第91話 『たった一欠片の愛』
広い広い、見渡せないくらい広い、大都市アネーロ。
大抵どこかが喧騒に満ちていても、他の場所は静寂に支配されている。
一年前までは、いつでもどこでも『音』があったはずなのに。
――ここは、何の変哲も無いビル。
パソコンにキーボード、デスクの並ぶ、白色が目立つオフィス。
倒れている、一つの死体。
彼は狂人と化した妻に噛まれ、同じく狂人と化し、ジルに始末された哀れな『ロックスター』だ。
それが握り締めているのは、古めかしいポータブルカセットプレーヤーで。
「ァアウ"」
ふらふらと歩いてきたスケルトンが、軽い骨の足でその指を踏みつけた。
〜♪
偶然。
踏まれた指はボタンを押し込み、カセットプレーヤーは何を勘違いしたか、聴きたがる者もいない世界で、ありがちなラブソングを流し始めた。
「ク"オオア"」
「カァッ、ハア"ァ」
スケルトンたち、狂人たち。
考える頭の無い化け物たちは、ただただ食欲を満たすため、無意味に、音楽の周りを踊るように歩く。
〜♫ 〜♪ 〜♪
ここは生存者たちのキャンプ場。
無価値な約束を信じて、もう帰っては来ない男を待ち続ける、虚無に満ちた少女――シャノシェ。
彼女がペチャクチャと惚気話を聞かせているのは、同じ丸太に隣り合うように座る、仮面の少女。
レイ・シャーロット。
相槌を打つフリをしてはいるが、レイが望んでいるのはシャノシェの話のその先ではない。
待っているのはシャノシェの話の終わりではない。
――帰ってくるに決まっている、一人の少年だけだった。
〜♪ 〜♬ 〜♪
かーん、かーん、こーん。
妙な音を気にして駆け寄った犬の獣人――フーゼス。
優しくてお節介な彼には、その光景を見逃すことなどできはしなかった。
「ティボルト! 何をしてるんだ!?」
笑顔で問うその目線の先には、黄色い髪をしたチンピラ。
気性の荒さゆえグループの大半のメンバーから嫌われている男――ティボルト。
彼は虚ろな目で、けれど生き生きとした目で『作業中』であった。
「それは君の弟のだろう!? そんな姿にして、悪いと思わないのか!? 物騒な!」
「黙ってろよコラ。犬っころ……」
――亡き弟の木製バットに何本もの釘を刺し、それを深く刺し込んで固定するため、石に打ちつけていたのだった。
「釘バット……! 良い予感がしない……っ!」
ティボルトに背を向けたフーゼスは、音量調整の上手くいっていない呟きを零した。
〜♬ 〜♫ 〜♫
――舞台は、大都市アネーロへと戻り。
ここは、少年少女たちが最初に物資調達をした、オフィスビル。
外のゴミ箱の中には、何者かにナイフでトドメを刺されている、ライラの死体。
そして、屋内。その窓際。
「ラ"ァァ」
ポツンと、一つ転がっているスノードーム。
台座に『ジル』と彫られたスノードーム。
近くには彷徨うスケルトンが一体いる。
無機物に興味など示さないスケルトンは、進行方向にあったスノードームの存在にも気づかないまま蹴飛ばしていた。
〜♪ 〜♫ 〜♬
「ジル!」
なぜだろう。
なぜなのか、本人にも、誰にもわからない。
「何やってるんだ……クッッッソ!」
ホープの体は動き、勇ましく手斧を振りながら死者の群れに突っ込んでいくジルを、その背中を、追いかけているのだ。
「援護を……頼むよっ!?」
ポカンとしていたリチャードソンとメロンに、ホープはそう声を掛ける。
――ホープが適当に、けれど必死に振り抜くマチェテが、狂人の首を飛ばして。
スケルトンの頭蓋を割り。
リチャードソンとメロンの弾丸が、周囲のスケルトンたちを絶命させていく。
〜♫
必死で、追いかける。
〜♪
追いかける。
〜♫
ジルの背中まで、手を伸ばす。
〜♪ 〜♬
――届かない。
「ダメだ……! ジル!」
彼女も彼女で、群がってくるスケルトンを薙ぎ払いながら進んではいる。
でも、限界があるだろう?
