第106話、彼らの世界の出発点【SIDE:魔皇アルシエル】
転生した踊り子と甘いマスクの大天使。
サヤカと魔皇アルシエルは果たして、どんな顔をしてそれを眺めていたのだろうか。
並ぶビル群。
漂うのは懐かしい現代社会の香り。
ちょうど今は出勤時間なのか。
パァァァっとクラクションの音まで鳴っている。
彼らは現地の魔猫師匠に召喚され、今、日本と呼ばれる地――三千世界と恋のアプリコットという世界の設計図が作られた地に顕現していた。
そこはあの日、交通事故があった濡れたアスファルトの道。
時刻はまだ朝。
けれど今はあの日の瞬間ではない、雨は降ってはいなかった。
朝露が滴る街路樹の奥に、まるでファンタジー世界の住人のような、スタイルの整った、絵に描いたような美男美女の姿が見える。彼らは魔力を持っていた。現実ではありえない力を持っていた。
けれど、ここは現実。
召喚魔術の煙の中――呆然と、かつての故郷を見渡しサヤカが言う。
「わたしたちの運命をたどり、召喚するとの話でしたが……本当にできてしまったのですね。まさか、再びこの地に戻ってくることになるとは思ったこともなかったのですが……」
懐かしい機械とアスファルトの香り。
かつて見慣れた、故郷の街並み。
しかし既にこの地での名を捨てていた魔皇アルシエルはこの世界ではなく、別の色を眺めていた。
それは赤。
懐かしさや望郷よりも、もっと目を惹く赤い髪。
パートナーに視線を向けたアルシエルが応じる。
『ええ。ですが――間違いなくここは、生前にいた世界でしょうね』
「たしかに魔猫師匠は強大な神。様々な世界を散歩しているとの話は聞いていましたが、こういうのって……ありなんです? いえ、わたしも魔術を知っていますので、召喚魔術で理論的には可能ということは理解してはいるんですよ? 転生という形でわたし達があちらに行ったという事実があるのですから、その逆も不可能ではないと……。でも……」
『しかし現実ですので、受け入れるしかないのでしょう。それともワタシと共にこの地に戻ってきた事が、不服ですか?』
声までハンサムな男の声が、女の表情を揺らす。
この地にて、サヤカとアルシエルは不幸な巡り合わせの果てに死んだ。
転生したとしても、あの日の記憶が消えたわけではない。
サヤカが片眉を下げて言う。
「わたしがそんなに心の小さな女に見えますか?」
『質問に質問で返すのはあまり感心できませんが』
「そうですか? 答えが分かっているのに聞いてきた、あなたが悪いと思いますよ?」
かつて女の夢を奪ってしまった男は言葉が欲しかったのだろう。
一緒に戻ってきて、良かったと。
けれど言葉で語らずとも、天使と転生者――そして、公演を通じて踊り歌い、演奏し……既に阿吽の呼吸となっていた二人の間には絆があった。
『そうですね、すみません――けれど、ワタシはどうも頭が固いのでしょうね。理解していても、分かってはいても……確証が欲しい。答えが分かり切っていても、大切なあなたからの言葉が欲しい。そう考えてしまう時というのは……あると、ワタシは思いますが』
「あなたこそどうなのです?」
『なにがですか?』
「勝手に車に飛び出した女のせいで人生を終わらせてしまったんですから。思うところは多くあったのではありません?」
そんなことはない。言わなくとも分かるでしょう?
