第78話 『ア ケ ル ナ』
会社で『報告・連絡・相談』が上手くできない人は、無能と言われる。
――ならば人食いの化け物が徘徊する世界で、『報・連・相』が上手くいかないと、どうなるか。
「ホープ……!?」
血まみれのホープと、その奥から迫りくるものを見つけたジルは、『占い』の結果が徐々に近づいてくることを認識するのだった――
◇ ◇ ◇
ハント、ジル、ホープの順で、階段から三階へと上がっていった。
他のフロアと同じように閑散としている――と思いきや、
「お……誰かいるっぽい?」
奥の方から、ゴソゴソと物音。
角度的に、こちらからは連なったデスクで見えない場所だ。三人は少しずつ近づく。
何となく、人間が出したような音の気がして……
「っ……違う! 下がるんスっ!!」
それが立ち上がった瞬間、ハントが身を震わせ、ホープとジルを後方へ押しやる。
「カ"……ァア"……ァ」
立ち上がった姿も、一瞬人間だと勘違いしそうになった。
まさか、スーツを着ている狂人がいるとは思っていなかったからである。
「アァ"」
しかし紫色の双眸、紫色の歯。
どこからどう見ても、とっくに人間を辞めている。
「ずいぶん具合が悪そうッスが……!」
ハントがニヤつきながら駆け出す。
軽く跳躍して、勢いよくデスクの上をスライディングし、
「どうせ生前も疲れた顔してたんだろ、違いがあんまりわかんないッスね!」
「ウ"ゥ」
そのままの勢いで狂人の顔を蹴飛ばす。
吹っ飛ぶ狂人を横目に、ハントは近くのイスからクッションを拾い、
「ァカ"」
倒れる狂人の側頭部にクッションを押し付け、その上からさらにアサルトライフルの銃口を押し付け、
「ァ"――」
引き金を引き、一発。
クッションで音は響かず、ハントは自慢げ。
「ジル見た? これが『スマート』ってやつッスよ、俺は『スマート』な男ッスからね!」
「ん……すごい、すごい」
一応褒めるジルだが、その様子はいつも以上の無感情っぷり――ハントに対して不機嫌?
それもドラクへの対応とは違い、あまり愛を感じない。ホープにはそう見えた。
「そういえば……スノードームのことに、お礼も言ってなかったような」
ああ見えて実は優しいのが、ジルという人物だと思っていたホープだが。
これではただの嫌味な女性ではないか。
「なぁなぁホープ」
「う、えっ!?」
またボーッとしていたホープに、ハントが肩を叩いて声をかけてくる。
「俺、ちょっとジルと二人きりになりたいなぁ、なんて。先に四階上がってもらっていいッスか?」
「別に何でもいいけど……大事な話とか?」
「俺にとっちゃ超大事ッス」
「あっ……」
なんとなく、ハントがジルに何を話したいのか察してしまった。
だからホープは、
「彼女、ちょっと機嫌悪そうじゃない? あんまり刺激しない方がいいと思うけど」
軽く忠告しておく。
だが、
「大丈夫、大丈夫! ジルはいつもあんな感じじゃないッスかー! ……ああいうとこも好きだし」
そんなもの、ハントは笑い飛ばした。
「そ、そっか……じゃあ先行くから」
――普通に考えれば、ホープよりハントの方が、ジルと一緒にいた期間は長い。
ホープが忠告するなど余計なお世話だったのだ。
「にしても……一人か。でもここ調査済みだし」
呟きながら、ホープは物資調達用のリュックの感触を確かめ、階段を上がっていった。
――『調査済みなのに当たり前のようにいるスーツの狂人』なんて、誰も気にしないから。
◇ ◇ ◇
ハントが未だに、枯れた薔薇を咥えているのには意味がある。
雰囲気作りが重要なのだ。
「……ジル。ちょっと話があるんス」
「…………」
「ずっと言いたかったんスけどね、照れ臭くて言えないことってあるじゃん?」
