第31話 『天使の最期に、泣くのは悪魔』
「ハァ"ッ、ア"ァ!」
「いだいぃ……! たすけ、いぃぅ……っ!」
紫色に光る歯でソニの右のふくらはぎに噛みついたまま、離れようとしない骨の化け物。
細い脚から、どくどくと鮮血が流れている。
「あ……」
激痛に泣きじゃくり、泣き叫び、両手をバタつかせる義妹。
膝から崩れ落ちたホープは、彼女に対して何をしたらいいのかが全く判断できなくなった。
「ソ……ニ……?」
今、口を動かしても無駄だ。無駄でしかない。無駄以外の、何物でもない。
わかっているはずなのに。
ホープは口をパクパク動かし、薄く呼吸しているだけだった。
――骨の化け物はいったい、何だ?
人間には到底見えない。人間が仮装して悪ふざけしているにしては、肋骨の隙間などが精巧すぎる。
でも、どう見ても人間の骨だ。骨格標本が動いているという表現が一番近い。
「うわああぁん……! いだ、い……うぅああ……!」
ソニが一層強く泣くのは、化け物が肉を引き千切ろうとして、脚に噛みついたまま頭蓋骨を振り始めたから。
得意の現実逃避で化け物の分析をしていたホープだが、目の前の光景から目を逸らすことだけはできなかった。
罪悪感という絶望に押し潰されそうになる。何もできない。
「いゃぁぁぁぁ――っ!!」
ふくらはぎの肉が引き千切られる、その直前。
「このぉぉ!!」
一人の青年が槍を構えて駆けてきて、化け物に突撃。
槍の先端が化け物の胸の辺りにグサリと刺さって、化け物は強制的にソニから離された。
「姿が見えないから心配してたが、やっぱ悲鳴はソニちゃんだったか! しかも悪魔までいやがる……クソッ、何がどうなってる!? この骨は何なんだ!?」
年齢18歳かそこらの青年は、村を守る戦士の一人であった。
――実は今の若い戦士たちのほとんどが、小さい頃にホープを虐めていた悪ガキの一員だ。この青年も例外ではない。
脚から流血するソニ、呆然としている悪魔、そして胸に槍が刺さってもピンピンしているわけのわからない化け物を見て、青年は戸惑っている。
しかも、
「うっ、何だこいつ!? 抜けねぇ!」
ソニから引き離したはいいが、槍は化け物の肋骨の間に刺さって抜けない。
化け物は体を槍に貫通させたまま、前へと歩み出る。槍を握る青年に噛みつくつもりだろう。
ズカズカ進む化け物からは『恐怖心』や『躊躇』、そんなマイナスの感情など何一つ感じない。唯一感じられるのは、
「ア"ァァァ!!」
「ひぃっ!」
――底知れぬ『食欲』だけだ。
恐怖で顔面蒼白になる青年の首元に、並ぶ紫色の歯が迫る。が、
「ウァ"ッ」
どこからともなく矢が飛んできて、化け物の剥き出しの背骨に突き刺さる。
槍も矢も刺さっている化け物は怯み、後退。
「――危険よ、槍から離れて!」
「お、おお」
弓を構えて、勇ましく茂みから飛び出した女。
青年と同じく18歳くらい、青年と同じく村の戦士、青年と同じくホープを虐めていたメンバー。
彼女は昔、ホープに「靴を舐めろ」と命令した少女と同一人物である。
「辿り着いたのは私たちだけみたいだけど……何なのよ、この化け物は!」
「わかんねぇ。さすがにこれは『悪魔』とは関係なさそうだしな……」
「そんなことより、あなたはソニちゃんを連れて行って。私があの人骨をやるわ」
「頼む。行くぞソニちゃん……やべ、こりゃ重傷だ」
槍を諦めた青年は呼吸の荒いソニを両手に抱え走り出し、女は背中の矢筒から次の矢を取り出す。
だが、次の瞬間――
「は!?」
スタートダッシュしたばかりの青年の足首が何かに掴まれ、派手に転倒してしまう。
ソニも地面に転げた。
「おい、どうなってる!?」
土から飛び出して青年の足首を掴んでいるのは、骨しかない手だった。
その場の全員が嫌な想像をする。そして想像は現実となり、当然それに続いて這い出るのは、
「オォ"ォア……」
もう一体の化け物。
手から二の腕、肩、頭部と這い出る骨格が、目にした人間たちに強烈な畏怖を植え付ける。
しかし、
「……そっちは任せる! 私は目の前の敵に集中するから」
