第103話、師匠の正体
不帰の迷宮最奥。
転移魔法陣を抜け、魔力の扉を抜けるとそこには祭壇が広がっている。
筈だった。
清らかな水が流れていた筈のエリアにあったのは――淡い赤光を受ける祭壇。
赤い光と闇。
そこはまるで四角い箱の中。
以前、聖コーデリア卿が訪れた時とは空間に差異がある。変異していたのだ。
天井には煌々と照る温かい光。
四方の柱の周囲は、分厚い天幕で覆われている。
天から注ぐ温かな光の中央に、師匠はいた。
太々しい顔をした陽気で面白い、けれど、悍ましいと形容する事すら軽く感じてしまうほどの魔力を内包した――黒き魔猫。
異世界の神。
瞳を細め、天を仰いで神猫はぎしりと口を蠢かす。
『むにゃむにゃ……お餅はあと七十二個しか食べられないニャー』
ただの寝言であった。
天から注ぐ赤とオレンジの光は、熱源なのか。
暖かい光にモフモフなおなかを向けていた。これはいわゆる、ネコのへそ天、お腹を無防備に晒してご機嫌で眠っている姿である。
まだ門番との戦いが続いていると勘違いし、惰眠を貪っているのだろう。
本来ならネコの睡眠を邪魔するなど外道の所業であるが。
時と場合にもよる。
今回は世界の危機という事もあり、空気の読めないコーデリアとてここは起こすべきだろうと声をかけていた。
「師匠~! お目覚めになって下さいまし~! わたくしー! 聞きたいことがあってやって参りましたの~!」
告げながらも聖コーデリア卿の手の上には、フワフワフワとグルメの香り。
貢物たる、芳醇な香り漂う最高級チーズと聖女の手作りパンが浮かんでいる。
『うにゃ!? うにゃはははははは! これは良きチーズ、良き酵母の香り! って、あれ? コーデリアくん。三魔公と死闘を繰り広げているんじゃなかったのかい?』
魔猫師匠はコーデリアに気付くとブニャっと毛を膨らませ。
慌てて周囲を大掃除。
餅と呼ばれる異世界風習グルメや、飾りつけの蜜柑、鑑定名:宅配ピザの空き箱と表示されるアイテムを片付けながら、モフモフの首で振り返り。
弟子からの貢物を口で受けとり、むしゃむしゃむしゃ。
『一応、試練ってことで、待たせていた筈なんだけど……もう倒したのかい?』
「わたくしがここにいるということは、そういう事なのでしょうね」
『ふむ、なるほど。あいつら……君と同じぐらいの歳の女の子に弱いからなあ……どうせ、戦わずに素直に道を開いたってところかな』
状況を既に理解している魔猫師匠は、片付け終了とともにドヤ顔。
ネコのしぐさでくわぁぁぁぁっと手足を伸ばし。
ガッガッガッガ!
壊れぬ魔術で補強されている”祭壇の床”……ネコの爪とぎ機で爪を研ぐ。
いつもの光景。
いつもの師匠であるが、その周囲には師匠以外の気配もある。
ここで集まり、なにかを語らっていたのか。あるいは、宴でもしていたのか。
ともあれコーデリアは察していた。
ここに集うのは異世界の獣神達。
この温かな祭壇は、異世界の神の集合場所。
この世界を観測するための客席でもあったのだろう。
見えぬ神達に目線を送り――。
コーデリアは令嬢のしぐさで完璧な挨拶をしてみせる。
「直接お会いするのは初めまして皆様、わたくしがコーデリア。コーデリア=コープ=シャンデラーでございます。師匠のお友達の方々、ですわよね?」
トモダチと言われ。
闇の獣たちが歓喜に揺れる。
我が一番の友だ、いや余が一番の友である。もふもふ狼とふわふわ鶏が――どちらが一番かを競って睨み合っているが、いつもの事なのか、構わず魔猫師匠は話を進めだす。
『さて、コーデリアくん。君がここに来た目的は分かっている。けれど、その前に大事なことがある。これは重大な儀式。重大な手順。重大なやりとりだから省略をしたくない、分かるね?』
「ご随意に――師匠との付き合いも長くなって参りましたので」
『では――始めよう』
魔猫師匠が天井の明かりを消す。
天からの光が途絶えるとそこには完全なる闇が広がっていた。
あるのは闇とぬくもり。
熱の名残だけがしばらく感じられる状態ともいえる。
この空間そのものが魔道具の一種なのだろう。
あら、あらららら? コタツの電源を切るだけで大げさなのね――と、くすりと微笑むネコの尻尾のような花々が輪唱する中。
メルヘンな猫獣神たちが見守る前。
くくく、くははははははっと闇の中から声が響きだす。
それは先の見えぬ闇に走った亀裂から、押し出された声。
魔猫師匠の声。
けれど、普段よりも重厚で、濃厚な闇を纏ったかのような重々しい声だった。
まるで理性なき獣のようであったのだ。
それだけではない。
闇の中。
無数の赤い瞳がある。
それはまるで夜空の星。
それら一つ一つが異世界の獣神でありこの世界にとっての異物、魔猫師匠と共にこの世界を観測する外なる神なのだろう。
最も大きな赤い瞳がやはり、魔猫師匠なのか。
一対の、消えることなく燃えるような赤い満月が、コーデリアをまっすぐに眺め。