先に、進む力の限界が訪れたのはホープだった。死者たちに阻まれ、彼女の背中を見失う。
「ぐっ……!」
マチェテを握る手も、もう震えている。
「坊主戻れ、戻るんだ!!」
「ここまで生きてきたのに、もったいないですよ〜ホープ!」
――そんなことはわかっている。
いつもいつもホープは、もったいない考え方を持っているのだから。自覚があるのだから。
問題は、いつもはそんなこと考えないジル。彼女が死ぬことこそ、本当の『もったいない』だ。
だから。
「どけぇぇぇ――――!」
ホープの右目は、世界を爆裂させる。
〜♪
後方から、驚嘆が聞こえても気にせず。
〜♫
『破壊の魔眼』で打開した先に見えるものに、驚愕させられるとは露知らず。
〜♬ 〜♬ 〜♪
嘘だと、思いたかった。
後ろから自分を追いかけて、ホープが走ってくるなど信じたくなかった。
〜♫
そんなつもりじゃない。
〜♪
自分に優しくしてくれるあなたが、なぜ、死ななければならない?
〜♪
ジルは、もう無理だとは半ば理解していながら、銃のバッグを拾いに走る。
これさえホープに託せば、そしてニックに届ければ、ホープの地位は安泰である。
――リチャードソンが『命に代えは無い』と叫んだ意味も、よくわかっている。
銃ならこの先いくらでも回収できる、と。この群れが消えた頃、また街に戻って拾えばいいと。
そういうことだろう?
〜♫
でも、世界は本当に、そう甘いのか?
失ったものを、いつだって取り戻せるだなんて、ジルよりよっぽど甘くないか?
ジルは、知っている。
失ってもう取り戻せないものとは、どれだけ尊いのかを。
その尊さに、人は、死にたくなるほど後悔できたりもするのだと。
――どんなに小さくて地味なモノでも。
〜♬
『人生』は、『雪』とは違う。
〜♪
溶けることなく、死ぬまで続く。
雪など降って止んだら終わり。積もっても溶けたら終わり。
その一瞬で終わり。
だが人生は、一瞬の積み重ねでできている。
〜♬
人生も雪も美しいから、人生が間違って『雪』に見えてしまうこともあるかもしれない。
だが気をつけなければ――その『雪』は、ずっと溶けない『雪』なのだから。
〜♪ 〜♪ 〜♬
そして、ジルは腕をガッシリと掴まれる。
〜♪
掴んできたのは、
「……ハント」
生気を微塵も感じない、元仲間。
もう二度と、言葉を交わすこともできない男だ。
彼の歯が、ジルの首筋に、近づく。
〜♫
ハントには悪いことをしてしまっただろうか。
シャノシェと付き合っていながら、ジルのことを愛し、問い詰められると『シャノシェは遊びだ』と言おうとした彼。
――過去のジルに重ねてしまうじゃないか。
性欲に支配され、どちらの男も許容し、どちらの男も選べないまま、最悪の終わりを迎えた、ジルに。
愛は、一方向でなければいけないのだ。
だから、ハントが腹立たしくなってしまった。
ジルより歳上なのに、ジルよりも異性との付き合い方を知らない能天気な彼が。
――それは、何より昔の自分がまだ腹立たしいからだろう。
つまりハントはとばっちりをくらっただけだ。あんなに体を張ってくれたのに。
「……ごめんね、ハント。これで、許してくれる?」
すぐそこに銃のバッグは転がっている。でも、間に合わない。ハントに噛まれるのが先だ。
心の中でホープに謝りながら、ジルはハントに、その美しい首筋を晒した。
「許すも何も……無い……ッスよ」
――彼なら、そう言ってくれるだろうか。
こんな時にまでジルは、幻想でしか会えない死者と話して、現実逃避をする女らしい。
「惚れた女ッス……振られた、けど……ジルを守って死ねる……俺、は、幸せ者ッスね……」
もうジルは死んだのだろうか? 噛まれて、謎の力で死んで、蘇って歩いているのか?