アルシエルの脳裏によぎったその言葉が答えなのだろう。
男は端整な甘いマスクに苦みの混じった笑みを浮かべていた。
男はそのまま静かに、大天使の大きな身体で運命の女性を抱き寄せ――翼と体躯で包むように、少しだけ強く抱く。
男の腕による抱擁の熱さと硬さが、女の口から僅かな吐息を誘発していた。
天使の翼。
包むようなその温かい暗闇の中。
男は女に詫びていた。
『――すみません』
「謝らなくてもいいじゃないですか。ふふ、あなたのこういう意外に情熱的な一面も、わたしは嫌いじゃないんですよ? けれど、そういうのは終わった後にしましょう。転移した後に、正確には召喚らしいですが……とにかく、迎えがくると魔猫師匠は言っていたのでしょう?」
『照れているのですか?』
「そうですけど、なにか?」
照れているというわりに、サヤカの表情には余裕がある。
けれど、内心では本当に照れているのだろう。
二人の間には、そういう以心伝心の関係性が既に構築されていた。
だから、一度死んだかつての故郷に戻っていても、心には大きな余裕があった。
しばらく待っていると、転移の波動が周囲を揺らし始める。
おそらくは迎えなのだろう。
転移魔法陣が刻まれたアスファルトの上が、ザァァァアアアアァァァァァっと黒い霧で覆われ。
現れたのは長めの前髪で赤い瞳をほぼ隠す、慇懃な物腰の神父姿の男。
人間の姿であるが、人間ではないとすぐに理解できる。
それほどその神父は歪んでいた。歪んでいるといっても醜男なのではなくその逆、神父は酷く淫靡で美麗で人の情欲と心を惹きつける――容姿端麗な男だったのである。
神父が親しげな声で言う。
『やあ待たせたね、サヤカくんにアルシエルくん』
「その声は、魔猫師匠なのですか?」
『ん? ああ、この姿では初めてだったか。そうだよ、私だよ。君たちの世界では魔猫師匠と呼ばれている、異世界神さ。まあこれも私の一面の一つ、少し愛嬌のいい小粋な神父様とでも思っておくれ。と、……その顔を見る限り――この格好を、コスプレだと思っているのかい? それは誤解だ、訂正させておくれ。私はね、これでも本物の敬虔なる神の信徒、戒律などはあまり好きではないが――この信仰心と主を尊ぶ心は本物だとは言っておこうか。私は誰よりも主を愛している』
告げる神父。
漆黒の髪の隙間から、人を食ったような、けれど悍ましい程に美麗な瞳が見え隠れしていた。
魔猫師匠よりも、多少うさんくさい笑顔の神父である。
それに魔猫の時の冗談ならば可愛げがあるが、人間の姿なので少しくどい印象が増しているが――ともあれ、本人だとは理解できた。
魔皇アルシエルが言う。
『それで、社長代行とのことですが具体的には何をすればよろしいので』
『おっと、そうだった。負けイベ開始の時間も近いからね。とりあえずしばらく君たちはこちらの世界で生活して、買収したイシュヴァラ=ナンディカの経営と負けイベの解析をしてもらう』
とりあえず現地に向かいながら話そうと、魔猫師匠は無駄に長い高級外車を召喚。
二人に後ろに座るように促し、自らも後ろへ。
魔皇アルシエルもサヤカも、ふと、異様な魔力と気配に気づき前を見た。
運転席に女性が一人。
政府関係者と思われるパンツスーツ姿の女性。人間であるが、レベルは高い。異国の血が混じっているのだろう、かなりの美人女性であるが――。
敵意は存在しなかった。
状態異常を発動させる銃を武器とするらしく、戦いとなったら苦戦は免れない相手だろう。
運転手である彼女はバックミラーで転生者二人を確認し――。
「ケトス様、その方々ですか?」
『ああ、そうさ。大丈夫、彼らにも敵意はない。それで戸籍の方は?』
「問題ありません、申請済みです。お望みならば他の転生者たちと同様に、永住の手続きも可能ですが」
『いつも仕事が早いね、ありがとう。けれど大丈夫、彼らは既に向こうの住人。それにこう見えて彼は魔皇……ようするに王様さ、彼女は未来のお后様だろうからね。おそらくこちらに定住することはないだろう』
