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一話

 

 秋葉原のとある雑居ビル。

 狭く、たばこの匂いが染み込んだエレベータを八階で降りる。

 目の前に現れた無骨なガラス扉にはスモーク塗装がされており、中は窺い知れない。

 僕は慣れた手つきで扉を開く。


「おかえりなさいませ! 勇者様!」


 きゃぴるん、と効果音でも聴こえてきそうな可愛らしい声が、狭い店内に響き渡った。

 ここは『Rabits Party Garden』。

 魔王の魔法によってウサ耳を付けられてしまった女の子たちが、魔王を倒す旅を続けている勇者の疲れを癒す憩いの場所。

 身も蓋もなく言ってしまえば、冴えないオタク男子がお金を払ってかわいい女の子とお話ができるコンセプトカフェ&バーである。

 僕はこの『Rabit Party Garden』通称『RPG』に足繁く通う常連客だ。

 入り口で検温とアルコール消毒を済ませ、席に案内されるとすぐに一人の女の子が話しかけてきた。


「あっ、チョモくん! おはよ!」

「ヒナタちゃん、おはよ」

「うん!」


 僕がRPGに通う理由は彼女、『ヒナタ』にある。

 端的に言ってしまえば、一目惚れだった。

 友人と神田で飲んでいる時、酔った勢いそのままに冷やかし半分で適当なコンセプトカフェ……いわゆるコンカフェに転がり込んだ。

 その時勤務していたヒナタは、僕の理想の全てを詰め込んだような女の子だった。

 肩まで伸ばした艶のある黒髪、ぱっちりとした二重と丸い目、薄い唇、ほっそりとしつつも不健康さを感じない肢体、それを包むRPG風の衣装とうさ耳。

 性格は騒がしくなくむしろ静かで、だからといって無愛想ということはなく、僕が話すことに目を細めてコロコロと笑う。

 大学で男とばかりつるんでいて女の子に慣れていない僕は、すっかりヒナタに入れ込み、こうして通い始めてもうすぐで一年になる。


「外、寒かったでしょ?」

「うん。もう十二月だもんね」

「少し前まで暑かったのにねぇ」

「うん」


 僕とヒナタは、アクリル板越しに他愛もない話をする。週に四日も会っていれば、そんな話ばかりだ。


「でもさ、一年前とは随分変わっちゃったね」

「そうだね。チェキかドリンク入れないと顔もちゃんと見れないし」


 昨年の冬から流行した感染症により、多くの業種が大打撃を受けた。コンカフェも例外ではない。ほとんどの店が一時休業に追い込まれ、一部は店を畳むことになったほどだ。

 RPGもすわ閉店かと肝を冷やしたが、チェキやブロマイドの通販といった対策を早期に実施したおかげか、こうして営業再開まで漕ぎ着けることができた。

 夏頃から営業を再開したRPGだったが、キャストはマスクを着用すること、テーブルにはアクリル板を設置すること、席数を制限するなどの感染対策を施すことによって離れていった客も少なくない。

『人』をコンテンツ化して商売をしている以上、それがどれだけの価値を持つかは重要である。

 整った美しい顔が全て見えて、間に阻む物が無かった感染症流行以前のサービスから比べれば、今のサービスは価値が落ちたと感じて当然だ。

 それでも通いたいと思う者が通い詰めることで、なんとか成り立っているのがこの世界だった。


「ウーロン茶とチェキ、それからドリンクお任せでお願い」

「わかった! ありがと! 持ってくるね!」


 本来であればチェキは誰と撮るか、ドリンクは誰にあげるかを指名するが、ヒナタは慣れた手つきでハンディを操作して、キッチンの方へと向かっていった。僕はヒナタ以外に指名をしたことがないので、ヒナタは自分を指名していることを言わずともわかってくれている。そんな些細なことに、これまでの積み重ねを感じて小さな満足感を感じていた。


