第107話、これは、恋する乙女の物語【黒幕視点】
どうしてこうなってしまったのか。
なんで、失敗してしまったのか。
ビル群の隙間を走る女は考える。
大事な大事な端末を抱いて走るのは、小柄なシルエット。
ビルの隙間に差し込む太陽が、逃げる彼女を照らしている。
光に照らされ映る彼女は――少しぷっくらとしたネズミのような印象のある、ラフな格好の女性だった。
彼女の名は新部栄子――。
かつてイシュヴァラ=ナンディカの新人開発スタッフだった彼女も、今は女社長。
彼女はある意味で”三千世界と恋のアプリコット”の救世主だった。
約十年ほど前、彼女はアプリを救っていたのだ。
最後に売り逃げをするべく”三千世界と恋のアプリコット”の方針を切り替え、廃課金に走らせ、サービスを終了しようとしていた先代の社長を実力で追い出し、経営を立て直し株主たちからの支持を集め。
現社長へと昇り詰めていたのである。
以前はただの天才新人だった彼女だが。
今は敏腕で優秀な女性社長。
――の筈だった。
けれど、今はもう違うのだ。
息を切らし、冷たいビルに背をつけ、ぎゅっと唇を結んだ栄子は考える。
ああ、もう終わりなのかもしれないと。
追われている理由がなんなのか。
どんな正当な理由があって、どんな正しき罪状で追われているのか、それは分からない。
冤罪だから?
違う。
身に覚えがないから?
違う。
彼女には身に覚えがあり過ぎて、どの案件、どの罪状で追われているのか分からなかったのだ。
もっとも、彼女は日本国の法律を破ったわけではない。
人を殺したわけでもない。
けれど、彼女は知っていた。
法律とは違う倫理観のみの話であるのならば、自分が今までしてきたことは人殺しと同じなのだろうと知っていた。
知っていて、彼女は多くの命を殺めていた。
そして。
そんな魔術や異能で行う、法律では裁けぬ悪を取り締まる機関があることも知っていた。
そんな連中に追われているのだろう。
おそらく、もう時間はない。
会社が押さえられたという事は、もう相手は自分の存在を知っているという事。
だから言葉も漏れていた。
「だって、仕方ないじゃないっすか……ゲームなんすから、あれは、あの世界は、あたしたちが作ったただのゲーム。ってのは、はぁ……まあいいわけっすよねえ。なにしろ、この世界ってもんは複雑で。現実にはあり得ないことが起こる世界だって、証明されてるわけですし? いやいや、はいはい。分かりますよ、分かります。確かにあたしは自分たちが元を作った世界だからって、世界を破壊しようとしています。けれど、それって悪いことすかねえ? ゲームをポチっとリセットするのと一緒じゃないっすかねえ。なんであたしだけ怒られるのか、追われないといけないのか、意味わかんないんすよねえ?」
強気な言葉とは裏腹。
彼女の顔色は青褪めていた。
ぎゅっと腕に抱くデバッグモードを操作する端末も、きしんだ音を立てている。
冷たいコンクリに背中を預ける栄子はビルの隙間で、ひとしきり笑い。
そして。
追い詰められた表情で、顔を黒く染めて愚痴を吐き捨てる。
「どうして……、どうしてこうなっちゃったんすかね?」
今の栄子は追われていた。
ずっと順調だったはずだった。
あともう少しで、先輩をあの世界から取り戻せるはずだった。
なのに。
「なんなんすか! あのネコは!?」
その口から次々と恨み言が漏れていく。
瞳は狂気に染まり。
正気は既に消えかけているのだろう。
栄子の叫びが、風を切るように続く。
「なんなんすか!? 本物の神が介入してくるって、部外者が関わってくるってありえないっしょ!? こんなの、対処しようがないじゃないっすか!」
叫ぶ栄子の頭には、つい最近の出来事が浮かんでいる。
社長を解任された。
本当に、唐突な話だった。
突然の攻撃的な会社買収に始まり、代表から降ろされ。
一社員に降格。
いつでもどんな時にも、あなたについていきますと忠誠を誓ってくれていたスタッフも今は、もういない。
彼らは優秀だった栄子を信じてついてきてくれていた。
金にも権力にも動じない筈だった自慢の部下たちだった。
けれど。
金でも権力でもない誘惑に彼らは負けた。
洗脳されていた。
栄子は油断していたのだ。
彼女は魔術の存在を知っていた。
金の強さを知っていた。
けれど、この世に金よりも魔術よりも、更に強い存在があると彼女は知らなかった。
栄子は知らなかったのだ。
「金じゃダメだったんすか、女社長の魅力じゃ、駄目だったんすか。あたし、めちゃくちゃ頑張ってたじゃないっすか。あとちょっと、あとちょっとで全てが解決するっていうのに」
なのに。なのに。なのに。
社員たちは全員が既に敵。
「だいたい、あいつら! 動物に誘惑されるって! なんなんすか!? すみません社長よりも大切な存在ができたんですって、豚みたいにでっかい猫や犬やニワトリを抱っこして、デレデレデレ。バカなんじゃないっすか!? そんなのありなんすか!? ありえないでしょう、普通!」
叫びはビル群の隙間に流れて消える。
そう、魔術と異能による洗脳対策を施していた社員たちは、洗脳された。
もふもふアニマルたちにである。
彼らはオフィスに突然やってきて、ルルルニャン♪
わうわう、わぉぉぉぉぉん♪
クワクワワワワワ!