ツゥっと細くしまっていく。
闇の裂け目から。
夥しい魔力を内包する声が響く。
『よくぞ来た、よくぞ戻ってきた――我が弟子よ。聞きたいことがあるのであろう、知りたいことがあるのであろう。だが、汝が我に問いかける前に――為さねばならぬことがある』
告げた闇が再び哄笑を上げる。
再び魔力を補充された天井が、煌々と照り始め――周囲を淡き赤い光で照らす。
そこに現れたのはケモノ。
異世界神話に登場する鯨の神――巨鯨猫神とでもいうべき、神々しくも禍々しい姿を顕現させた獣神。
巨獣としての魔猫師匠だった。
ケモノの魔力吐息で髪を揺すられながらも、聖女はいつものおっとり顔で告げる。
「それが師匠の本当のお姿なのですか?」
『そうでもあり、そうでないとも言えるであろうな。我は一つの器に三つの魂を内包せし存在、魔猫の心と魂、魔人の心と魂、そして魔族の心と魂。全てが我であり、一つにして全、三位一体。我等は互いに我の本性足りえる憎悪の魔性。我こそが、三つの魔性を内包せし――世界を覆う闇の化身』
何事にも動じず。
何事にも感情を揺さぶられず。
あの日に涙と共に消し去った感情を揺らすことなく、怯むことなき聖女が言う。
「普段わたくしがお話している師匠は、どなたなのでしょう」
『言ったであろう、全てが我だと』
「猫としての師匠、人としての師匠、魔としての師匠。お三方は全員優しい魔力を持っていらっしゃいますでしょう? けれどどこかが違うのです。個性や感性が、少し違う。わたくしには同一存在とは思えませんわ」
『ふむ、そうだね――君は本質を見抜く力に秀でているのだろう。ならば答えは単純だ。全員が君を弟子だと思っている、気まぐれなるネコの私も、人でありながらケモノである黙示録の私も、そして魔王陛下の眷属たる魔のケモノの我も。全員がね』
普段の猫の口調が響いた後。
重厚な声に戻った、巨獣たる魔猫師匠が告げていた。
『さて――我が弟子よ、今こそ我が名を語ろう』
ケモノは今まで、自分のことを師匠と呼ばせていた。
それ以外の名を語りはしなかった。
それはあくまでもコーデリアが戯れで拾った弟子であり、内弟子にするつもりもなく、この世界で見つけた玩具の一つ程度にしか思っていなかったからか。
だが、今は違うのだろう。
だから宇宙の如き魔力を孕んだケモノが、名乗り上げを開始。
『我は魔性。憎悪の魔性。心を暴走させし、無限の魔力を生み続ける荒魂。人を呪い、人を憎み、人の悪徳を永遠に嘲り笑うケモノ。人に殺され、人に失望し、人に絶望したケモノ。消えぬ憎悪を、矮小なる汝らの物語を眺め――観賞することで慰めとする観測者』
コーデリアには魔性という概念が分からない。
けれど。
心を暴走させ、その心にある憎悪の限り無限の魔力を獲得し続けている、荒ぶる神であることは理解していた。
そして、宇宙そのものを破壊し、飲み尽くしてしまいかねない存在なのだとも理解できていた。
かつて師匠は自分を破壊神と語っていた。
それはいつものお茶らけた表現、自慢するための嘘偽りや、誇張などではなく本当の意味で破壊神なのだろう。
魔猫師匠は常に憎悪の感情を抑え、その憎悪の魔力で全てを壊さぬよう。破壊せぬように、遊びや余興、グルメなどで感情を誤魔化し続けているのだろう。
だからおそらく。
コーデリアとの出会いもその余興の一環に過ぎなかったのだろう。
今までは――。
『脆弱な汝等は我に怯え、我を畏怖し、我を仰ぐ。汝ら小さき命は我をこう呼ぶ。偉大なる御方がつけて下さった我が名を知り、その名を聞く度に平伏するであろう。一度しか言わぬ――さあ、心して聞け』
宇宙の如き闇のケモノは告げた。
朗々と。
世界を揺らすほどの声で――その名を告げた。
『我はケトス。大魔帝ケトス。異世界の邪神なり』
魔猫師匠の名乗り上げと共に、周囲の獣神達もその姿を現し始める。
神々しい聖なる光を放つ魔狼。
怨嗟を滾らせた鶏冠を赤く染める神鶏。
他にも多くの獣神の姿があるが、その二柱は魔猫師匠と同等に近い力を持っていると推測できる。
世界は広い。
異世界があるのだから、なお広い。
彼ら獣神から見れば、三千世界と恋のアプリコットを設計図として埋め込まれたこの世界の争乱など、それこそ遊戯として戯れに観測する程度の事変。
児戯にしか見えないのかもしれない。
コーデリアが言う。
「ケトス様、いえ師匠――いま、我はケトス。大魔帝ケトスとおっしゃいましたよね」
『如何にも』
「それって、二度名乗っていませんか? さきほど師匠は一度しか名乗らぬ……と」
こんな時にどうでもいい事を突っ込むコーデリア。
この聖女はどんな時でもマイペース。
自分よりも遥かに大きな獣神達を前にしても、その性格を崩さない。
だからだろう。
周囲の獣神達もコーデリアの天然さに哄笑を上げ始める。
クワワワワワ、グハハハハハハ!
