第105話、契約と商談【SIDE:魔皇アルシエル】
負けイベに備える世界が動く中。
それぞれがそれぞれで動く裏。
動揺と思惑が渦巻く世界は、大きく揺れていた。
それは暗黒迷宮からの鼓舞の雄叫びだけではなく、実際に世界が大きく揺れているのである。
誰の目から見ても異常な光景だった。
空は暗雲が埋め尽くし、魔力の渦が雷鳴となって光り続けている。
戦いの経験や勘といったものを育てている冒険者や、知識があるモノならば、終わりがもう間近に迫っていると理解していただろう。
もっともその”負けイベ”でこの世界が滅びるとは限らないのだが。
その終わりを回避するべく動いていたものは多い。
世界に噂と種を蒔き続けていた二人。
踊り子と翼持つ紳士。
転生者であるサヤカと魔皇アルシエルもその中の一組だった。
今の彼らは指示された四大国家を回り、指示された依頼の演目を公演し終え――宿の中。
時間は夜明け前。
サヤカはまだ寝息を立てている。
疲れと踊りの熱と、消えぬ肌の火照りを宿屋のシーツで鎮めていたのだ。
魔皇アルシエルはというと、眠る舞姫の火照る裸体に毛布を掛けていた――。
大衆の前で踊り切り、演じ切り、多くの喝采を受けた後の夜、彼女はいつでも情熱的だった。一流のスポーツ選手や演者やそして、剣士や戦士の冒険者が大仕事を終えた後は、精神を高揚させたままになってしまう者が多い……サヤカもどうやら一流の域に達していたらしく、この日も彼女は止まぬ火照りの中で恍惚としていた。
だが今は落ち着き眠っている。
仮面を外し――人々の目を奪ってしまうほどの甘いマスク。人に見られることにも慣れ過ぎた端整さを晒す美丈夫、魔皇アルシエルはそんな彼女を優しい面差しで見守っている。
満足そうなその寝顔に天使の男は手を伸ばし、筋の目立つピアニストのような指で湿った肌を撫でている。
夜明け前の静かな時間。
その筈だった。
けれど、ルルルルル。
ルルルルル。
音が鳴る。
それは転生前にも存在していたにゃんスマホと呼ばれる、当時最新鋭の携帯電話。
電話の主は、依頼人の一人でもある異世界神。
魔猫師匠。
酷く落ち着く、全てを委ねてしまいたいほどの美声が電話の向こうから聞こえてくる。
『やあ、アルシエルくん。疲れている所を悪いが、おはよう。ちょっと君に頼みたいことがあって電話をさせて貰ったんだ。こんな夜更けに本当にすまないね』
『いえ、まだ起きていましたので問題はありませんが――』
『ん? どうしたんだい?』
『いえ、この世界に転生してから、その……電話に出るという事がありませんでしたので。少し、そう……本当に少しだけですが、昔を思い出してしまいまして』
乙女ゲーアプリ”三千世界と恋のアプリコット”。
土着の神々による信仰心を稼ぐために利用されていただろうそのゲームと、ひそかに仕込まれていた規約。
既に精神をアプリに取り込まれていた踊り子サヤカ、最も愛した踊り手を間接的に殺してしまった罰か罪か、天使として転生した社長だった男が魔皇アルシエル。
彼はかつて優秀な、大企業の代表だった。
だから、こうした夜更けと夜明け前の時間に電話で起こされることも多かったのだろう。
彼は働き者の主だった。
まじめな男だった。
そして不幸な男だった。
だから色々と疲弊をしていたのだろう。
身内に起こった不幸を、全て自分のせいだと背負い込んでいた男だったのだろう。
声の裏から、そんな男の人生を感じ取っていたのか。
電話越し――。
魔猫師匠の苦笑する声音と、ネコの長い髯がスマホのモニターを擦る音が鳴っている。
『ハハ、それはすまなかったね。君ももうすっかりファンタジー世界の住人なのだろうが』
『さすがに長い間、こちらで生きていますと――そうですね。むしろ魔術ある生活に慣れてしまいましたから。機械や喧騒に囲まれていたあの日々の方が、なんででしょうね……よほどファンタジーに感じられてしまいますよ』
『魔術ですらなかなか出来ないことも、無詠唱で機械がやってくれるからねえ。それも人類の叡智、人間の知識と欲の塊。ファンタジー世界に生きる命にとっては、近代社会の方がよほどおかしい世界だという感覚は、まあ分からないでもない』
美丈夫同士の美声が続いている。
大天使の清らかな肉体。戦闘も得意とする、その隆起した腕に抱きつくように――女は寝息を立てたまま寝返り、踊り子の髪が男の腕に触れる。
