日だまりの桜 ★
人間、本当に驚くと声は出ない。
時折体験することがある有名な現象を体験しながら、目の前で起こっている現象に対してなんとも名状し難い感覚と感情を味わう。別に、恐怖を感じているだとか怒りを感じているというわけではない。
もっとも、久しぶりの休日に手間暇をかけて作り上げたふわふわのスフレオムレツが破壊されてボトリとやや粘着質な音をたてて無惨に床に落下しカーペットとスフレオムレツ(一部)に尊い犠牲が出てしまったことは悲しいことではある。だが、それらは悲しいことであって衝撃的なことでは無いのだ。
「うぅ…体細胞一つ一つを丁寧にバラされてく感覚。あっ、どうも初めまして…今回あなたを担当することになった死神みたいなポジションの存在です。現在、転移酔い中のため少々お待ちください。」
俺の部屋。
よーく見知った俺の部屋。
男の一人暮らしだもんで少しだけ、少しだけ散らかってる見慣れた部屋に突然見知らぬ少女が現れたことこそが衝撃的なことなのだ。
「ふぅ…はぁ……毎回こうなるのか…よし、落ち着いた。
改めまして、このたび藤代さんの担当になった死神のような存在の神さま見習いです。藤代さんからは死神という認識で大丈夫です。」
サラリと頭を下げる動きに従って流れる暗めの茶色の髪と天使様が着ていそうなシンプルを極めたようなワンピースに白い素足。まだコタツが稼働してる家がたくさんあるような春先だというのに薄着な少女は薄着であることや突然目も前に現れたことを除けば普通の少し色白で細身なだけの少女にしか見えない。
「えーっと、頭を上げてもらえないかな。」
俺の言葉に頭を上げた少女の顔をあらためて見て思わず息を飲んだ。
困ったように歪められた髪色と同色の少し太め眉と明るめの茶色の猫目に口元の黒子といった特徴のある日本人らしい幼さの残るぱっと見こそは平凡に見えるが良く見ると整った顔立ちをしている少女の首には青黒い…縄で締められたような痣が存在していた。
さっき、重力に従って髪が流れ落ちて見えた首筋にはそんな字は見えなかった……首の後ろには存在していない痣?
「うわっ…タイミング失敗しましたね。本当にすみません。」
カーペットの上に落下してシミを製作している無惨なスフレオムレツを見て心底申し訳なさそう眉を顰める自称死神ちゃん?さん?は両手で赤い皮表紙の本を大切そうに抱きしめていて威圧感とかは特に無い。無いけれど素足だし、急に現れたし多分本当に非現実的な存在なんだと思う。
「あっ、大丈夫大丈夫。落ちたの少しだし…ね?」
しょんぼりとした明らかに悲しげな視線が向けられているスフレオムレツを慌てて手掴みで回収して皿の隅に置く。皿を傾けてしまって千切れるように端が破壊されて落下したから片隅は空いてたのは良かったのは悪かったのか……
カーペットには油分のせいらしきシミとケチャップのシミが残ってるけど範囲は狭いし問題は無いはず。ふわふわ卵だったせいでべちゃっとなってしまっていて悲しいというか虚しい気分になるけど、目の前の衝撃的な非現実でそんな虚しさは綺麗に塗り替えれる。
「転移タイミングのミスは私のミスです。申し訳ありません。」
「大丈夫だからそんなに謝んなくていいよ。」
本当にスフレオムレツ一欠片とカーペット一部分しか被害はないから全く問題は無い。
うん。全く問題は無いんだ。でも考えを放棄したいんだ。具体的には少女誘拐だとかそういったワードが脳裏に浮かぶのが嫌だ。
せっかくの非番で、同職他職種問わずに友人たちは全員仕事。たまには出かけることなく自宅でゆっくりするのも良いなとのんびりとスフレオムレツっていう地味に手間のかかる物を作りながら映画を見ようとしてたというのに目の前で罪悪感を感じてますと顔に書いて落ち込んでいる少女によって休日が無くなる気配しかしない。