「おっ、チョモくんじゃん〜」


 ヒナタが去ってから手持ち無沙汰にしていると、一人のキャストがニヤニヤ顔でこちらに近づいてきた。

「しずくちゃん、久しぶり〜」

「久しぶり〜! って三日前くらいにも会ったじゃん! わはは!」


 マスク越しでもわかるとびきりの笑い方をする彼女は、ヒナタと同時期に入店したキャストのしずくだ。いわゆる同期である。

 ヒナタはどちらかというと大人しげだが、しずくは天真爛漫といった感じで、常に明るく店内を走り回っている。対照的な二人だが、彼女たちは不思議と仲が良い。SNSでよく絡んでいるし、店側もユニットで推すような動きがある。先月末に行われた、ヒナタ&しずくのお給仕一周年イベントも合同での開催だった。


「……ん。またヒナタちゃんなの~? さすがヒナタ単推しTOチョモさんですな!」


 しずくは手元のハンディを操作してそう言った。僕の伝票を確認したのだろう。


「まあね。ヒナタしか勝たんだから」

「ほんと可愛いよね! 食べちゃいたい!」


 しずくはゲヘゲヘと笑う。下品とも取れるような笑い方だが、しずくの整った顔立ちだとむしろ魅力の一つになる。

 ヒナタやしずくの他にもRPGには十数人のキャストが在籍しており、それぞれが違った魅力を持っている。それぞれの魅力に惹かれた客がオタクと化すのだ。


「ウーロン茶おまたせ~」

「ありがと」


 しずくと談笑していると、グラスを持ったヒナタが歩いてきた。水滴の滴るグラスをウサギ型のコースターに置く。


「あ、しずくちゃんも一緒にやる?」

「うん! やる!」

「チョモ君、おっけー?」

「うん」


 それだけのやりとりで、三人同時に両の拳を胸の前に構える。


「「おいしくな~れ!」」


 二人の掛け声とともに腕をテンポよく左右に振る。


「「「ぴょんぴょん」」」


 ここからは僕も声を出す。頭の上で手を開き、うさぎの耳を模してから、すぐにハートの形を作る。


「「「きゅ~~~ん!」」」


 ウーロン茶に向けて、三人分のハートが向けられた。


「ありがと~!」


 パチパチとヒナタが拍手した。

 これは、一種の儀式のようなものだ。

 十数年前、秋葉原にメイドカフェが出来た時に、今となっては伝説とまで謳われるメイドが生み出した『愛込め』というサービスである。

 コンカフェは普通の喫茶店とは異なり、その名の通りコンセプトを重視する。コンセプトは内装や衣装、メニューやシステムに反映されるが、それらはあくまでも受け身的な世界観だ。世界観を用意した上で、客が自主的に世界に入り込まなければ意味がない。そのために有効であるのがこの『愛込め』だった。客が『愛込め』を自主的にやることで、世界観に入り込むことができる。

 初めて『愛込め』をやった時は、恥ずかしさを酔いで抑え込んで乗り切ったが、今となっては作業である。店と他の客が作っている異世界の雰囲気を壊さないように、僕も振る舞っているに過ぎない。


「先月のイベントでかかってた曲なんだけどさ」

「うんうん」


 しずくは他の客の元へと行き、ヒナタはそのまま僕のテーブルに着いた。手元には生クリームが盛られた、見るからに甘そうなピンク色のドリンクがあった。キャストにドリンクを注文すれば、その分、キャストは卓につきっきりになる。金を払えば、それに見合った待遇を得られるのだ。

 僕とヒナタは先月のイベントについて、感想を交わした。

 一年前、僕がRPGに転がり込んだ時、ヒナタは初出勤の日だったらしい。一年も続ければ、この業界では長生きだろう。それに見合ったオタクも付き、店側も看板として売り出す。RPGはヒナタの一周年を記念して、しずくと共にイベントを企画・開催した。この周年や生誕を記念するイベントは、キャストの努力も必要だが、オタクの力も試されている。スタンドフラワーやアルバム、ライブ時の統率などオタクがどれだけ金と時間を費やすかによって、イベントの成否が問われると言っても過言ではない。僕はヒナタのオタク代表として、しずくのオタクと協力してイベント開催に向けて全力を尽くしたつもりだ。当日は成功したと言って良かったと思う。