肌に絡みつく、赤い糸。
乙女の髪。
現実ではありえなかった、鮮やかな赤である。
魔術と魔力が明確に存在する世界だからこそ、髪の繊維に魔力が浸透し――これほどの赤髪も現実的に成り立つのだろうと魔皇アルシエルは考えていた。
『おや、赤髪についての魔導的解釈かい?』
『驚きました……、あなたは電話越しですら心を読むことができるのですね』
『まあ、やろうと思えば大抵のことができてしまう。それが私だからね、とはいっても悪いね、今日はちょっと君の本音を聞こうとも思っていたから――心の中を覗かせてもらっているというわけだ。悪くは思わないでおくれ、これは君だけにではなく私と関わったこの世界の住人、皆に確かめている事だからね』
落ち着き払った、悪気などない言葉と声音だった。
本当に心を読むことに関して、あまり罪悪感を覚えていないのだろう。
そうアルシエルが苦笑する中で、更に電話越しの声が続く。
『そうだね、私も勝手に心を読んでおいて身勝手だとは自覚をしているが、さりとて、人間とは本音を隠す生き物だ。時間もない、ちゃんとした本音と本意を聞きたい……そんなこちらの我儘をどうか許して欲しい』
『心を読まれたままというのも、やりにくいものですね』
『さてそれでは本題だ。君は今、幸せかい?』
『唐突ですね、宗教の勧誘ですか? まだ青年といえるくらい若かったころは、駅前でそういうのに出会いましたよ』
再び苦笑したのだろう、電話越しに魔猫師匠の髯の擦れる音がする。
『悪かったね。けれど重大なことだ。今回起こる負けイベは、長い間の時間を使われて用意されていた終わりのイベントなのだろう。それなり以上の規模になるようだからね、事態が収束するか世界が終息するか、どちらの結末になっても世界は変わる。そうだね、君たちがかつて住んでいた世界で言えば――紀元前とそれ以降のように、明確に分けられるようになるだろう』
『それは生き残り、歴史として残った場合なのではありませんか?』
『言い方は悪いけれど、君たちが滅んでもその世界を観測している私たち”外なる獣神”は健在だからね。君たちの世界で語り手がすべて潰えたとしてもだ、そのまま世界を観測するとなれば、私たち観測者は、自ずとそういった呼び方をするだろう』
何が言いたいのか。
何を問うているのか。
魔皇アルシエルは理解できずにいる。
『簡単な話さ。君に新たな依頼をしたい。今君が幸せで、その幸せを守りたいというのなら――協力しておくれ。もし仮に、負けイベで世界が終わったとしても君と、君の隣で眠っている”幸せ”の魂だけは責任をもって私が保証しよう。どこか別の世界で共に転生できるようにしてもいいし、そのまま蘇生させてもいい。なんだっていいよ、君が望む形で幸せを保ってあげるさ』
アルシエルは目線を落とす。
シーツを纏った赤髪の美女――。
赤き舞姫サヤカに目をやった。
マクラ代わりに自分の腕に絡みついてくる女性は、本来ならば仇だったはずの自分を信じ、身体を預けている。
夢の中でも踊っているのだろう。
練習しているのだろう。
その口から、アンドゥトロワ……アンドゥトロワと、レッスンの吐息が漏れ伝っていた。
甘いマスクの男が、唇まで整ったハンサムから本音を漏らす。
『ワタシは幸せなのだと思います、身勝手なことをと怒られるかもしれませんが――生前よりも……彼女といる今が、楽しいと感じているのです。やりがいがあると感じているのです。共に世界を回り、公演をするまでになった……共に、同じ舞台に立つことができている。あの日、ワタシが壊してしまった彼女の夢を、この世界で……再び。あの日にできなかった夢を、彼女と共に。そう思うと……胸が、とても温かくなるのです』
踊り子サヤカと魔皇アルシエル。
足を壊された踊り手と、足を壊した社長。
あの件はどちらが悪いのか。
不意に飛び出した女が悪い。それでも前方不注意には変わらない。
どちらの人生も壊れてしまった。
大切なものを壊してしまった男は、あの日の後悔を忘れはしないだろう。
けれど。
この世界で再び、彼らは再会した。
『だから、やはりきっとワタシは今――幸せなのでしょう』
それが本音だと悟ったのか。
魔猫の優しい声がする。
『それはなによりだ。神として、祝福しよう。もっとも、私は君たちのいる世界の神ではないから異端かもしれないけれどね』
『話は最後まで聞いてください』