「…………」
ハントが喋り出すと、ジルは逆に黙り始める。
そのせいで、まるで空気が凍りついたかのようだ。
――否。
「何を、言おうとしてるの。ハント」
「え……?」
本当に空気は凍っていた。
ジルの目にはいつものような優しさは感じられず、ドラクに見せるような愛も無い。
ジルは本気で、ハントを睨んでいる。
「答えによっては、許さない……!」
彼女は冷たい視線に加え、さらに冷たく鋭い言葉まで向けてくる。
とはいえ、ハントはもう答えるしかなかった。
「ジルのこと好きッス。だから、付き合ってほし――」
「ありえない」
「そ、そんな――」
「シャノシェは?」
「っ!!」
その名はハントに衝撃をもたらす。枯れた薔薇が、口から床へ静かに落ちる。
彼は冷や汗を頬に伝わせつつも、
「しゃ、シャノシェ? そりゃカトリーナとシャノシェ姉妹の、妹さんの方ッスか? それがどうかして――」
「とぼけられても、困る……あなた、シャノシェと付き合ってる。違う?」
「ち、ちが――」
「グループのみんな、それ知ってる。私も、二人で夜に、手を繋いでどこかへ行くの、見たことある。テントの中から」
「なっ!?」
ハントに発言権をほぼ与えず、ジルは彼をボコボコに言い責める。
そして彼女は先程も言った通り、
「シャノシェと付き合ってて、私に告白? ありえない、許さない」
ハントを許しはしない。
「そんな、俺はシャノシェとは――」
「『遊び』って、言うつもり? もし言ったら、それこそ絶対許さない」
「うぐっ!」
シャノシェは遊び――そう言おうとするということは、ジル一人を愛せばいいのだ、とハントが解釈していることになる。
ジルの言いたいことは、そうではない。
まだ意味を理解できていないハントに、
「私を好きか嫌いかなんてどうでもいいの! これはシャノシェを裏切ることだってわからない!?」
ジルは、いつもみたいに台詞を途切れさせたりせず、声を荒げた。
視覚にも聴覚にも、今までには絶対にあり得なかった刺激が突き刺さり、ハントは放心状態になってしまった。
被っているフードを深く被り直すジルは、
「今のこと、忘れてあげる。だから、頭を冷やして。反省して。いい、ハント?」
「え、あっ、ああ……」
咎めるようでありながら、どこか包み込むように、ハントに反省を促す。
そして素早く踵を返して歩いていくジルに、頷くしかできなかったハントは、
「やっちまった……はぁ、俺も四階行こうかな」
ボソリ、と呟くのだった。
◇ ◇ ◇
けっきょくホープとも、ハントとも別行動を取ることになったジル。
彼女には――ハントが告白してくること以外にも――不安な要素があった。
それは、
「あの、占い……」
この大都市アネーロに出発する直前、ジルはある人物と話した。
その名は、ベドべ。
――彼はホープとジョンを占った直後に去ったが、実はその後、ジルを訪ねてきたのだ。
『……やぁジル……さっきぶりだねぇ……さっきホープとジョンを占う時ね……君のことも占ったんだよね……』
『え?』
『……君も同じく……アネーロに行くからねぇ……ついでに見ておいた……結果を言うよぉ……』
『ん、じゃあお願い』
『……単刀直入に言うと……街に行ったら君は死ぬよ……』
『……え?』
『……助かる可能性……無くはないけどね……行かない方がいいよね……』
『そんなこと言われても、どうしようもない。ドラクには、行かせたくない、から』
――思い出される、不穏さしか感じられないその会話。
街に行くとジルは死ぬしかないらしいが、現在ジルは来てしまった。
占われなくっても死の予感しかしない、この大都市アネーロに。
『……まぁ、行くんなら……しょうがない……一緒に行動する人次第……ってことになるかなぁ……』