「あら、チョモちゃんじゃない」

「オーナー、こんちわ」


 僕とヒナタの会話に割って入ってきたのは、アフロと髭が印象的なガタイの良い中年オカマ、もといRPGのオーナーだった。


「相変わらず今日も不愛想ねえ」

「違いますよ。チョモ君はクールなんです。ね?」

「そういうことにしといて」

「でも、確かにチョモちゃんは大人びて見えるのよね。よく考えてるって言うか、考えすぎとも言うのかしら」


 オーナーは見た目通り様々な経験をしている。一時期はメキシコでタコスを売っていたらしい。見た目はふざけているが、その豊富な人生経験から言うことは正しかったりする。


「もっと子どもっぽく可愛く振る舞ってもいいのよ」

「少なくともオーナーの前じゃ、お尻が怖くて無理ですね」

「確かにね!」


 オーナーはガハハと豪快に笑ってキッチンに引っ込んでいった。奇怪な人物だが、来店すれば必ずこうして顔を見にやってくる。マメなのだろう。そうでなければ、年頃の女の子を多く抱えるコンカフェのオーナーなどやっていられない。


「それでね……」


 僕はまたひなたと束の間の現を抜かした。




「勇者様のご出発です! いってらっしゃいませ~!」


 数時間後、キャストの揃った声に背中を押される。


「ありがとうね!」


 最後まで手を振ってそう言うヒナタに「またね」と声を掛けて、僕はRPGを後にした。煌めくピンク色の電飾から、ビルから僅かに漏れる蛍光灯が照らす夜の闇が目の前に広がる。

 この瞬間は、唯一嫌いな時間だ。

 まるで目を覚ませと言われるように、冬の冷たい空気が頬を叩く。

 ヒナタの次の出勤日は三日後。それまでは大学とアルバイトの繰り返しだ。淡々と過ごすだけの日々が始まる。キツいということはないが、あまりに退屈な日々だった。


「ラーメン食って帰ろ」


 ポツリと呟いて夜の秋葉原にくりだす。

 秋葉原と言えば、電気街と萌え、そしてラーメン激戦区としても有名である。この時間でも営業している店はまだある。

 適当な店に入って、熱々のラーメンに舌鼓を打つ。早々に食べ終わり、そそくさと店を抜ける。ラーメン屋に長居する客は敬遠される。さっさと食べて、さっさと出る。これに限るだろう。

 そろそろ帰るか、とようやく秋葉原駅に向かい、JRの改札を通る。

 エスカレータに運ばれて、下りの京浜東北線ホームに入った。

 平日の夜十時三十分、ホームに並ぶ者はサラリーマンばかりだが、その中にまばらに可愛らしい若い女の子も混ざっている。そのほとんどはコンカフェのキャストばかりだ。秋葉原には無数のコンカフェが乱立している。在籍しているキャストの数も相当なものだ。多くの店が閉店するこの時間には、多くのキャストがこうして普通の女の子に戻って現実に帰っていく。稀に、知っているキャストに出会ってしまうこともあるが、そこには干渉しないことが僕たちオタクの暗黙の了解だった。


「あれ、チョモ君だ」


 だからこそ、こんな状況が起こってしまうこともある。

 投げかけられた声に振り向くと、RPGの衣装ではなく白を基調にしたかわいらしい私服と赤いマフラーに包まれたヒナタが、すぐ後ろに立っていた。


「ひ、ヒナタちゃん?」

「今、帰り?」

「う、うん。お疲れ様。じゃあ」


 たどたどしい言葉でそれだけ伝え、僕はヒナタから足早に離れた。

 頭の中で悪い考えが鎌首をもたげる前に、そいつを潰す。

 オタクは金銭を払って、現実では話すこともできない女の子に相手をしてもらっている。それを常に意識しておくべきだ。もちろんキャストも人間であり、通い詰めているオタクに対して悪く思っていない女の子もいないこともない。だが、あくまでそれは客としてであり、人、ましてや男としてではない。

 今、この場でヒナタと他愛のない話はできるだろう。明日以降、何事も無かったかのようにRPGに通い続けることもできるだろう。しかし、金銭を通さずに僕たちは関係を持ってはいけない。

 金が生み出すものは、『信頼』と『嘘』である。

 国が金の価値を保障することで、関係の無い他人同士の取引に信頼を与える。

 僕とヒナタの間には、金に保障された信頼がある。僕が金を払うことで、ヒナタはそれに見合った関係性を提示してくれる。屈託のない笑顔、可愛らしい仕草、話題の尽きない会話。もし僕がヒナタと同じ大学に通っていたとしても、それらが僕に向けられることはないだろう。

