第102話、不帰の帰還―はじまりの地へ―
次の日、負けイベに備えるべく世界が動く中。
大事な用があると、珍しくコーデリアは皆に一人になりたいと告げていた。
今は彼女だけの時間。
聖女は闇の中を歩いていた。
全てはあの日、あのダンジョン。
”不帰の迷宮”から始まった。
あの日、あの魔猫と出会い、人の身ではありえぬ体験と修行を多く積み。
そして今、聖女は再びここ――。
不帰の迷宮に帰ってきた。
既に多くの奇跡、多くの救済を為してきたコーデリアのレベルは高い。
不帰の迷宮の魔物であっても、もはや負けはしない実力を身に付けていた。
かつて通った迷宮を、コーデリアは一人で進む。
ガヤガヤわさわさ。
魔物の蠢く音がする。
あの日、パンや聖水を聖女に与えた魔物たちが、じろじろじろじろ。
聖女の帰りを眺めて告げた。
――ああ、帰ってきた。
――あの子が帰ってきた。
――二度と帰らぬこの迷宮に、ついにあの子が帰ってきた。
魔物の喜ぶ声がする。
まるで歌うような声がする。
あの日の彼らは無邪気で能天気で――。
世界がどう蠢くかも考えずに聖女に道を示した。
本来なら聖コーデリア卿はあの日に死んでいた筈だった。
けれど、魔物の悪戯で運命は変わった。
世界は変わった。
だから魔物たちは嬉しいのだ。
――ああ、面白い面白い。
――人間とは、人類とは、なんと面白い見世物なのだ――。
と。
魔物たちが喜ぶ中。
やはり。
かつて通った迷宮を、コーデリアは一人で進む。
魔物たちはあの日と同じく、聖女を遠巻きで眺めているだけ。
襲ってくる気はないのだろう。
前回は簡単に倒せてしまうから。
しかし今回は違う。
聖女は強く成長して戻ってきた。
もはや魔物が勝てないほどに、強くなって生き延びた。
あの魔猫師匠、この迷宮の主の弟子となって帰ってきた。
その道筋を作ったのは魔物たちなのだ。
魔物たちは歌の二番目を告げるように、同じリズムで口ずさむ。
だから嬉しい。
だから騒ぐ。
だからこうして、それぞれの目が帰ってきた聖女を眺めてギラリと輝いているのだ。
迷宮に追放され、殺される悲劇のヒロインを殺す役を押し付けられる?
冗談じゃない、おれたちはそんな悪党にされるのは嫌だ。
だから魔物たちは聖女にパンと聖水と道を与えた。
魔物たちの王。――彼らの王に会わせるために。
魔物たちの目論見は果たされた。
世界は大きく動き出した。
なぜなら彼らは最恐最悪ダンジョンの最強の魔物。
魔猫師匠によって作り出された迷宮の、最強の魔物。
最強ゆえに、退屈していた。
けれどそれはあの日で終わり。
今の彼らはずっと、聖女の物語を眺めている。
――ああ、楽しいな。
――ああ、愉快だな。
――我らが蒔いた種が、こうして広がっている。
歌が終わったのだろう。
魔物たちがトテトテトテトテ。
聖女の足元に顕現し始める。
不帰の迷宮の魔物にとって、コーデリアは自らが植えた種なのだ。
本来なら消えてしまうはずの命に与えた。
チャンス。
聖女は見事にチャンスをつかみ取り、今、こうして生きている。
だから帰還した聖女に向かい、親しげに魔物が言う。
『やあ、聖女ちゃん。君は幸せになれたかい?』
それはまるでネコのような顔をした魔物だった。
いや、ネコそのものだった。
それは最強の魔猫、魔猫師匠の眷属たちだったのだろう。
魔猫達の種族名はネコ魔獣。
ネコ魔獣は魔猫師匠が存在することで加護を得て、その能力を大幅に強化されている。
聖女は言う。
「どうでしょうか――そもそもわたくしには幸せというものが、よくわからないのです」
『幸せが分からない? そんなの美味しいものを食べればすぐに分かるだろう?』
魔物の一匹がグルメを齧りながら言った。
聖女が言う。
「一人で食べるご飯は、あまりおいしくありませんわ」
『そうかい? けれど君には多くの出会いがあっただろう? 君はここから生還し、多くの人との絆を作っただろう? その人たちと食べているご飯は、美味しくないのかい?』
「いいえ、美味しいですわ。けれど……」
聖女が言う。
「わたくしには分からないのです。幸せとは、愛とは、恋とはなんなのか――なぜ、他の全てを投げだしてでも人を、他人を愛することができるのか。わたくしにはどうしても、分からないのですわ」
迷宮がざわつく。
魔猫の群れが集合し、毛玉となってヒソヒソヒソ。
魔猫の中でも位の高い、魔猫公爵なのか。
白、黒、三毛。
モフモフな尻尾を立てた三匹の偉そうな魔猫が現れ、聖女のまわりをぐるぐると回りだす。
『それは貴殿が本当の恋を知らぬからでしょう』
『いや、違うであろう』
『吾輩、想いますに――おそらくはこの聖女、かつて自分で恋心と呼ばれる感情を封印し、自らの心から切り離してしまったのでしょう』
白黒三毛、三匹の魔猫公爵は三匹同時に言う。
『ああ、恋を捨てたとは哀れな娘だ』