ぶにゃははははは!
悍ましき獣神達の声が響いている。
しかしそこに蔑みの色はない。
自分よりも遥かにバケモノなケモノ達に囲まれても、そのアイデンティティーを保っている聖女に一目を置いたようだった。
けれど、獣たちはどこか憐憫の情をもって聖女を眺めていた。
その微妙な感情を感じ取ったのか。
コーデリアは問いかける。
「皆様、どうして笑っておいでなのです?」
『君がそうして普段通りだからだよ。私たちがここまで姿を現し、本性をさらけ出しているのに怯えていないだなんて、それだけで君は異質、特別な存在だという事さ』
まあ気に入ったという事だよ、と。
世界を覆うほどの闇の獣となっていた魔猫師匠が、くるりんぱと宙返りの動作で回転。
いつもの魔猫師匠に戻り、師匠たる声で弟子に言う。
『さて、君は何が知りたい。何を目的に私を訪ねて来たんだい。このままこの世界から出て、外の世界に行きます――なーんて言うわけじゃないだろうし。理由があるんだろう?』
「お聞きしたいことがございますの」
『いいよ、なんでも聞いてごらん。なんでも答えてあげるよ』
魔猫師匠が言う。
聖女は苦笑した。
「とても嬉しいのですが――なんでも、とは少し言い過ぎではありませんか? それではもし、わたくしが、この世界に三千世界と恋のアプリコットの種を植えたのは誰なのか、どんな存在なのか。聞いたとして……それは師匠にも分からないのでしょう?」
『いいや、知っているよ』
「え……?」
魔猫が赤い瞳で聖女をまっすぐ眺めていた。
低音の甘い、しかし闇の底から響くような落ち着く声が――。
聖女の髪と心を揺らす。
『言っただろう。私は何でも知っていると。そして名乗りを上げただろう? 本気になればどんな答えだってこの肉球で掴むことができる。それが私、大魔帝ケトスという存在。君の師匠さ』
コーデリアも魔猫師匠を見縊っていたわけではない。
むしろこれから先の人生の中で、彼以上に強大な存在には出会えないだろうと確信していた。
けれど、この魔猫はその確信のさらに奥で寝そべって――欠伸をしている。
まだまだ遥か先にある存在なのだと、ようやくコーデリアは察した。
普通ならば怖いと思うだろう。
どれほどに親しくとも、本能的な恐怖が背筋を凍り付かせたことだろう。
けれどコーデリアは笑顔のままだった。
なにも変わらず、いつもの笑顔。
ニコニコニコニコ。
微笑みを崩さない。
そこに歪な破綻を見たのか。
『涙と共に全てを捨てていた、か。哀れな娘よ――だからこそ、我は汝を見捨てられんのだ』
と、魔猫師匠の口から巨獣の声が漏れ伝っていた。
「師匠? どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのです?」
『それすら君が理解をできていないからだよ、我が弟子よ』
聖女と魔猫。
弟子と師匠。
聖女はいつもの笑顔のまま。
それが悲しいのだと魔猫は哀れな乙女を眺めたまま。
だから聖女が言ったのだ。
「わたくし、またなにかをしてしまったのでしょうか?」
『いいや、君は何も悪くないさ――だからこそ、どうしようもないのかもしれないね』
と。
魔猫の口から真摯な言葉が漏れた後。
魔猫は言った。
さあ、君は何が聞きたいんだい――と。
君のために何でも答えてあげるよ、と。
それが哀れなる乙女への優しささ、と。
ネコは嗤う。
おそらく、本当にどんな質問にさえ答えてくれる。
そんな確信があったのは、聖コーデリア卿も優秀な魔術師だったからだろう。
だからこそ、知ったのだ。
目の前の猫。
その大きさを。
あの時、あの日、偶然に出会った存在が、どれほどの存在だったのか。
コーデリアは今、初めてその奇跡を実感していたのだった。