 また、そういったヒナタの言動は『嘘』である。

 嘘といっても、マイナスな意味ではない。ヒナタが僕に見せる姿はヒナタであって、ヒナタでない。ヒナタの中に、僕が見ているヒナタの要素は確かにある。だが、それがヒナタのすべてではない。人は誰しも、恥じて他人に秘する一面がある。ヒナタには『ヒナタ』ではない本当の名前があり、『ヒナタ』はその一部でしかない。しかし、金を介した僕たちの関係では、見せる姿がまるでその人の全てであるかのように見せなければならない。それが金という力が持つ『嘘』の力なのだ。

 金とは、そういった『信頼』と『嘘』を作り出したシステムでありルールである。

 金を介さない場合、こういったルールの全ては無視される。厳密に言えば、個々のルールに委ねられてしまう。金によるルールは、個々が持つルールのほとんどをカバーできるように設定されている。人の倫理観のギリギリでなく、数十歩手前で規制をかけているのだ。これが取り払われたとき、言動は各人の行動規範に委ねられる。互いに道徳や人道を外れない倫理観を持っていたとしても、互いの倫理観には必ず齟齬が生じてしまう。つまるところ、『普通』の人間関係が始まってしまうのだ。

 たいてい、人間関係というものは上手くいかない。人間関係が何を以て上手くいっているのか、という定義から考えてしまうが、少なくとも僕自身はそんな問答をしてしまう程度には、人間関係というものに懐疑的だ。親子でさえもまともな関係を築けない人間がこの世にはごまんといる。幸いにも僕と両親は険悪な仲ではないが、血のつながりも持たない他人との人間関係が上手くいくことなど稀である。

 ましてや本来交わることのないはずで金という嘘で出会った僕たちが、正しい人間関係を築けるわけもない

 僕は『ヒナタ』と出会った代償に、名前も知らない誰かとの関係を潰してしまった。それが僕とヒナタの、オタクと偶像の覆らない関係性だ。

 もし、私的な関係を持ったときには、僕と『ヒナタ』の関係はどんな形であれ終わりを迎えるだろう。結局のところ、僕はこの関係を壊すことを恐れているのだ。どこまでいっても他人であり、金が続く限り決して壊れることのない嘘の関係だとしても、一年もの時間をかけて積み上げてきた関係だ。家族とも、友人とも、恋人とも違う奇妙な唯一の関係。それが瓦解してしまうことは、何よりも怖い。

 別に僕とヒナタがここで話をしたとして、何かが始まるわけではないと思う。しかし、僕はそれほど僕のことを信用していない。そもそも『ヒナタ』は僕が思う理想の女の子なのだ。そんな女の子に話しかけられたら、自分に好意があるのではと思ってしまいかねない。また、ヒナタが何を考えているかも、僕には解らない。

 僕たちの関係は、あくまであの異世界でのみ成り立つのだ。


「…………」


 足元の点字ブロックをゲシゲシと蹴りながら、僕は呪文のようにその思考を繰り返していた。

 電光掲示板と腕時計を見比べる。ホームに着いてから二分しか経っていないことに驚いた。早く電車が来ないかと、何度も電光掲示板と腕時計に視線を上下させるが、秒針はその役目を忘れてしまったのか、遅々として進まない。

 びゅう、と風が吹いた。十二月の冷たい空気が頬を切り、思わず目を細める。

 突然、薄くなった視界が赤く染められた。


「!?」


 声にならない叫び声を上げる。ふわりとした感触と共に、柔軟剤の良い香りが鼻孔をくすぐる。


「あ……」


 細い声が隣から聞こえてきた。聞き覚えのある声だが、それと同時に体温がスーッと引いていくような寒気を感じる。


「ご、ごめんなさい」


 目に覆い被さっていた物を掴むと、それが予想通りのマフラーであることが解った。ついでに、謝罪の声の主が目の前で申し訳なさそうに立っていることも、予想を裏切らなかった。


「ヒナタちゃん……」


 自分の喉から呆れるような声が出たことに、若干の驚きを感じながら、マフラーを手渡す。これほどあっさりと接触してしまったことで、あれだけ過敏に接触を避けていたことが馬鹿馬鹿しく感じてしまった。