「……また異世界の、それも王族ですか……あなたはいつもそうですね」
『苦労を掛けるね』
「構いませんよ、勝手に動かれる方が困りますから」
言葉とは裏腹、優しい口調で言いながらもアクセルを踏み――。
外車はアスファルトの道を進む。
車窓の奥で流れる懐かしい景色の中。
師匠は続きを語りだした。
『さて話の続きだ――私は例のアプリに力を与えていた神と、そして黒幕を追うつもりだ。その二人が結託しているかどうかは分からないが、もう目星はついている。君たちは君たちで動いて欲しい。イシュヴァラ=ナンディカで働いていたスタッフ達は既に洗脳……じゃなかった買収済み。解析には協力して貰えるようにしてあるし、ゲームそのものに詳しいトカゲ目の社長……私の知人にも声を掛けてある。まあ、なんとかなるだろうさ。大変だろうが、全てのデータを確認して貰えると私は助かる。本来の予定なら、三千世界と恋のアプリコットの開発データを回収、改竄した後に再度、世界の種として植えてこちらの都合のいいように書き換えたかったんだけど――』
『何か問題が?』
『んー、ちょっとね。本当なら買収が終わった時点で勝負はついていた。あの世界を”三千世界と恋のアプリコット”たらしめている原因である核。最高神を軸に神話体系を作りだす、主神システムの主神部分の代用品として使われている”世界の種”を書き換えるつもりだったんだけど、それは止めた』
踊り子と大天使は目線を合わせ。
「すみません師匠。おっしゃっている意味がちょっと……、難しくてわたしたちの魔術レベルだと理解できないのですが」
『ああ、そうか。すまないね。ようするにだ、世界を作るためのテンプレみたいなものがあるのだが……えーと、図にしてみせよう。オーソドックスなのはこれ……一番強い神様が最高神、主神となり人々からの信仰を集め――その信仰の力を世界の維持に使う。単純なシステム故に強固な世界を作りやすい、けれどこれは一長一短。主神への信仰心が失われると、世界の維持が困難になる欠点もあるのだが。まあ今は重要じゃない』
ここまではいいかい?
と、神父師匠が教師の声音で告げた後。
『君たちの世界はこのシステムを流用している。けれど、主神にあたる神がいない。経験則だが――あれほどに私やコーデリア君が暴れていれば、ふつうは飛んできて戦うなり、妨害するなり、観察しに来るなり、やめてくれとお願いしてくるなり、なにかしらのアクションがあってしかるべきなんだ。いままでも大抵の世界はそうだったからね』
「師匠……どれだけ普段から他人の世界で暴れているんです?」
ああ、この神父。
間違いなくあの魔猫師匠本人ですね……といわんばかりのサヤカからの視線を受けても神父は動じず。
人間味を感じさせない美麗なスマイル。
『ともあれだ。君たちの世界ではそれはなかった。あったのは天使の介入だけで、大きな動きじゃあない。それはどうしてか。単純な話さ、君たちの世界は主神システムだけ流用して主神を用意していなかった、正確に言うのなら主神として設定されているのはゲームの核そのもの。主神として設定されている自覚がないのだろう』
「では主神は存在すると?」
『ああ、主神として設定されているゲームの核は、言ってしまえば君たちの世界を操作するプレイヤー。それもおそらくは長い年月をかけて世代交代を繰り返していると想定される。主神ともなれば、長く生きている間に必ず神として崇められているだろうからね。けれどそうはなっていない。つまりはそのゲームの核は無自覚なのだろうが一子相伝、主神としての、世界プレイヤーとしての力を親から子へと、託し続けていると私は結論付けた』
難しい話だが、魔皇アルシエルはなんとか話を理解しているのだろう。
サヤカの方は、全てを理解するまでには至っていない様子。
それが普通、むしろ話の一部を理解しているだけでも優秀なのだろうが――魔皇アルシエルは魔術師としての才能が彼女より上なのだろう。
その口から問いかけが伝っていた。
