通り、過去の追体験の中で高校生たちが肝試しの拠点に使った、廃墟。
祀られることを忘れられ、捨てられた神。
その打ち捨てられた領域に入り込んでいく。
そこは危険だと入り口を封鎖された、防空壕。
集団で集まった高校生たちは肝試しの延長上で、興奮している。
怯んだら、怖がったら周囲にバカにされる。
そんな強がりが他の人間の強がりを増長させ、行動を次第に大胆にさせる。
だから危険だとされているのに中へと入っていく。
『ふむ、小さな洞穴――戦時中に空襲を避けるために作られた場所といったところかな』
「集団心理っていうんすかねえ、こういうの……ホラー的な意味で怖いとか、肝試しとか、そういうの抜きに普通に危ないっすよね」
『人間は群れで生きる種族だからね、集団の輪を乱す行動を避けたい心理が働くんだろう』
「でも、なんもない防空壕っすよ? 本当になにかあるんすか? さすがにこれでなにもなし、ってなったら付き合いきれないんで帰りたいんすけど」
ジト目の栄子の横で、魔猫師匠が赤い瞳を輝かせ。
言う。
『心配はいらない。どうやら――でてきたみたいだよ』
「え? ……なんすか、あれ……箱……すよね?」
高校生たちが防空壕の中から発見したのは、崩れかけた土の壁。
削ると壁は完全に崩れ、さらに奥へと進む道が現れ。
道は空洞に繋がっていた。
箱箱箱箱。
静かな空間には、箱の群れ。
安置されていた――得体のしれない宝の数々。
隠されていたのは、古びた桐の箱だった。
『ふむ、ここに避難した僧侶や神主、ここの宗派は知らないが……まあ関係者が戦時中、空襲で大事なモノが焼けるのを避けるため、壁の奥に祭具を埋めていたのかな? まあ、魔術すら用いず人間の手で埋めた壁など脆い、五十年もすれば崩れてしまうのも仕方がないが』
「つまり魔術を知らない者が埋めたって事っすよね」
『おや、君は本当に賢いね。ああ、だからといって箱らが安全というわけではない』
キィィィィィンと音がする。
魔猫の瞳に魔力が走っているのだ。
天才栄子は知っていた、それは鑑定の魔術。
栄子は天使を洗脳し操る神として、あの世界に干渉していた。だから、多くの魔術を知っていた。
だからそれが鑑定の魔術の最高峰、神の領域にあるモノの全てを見抜く瞳なのだと知っていた。
天才栄子は既に読み解いていた。
魔猫師匠、三千世界と恋のアプリコット内で扱われる魔術とは異なる魔術体系――外の世界で使われている魔術式と呼ばれる魔術体系の法則を、既に解読していた。
それは莫大な計算式によってあらわすことができる。
魔猫師匠たちが扱う魔術式の魔術とは――魔力と呼ばれる心の力を用い、世界の法則を書き換える力。つまりは宇宙の法則を一時的に、術者の望む方向へと書き換えているのだろう。
実際、栄子は既に実験を終えていた。
最新のデバッグモードにも更新を掛け、外なる世界の魔術体系を取り入れ始めている。
それは無敵だったはずの木偶人形を勧誘するという、前代未聞の行動をみせたどこかの誰かのせいでもあったのだが。
ともあれ。
その観察眼を素直に称賛しているのだろう。
魔猫師匠はもう一度。
『君は本当に賢いね――』
同じ言葉を告げていた。
「そりゃどうも、それで、安全じゃないかもってのはどういうことっすか?」
『ふむ――どうやら様子がおかしい。この空洞は明らかに数百年前に作られた空間。もしかしたら空襲から逃げるためにここを作ったのではなくて、元からあった封印の地に逃げ込んで――祭具の部屋を埋めたという可能性もあるか』
「祭具の部屋ってここのことっすよね? それを埋めたって、どうしてそんなことを」
『さあ、私は純粋な人間ではないからね。けれど、魔術を知らなくとも僧侶ともなればそれなりに勘も働くようになるのだろう。霊感が強いとか、そういう言葉にしてもいいけど。きっとそういう意味で、僧侶の中に本物がいたんじゃないかな。だから、怖くなったんだよ、たぶん――箱の中身がね』
応じる魔猫師匠の前。
過去の追体験は動き続ける。
高校生たちは箱を開ける。
「ねえ、聞いてもいいっすか」
『なんだい、黒幕君』
「なんで、あたし……こんな変なことを覚えてないんすか」
『さあ、どうしてだろうね』
箱の中から出てきたのは。
抱き合う男女の、神々の彫像。