「あ、ありがとね。てか、なんかごめんね」


 ヒナタは手早くマフラーを受け取ると、なぜか僕のすぐ後ろに並び始めた。


「え、いや、なんで?」

「うん? 迷惑かけちゃったから謝ったんだよ?」


 二人して首をひねる。


「あ、いや、違くて。どうして同じ列」


 僕が不明瞭だった質問を訂正していると、聞き覚えのある流行りの音楽が鳴り出した。確か音楽配信サイトでダウンロード数一位だとか、そんなメジャーな曲だ。アニメソングやアイドルソングで溢れた秋葉原の街では、場違い感があった。


「あ、ごめんね。電話来ちゃった」


 その音楽がヒナタのスマホから流れていることに気が付いたのは、ヒナタがスマホを耳に当ててからだった。

 お店で音楽について話すこともあるが、たいていはアニソンだとかアイドルの話ばかりになる。ヒナタがメジャーな音楽が好きなことなど知らなかった。それ自体はどうでもいい。しかし、『ヒナタ』でないヒナタの姿が僅かでも見えてしまったことが、得体の知れない不安を感じさせる。山の向こうに見える暗い雲のような、そんな漠然とした不安だ。


「はい。はい。ええ」

「……」


 僕とRPGで話している時とは違い、少し低いトーンで話している相手は誰なのかだとか、そんなことを僕が思う必要はない。

 もう一度、電光掲示板と腕時計を見比べる。


『一番線に、京浜東北線南浦和行き、普通列車が参ります』


 それと同時に、ホームにアナウンスが流れる。前の電車が行ったのは五分前のはずだが、いやに長く感じた。左手からライトを煌々と照らしながら、電車が迫ってくる。

 後ろに立つヒナタは通話したままだ。通話しながらの乗車はマナー違反となるから、僕たちはここで別れることになる。そのことに、安堵の嘆息をする。

 プシューと音を立てて開いたドアから乗車する。僕にとっては店もそうだが、秋葉原という街自体が異世界だ。この電車が動き出せば、僕は現実に帰っていく。

 その時、次々に乗車する人々の物音やホームに響くアナウンスに混ざって、一つの声が聞こえた。


「え? 家、燃えてるんですか?」


 今にも閉まろうとしているドアの向こう側で、ヒナタが目を丸くして僕を見上げている様子を見れば、今の声が誰のものかは明白だった。

 気が付けば、加速していく電車に押し出された冷気が、僕の背中を舐めていた。


「チョ、チョモ君。なんで……?」


 見るからに困惑の表情を浮かべるヒナタに、僕は引きつった笑みで嘘を吐いた。


「心配、だったから」


 嘘だ。僕は今、嘘を吐いている。電車を降りてしまった理由など、自分でも解らない。体が勝手に動いていたとか、そう言えば格好がつくかもしれないが、この先の事を何も考えていない。


「ど、どうしよう。アパート、燃えてるんだって……」


 ヒナタの声が震えているのは寒さのせいではないだろう。


「大丈夫だよ。なんとかなる」


 なるわけがない。僕の声も震えていた。


「ヒナタちゃんって、一人暮らし?」

「うん」


 一年も話していてそんなことも知らない情けなさ、ヒナタの『ヒナタ』ではない部分に踏み込んでしまった不安を感じてしまう。しかし、ここまで聞いて、後には引けない状況になってしまった。


「とりあえず実家とか……」

「東北の田舎だし……実家には帰りたくない」


 俯くヒナタを見て、彼女は両親と正しい関係が築けなかったのだろうと勘付いた。


「大学の友達とか……お店の子は?」

「友達、うん。普通そうだよね……」


 押し黙るヒナタに、僕も口を閉ざしてしまう。

 奇妙な重苦しい不安感が僕を襲った。ヒナタが、ヒナタでなくなる感覚。外側は同じだが、中身はぐちゃぐちゃに混ざり合い、得体の知れないものに見えてくる。


「無理だったらホテルとか、ネカフェとかは?」

「そんなお金無い……」


 大学生の一人暮らしかつ親と疎遠ということは、財布事情も芳しくないことは想像できる。


「RPGで泊めてもらうのは?」

「ダメ……。あそこ、オーナー泊まってるもん」

「ああ、オーナーかぁ」


 ヒゲモジャアフロの中年オーナーと二人では、ヒナタも心配なのだろう。僕も心配だ。

 街の灯が消えていく秋葉原を見渡す。十二月の寒空に、女の子を一人放り出すわけにもいかない。朝までやっているファミレスやカラオケを探すという手もあるが、コロナ以降、都の深夜営業自粛要請が出されていることにより、朝までやっている店がほとんど無い。