『おや、失礼。そうだね、なるほどね。君には彼女以外にも大切なモノたちがいるのか』
『――これから言おうと思っていたのですが……そこまで心を読んでいるのなら、話が早いですね。ワタシは魔境を治める主にして、王。もし負けイベを突破することができず、世界が終わりを迎えるその時……我が傘下にある魔境の民、彼らも助けていただけるのでしょうか?』
魔猫師匠が言う。
『おや、世界全部の命を助けてくれとは言わないのかい?』
『欲張りすぎるとろくなことがありませんから。ワタシはワタシのできる範囲で、手の届く範囲で……大事なものを守りたいのです。守るものが増えれば増えるほど、大きくなれば大きくなるほどに――どこかで破綻が出るものです。いずれすべてが守れなくなってしまう。全てを守ろうとし、本当に守りたいものが守れない……それは本末転倒ですから』
『欲張りすぎはよくない、か。肝に銘じておくよ』
『あなたに言ったのではないのですが』
『それでも、まあ私は欲張りだからね――少し自戒しているぐらいが丁度いいのさ』
ともあれ、と言葉を区切り。
『契約完了でいいかな? 君が依頼を引き受けてくれるのなら、私は君たちと、君の庇護下にある魔境の民の命を保証する。ただし、命を保証するといってもそれは死なないわけではない。負けイベの最中に脆弱なる魔竜よりも小さな魔力しかない全員を死なせないとなると、さすがに厄介だからね。だから、なるべくは守るが――もし死なせてしまったら、死んだ後に蘇生や転生などでその魂と意思を保持する。これが現実的な妥協ラインなんだけど、どうかな?』
『こちらはそれで構いませんが。その、依頼内容というのは』
依頼を引き受ける気ではいる。
けれどそれが自分にできるかどうかは別問題。
魔猫師匠は全能と言えるほどに強いが、反面、強すぎる反動で弱者の区別ができていない。弱者の能力を把握できていないきらいがある。
依頼されたはいいものの、単純に実力不足やレベル不足で達成不可能という事もあるのだから。
『おっとすまない。君とはニンゲンの私との精神年齢が近いのか、話しやすくてね。ついつい余計な長話をしてしまって肝心なことが抜けてしまっていたね。これも私の悪い癖だ』
『ニンゲン?』
『その辺りはいずれまた話をしよう』
さて、依頼内容だが、と魔猫師匠は口調を変え。
『単純な話だよ。ちょっと今回の件では私も気が変わって――本格的に手を伸ばそうと思ったんだ。それで実は今、私は君たちが生前いた世界に出張していてね』
にゃんスマホにデータと同意書を送りながら。
魔猫師匠はあっさりとこう告げた。
『現地に行って”三千世界と恋のアプリコット”の運営会社と開発会社。つまりイシュヴァラ=ナンディカを買ってきたんだ』
もちろん、沈黙が走る。
構わず魔猫師匠の、いつもの猫の声が続く。
『それでさあ、悪いんだけどしばらく君が社長代行をしておくれ。開発データを全部回収して、負けイベ対策をするから……と、聞いているかい? あれ? おかしいな、魔力は十分な筈なんだけど……異世界と異世界だから電波が遠いのかな……』
転生する前の世界に行き、イシュヴァラ=ナンディカを買った。
世界と世界を渡り歩く、異世界の神なのだ。
可能かどうかならば、実際に可能なのだろうが――。
さすがにそれは想定外だったのか。
魔皇アルシエルが全身から汗を滴らせ、間抜けな声を漏らす。
『は!? いえ……すみません、その。いま、なんと?』
『だーかーら、元となったゲーム会社を買ってきたんだよ!』
『ど、どうやってです?』
『どうって……、普通に買ってきたのさ。前に一度、散歩した世界でもあるし……私、現地の財産もキャッシュもそれなり以上に持っているからね。多少強引な企業買収ではあったけど、ちゃんと正規の手段で買ってきたんだけど?』
言っておくけど犯罪は犯していないよ?
と、魔猫師匠のいつもと変わらぬ声がする中。
頭痛を押さえるように、眉間を押さえるアルシエルが声を揺らす。
『すこし、待ってください。理解するのに、時間が……』
「……いったい、何の騒ぎです……?」
珍しく狼狽するアルシエルの声に目覚めたサヤカ。
寝起きの彼女もそのまま話を聞き。
はい……?
と、間抜けな声を赤い唇から漏らしていた。
魔猫師匠が直接介入した影響か。
世界がまた一つ、あらぬ方向に動き始める。