戦士である青年を信じ、戦士である女は一体目の槍と矢の刺さった化け物の方へ向き直る。
弓矢を引き、そして射る。
「ウカ"ァッ……!」
肩の骨に矢が当たり、刺さるのだが、
「嘘でしょ……ダメージが、全く入ってない……?」
化け物は今までと同様、少し怯むだけ。直後には何事も無かったかのように標的へ向かってくる。
移動速度は鈍いようだが、殺せないのでは埒が明かない。
そんな中、
「ぐっ……うあ!?」
転倒して仰向けになった青年に這いずる化け物が覆いかぶさってきて、青年は首元を噛まれる。
「いってぇ!! ……何すんだよ、どけオラ!」
青年は不利な体勢のまま化け物の顔に拳を入れて引き離し、致命傷を免れる。
「ちょっと大丈夫!?」
戦士といえども仲間は仲間。女は青年を心配し、余所見をしてしまった。
その隙は大きく、
「カ"ァァッ」
「えっ、あぁ――!?」
またどこか別の場所から現れた骨の化け物。
背後からの不意討ちに気づかず、女はいきなり横腹を噛まれてしまったのだ。
あまりの痛みに弓を落としてしまった女は、奴らにとっては恰好の餌食であった。
先程から戦闘していた槍と二本の矢が刺さった化け物も、その食卓に加わる。彼女を押し倒し、
「来るなっ、わぁぁぁ――!!」
地面に寝かされ、二体の化け物に、全身をズタズタに引き裂かれ、噛み砕かれていく――
「いたっ、あぁ、あ、あぁ! やめで……ぁう……!」
「あ、ああクソ! 骨どもが肉食ってんじゃねぇよ、食うなら俺にしろよぉ!」
首元の傷を押さえる青年が血相を変え、その地獄のランチへと突っ込んでいく。
自分を噛んだ化け物が、背後から追ってきていることも忘れて――
◇ ◇ ◇
――その後も際限なく増えていく化け物に、苦しみながら食われゆく戦士二人。
地獄絵図を横目に混乱しながらもホープは、泣きじゃくるソニを抱えて村の方へ走る。
途中途中で地面から手が出てきたり、茂みの奥に化け物の姿を見たりもした。
バーク大森林はもはや骨の化け物の巣窟だ。
昼でも常に薄暗いことも相まって、不気味さはとどまる所を知らない。
村に着いた。
森を抜けた瞬間、今が昼間だと再認識。
「はぁ……はぁ……誰を、頼れば……」
しかし外が明るくても、ホープの前途には依然として光が差さないままだ。
エリンか? ドルドか? それともサパカスさんか? いや、いち早く診療所へ連れて行くべきか?
骨の化け物たちの好物は、どうやら人肉。
奴らはすぐにでも森から出てくる。この村へやって来て、住民たちを食い散らかすだろう。
「ソニを助けなきゃ……でも早くみんなに伝えなきゃ……」
これまでの人生、傍観者ばかりを演じている優柔不断なホープに、この状況は苛烈すぎた。
彼にとって何より大事なのはソニ。だったらやはり診療所へ――
「うわぁ! あぁ……ぜぇ、ぜぇ……」
突如、後ろの森から一人の若い青年が飛び出してきた。呼吸が荒く、様子としては何かから逃げてきたようだ。
彼も村の戦士のようだが、もちろん先程ソニを助けた青年とはまた別の、元悪ガキだ。
「あ、『悪魔』……それ、その抱えてんのはソニちゃんか……?」
「そうだけど……」
「……その脚の怪我、噛まれたのか? あの、骨の奴らに……」
かなり物分かりの良い青年。
実のところホープはもう体力が続かなそうなのだが、彼ならばホープの代わりにソニを救えるかもしれない。
「そうなんだよ、助けてあげなきゃ――」
「無理だ」
躊躇なく即答。
あまりにも冷たく言い切る青年に、さすがのホープも沸々と怒りが込み上げてくるのを隠せない。
「……な、何で? 何でだよ……血はすごいけど、ほら見て。ソニはちゃんと呼吸してる。まだ生きてる! それを無理だなんて。君は薄情な奴だ!」
鍛え上げられた戦士たちは、考えるまでもなくホープより体も心も強いはずなのに。
そんな青年が、弱くて優柔不断なホープよりも早く諦めてどうする。
だが青年は、
「お前は何もわかっちゃいない! 俺が今、いったい何から逃げてきたのか、お前は知ってるのか!?」
「……?」