 よくよく考えてみると、手詰まり感が否めなかった。


「あの、さ」

「何か良い案あった?」

「えっと、その」


 俯いたまま、両手の人差し指をクルクルと回すヒナタ。実家も、友人も、RPGも、ホテルもダメとなると、打つ手は無いように思える。


「あの……」


 ヒナタはモジモジと煮え切らない態度を取り続ける。こうしている間にも、二、三本の電車が過ぎ去っていた。



「チョモ君の家に、お邪魔しちゃ、ダメかな?」



 果たして、この美少女の上目遣いに抵抗できる人類はどれほどいるのだろうか。かつて覇を唱えたという古代ギリシアのスパルタ兵でさえも、ヒナタの潤んだ瞳には陥落せざるを得ないだろう。


「…………あ、いや、え? ちょっ、え? なんて?」


 バグったゲームの音声のように、僕は頭の中に沸き起こる疑問をそのまま口にした。


「チョモ君一人暮らしって言ってたけど、やっぱりだめだよね? あのね、でも変な意味じゃなくて、その……他に行くとこ無いし、チョモ君なら信用できるって意味でね? すぐ出ていくから、できればなんだけど……」

「いや、うん? 僕の家に……?」


 ダメか、ダメじゃないかで言えば、むしろオールオッケーだ。好きな子が家に泊まりに来るなど、断るという選択肢すら思い浮かばない。

 しかし、僕たちは推しとオタクの関係だ。私的な関係はご法度。僕自身の問題もあるが、それと同じくらい、業界としての問題も絡んでくる。


「繋がりに、なるんじゃ、ないかなぁ……?」

「……うん。まあ、そうだよね」


『繋がり』とは、業界用語である。

 キャストと客が私的に連絡を取り合ったり、店外で秘密裏に会ったりすることであり、ほぼ全ての店がこれを禁じている。RPGも例外ではない。また、ルール以上にオタクの中では『繋がり』は重罪であると認識されている。オタクの間には『処女至上主義』が蔓延している。自身に経験が無いことから、偶像にも穢れなき潔白さを求める身勝手な欲望がさも当然かのようにまかり通っている。実際のところ、アイドルやキャストが処女であると信じているのは一部の狂信的で妄信的な層だ。一般的に考えれば、これだけ見目麗しい少女たちが男性経験も無いということはあり得ない。しかし、そうは解っていても男の影が見えるのと見えないのとでは話が違う。オタクというものは、異常な執着心によるリサーチ力を持っている。『繋がり』があると噂されればそれを暴くし、過去まで徹底的に掘り起こす。そしてそれが嘘だろうと真だろうと、まるで祭かのように騒ぎ立てる。火のない所に煙は立たたない。疑わしきは罰する。そこまで騒ぎになれば、キャストは解雇、オタクは出禁処分になる。それは最悪の結末であり、この秋葉原の街では幾度となく繰り返されてきた愚行でもある。ならば、隠さなければならない事実を作らなければいいだけだ。


『ファンに隠さなければならないことはするな』


 どこかのアイドルプロデューサーはそう言っていた。理想論であると思う。しかし偶像としてのトップであるアイドルと、無数に存在する学生アルバイトの間には、想像以上に大きな溝がある。事実、僕は『繋がり』に片足を突っ込みかけている。僕は今、秋葉原で延々と続く罪の連鎖の一端に触れているのだ。それは世界から見ればちっぽけな問題で、常日頃起きている小さな火事の一つに過ぎない。誰も死なないし、ニュースになるようなものでもない。しかし、僕という世界、RPGという世界にとってはこの上なくセンセーショナルな問題である。断ることが最も賢い選択である。