もふもふな猫やもっふもふな犬。
ふわふわな鶏が全員、社員たちに全力で甘えだし、その頭脳をモフモフで染めていった。
おそらくは猫も犬も鶏も、異世界神の眷属。
”不帰の迷宮”などという不正領域に棲みついた、あの魔猫の仕業。
あの魔猫に命令されたアニマルたちは完全にオフィスを占領。
自らの愛らしさと可愛さを理解した上で、どんな洗脳も効かない筈の社員たちを誘惑してしまったのだ。
社員は既にモフモフの奴隷。
もふもふのために行動し、モフモフのために全てを尽くす。
そんな、アニマルオフィスと化していた。
どうしようかと悩む間もなく、栄子を追う影が見え隠れし始め――。
実際こうして、追われている。
だから栄子も叫びたくなり、実際に叫んでいた。
「そりゃああたしだって、魔術があるっていうのは知ってましたっすけどぉ!? 初見殺しじゃないのは分かってますけど!? でも、こっちは必死に対策してたんすよ!? 魔術的洗脳を防ぐ高いトレーディングカードまで買って、効果を発動させてぇ……っ、社員たちにもずっと愛嬌を振りまいてぇ! 給料だって、待遇だってめちゃくちゃ良い感じにしてたじゃないっすか! あんなに、社長社長って懐いていたじゃないっすか! あたしの実力と大人の魅力と、このカリスマ性で絶対に裏切らない開発環境を作ってたのに! いつでもどこでも、あの世界に介入できる環境を、必死で、ずっと、ずっと作ってたのに……っ、こんなのって、こんなのってあんまりっすよ!」
いろいろと言葉が漏れる。
だがゲーマー気質もある彼女が言いたいこと。
最も大きな本音は、これだったのだろう。
「だいたい……っ、ニワトリってなんなんすか! ニワトリって! 魔術を扱う犬や猫だけならともかく、対策できるわけないでしょう!? ぶっちゃけ初見殺しじゃないっすか!」
おそらく。
彼女の叫び、彼女の言い訳だけ聞いているとバカみたいだと感じるだろう。
実際にバカげているのだろうが、それでも現実問題としてオフィスも会社も社員も既に文字通り占領されている状態にあり、元社長といえど既に介入できない状態にある。
完全に相手の策に負けているのだ。
「あたしは天才なのに……っ、先輩のためならなんだってできるのに。だから、まだあきらめるわけにはいかないのに……っ」
自分を天才と驕る。
普通ならば傲慢な発言だ。けれど彼女にはそれを言う資格があった。
そう。
栄子は本当に優秀だった。
過ぎるぐらいに、優秀だった。
頭も柔軟だった。
ありえないことがありえる。
それが魔術。
その存在もその本質もよく理解し、理解した上で行動をし続けていた。
この日本の裏で起こっていた魔術や異能、転生者や異世界人が関係していた戦いや珍道中が、現実で起こっていた出来事だと知っていたのだ。
この世界ではおよそ十五年ほど前に大きな動きがあった。
集団催眠ともいえる、長い夢を見ている空白期間があったのだ。
あれは夜に見た深い夢。
異世界からやってきた神々が、この世界を守るために戦った。
ゲームのようなおかしな夢。
現実ではないソシャゲ化された日本が確かにあって、けれどそれは既に終わっていて。普通の人々はあの日の出来事を夢の体験だと思っている。
たまに思い出し、自分も魔術に似た力をにゃんスマホと呼ばれる端末から発動させていたと、バカげていたが、いい夢だったと思い出して笑う――。
ありえないことがありえた、世界を救うために皆が動いた、けれどやはりそれは長い夢。
ただの夢だったと認識している。
けれど栄子は違うのだ。
今でもあれが夢ではないと思っている。
魔術も超常現象もあるのだと知っていた。