ひどく、悲しげだ。
見間違いとは思えない。青年の頬には涙が流れている。
そして。
――その青年の悲しみを、涙を肯定するかのように。
――ようやく見えたホープの光明を、ことごとく否定するかのように。
その存在は、森の暗闇から現れた。
「ア"アァ……アゥ……!」
「ク"ゥオ"……!」
二人の人間。だが、どう見ても人間には見えなかった――同じ人間だとは思いたくなかった。
「さっきの二人……?」
ホープは二人に見覚えがあった。その青年と女は、先程ソニを助けてくれた村の戦士たちだ。
いくつかの、不可解な特徴を除けば。
「ア"ァァ」
まずもって、声。これでは骨の化け物たちと同じ声ではないか。
そして、目。両目ともおどろおどろしい紫色に発光していて、とても生気は感じられない。
さらに、歯。これも骨の化け物と同じで、紫色に染まっている。
何より、
「あんなに食べられてたのに……生きてるわけ、ないのに……」
男女二人の戦士は、数の暴力に負け、ズタズタに食い殺されたはず。
現に見れば、ふらふらと歩いている二人は、体じゅうに噛まれた跡、肉を引き千切られたような跡が多数あるのだ。
「……こいつらだけじゃない。骨野郎に噛まれた仲間たちは、みんなこんな姿になった……しかも、こいつらも見境なく人間を食いやがるんだ」
「か、噛まれた人が……噛まれた人だけが……?」
「そうだ……だから……残念だが……」
ホープと青年の二つ分の視線が、ホープの腕の中のソニに集中してしまう。それは仕方のないことだった。
ホープが絶望に沈む中、青年は槍を握りしめて立ち上がり、
「……行け。こいつらは、俺が責任持って殺すから」
ホープはもう、彼の言う通りになどしたくなかった。どこにも向かいたくなかった。
でも、
「ほーぷぅ……」
ホープの胸に抱かれる天使は、ホープの服をぎゅっと掴んで、苦しそうな顔で訴えかけてくる。
――意識は薄いだろうが、きっとこの子は今の話を聞いていただろう。自分は化け物になってしまう運命だ、と、そんな話を。
どこでもいい。この子のために進まねば。
「うぅ」
立ち上がり、ホープはどこへともなく駆け出した。
少しだけ振り返ってみた。
「この野郎ぉ!!」
戦士の青年は槍を振り、変わり果ててしまった青年の胸を斬り裂く。ダメージは無い。
「うわあっ!」
「アァ"」
変わり果てた青年に、左の手首を掴まれ、噛まれる。
化け物に変わってしまうトリガーが本当に『噛まれる』ことならば、この時点で彼の運命は決まってしまったも同然。
しかし、
「んんっ……どらぁぁ!!」
最期の意地。戦士は右手に持った槍で、変わり果ててしまった女の額を力強く突いた。
変わり果てた女は刺さった槍そのままに、その場に力なく倒れてしまった。
その後。
武器も戦意も失った青年が、変わり果てた青年によって地面に引き倒され、さらに森から追加でやって来た骨の化け物たちの餌となるのは、言うまでもなかっただろうか。
◇ ◇ ◇
「わあああああ――」
「ぎゃああああ――」
「助けてくれえええ――」
ホープがソニを抱えてとにかく走っている内に、村じゅうが大パニックに。
想像を超えた骨の化け物の物量に、想定を凌ぐ骨の化け物たちの怪力に、村人は一人ずつ囲まれ、群がられ、次々と着実に貪られていく。
戦士の誰かが放った火矢が狙いを違え、民家に命中し火の手が上がる。
――ここまで状況が悪くなると、もう誰にも止められない。悪くなる一方である。
「わっ!」
ホープは何かに躓き、転倒。またソニまで転がしてしまった。
体を起き上がらせて振り返ると、
「う、うわぁ……!」
どこかで見たことのある顔。きっと会話もしたことがない人だが、村人であることは間違いない。
そんな喉を食い破られた女性の亡骸に、ホープは躓いたのだ。
「ほー……ぷぅ……」
力なく、ホープを呼ぶ声。倒れるソニが雑草を捕まえ、手繰り寄せるようにしてホープへ近づいてきている。
――もう、彼女も限界だろうか。
「ほーぷ……」
「ソニ……」
ホープもまた、大事な義妹のもとへ近づき、その柔らかで滑らかな白い頬を撫でる。