やけにハッキリと聞こえる、死者の声。
目を向けてみると、先程まで落ちていた銃のバッグが、消失している。
ではどこに?
探せば、
「え……?」
ハントの手に、バッグの紐は握られている。
〜♫ 〜♪ 〜♬
おかしな話だ。
ここは相変わらず大都市アネーロ。どう見てもあの世ではない。
相変わらず、ここはスケルトンや狂人の群れの中。囲まれているまま。
なのにジルは、噛まれていない。
痛みも何も感じない。
「ここ……まで……歩いて、きた……甲斐があった……ッス。ジルを、また守れるん……だから……!」
なぜかって?
――ハント・アーチが、まだ熱く逞しいその両腕で、ジルを抱き寄せているから。
多くの死者たちの紫の歯が、彼の腕に、肩に、首に、突き立てられても。
ジルの命だけは譲らない。そんなハントの強い意志によって守られているからだ。
〜♪ 〜♫ 〜♬ 〜♪ 〜♫
スケルトンが蹴飛ばしたスノードームが、床を転がっていく。
そのまま、ホープとジルが飛び降りた窓の穴から、外へ投げ出される。
空中でくるくる回転しながら、その特別なプレゼントは、地上へと一直線。
〜♪ 〜♫ 〜♪ 〜♪ 〜♬
間違いない――ハントが生きている。
その様子を見たホープは、驚きすぎて声すら出せなかった。
リチャードソンの驚きの顔が、後ろを振り返らなくても浮かんでくる。
ハントはあんなに、噛まれていたのに。
あのオフィスビルで、ホープとジルの目の前で。
全身を噛まれまくって、崩れ落ちるように死んでいったはずなのに。
今の彼は、生命を宿した目で、ジルを抱き締めているではないか。
まるで無限の体力を持っているかのようだ。
が、――どう見てもジルは動けていない。
その時ホープには、何となくわかった。
ハントはもう、きっとほぼ死んでいるのだ。何らかの『使命』を全うするまで、自分を騙して世界に繋いでいるだけなのだ。
だから、叫ぶ。右目の痛みをどうにか忘れて。
「ジル!! 雪は溶けるものだよ! 雪かきは、きっと終わる! 君の手で!」
ジルに叫んだ――『君を許す』と。『もう自分を許してやれ』と。
雪なんかどこにも無い。聞いているリチャードソンやメロンからすれば、時期外れもいいところの謎発言。
でも、それで良い。それが良い。
なぜなら今は、ホープとジルにしか見えない『雪』が積もっているから。一人の少女が不可視の『雪かき』を続けているから。
そんな不思議なメッセージは、届いた。
〜♬ 〜♬ 〜♪ 〜♫ 〜♪
ジルは、熱い口づけをした。
ハントに一回だけ。
戦場に咲く一輪の花。
死者の群れの中で紡がれる、一欠片の愛。
「……遅く、なった」
もういいじゃないか、と、ホープの言葉で思えたから。
溶けない雪は無いのだと、教えてもらったから。
死に行く彼に、たった一欠片の愛くらい、今さら振りまいて何が悪いのだと。
――たとえ昔の自分と同類の男でも。どちらも許してしまおう、少なくとも今だけは。
「……ありがとう……ジル」
自身の唇を指でなぞるハントは、震える右手で銃のバッグをジルに押し付けた。
「俺の、二つの使命……コンプリート……ッスね」
そして、彼は膝から崩れ落ちた。
〜♪ 〜♫ 〜♫ 〜♬ 〜♪
『ジル』のスノードームが、地面に落ち、砕け散った。
もう雪は降らない。
〜♪ 〜♪
「いてててて! あぁ痛い、いてててて!」
本当は『いてて』なんてレベルじゃ済まない痛みだけれど、泣き言を言ってる場合でもない。
ホープはニ、三発『破壊の魔眼』を使い、溢れ出る血を左手で隠しながら、残る右手でマチェテを振り回し続ける。
「最悪だよこれクソっ! こんな付いてても痛いだけの目、自分でくり抜きたいよ! ……おりゃあ!」
「ル"ァアッ」
スケルトンの頭の上半分を切り飛ばすと、その斬撃の下を掻い潜ってジルが逃げおおせる。
