第86話 『ろくでもない』
――ゆっくりと目を開ける。
でもやっぱり億劫で、何度か、寝入ってしまおうかと目を閉じる。
その繰り返しの末、
「……うぅ……?」
「起きるの、待ってた」
「うん。あぁ……ありがとう、ジル」
少し距離を置いて座るジルの存在を確認して、ホープはゆっくり起き上がる。
腹の上に乗っている、いくつかのガラス片を手で払いながら。
「ま、生きてるわな……そりゃ……」
グググ、と最高潮に疲れた体に力を込め、ホープもジルと同じく座る体勢に。
――梯子が倒れて窓から突っ込んで、ここはまた別の建物の中だ。
周囲を見回すと、デスクが並んだ何の変哲も無いただのオフィスビル。
「最初に物資調達した所でも思ったけど、デスクの上に置いてあるあの四角い箱は何なの?」
イスとデスクもセットのように置かれているものだ。
何やら色々と文字の描かれた鍵盤のようなものも設置してあるが、会社員の人々は、あの箱に向かって仕事していたのだろうか。
「名前、聞いたことある……確か、『ポソコン』」
「ぽそこん?」
「あ、違うかも。『ペソコン』かな」
「ぺそこん!? そっか、ジルもよく知らないんだもんね。おれたち同じ田舎者で……」
ドラクのお喋りの中で知り得た、今のところホープとジルの唯一の共通点。
――先程は色々あったが、ホープはどうすれば良いのだろう。ジルとの仲を、いったいどうすれば……
「ホープ、ごめん。巻き込んでしまって」
数秒の気まずい沈黙の後、俯くジルが開口一番に謝罪をかます。
――意味がわからない。
「あいつの狙いはおれだったよね? 巻き込んだのはおれだよ。巻き込まれたのが君で」
「そうじゃない」
「え?」
ジルは弱々しく首を振り、
「実は、イザイアスとは会ってた。吸血鬼のヴィクターに、殺されかけてるところだった」
「うん」
「それを、私が止めた……無駄に命を奪うのは、良くない……って」
「うん」
「彼と約束した。『二度と顔を見せないように』って」
「うん」
「……バカなこと、した。私が余計なことしたから、ホープを、危険な目に……現にあなたの体、傷だらけ。もしかすると、命も失ってた、かも……」
「まぁね」
否定はできないし、しない。
イザイアスが生きていたから、ホープはかなり痛めつけられた。
自分の命はどうでもいいが。
とりあえずジルを責めたいとは微塵も思わない。
「でもジルはさ、イザイアスを殺さないのが正しいと思ったんでしょ?」
「ん……その時は」
「じゃあもう良いじゃん。どうでも。そもそもおれは雑魚の無能の大間抜けで、他人の選択をどうこう言える人間じゃないし。気にしないでよホント」
この世に『上から目線の無能』ほど害悪な存在があるだろうか。
ホープはそれにだけはなりたくなかった。
――もしもホープが自分の命を大切にするような人間だったら、今、どれほどジルに怒りを燃やしていただろう。
そういう意味ではホープのこの難儀で面倒くさい性格にも、メリットが皆無ではないらしい。
「というか、謝りたいのはおれだよ。君を見捨てて、本当に逃げようとしてたんだから」
「え? それ、私の指示。当たり前だよ」
「当たり前じゃないよ。女の子……あ、おれより年上だけど、男が女の子一人残して逃げるなんて、指示されたとしてもやっちゃダメだよ」
「ホープ……」
「現にほら、ジルも傷だらけだ。数秒遅かったら殺されてたしね……」
二人して、俯く。
これはもうどこまで話しても答えが見えない気がホープはしていたが、それはジルも同じだったらしい。
「キリが無いね……ホープ、本当に気にしてない?」
「もちろん。君は?」
「ん、何とも」
「どっちも気にしてないしどっちもボロボロのボコボコだしね。よし、今回のことは忘れよう!」
「それが…………良い」
ジルが妙な間を作ったことは不安だったが、とりあえず何事も無かったことが良かったのかもしれない、とホープが思っていると、
「話した方が、いい? 私の……『過去』」
やっぱり、ジルは全然気持ちがスッキリしていないではないか。
ホープが叫んだ内容をモロに引きずっている。
「……どっちでも良いよ」
ホープの答えは、『ここまでジルに言わせといて最低だ』と思われても決しておかしくはないもの。
「聞かせてくれるなら嬉しいし、聞かせてくれないんならそれはそれで何とも……君の思うようにして」
でも、これは仕方がない答え。
ジルがホープのことをどう思ってるのか、わからないから。
逆に、過去を話してくれるかどうかで、どう思われてるのか白黒つける良い機会かもしれない。
「あぁ誤解しないでほしいんだけど、おれは別に君のこと嫌いってわけじゃないよ? ……誰にでもこうなんだ。相手に何も求めない。求めたくない」
「変わってる」
「はは、よく言われるよ……」
「あなたと一緒にいると、いつも居心地良い。その理由、今わかった」
突然のジルの言葉に、ホープはドキッとした。驚いて心臓が弾むような感覚。
――そんな風に思われていたのか。
ジルはおもむろに立ち上がり、
「……言い忘れてた」
今まで離していた距離を埋めるように、ホープの方へ歩み寄り、
「助けてくれて、ありがとう。ホープ」