その頭は――神々しい象の顔。
象頭人身の祭具だった。
高校生たちは夢中になって、箱を開けていく。
中から、同じ姿の彫像が次々と発見される。
抱き合う象の神仏像が、並んでいく。
狂気としか言いようがない姿だった。
なのに栄子はそれを覚えていない。
ぞっとする過去の追体験の中。
魔猫は変わらぬ口調で、つぅっと瞳を細め。
『これは参ったね、これらはイシュヴァラ=ナンディカ……すなわち歓喜天。大聖歓喜双身天王――その姿かたちを偶像とした神像だ。かの気高くも恐ろしき天部の神は秘仏、本来ならばその本尊を人目に晒してはいけない……密教、秘教。言い方はさまざまにあるが、秘匿されるべき信仰がある。それが並んでいるとなると、かつて誰かが何か大きな願いを叶えるために、日本各地に散っていた歓喜天像の収集でもしてたのかな』
「願い……?」
『ああ、歓喜天はとても力の強い神。ただその成り立ちは少々複雑でね。起源や源流はインドのガネーシャ。けれど日本へと流れて来た時には、伝承も大きく変化していたとされている』
像を眺めながらの、落ち着く声の解説は続く。
『あの像は抱き合っているだろう? 元は男女、別の神なのさ。男側の――抱き合う像の半身は毘那夜迦と呼ばれる悪心を持つ、言ってしまえば邪神に分類される存在。片方の半身である、徳の高い女神にその肉体をもって調伏されるまでは、悪の限りを尽くしていた大神。善神へと帰依する前は、とても恐ろしい存在だった。だからね、歓喜天は他の神と違って――普通なら叶えてくれない悪い願いすら叶えてくれるのさ。ただし、正しき信仰、正しき手順、正しき奉納を守らないとそれは罰となって全て返ってくる。扱いの難しい存在でもあるわけだけどね』
だから人々は怖いと、思ったのだろう。その歓喜天様は恐ろしい存在だといわれているのさ、と教師の声。
魔猫師匠の説明が続く中。
栄子は言った。
「手順さえ間違えなければ、契約さえ守ればどんな願いも……って、それってめちゃくちゃありがたいんじゃないっすか?」
『ああ、そうだね。けれど、一度も、一回も、たった一つのミスすらもない。一生、永遠に間違いを起こさない人間なんて――存在するかい?』
「それは……っ。まあ、そうっすけど……」
『だから素人が手を出してはいけないとされて、怖い神様としても有名なのさ。もちろん神様が悪いわけじゃない、契約や制約を守らない人間が悪いだけ。実在するかどうかは知らないが――契約を勝手に破られ、勝手に怖がられているあちらはきっと、困った顔をしているんじゃないかな』
そのまま。
多くを知る魔猫は語る。
『この神に限らず扱いの難しい神は多く存在する。気楽に、一度でも拝んでしまうと、その信仰を一生続けないといけない神も多くいる。基本的に優しい神であっても、同じ日に別の神を拝む――つまり神社や寺のはしごをしたら、途端にその優しさを翻してしまう神もいる。君だって自分が大好きな人が、自分が大嫌いな人と一緒にいたら面白くないだろう? 神様だって同じなのさ。そもそも願いは自分で叶えるもの。身の丈に合ってない神頼みなんて、あまりするものじゃない気もするけれどね』
もちろん心の広い神も多くいるけれど、と魔猫師匠は告げて。
その瞳を、歓喜天の像の足に向ける。
『あれが見えるかい?』
「足っすよね……冠を装備した女神側の像の足が、男神の足を踏んづけて……でも、割れているみたいにみえるんすけど」
『ああ、あれは女神が男神を調伏していた逸話を象ったから、ああなっている。悪神とされていたビナヤカ神を女神が押さえつけて帰依させた証でもある。どうやら全部の足がわざと壊されている所を見ると、この像を集めた人間はよほど悪い願いをかなえたかったんじゃないかな』
「それって」
『女神が邪神を押さえつけ善神となっていた存在、その押さえつけている部分をわざと破壊し帰依を解除。これは歓喜天信仰ではなく、邪神としての側面に悪しき願いを託す。してはいけないとされている――ビナヤカ信仰だろうね』
良い子は絶対に真似をしてはいけないよ、と。
テレビのような冗談を言う魔猫師匠。
彼らの前で、追体験は進む――。
夏の思い出の中。
忘れてしまった記憶の奥。
高校生たちは、明らかに何かに操られていた。