そして実際、魔術は存在しているままなのだ。
彼女は普通の女性だった。背が小さく、顔は可愛い。三十も半ばを過ぎても、まだ二十歳前後と間違われるぐらいの若々しい女社長。
けれど頭脳は本当に他人よりも大きく秀でていて、賢すぎるからこそ、人との考えに差異が発生していて――少し空気を読むのが苦手だった。
だからこそだろう。
空気を読めずに、あれを夢だと思い込むことができなかったのだ。
その証明こそが、彼女が腕に抱く端末。
にゃんスマホ。
”三千世界と恋のアプリコット”として誕生した異世界に干渉する力を、彼女はいまだに持ち続けていた。
その端末はにゃんスマホを自分で改造した、彼女専用のアイテム。
それは魔術によって作られ、全国民に配布された不思議な道具の改良品。
本来ならあの白昼夢の終わりと共ににゃんスマホも回収されていた。夢が終わったのだから、当然だ。
けれど。
彼女の夢は終わってなどいない。
ゲームの中に取り込まれた先輩は、まだ帰ってきていない。
天才の自分を鬱陶しいと思いながらも、それでも見捨てず笑ってくれた先輩はいない。自分と同じくらい優秀で天才だった異国人は、もうこの世界に居ない。ゲームの中にその魂を取り込まれて、この世界から消えてしまった。
「先輩がいない……」
そんなの絶対におかしいっすよね。
と。
彼女は夢の終わりを認めず、およそ十五年もあがき続けていた。
「だったら、取り戻せばいいだけの話っすもん。あたしはなにも、間違ってなんていないっすよね。だって、勝手に先輩の魂を奪っていった、あの世界の方が間違ってるっすよね。先輩だけじゃなくて、いっぱい、いっぱい、何人も転生してるんすから。それってぶっちゃけ誘拐っすよね? こっちは十分、立派な被害者なんすから。あっちばっかり被害者ぶるのは、やめて欲しいっすよね」
夢をあきらめるわけにはいかない。
そのために栄子は今も逃げ続ける。
あと少し、あと少しで溜まりに溜まった課金の反動の負けイベが始まる。
天使を洗脳し、その天使で転生者を誘導し――。
多くの課金を発生させ続けた。
人間一人の魂を取り戻すぐらいの魔力。命。寿命を、回収できていた。
しかし、今回もそのあと一歩で邪魔が入った。
栄子の人生はいつだってそうだった。
やっと自分と並ぶ頭脳の天才の先輩を見つけたのに、邪魔が入ってしまった。
けれど栄子はあきらめない。
実年齢は三十五を超えていても、心はまだ乙女。
先輩のお嫁さんとしての未来がそこに待っている。
そう。
栄子は男に恋をしていた。
「待っていてくださいね、先輩! あたしが必ず、ゲームの世界から助け出してあげますから。そうしたら、すぐにじゃなくていいんで、あたしの気持ちに応えてくれたらいいな、なーんて。ははははは、ちょっとそれは図々しすぎっすかねえ」
大好きだった、けれど死んだ犬しか見ていなかったあの男に。
恋をしていた。
いや――今でも恋をしている。
だから黒幕は端末を見る。
先輩が動いている。
先輩が生きている。
ずっと、ずっと、彼女はゲームの中で世界を壊さぬように動く先輩を眺めていた。
けれど、それももうすぐ終わり。
長年積み重ねさせた課金の反動で起こる負けイベで、全てを破壊する。
世界を壊して、あなたを取り戻す。
幸か不幸か彼女は優秀だった。
天才だった。
だから、世界を壊して先輩を取り戻す手段も本当に見つけてしまっていた。
だから、もう迷いなどなかった。
当時二十歳だった乙女は恋をしたのだ。
あの日、出会った先輩に恋をしたのだ。
生まれて初めての恋だったのだ。
だから。
これは、ゲームに愛する人を奪われた女が、愛する男を取り戻す。
そんな恋する乙女の物語。