『理解はできました。けれどわかりません。魔猫師匠、あなたの口ぶりからするとあなたはゲームの核、全ての始まりを既に発見したのでしょう? ならば、先ほど師匠も口にしていた通り――買収した会社の中、”三千世界と恋のアプリコット”の開発ソフトでデータを改竄、再度、上書きする形で核に情報を流し込めばいい……。それですべてが解決すると思うのですが……』
『おや、素晴らしいね。社長くん、君は優秀だ。伊達で代表をしていたわけじゃあない――本当に理解しているようだね。けれど私はそのルートを却下する。理論的には最適解だとは分かっているのだけれどね、けれど、私の感情はそれを否定した。絶対に、それはできないとね――何故だかわかるかい?』
『それは……その、そこまでは』
考える男の横。
理論ではなく、感情から答えを導き出したのだろう。
全てを理解した顔でサヤカが言う。
「なるほど、そういうことですか……たしかに、それはできないでしょうね」
『サヤカ嬢? あなたには分かったのですか?』
「ええ、まあ……ただ感覚で理解しただけで、言葉にしようとすると、少しわたしには難しいのですが」
サヤカはアルシエルからの視線を受け。
更に試すような師匠の視線を受けつつ、単語を並べるように言葉を紡ぎだす。
「師匠が躊躇する理由なんて少ないですから。けれど、その師匠が躊躇する存在。そしてその人は世界にとって特別で、ゲームプレイヤーのように相手の心が見える存在、メッセージウィンドウが見える存在で……黒幕がずっと、殺したがっていた相手でもある。なぜなら黒幕は――理由は知りませんが、わたしたちの世界を破壊しようとしている。壊したがっている。けれどできなかった。ポメ太郎とずっと一緒に、新しい世界で……。そんな小さいけれど大きな行動原理で、世界を守り続けていた道化師クロードが守っていたから。彼が天使の介入を邪魔し、阻止していなかったら――とっくに破壊されていた筈。そしてその核は、偶然異世界の神に拾われ、直接的な介入もできなくなってしまった……だから今、黒幕は大きく動き出している」
魔皇アルシエルは賢い。
そこまで述べたらさすがに理解したのだろう。
大天使は魔猫師匠に目線を送り。
そして神父姿の師匠は頷いた。
『ああ、今のあの世界の核は……彼女。コーデリア君だよ』
だから書き換えることはできない。
だから三千世界と恋のアプリコットを解析し、負けイベを正攻法で攻略する。
そのために協力してくれるね?
と、神父は二人に問いかけた。
頷きながらもサヤカがぼそり。
「もちろん協力させていただきますけど。あの、解析して戦うって……どの辺が正攻法なのですか? 答えを見ているようなものですよね?」
『ん? イベント自体は発生させるわけだし。十分、正攻法じゃないかな?』
普段はもっと酷い手段をとっているのだろう。
「それで、黒幕の目星がついているとのことでしたが。こちらの世界にいるということなのでしょうか」
『ああ、こちらの人間だ。今は少しだけ悪い、ギリギリ合法となる手段を使って経済的にも世間的にも圧力をかけ、揺さぶっている。そのうち音を上げこちらから逃げるだろう。買収された仕事場にも戻れないだろうからね。此方の世界に居られなくなり、次元の隙間を通って向こうの世界に行けば治外法権。あちらの法で合法的に対処できるさ』
それでもあくまでも正攻法だと、魔猫師匠は本気で思い込んでいるのだろう。
その顔には微塵の後ろめたさもない。
いつもの魔猫師匠のドヤ顔である。
『――と、どうしたのかな? 久しぶりの車で、酔ったりしたのかい?』
「いえ、どうかお気になさらないでください」
サヤカも魔皇アルシエルもあえて、それを追求することはなかった。
まあ、そういう反応になりますよね、と。
運転手がくすりと笑う中、車はイシュヴァラ=ナンディカに向かい進んだ。
◇
解決へと加速する車が進む裏。
追い詰められていた女も、既に、この世界で動き出していた。
その腕に、デバッグモードを操作する端末を抱いて――。