銃のバッグを肌見離さず抱え、無傷のジルが。
「奇跡だ……」
リチャードソンは援護射撃を怠らないながらも、こちらへ駆けてくるホープとジルの生還に驚きを隠せないのだった。
まぁその驚きも、ハントの死に様を見届けるという悲しみに比べれば、何てことないが。
――人数変わらず六人の生存者は、街を出るためとにかく走っていった。
〜♪
ちょうど、曲が終わる頃。
「ウ"ォォオ」
『ロックスター』のカセットプレーヤーに寄ってきた内の一体、スーツを着た狂人が。
革靴で、握る手ごとカセットプレーヤーを踏み潰した。
元々、観客はゼロ。誰も悲しんだりしない。
❏ ❏ ❏
領域アルファ防衛軍・特殊部隊『P.I.G.E.O.N.S.』。
隊員ハント・アーチ、24歳。
『体力』をアピールポイントとして入隊、兄にも引けを取らない活躍ぶりを見せてきた。
何よりその明るさ、目標に向かってひたむきな姿勢で他の隊員たちを元気づける、将来有望なる若者。
――大都市アネーロにてスケルトンに捕食され、最期まで誰の期待をも裏切り続け、自分を生き、自分に死ぬ。
❏ ❏ ❏
――まだジルは、夢を見ている気分だった。
どうしてハントが生きていたのか。生きていられたのか、キスの直後に力尽きたのか。
「『愛』ですね〜」
「え」
走るジルに並走する若草色の髪の美少女が、すごいタイミングで、すごいことを言ってきた。
さすがのジルも驚いたし、
「いや〜あの金髪の人が誰かは知りませんけど、愛と情熱がめちゃくちゃ伝わってきました〜。うら若き男女のキスシーンは眼福でしたよ〜!」
それに、
「私は、ジル……あなた、誰?」
「あっはは〜初対面でしたね! 私はメロンといいます〜ジル。よろしくお願いし――」
完全なる初対面。
握手を求めてくるメロンの方に顔を向けると、
「なっ、何ですか〜!? このカワイイ生物は〜っ!?!?」
「は、え……?」
メロンは文字通り目をキラキラさせて、ジルの顔をまじまじと見て、両肩を掴んでくる。
興奮した様子で口を開き、
「さっきから小さい女の子がちょこちょこ動いて『かわいいな〜小動物みたいのおる〜』くらいにしか思ってませんでしたけど、正面でちゃんと見るとこんなにもカワイイ〜〜〜っ!!」
「えっ、ちょ……」
「ジルか〜わ〜い〜い〜っ!!」
「やめっ……」
興奮冷めやらぬとばかりに、ジルを抱き締め、頬を頬に擦りつけてくる。
――それを見ていたホープが、
「あれ? ジル、顔が赤くなってるよ」
ジルの醜態を見て、右目を隠しながら若干微笑んでいる。右目に何があるのかよくわからないが。
というか、冗談じゃない。メロンとは同性だ。
「そんな……わけ……」
「良かったじゃん、ジル」
「よ、よくないっ……から……!」
いつも男をからかう側にいるジルが、あろうことかホープにイジられている。
赤面をバッチリ見られているし、形勢逆転もいいところだ。
そんなホープとジルのやり取りに無関心を貫くメロンは、ひとしきり頬擦りをすると満足したようにジルから離れ、
「あっ!」
あることに気づく。不穏な空気。
「む……胸が……何ですか、ジルのその胸のモノ……」
「え? これは、別に」
「いやいや『別に』じゃないですよ……」
ジルの豊満なそれを見て、メロンは下を向く。
下というか、メロンは自分の胸を見るためには、かなり顎を引かなければならない。
ぺったんこ、だから。
「ジルの裏切り者〜〜〜っ!!!」
ぶわわぁっ、と涙をぶち撒けながらメロンは誰よりも速く走っていった。
赤面もどこへやら。一人残されたジルは、
「……は?」
メロンという人物が何なのか、よくわからないまま終わってしまった。
という気持ちだったらしい。
ジル的には、メロンの頬擦りは――不思議と悪い気はしなかった。らしい。