――最終的に、ベドべはそう締めくくった。
今まで彼と付き合ってきてジルが思うには……彼の言うことはいつも曖昧模糊だが、ある程度、
「当たる……気がする」
だからジルは、彼を奇妙だとは思わない。
ただの人間のはずだが、何かそういう能力を持っている可能性がある。
「……もう、私、終わりかな」
この状況を望んだわけではないが、孤独になってしまったジル。
一緒に行動する人がいないのなら、彼女は占い通りに命を失うしかないのかもしれない。
怖くて、堪らない。
◇ ◇ ◇
「あ、あの、リチャードソンさん」
「何だ?」
オフィスビルのエントランス前。
相変わらずリチャードソンとジョンが、向こうの霧の中を通るスケルトンの群れを見つめながら、見張りを続けていた。
「ど、どうしてハントさんを探しに行かなくなってしまったんですか」
「そりゃお前さんらが止めるからだろ」
「それは、そ、そうですが……」
あんなに呼び止めようと必死だったリチャードソンが、もう動こうとしない。
ジョンはそこに違和感を感じてならなかったのだ。
「――お前さんらの言う通りだと思ったんだよ」
リチャードソンは、掠れた笑い声。
「ハントだって軍人。『P.I.G.E.O.N.S.』の一員だ。いつまでも親バカみてぇなことする必要ねぇだろ……何しろ、ここは調査済みだしな」
「そうですね」
先程までの険悪さが消えたリチャードソンの話し方に、ジョンは安心したように微笑して
「キャアアアアァァァァッ――――!!」
木霊する悲鳴。
男二人は、弾かれたように後方を振り向く。
「いやっ、いやぁ! やめてぇぇ!! ゴミ箱の下に何でこんな奴がぁ……っ!!!」
「ウカ"ァアオ"」
ゴミ箱のすぐそばでライラが、スーツを着た狂人にまとわりつかれていた。
彼女は、大声で叫び続けている。
――これはマズい。
「おいライラ、今近くに群れがいる! もう叫ぶな! すぐ助けてやるから――」
「いやぁぁぁっ!! 早く助けて!!」
「ウゥ"ァア!」
狂人と取っ組み合っているライラの、急かしたい気持ちはわかる。
だがリチャードソンだって人間。いくら頑張って走っても、一瞬では辿り着けない。
「だから静かに――」
「ちょっと何してるの!? 早く助けに来てってば!!」
近づけば近づくほど、声を掛ければ掛けるほど、ライラは声を大にする。
粘るのが無駄だと悟ったリチャードソンは、
「クソッタレ!!」
腰から抜いた大型のリボルバーの、その引き金を引いたのだった。
爆音レベルの銃声が大都市を震わせ、狂人の脳がブチ抜かれる。
ライラは無傷で済んだが、
「り、リチャードソンさん!? そんな音を出してしまったら……」
霧の向こうを闊歩していた群れの影が、段々と大きくなってくる。
――こちらに近づいてくるのだ。
「しょうがねぇだろ坊主。どうせあの悲鳴で、群れはこっちに来ちまってたさ。ジルたちが早く戻るのを期待するしかねぇ」
◇ ◇ ◇
四階へと上がってきたホープ。
階段を上がりきってすぐにドアが現れるが、その前に、
「あるじゃん、キッチン」
流し台だったりコンロなんかが簡単に取り付けられた、小さなキッチンへ。
棚を開け、試しに漁ってみる。
すると非常食らしき缶詰とか、飲料水なんかがいくつか入っていた。
特に『グループに貢献できた!』という奴隷精神も湧かないが、これはホープの収穫。すかさずリュックに放り込んだ。
「レイもドラクも、おれのグループ参加を望んでるみたいだし……少しでも手柄を立てよう」
だがリュックの三分の一も埋まらない量で、調達は完了してしまう。
とりあえず収穫があったことにホッとしながら、キッチンを出ようと振り返っ
「カ"ァァァア"ァァァ!!」
