第108話、そんな栄子は思うのだ【黒幕視点】
黒幕は逃げながら、昔を思い出していた。
何故、こんな時に思い出すのか。
それは分からない。
けれど、どうしても脳を思い出が走り続けていた――。
新部栄子は生まれついての天才だった。
子どものころから、いつでもどこでも身長以外は一番だった。
大人を含めても一番だった。
子どものころから栄子はなんでもできた。
愛嬌を振りまき、媚を売る術も習得していた。
既に三歳で、人心収攬の心構えを獲得していた。
何故ならそうしないと、生きていられなかった。
険悪な仲の両親に殴られてしまうからだ。
けれど両親も鬼じゃない。
栄子が嫌いなわけじゃない。
別に栄子を殴ろうと殴るわけではない。
主な理由は貧乏と、そしてお酒が原因だった。
父は会社でうまくいかないことがあると深く酒を飲み、すぐに悪酔い、栄子を抱いたままの母を殴り。酔った母もその報復にと、栄子を抱いたまま父を殴り返す。
普通ではありえない。
なかなかにバイオレンスな夫婦だったのだ。
険悪な両親の、殴り合う彼らの腕の中。
たまに衝撃が頬をかすめる危険地帯。
泣くことすらしない栄子は、ジト目で思う。
酒が入っているのだから仕方がない?
いやいやいやいや、ないないない。
冗談じゃない、これはいくらなんでもやりすぎっしょ?
なんとかしないと、これ、あたし生きていけないんじゃないっすか!?
と。
天才の栄子は既に、父がいつも読み捨てている競馬雑誌と新聞から語学を自力で習得していた。
まだ満足にしゃべれない歳で、頭脳は既に立派だったのだ。
だから栄子は指差したのだ。
それはある休日の事。
全ての可能性を考え、確率を計算し。
これぞと決めた馬名を順番に、次々に指さし、しつこいほどに父を睨んだのだ。
酔ってないときの父は優しかった。
それは普通ならば当たる筈のない馬券。
ありえない倍率の、買うだけ損な組み合わせだ。
けれど、あまりにもしつこく娘が指さすからだろう。
普段、酔っている時に喧嘩ばかりをみせている、それなのに今でも懐いている娘。本当なら、怯え、震え固まっていてもおかしくない娘。
なのにどうしたことか、娘はいまだに自分になついている。
その後ろめたさもあったのか。
父は娘が差す競馬新聞を眺め、分かった分かったと娘の指示通りに馬券を買った。
当たる筈のない馬券は当たり。
家は少しだけ裕福になった。
少しだけ裕福になると安酒ではなく、少しだけ高いお酒を買えるようになり、悪酔いしなくなり。
両親の仲も少しだけ良くなった。
夫婦の仲が少しだけ良くなると、心も落ち着いてきたのか会社でのミスがなくなり、父は怒られなくなった。
だから酒に溺れることもなくなり、いつしか家庭は普通の家となっていた。
あの頃の険悪さを覚えているのは、おそらく栄子だけ。
両親はなにごともなく、良い親であり続けた。
ちょっとのきっかけがあるだけで、日常は変わるのだ。
もっとも、そのちょっとのきっかけを作ることがどれだけ大変なのか、その時の栄子はまだ知らなかった。
まだ赤子ともいえる年の子が、競馬を分析し的中させることなど普通はできない。
けれど、それが普通だと栄子は思い込んでいた。
だから。
しばらくして、幼稚園に通うようになってから自分が周囲とは異質なのだと知ることになる。
栄子は幼くして、既に世界と現実を学習した。
集団行動の始まり。
幼稚園に小学校。
天才栄子は大人たちとて手玉に取って、どこに行っても頭角を現し――すぐに群れのリーダーとなった。
バカな子供がかわいい場面ではバカをやり、賢い行動が評価されるタイミングだけは、一瞬だけの鋭さをみせる。栄子はムードメーカーであり、人気者であり、どこにいってもすぐに周囲から栄子ちゃん、栄子ちゃんといわれる存在となっていた。
本当は天才。
けれど普段はお調子者のリーダー。
栄子は上手くやっていた。
それでも、そんな栄子の本質に気付く子供もたまにいて。
うっかり手を滑らせて、提出するはずの、自慢の粘土細工を自分でおとして壊してしまい――周囲の笑いを誘った時。
ねえ栄子ちゃん、……今の、わざとだよね?