「恋を捨てたつもりはなかったのですが……」
聖女は言った。
けれど、遠き過去の思い出。
まだ人格が育ち切る前――友達の兄、少しだけ年上の皇太子に惹かれていた思い出が確かにあったと、自覚はしているのだろう。
あの日。
少女は泣いていた。
それはサヤカとミリアルドも過去視の魔術で見た光景。
コーデリアは、もういいのです。
と。
領主の娘としての強さをみせて父を振り返った。
その時に。
きっと。
「いえ、そうですわね……わたくしはあの日、お父様を心配させまいと涙消しの魔術を使いました。わたくしは手加減が苦手です。心を表現することも苦手です、空気を読むことも苦手です。きっと、あの日にうっかり……涙と同時に、恋心も消してしまったのでしょうね。あの日以来、わたくしは泣かなくなりました。泣けなくなりました。どんな感情も大きく心を揺さぶることがなくなりました」
だからあの日。
この迷宮に追放されたときも、乙女は辛い顔をみせなかった。
むしろ笑ってすらいた。
恐ろしき魔物に、能天気に声をかけていた。
だから、魔物も興味を持った。
うわ、なんだこの娘……と。
闇の中。
三匹の魔猫公爵が言う。
『涙を消すなど』
『ああ、哀れな娘よ』
『人は泣くからこそ強くなれる、人は涙の回数だけ……おっと、これは異世界の受け売りになりますニャ』
錫杖を鳴らす三毛色魔猫は、そのままスゥっと不帰の迷宮の奥を照らす。
全身が黒い凛々しき黒魔猫が――まるで貴族のような気品に満ちた姿で、スゥっと二足歩行になり。
聖なる鎧を纏い、騎士の如き覇気を纏った白き魔猫が、聖騎士猫の顔で聖女の行くべき場所を肉球で翳し。
それぞれが魔猫公爵たる怜悧さで、聖女を案内するかのように尻尾を立てる。
『さて、あなたが用があるのは我らが神、我等が魔猫の王。あの方なのでしょう』
『聞きたいことがあるのであろう?』
『謁見の許可を与えよう、聖女よ。我らが神の弟子、コーデリアよ』
コーデリアが言う。
「良いのですか? おそらくはあなたがたは門番なのだと思うのですが……」
聖女は戦いを覚悟していた。
なぜなら魔猫師匠は明らかに何かを黙っていた。
その何かとは――獅子王の息子、オスカー=オライオン。
不帰の迷宮の、二番目の踏破者。
今まで黙っていたのなら、そこには何か理由がある筈。
実際、暗黒迷宮で領主代行をしていた筈の師匠は、いなくなっていた。
オスカー=オライオンが踏破者だと知りコーデリアが急ぎ、事情を聞きに戻った時には――既に消えていた。
だからこうして、彼と出会った最初の地に来たのだ。
『構いませんよ。そもそも命令系統が異なりますので――我等は汝等が魔猫師匠と呼ぶあのお方とは、別の主人に仕える身なのです』
『そしてネコとは気まぐれで気高き生き物』
『まあようするに、ぶっちゃけ気分で行動するので、吾輩たちはあなたとここで戦う気など起きないし面倒なので、お通り下さいということですニャ』
聖女は三匹の魔猫に感謝を示し。
魔猫師匠が待つ扉の前に転移するための転移魔法陣を形成。
迷宮内の座標を指定し、望む場所に転移をする高位魔術の波動を感じたのだろう。
ほぅ……! と。
感嘆の息を漏らした三匹の魔猫は、聖女のみせる魔術に肉球で拍手を送っていた。
聖女が転移をする、その直前。
三匹の魔猫に尋ねた。
「オスカー=オライオン様は、どうやってあなたがたを突破したのです? 本来なら、あなたがたを倒さねば通れない……のですよね?」
『あの男は強かった。けれど、吾輩たちには勝てないと知っていた』
『だから、あの獅子たる若造は我等への貢物を用意し頭を下げた』
『地面に頭をこすりつけ、こう言ったのですよ。どうしても、守りたい女性がいると。それは真摯な言葉でした、それは我等を納得させるだけの心があった。だから我等は若き獅子を通しました。それだけの話ですよ、聖女よ』
あのオスカー=オライオンが頭を下げた。
土下座をしてでも、プライドを捨ててでも守りたい相手がいた。
聖女が言う。
「……つまり、あなたがたは二回も連続で門番の仕事を放棄した……と?」
一回目は聖女。
二回目は獅子王の息子。
空気を読まないコーデリアに冷静に突っ込まれ。
三匹は集合。
白黒三毛、もふもふの公爵たちはジト目で聖女に言った。
『そのマイペース』
『さすがは我らが神、我等が王の弟子』
『しかし、ええ、ええ。たしかにそうです、それはまずい。ですので――どうか、今回の件、我等が神にはご内密に。我等は死闘を繰り広げた、そーいうことにしておいてくださいニャ』
不帰の迷宮に潜んでいた魔物たちに見送られ。
聖女は再び、あの祭壇へと転移を成功させていた。
聖女が去った後。
ぞろぞろと、観客と化している不帰の迷宮の魔物たちが歌う。
――あの日、あの時、あの出会い。
魔猫師匠との再会が――いま、再び――。
あの日、追放された乙女は再びこの地を訪れた。