もしかしたら、自分でも気がつかないうちに溜め込んだストレスと疲労が生み出した幻覚かもしれないけれど自称死神ちゃんが現れたという現実を気にせずに映画を楽しめるメンタルは俺には無い。
「んーと、君はどこから入ってきたのかな?」
テッシュでベタついた手を拭いながら赤色の本を抱きしめて正座をする自称死神ちゃんを威圧しないように見ながら優しく声をかける。
「直接ここに転移したので防犯上に問題はありません。人に私がここに侵入してきた経路は利用できないことを含めて安全であると思います。」
本を抱きしめたまま恐らく正座しながら深く頭を下げる死神ちゃんは口振り的に人ではないらしい。
俺、いつ寝落ちしたんだろう。首に痣さえなければ綺麗な顔をしている真っ白なワンピース姿の少女が出てくる夢を見るとか俺はなんて夢を見てるんだ。
「夢であると思ってしまっても仕方がないですが夢ではありません。」
深く頭を下げたまま強く赤い本を抱きしめる手に力を入れて何度か深呼吸をしているように見える自称死神ちゃんは緊張しているというか怯えているように思える。素足で白色の薄手のワンピース姿の怯えた少女とか事案の臭いしかしない。俺、警官なのに大丈夫かな?いや、警官じゃなくてもアウトだな。
というか自称死神ちゃん、敬語が雑だね??最初の今時の子供っぽい口調が素面だよね?
「私はあなたにとっては死神のような見習い神さまです。死神と名乗ってるのでわかるでしょうが、私はあなたに死の宣告をするためにここにやってきました。」
死神が死の宣告に来るって本当にあるんだな。
罪悪感を感じてますと顔に書きながら再び頭を下げる死神ちゃんを前に、感動すらするけど誰にも理解されないだろうし、誰かに言えば気狂い扱いされて病院に連れてかれる未来が簡単に予想出来てちゃうな。
「えーっと、取り敢えず顔を上げてもらっても良いかな?
頭を下げられてる状況って本当に落ち着かないんだ。」
俺の考えるだけど優しい声になるように意識しながら声をかけつつ改めてしっかりと普通の日本人の少女にしか見えない死神ちゃんの首筋を見るけれど、やっぱり首の後ろに痣は見えない。でもさっきはっきりと首の前面に痣があるのは確認したから首の前面にだけ痣があるということなんだろう。
恐る恐るといった様子にしか見えない罪悪感をやっぱり顔に張り付けながら頭を上げる死神ちゃんを笑顔を浮かべて見守る。背筋をしっかりと伸ばして両手でしっかりと赤い本を抱きしめる死神ちゃんが緊張してるんだなとはっきりわかるし神様という感じもあんまりしないけれど、神様見習いを名乗ってるし天使は死神だったとかいうわけではなく死を伝えるから死神なんだろう。
だけど、神様という感じも死神という感じもしない普通の…死を伝えるという役目に緊張しながら怯えている少女にしか見えなくて、どう対応すべきかわからない。いや死神ちゃんが怯えながらもやってきた段階で俺の死を伝えにきたんだけどさ。
あと、首の前面とサイドにある縄でつけられたっぽい痣は気になる。
「死神ちゃ…さんは俺のことを知ってるんだろうけど、一応俺も自己紹介をします。
俺はフジシロ ケンイチ。藤の花の藤に君が代の代で藤代。健康の健に数字の一で健一です。これでも、警察の花形である捜査一課所属で目の前のことをしっかりコツコツがモットーのまだまだ働き盛りのお巡りさんです。」
俺の言葉に赤い本を抱きしめている両手に更に力を込める死神ちゃんに皮で出来てるようだけど本が歪まないかちょっと心配になった。
「とりあえず、ちょっと崩れちゃったけど一緒にオムレツ食べない?」
俺の言葉に何いってんだこいつと顔にはっきりと書いた死神ちゃんは、かなりわかりやすい子なんだなと確信出来た。