――と、うっかりではなくわざとだと指摘する子もいて。
おそらくそんな勘の鋭い子供には、全ての行動を計算の上で動く栄子が、酷く歪んで見えるのか。
だから栄子はそういう子供を見ると、ああ……可哀そうにと思うのだ。
なぜならそういう子供は大抵、家庭環境に問題がある。
だから栄子はお節介をして、その子の問題を解決する。
自分の両親にしたように、栄子はその頭脳を動かした。
なぜそんな面倒なことをするのか。
理由は単純だ。
自分の両親がそうだったように、平和になれば、ほんの少しのきっかけで歪んだ状態が修復されれば、人間は昔のことなど忘れてしまう。
記憶の奥にしまい込んでしまう。
栄子がわざと皆からの評判を上げ過ぎないように、けれど嫌われないように失敗して笑いを取っている事も、その子は忘れてしまうのだから。
栄子の周りは常に、平和だった。
栄子は小さいころから天才だった。
◇
幼稚園、小学校と卒業し栄子は少しだけ大人になった。
中学生になったのだ。
前よりもいろいろなことができるようになった栄子。
前と変わらず、人気者の栄子。
けれど、栄子にはどうしても掴めないものがあった。
分からないものがあった。
中学生となり、周囲が愛や恋だとませたことを言い出した頃のことだ。
なんでも分かる栄子ちゃんにも分からないことができた。
それが恋。
異性に惹かれる感情だった。
かといって、同性に向けてそういう感情が向いていたわけでもなく、恋という感情そのものが非合理的でどうしても理解できずにいた。
中学生の頃の栄子は思っていた。
恋とは――優秀な遺伝子を残すための、動物的な行動。自分が恋をできていないのは、おそらくはそれが原因。
簡単な答えっすよね、と栄子は思う。
何故なら栄子は常に一番。
優秀な遺伝子を残すに値するパートナー、つまり、天才たる自分に釣り合う相手が存在しないのだから恋も発生しない。
そう結論付けていた。
しかし、それは誤解だった。
ある日、栄子は友達がプレイしていたゲームを知り、話題の延長で手にすることになり――初めて心をときめかせた。
それは普通のパズルゲームだった。
良いところはほとんどない――。
むしろバランスも滅茶苦茶で、作りも雑で、世間からの評判はあまり良くないゲームだった。
けれど、栄子は夢中になった。
このゲームは一つだけ、たった一つだけ褒められている点があったのだ。
登場人物たちの顔が良い。
グラフィックだけは良い。
むしろそれしか価値がない。
と。
栄子にはバランスなど関係なかった。
ただただ、スコアを上げる度にでてくるイケメンたちに、夢中になった。
今まで覚えたことのない感情を揺さぶられ――心を震わせていた。
栄子はゲームを好きになったのだ。
現実世界の男たちには全く惹かれず、おそらく高校に上がったとしてもそれは変わらないと自覚をしていた。なぜなら自分と釣り合うだけの頭脳を持つ男など、一生現れないと知っていたからだ。
けれど、ゲームの中のキャラクターたちは違う。
好かれるためだけに作られた、イケメンや美女ばかり。
現実ではありえない、美しい世界がそこに広がっている。
やはり現実離れしたキャラクターの顔も、乙女の栄子にとっては重要だった。
現実ではありえないことが、ゲームの中だけではありえる。
気付いたら栄子は誘われるままにオンラインでの大会に出場、クソゲーパズル部門で優勝を果たし、やはり自分が他の人間より秀でているとまた実感することとなった。
栄子は様々なゲームで優勝した。
彼女がプレイするのは、少し癖のあるクソゲー。けれど、登場人物に金髪碧眼の、まるでファンタジー世界の皇太子や、神話に登場するような幻想的な美青年がでていることが必須。
声だけは女の子。
けれど腕はあり得ないほどの領域。
いつしか謎の面食いクソゲークイーンと呼ばれるようになった。
そんな栄子は思った。
カチカチと、液晶に反射する光を受けながら苦笑をした。
リアル男もこれくらい現実離れしたイケメンだったら、恋の一つぐらいできるんすけどねえ。
と。
栄子はさまざまなゲームのイケメンと出会った。
それでも恋は分からなかった。
けれど、周囲が恋に夢中になっている感情だけは理解できた。
いつかそんな恋をしてみたいとも、そう思っていた。
そんな栄子を生意気だと思う者もいるだろう。
けれど栄子は可愛かった。
身長が少し足りないが、愛嬌があった。愛想も良かった。
だから同級生にも良くモテた。
『あたしになんのようっすか?』
と、放課後に中学一番の王子様男子に呼び出されて微笑む顔など、まるで極上に可愛いハムスターのようだった。
完璧な美人ではない、けれど間違いなくかわいい。
完璧すぎない見た目だから、自分にもチャンスがあるのではないか。
そう思う同級生も多かったのだろう。
けれど栄子は恋を知らない。
呼びだされた理由が告白だと知っていても、気付かぬふりをしてやり過ごした。
けれどいつの日だったか。