小さくて愛おしいソニの体を、跪いて両手で抱える。
きっと、噛まれた脚が痛むだろう。でもソニは強い。彼女は、にこりと笑ってみせた。
「ね……お、『お兄ちゃん』って、呼んでもいい……?」
そう、彼女は震えた声でホープに問う。
声が震えるのは泣いているからだ。
「もちろんだよ」
そう、ホープも答える。
気づけば声が震えている。
どうやら、ホープも泣いているようだった。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……私の、私だけの……」
「……ソニっ!」
ホープは、大事な妹を熱く抱き締めた。
――本当はずっとこうしたかったはずなのに。
こうするためだけに、ホープは『破壊の魔眼』を手懐けたというのに。
でも、けっきょくホープにはできなかった。
『魔眼』が無くたって、自分は醜い。そう思い込んでいると、どうしてもソニを抱いてはいけない気がした。
「おれはバカだ……本当にバカだ……ソニが何を求めてるのか……知ろうとしてなかった。自分のことばっかりで、さ……」
「お兄ちゃん……」
「君が求めてたのは、守ってくれる悪魔なんかじゃない……友達でもない……君が欲しかったのは『お兄ちゃん』だけだったのに……」
「お兄ちゃん……」
気づいたときにはもう遅い。
それとも、ずっと気づいてはいたのだろうか。
なんて情けない男だ。ホープは、自分のことさえ理解できていないらしい。
「今回だって……おれが追いかけっこなんかしようと思わなければ……」
「お兄……ちゃんは……悪くない……よ……?」
「ごめん……ごめん……ソニ、ごめん……全部おれのせいだ、ソニはなんにも悪くない……」
ぼろぼろと熱い涙を流すホープのその言葉は、消えゆくソニを安心させるためのものだったのか。
――それとも、後に自分を殺すための口実だったのか。
わかる日は、きっと一生来ない。
「お……に……ちゃん……」
「うん」
「だい、すき……」
「うぅっ」
それっきり、ソニは喋らなくなってしまった。よく見ると、呼吸もしなくなっている。
小さな体が、少しずつ冷たくなっていった。
死んでいる。ソニは息を引き取ったのだ。
出血多量で死んでしまったのか。
それとも、まさか――
「……ァ」
「え?」
しばしば起こる、ホープの思う『まさか』が現実になるケース。それはここから始まったのかもしれない。
ソニの体は冷たいままなのに、目が開いた。掠れた声が聞こえた。気のせいにしたかったけれど、無理だった。
開いた瞳は、おどろおどろしい紫色に染まっている。
「カ"ァッ! ァカ"ァァ!」
「なっ……!?」
ホープに噛みつこうとするソニの歯も、紫色をしている。
必死でソニの頭を押さえる。
「く……そ……静かに、お別れもさせてくれないのか……」
現実の厳しさに歯噛みして、ホープは変わり果ててしまったソニを見つめる。
――ホープには、ある考えがあった。
先程の青年が変わり果ててしまった女戦士の額を槍で突いた時、間違いなく女は動かなくなった。
他の部位ではそんなことはあり得ない。
つまり、額の辺りが弱点なのではなかろうか。
「ごめん、ソニ。ごめん」
もう頭のどこが弱点でもいい。ホープには、何もかもを吹き飛ばす能力があるのだから。
右目に力を集中させる。
狂ったように上下の歯を噛み鳴らすソニではない何かの、その顔を見つめながら。
「ァカ"ッ――――」
ソニのために手懐けたはずの、赤く輝く『破壊の魔眼』は周囲の空気に干渉し、いとも簡単にソニの頭を吹っ飛ばした。
何も付いていない彼女の首から、どす黒い液体が溢れ出す。
血の海の真ん中で、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!!」
左目から涙を、右目から血の涙を流すホープ。
彼は最愛の妹を自分の胸に抱き寄せ、いつまでも声を張り上げて泣いていた。
――でも本当の絶望へ、『自殺願望』へ辿り着くには、まだ足りていなかった。