「あぇっ!?」
またもスーツを着た狂人の強襲。
「アカ"」
しかしホープの振り返るタイミングが神がかっており、狂人は彼のすぐ横に派手に倒れた。
ホープは一旦キッチンの外へ飛び出す。
そして折り畳み式のナイフを取り出そうとして、
「あっ」
キッチンはドアが付いていないのかと思っていたら、開けっぱなしのドアが壁に張り付いていただけで。
ホープはすかさずドアノブに手をかける。
「カ"ァァア!」
「さよなら!」
迫ってくる狂人を閉じ込めるように、バタンと勢いよくドアを閉める。
ドン、ドンと向こう側から振動が伝わってくる。
「えぇっと……」
このままではずっと押さえておかねばいけない。離れた途端ドアが破られるかもしれない。
見回したホープの目に、一つのパイプ椅子。
「ほっ、ほっ!」
一歩、片足を踏み出してそれを引き寄せ、ドアに対して斜めになるよう立て掛ける。
そうすると、意外としっかりドアストッパーになるものだ。
――今回の狂人は、女性であった。あれがいわゆる『OL』というやつなのだろうか。
それよりホープが気になったのは、首から掛けてある名札のようなもの。
「あの名札……『ジル』だったかな」
一瞬なので確証は無いのだが、そう見えたような気がした。
彼女がスノードームの持ち主だったのかもしれない。
また性懲りもなく生き延びてしまったホープは、仕方ないので物資調達を続ける。
「あー、さっきの部屋」
先程スルーしたが、階段を上がってすぐに姿を現したドア。
こちらも調査すればまた何か出てくるかもしれない。
危険など無いさ。どうせこのビルは調査済みなのだし。
そんな軽い気持ちで、ドアの前に置かれていた透明ケースの棚をどかす。
軽い気持ちで、スッとドアを開ける。
「……は」
――50体、いや100体にも届きそうな、スーツの狂人たち。
――ドアの軋む音、ホープの足音、差し込む日の光。
――後ろを向いていたそれらが、一斉にこちらを振り返って。
「あぁ」
情けない声しか、出ない。
すぐに部屋を出る、ドアを閉める。
そして、
「え」
閉じたドアの、大量の狂人がブチ破ろうとしているドアの、その表面に見つける。
『ア ケ ル ナ』
誰かが残した、人間の血のような赤い液体で書かれた文字。
だが無慈悲にもその文字は、虫かと錯覚してしまうほど小さく。
「いやこんなの気づくわけ――ぐぶっ!?」
これを書いた奴は、連絡の下手クソな奴だ。
悪態をつこうとしたホープを、狂人たちのこじ開けたドアが襲う。
「え!? うっ、あ、うわぁぁぁぁ――!」
背中と後頭部を強く打ったホープは、そのまま階段を転がり落ちる。
一段一段が鈍器と化し、ホープの体に苦痛の数々を刻み込んでいく。
その果てに、
「……ぶぁっ! ぐ、がは……ぁ……!」
壁にぶつかり、見事に三階まで戻ってきた。
――長いこと閉じ込められて肉に飢えた大量の狂人を、後ろに従えて。
◇ ◇ ◇
ぼんやりと物資調達を続けていたハントは、気づくのがだいぶ遅れた。
その代わり、いち早く異常事態に気づいたのはジル。
「何の音……?」
不安と焦燥が、彼女の体を突き動かして。
「ホープ……!?」
ここは三階。
四階から伸びてきている階段の終末、そこには体じゅうを打撲痕と鮮血で包むホープの姿があった。
「い、痛い……なんで、死んで……ない……?」
わけのわからないことを呟くホープ。
その後ろ――つまり階段の上からは、これまでの静寂をひっくり返すような無数の足音。
「アァァア"ウ」
「ク"ェェァ」
「ウオオォ"」
「これ、は……!」
血まみれのホープと、その奥から迫りくるものを見つけたジルは、『占い』の結果が徐々に近づいてくることを認識するのだった――