直接、面と向かって言われてしまい誤魔化すことができなくなり。
それが今回の出来事。
その時、栄子はこう言った。
『あぁ、悪いんっすけど。あたしじゃ、あなたに釣り合わないっていうか……』
言いながらも、賢い栄子はこちらを眺めて、明らかに泣いている女生徒を見て。
それがその一番の王子様を想う、幼馴染の女子だとすぐに理解して。
あぁ……っと困った顔をしてみせたのだ。
『たぶんなんすけど、一番君には、周りにもっと相応しい人がいるって気づいた方がいいんじゃないっすかねえ』
視線を泣いている女子に送り。
一番の王子さまもそんな女子、幼馴染に気付いてハッとする。
幼馴染に淡い恋心を抱いていた中学生の女子、顔もそれほど悪くない、性格は少しだけきつめ。けれど、そんな幼馴染の女子が泣いている。
男という生き物は泣いている女子に弱い。
人間という生き物は、弱い赤子を守るためだろう――泣いている存在に弱いのだ。
守ってやりたいと本能的な感情が働き、脳から分泌液が流れだす。
その脳の錯覚は好意となり、やがてそれは恋になる。
愛だって同じなのだろう。
栄子の中で、点と点とが繋がり線となった。
その時栄子は思ったのだ。
理解したのだ。
ああ、あの時自分が泣かなかったから両親は喧嘩を止めず、自分を守ろうとしてくれなかったのだと。
栄子は子どもとしての義務を果たせていなかったのだと、その時に自分を責めたのである。
ともあれ思惑通り。
全てを知ってますよという顔の栄子は告白を回避。
身を引き、二人をくっつけてあげて優しい栄子として評判を獲得。
全てが栄子の手のひらの上で動いていた。
けれど栄子は知っていた。
あくまでもこれは皆が中学生だから動かせただけ、大人に近づけば近づくほど――それは難しくなってくると。
栄子は天才だった。
だから自分で動かせる範囲を知っていた。
自分の限界を知っていた。
高校生にもなると、だんだんと栄子は孤独になっていた。
虐められているわけではない。
むしろ、表面上は今まで通り上手くいっていた。
けれど、どこかに虚無感があったのだ。
それはいわゆる思春期。
何をしてもすぐに一位になる。
何をしても、すぐに頭角を現してしまう。
中学までならそれは周囲の称賛ともなるが、高校生にもなるとそれは小さな大人の世界。すぐに嫉妬や恨みを買ってしまうと栄子は知っていた。
目立ち過ぎれば潰される。
潰されないほどに強い人間ならば、むしろそんな邪魔すら糧とする。けれど栄子は自分がそういうタイプではないと知っていた。
力では男に勝てないとも知っていた。
どんな理論武装も、絶対的な力の前では無力だと栄子は知っていた。
なにより日々流れている残酷なニュースや歴史が証明していた。
まだ栄子はそんな理不尽にあったことはない。
精々が両親が不仲だった時ぐらいだ。
けれど、栄子はあの日を思い出し、嫌だと強く感じていた。
両親は忘れているが、栄子は一生忘れない。
そんな天才栄子は思うのだ。
高校生活では、目立ちすぎるのはご法度だと。
もし虐めのターゲットにされたらと思うと、ぞっとした。
栄子の母は父に殴り返していたが、栄子にそれはできそうにない。
だから栄子はほとんど本気を出さなくなっていた。
目立たないように――いつでもどこでも、ブレーキをかけてしまっていた。
なぜ自分が周囲に合わせないといけないのか。
それが、とてもつまらないと感じていたのだ。
けれど、悪目立ちすれば必ずターゲットにされると賢い栄子は察していた。
中学までは本当に、周囲ともうまくいっていた栄子。
実際、高校生になっても変わらず笑顔で明るい子。
だから親も心配しない。
かつて自分たちの家庭がうまくいっていなかったことなど忘れて、幸せな家族だと信じ込んでいる両親は、娘のいびつさに気付かない。
天才栄子は歪んでいた。
両親の幸せそうな顔も、結局はほんの少しのきっかけで生まれた、作られた普通の家庭なのだと知っていた。
栄子は天才だからこそ、両親が不仲だったあの日々を忘れない。
暴力は怖いものだ。
恋して愛して結婚していた筈なのに、酒に酔って殴り合っていた?
なんて悍ましいと、大人になりつつある栄子は両親に対する嫌悪感をいまさらながらに感じていた。
あの歪んだ日々を誰もが忘れてしまっても、栄子は忘れない。愛や恋を信じない。
そんな時だった。
栄子はある日、学友に誘われ肝試しをすることになった。
それはよくある青春の一ページ。
クラスメイトの皆で集合、神社で行われる祭りを楽しんだ後で、こっそり境内の裏の山道に上ろうという話。
発案者はクラスのリーダー的な男子生徒。
断るのも不自然だ。
全員が声を掛けられている。
ある程度の関係性を保っていないと、学校で浮き、いじめの標的にされかねないと彼女は知っていた。
虐められるのは面倒だし、普通に嫌だ。
だから栄子は軽いノリで、オッケーっすよと承諾し――。
栄子はその日、運命と出逢う事になる。
それは新部栄子が十五歳。
夏祭りでの出来事である。