「……いいよ」


 そこまで解っていながら、僕は首を縦に振った。


「……いいの?」

「正直迷ってるけど、本当にどこにも行く当てがないなら仕方ないと思う」


 そもそもこうして話している時点で、誰かに見られでもしたらまずいのだ。早急に決断を下す必要があった。ヒナタをこのまま夜の街に放り出すのは論外。ホテル代を出すことも考えたが、僕のアルバイト代はほぼ全てがRPGに吸い込まれていて懐具合は心許ない。他に頼る当てが無いのであれば、一時的に僕の家で匿うことも吝かではなかった。


「チョモ君。ありがとう!」


 パァッと輝くようなヒナタの笑顔は、夜なのに太陽が出ていたかと錯覚してしまうほど眩しい。色々と考えなければならないことは多いが、この笑顔だけ見られたなら良いかと気が緩んでしまう。

 そんな折、またしても聞き覚えのある音楽が流れた。今度はアニメソングだ。というか、僕の着信音だった。スマホに表示された発信者を見る。


「大家さんだ。ごめん。ちょっとだけ待って」


 コクリと頷くヒナタの姿を可愛いなと思いつつ、着信ボタンを押す。


「はい。小山です」

『あ! 小山君! ごめん! まだ帰ってきてないよね!?』

「ええ。なにかあったんですか?」


 珍しく慌てた様子を見せる大家に面食らう。まだ僕と十歳と変わらない大家は、会えばいつも飄々とした態度を見せる。しかし、今日ばかりはその余裕も無いようだった。


『アパートがね、燃えちゃって』

「え?」

『ほら、一階のフリーターの子がいるでしょ? あの子が煙草の火をちゃんと消さなかったみたいでね』

「え、いや、燃え……?」

『小山君の部屋も半焼状態でさ、悪いんだけど今日は他で泊まってくれる? 小山君は実家近かったよね?』

「ええ……、まあ、近いですけど……」

『遅くなってごめんね! 女の子とか、他に当てが無さそうな人から連絡しててさ!』

「はあ。それは良いです……」

『ごめんね! また連絡します!』


 それだけ言うと、大家はプツリと電話を切った。画面上には「一分三十二秒」の通話時間が表示されているのみだ。カップ麺も出来上がらないような時間で、僕の生活は一変してしまった。


「チョモ君……」

「ヒナタちゃん……うちも……燃えてるみたい……」


 肺に残っている空気を絞り出してようやく出した掠れた声に、ヒナタはまた目を丸くした。


「嘘……」

「いや、まじっぽい」

「もしかしてさ、最寄り駅って赤羽……?」

「え、うん」


 恐る恐るといった様子で聞いてくるヒナタに、僕は首肯する。


「アパートの名前ってさ」


 その後に続いたアパート名に、僕は目を見開く。まさしく僕が暮らしていて、今は燃え盛っているだろうアパート名だったからだ。


「やっぱり……。火事ってそうそう起きないと思うから……」


 最寄り駅とアパート名を知っていること、そのことから解を導き出せないほど阿呆ではないつもりだった。


「いや、ええ? でも、そんなことある?」

「あったから仕方ないよ」


 クスリと笑うヒナタに、僕はハハと乾いた笑いしか出てこなかった。


「推しと同じアパートに住んでて、しかも燃えてるとかどんなラノベ主人公だよ……」


 発覚した驚愕の事実も畳み掛けられると、驚きを通り越して呆れてしまう。


「笑うしかないねえ」


 先刻まで困り果てていたヒナタも、今はもう笑ってばかりいる。


「えーっと、僕はもう実家に帰るしかなくなったんだけど……」

「じゃあ実家にお邪魔していい?」

「…………友達じゃ通せないよ」

「彼女でもなんでもいいよ」


 堂々とそう宣うヒナタに、もはや自暴自棄気味に僕はこう言うしかなかった。


「わかった。いいよ」


 あれだけ考えて悩み抜いたことが馬鹿馬鹿しく感じるほど、現実は凄まじい速度で立ち止まる僕を置き去りにする。

 オーナーの言う通り、僕は考えすぎなのかもしれない。

 なぜなら禁忌を犯す僕にこれから降りかかるであろう問題は、どれだけ考えても予想できないのだ。

 もうなるようになれ、と僕は後悔を秋葉原の街に置き、ヒナタと共に電車に飛び乗った。



 電車の発車メロディーと重なるシャッター音には気が付かなかった。



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