髪の毛や肩が触れ合うほど近くに、彼女は座り直した。
――なぜかその様子に、どっと安心感が込み上げてきたホープは、
「……ぐー、ぐー……」
ジルの肩に頭を乗せ、爆睡してしまった。
◇ ◇ ◇
ジルは、本当に驚いていた。
ドラクが話を盛っているかと思っていたから。
忌まわしきエドワーズ作業場にて、ドラクは『ホープに全てを救われた』『命懸けで守ってくれた』と何度もジルに話してくれた。
作業場内ではほとんど気絶して過ごしていたジルの耳には、それがとても真実には聞こえなかった。
ホープには悪いが、どうしても彼は『強者』には見えない。
だから今回のイザイアスとの戦いで――本当に、驚かされたものだ。
『強者』ではない彼が、『強者』ではないなりに抗い、状況を変えてみせた。
運命を切り開いてみせた。
敵を打ち倒し、自分とジルを生き残らせたのだ。
そして、恩着せがましくも、押し付けがましくもなく、平然とジルと喋るのだ。
なんて凄い人だろう。居心地の良い人だろう。
ジルの乾いた心に、清らかな水が注がれたような気がした。
「お―――――ッッッ!! 生きてたか、ベイベ!! すげぇぜフォ―――――ォォォ!!」
――そこへ、毒液を注いでくるような男が現れた。
「しー。静かに」
ジルは『ロックスター』を見つめ、人差し指を自身の唇に当ててみせる。
今まさにホープがジルの肩に頭を置き、安心して爆睡しているところなのだ。邪魔をさせたくないのに、
「静寂は俺の敵ィィィ――――ッ、カモン!!」
「じゃあ、消えて」
「心にっ♪ グサッと♫ 突き刺さる言葉だぜぇぇぇぇぇぇぇいっ!!!♪」
ド派手な金髪を振り乱しながら叫び続ける彼は、壊れた目覚まし時計と何ら変わらない。
人間を辞めている。
この建物の中にスケルトンがいれば、集まってきてしまうし。
もう刺激しない方がいい、とジルが確信した直後。
「……ん? おお……妻よ」
突然『ロックスター』が、小さく呟いたのだ。
彼の向く方向は、ジルとは真逆。何か物音を聞きつけ後ろを振り返ったらしい。
そこにいるのは、
「ウゥア"ァ」
スーツを着た女性の狂人が、一体。
「……探したぜ、俺の心の燃料」
どこからどう見ても狂人なのに、『ロックスター』は両腕を広げて近づいていく。
「お前がいなきゃ、俺のハートはロックンロールできねぇんだ」
そして、ずっと探し続けていた最愛の人を、その胸に抱き寄せる。
――奇跡は、
「アク"ッ!!」
「ぐぅぅぅぅ!」
起きない。
『ロックスター』の首筋に、狂人は噛みついた。
「ぐあッ!!」
噛みついた部分の肉を、骨が見える寸前までブチリと引きちぎり、
「これで……一心同体……だぜぇぇぇ―――ッ!!」
ナイフで額を突かれ、口いっぱいに彼の肉を含んだまま狂人は倒れた。
「おぉ……これが俺の……最期の、ロックンロール」
後を追うように『ロックスター』も崩れ落ちた。
――理解の追いつかない光景をただ傍観していたジルは、疲弊した体に力を込め、
「ちょっと、失礼」
起きる気配の無いホープをどかして立ち上がる。静かに、左手に手斧を構えて。
「……ア"。コ"ゥ……オォォ"ア」
案の定――紫色に妖しく染まる歯を携えて、『ロックスター』が蘇る。
それが立ち上がった瞬間、
「さっきより、静かになった」
「ッ!」
側頭部に、太い刃が刺さる。
衝撃でサングラスが床に落ち、紫色の両目が露呈。
その目は、まだ紫を保っている。
「コ"オォアアア"ア」
「……体格差、か」
ジルは斧を刺したまま、振るわれる狂人の腕をしゃがんで避ける。
『ロックスター』は大柄というほどの体格でもないが、ホープとか、特に小柄なジルと比べたら、相手にしたくはない身長だ。
そのせいか奴は側頭部から血こそ流れているものの、脳まで届かなかったらしい。
――いつも、いつも、ジルの行動は届かない。
「いい加減に、してほしい」
「コ"ァァァ!!」
口を開けて突っ込んでくる狂人の勢いを利用しながら、ジルは刺しっぱなしの斧を振り抜き、
「ァァァ、オカ"ッ――」
投げ飛ばすかのように、狂人の横っ面を窓ガラスに叩きつけた。
斧が勝手に抜けるとそこに残るのは、窓ガラスを突き破って上半身だけ外に投げ出された『ロックスター』。
くるりと踵を返し、ジルは歩き出す。
その背後を『ロックスター』が迫り、
「アカ"ァ、アッ」
振り向いたジルが『ペソコン』に文字を入力するための鍵盤を、狂人の頭頂部にぶち込む。
鍵盤は真っ二つに折れたが一瞬の隙を作れた。
「これも、どうぞ」
「コ"ゥゥッ」
今度は『ペソコン』本体を両手で抱えて振り下ろすと、狂人の頭が液晶画面を突き破ってスッポリとハマる。
トドメに、
「――――ッ」
天から地へと振られる手斧が、四角い箱ごと狂人の頭を割った。
死後のロックンロールも、とうとう幕を下ろした。
「ふうっ」
力を出し切ったかのように床に腰を下ろし、汗を拭うジル。
「ほら、やっぱり……愛も、恋も、ろくでもない」
そんなことを呟いて、床に寝転んでいるホープを見て微笑んだ。
――ドラクは何度かジルに『パソコン』の存在を教えたが、あまり効果は無かったようだ。




