第25話 『助けられないけれど』
妙に静かな廊下をホープは歩き、目につくドアを開けて回っていた。
長いことうろついている気がするが、不思議と指導者は通らない。どの部屋の中にも誰もいない。
「でも……近い気がする」
ホープはまたも、勘に頼っている。
何の状況証拠も無いのに、この二階のどこかにレイがいる気がするのだ。
本当にそうなのか? 見つけたところでどう助けるのか? 指導者が見張っていないのか?
そんな面倒なことを考えていられるほど、ホープは元気でも冷静でもない。
そうしてまた、ホープは次のドアを開き――
「あ……やっぱり」
目的の少女の姿を見つけ、とりあえず自分の直感が当たりやすいことを自覚した。
――眼前に待ち受けていた光景が、どれだけ残酷か。
それを認識するのは、一瞬だけ後に回したくなったから。
「……やめて! こないで! やだ、やだ、や……だ……もう、いやだぁ……」
部屋を縦に貫いた鉄の柱のようなものに、手錠で両手を引っ掛けられて拘束される少女。
彼女は、紛うことなきレイ・シャーロットその鬼だ。
「れ、レイ? だいじょ――」
「こないでっ! いや、いやぁぁ!」
「ちょっと落ち着いてって……おれだよ、ホープだ。あと気づかれちゃうから静かにして」
レイがまともではない、この状況。拘束をどう外すかは後回しにせねばならない。
彼女の気持ちを少しでも落ち着かせなければ。
なぜならホープがレイを解放したところで、どうせ無能な二人でこの建物から脱出しなければならないから。
知っての通りホープは弱い。精神が不安定な人を連れ回すには、あらゆる力が足りなさすぎる。
「レイ。おれはホープだよ、わかんないの?」
「やだっ、やだっ!」
彼女に歩み寄り、肩を掴んで揺すり、必死で呼びかける。
レイはホープの方向を向いてはいるものの、どう見ても目の焦点がホープに合っていない。
どこか遠い所でも見ているかのようだった。
――ホープは顔を背けたくなる。それでも、見なければならない現実。
仮面が外されている。
レイのパールホワイトの瞳は虚ろで、ただ塩水を世界へ産み落とすばかり。
血のように赤い頬や額にはいくつもの傷が付いており、生々しい本物の血が滴る。
髪留めも無くなっている。
橙色の髪はツインテールを崩し、その傷んだ長髪は滝のように流れるストレートに。
ならば露出する二本の白い角があるはずだ。右側にはちゃんとある。が、左側の角は半ばでへし折られ、切り株のように粗い断面が晒されている。
服は脱がされたりしていないようだ。
ただ、いくつもの痛々しい傷がその存在を高らかに主張しつつある。
衣服ごと肌が切られ、裂かれたような部分がある。殴られたり蹴られたりしたかのような、土埃が付いている部分もある。
「ひどい……これは……ひどすぎるって……」
ホープは目を逸らさない代わりに、思いっきり歯を食いしばる。
エドワーズ作業場に来てから、歯を食いしばったのはこれが何度目だったろう。
「もう、いたいのやだっ! たすけて、おねがい、たすけて……もうしにますから! あたし……」
「ダメだ!」
ホープはレイを抱きしめた。
それは『レイの心のケアだ』なんて、いちいち考えてした行動ではない。勝手に体が動いてしまったようだった。
「うう、もうむりっ! ちかよらないで、やだやだやだ! やだやだやだやだやだやだやだ――っ」
「……っ」
ホープだとまだ気づかないのか、レイは腕の中で体を捻ってくねらせて、暴れる。
なんだか自分が拒絶されているようで、抱きしめているだけのホープも胸が痛くなってくる。
何度も確認したが、ホープにも心の余裕があるわけではない。
早く彼女の興奮を鎮めなければ。いつホープの方が爆発してしまうかわからない。
「レイ……聞いて」
だからホープはレイの赤い耳に口を近づけ、できるだけ柔らかに囁く。
「おれはホープ・トーレス。森の中の小屋で君と出会って、洋館で一緒に戦って――君と『約束』をしたホープだ」
「あ……? やく……そく……?」
――――ズキ。
「……うん、約束した」
「ほーぷ……?」
「うん、そうだよ。ホープ」
思った通りだった。あのバスルームで交わした『死なない』という約束。
あれを話題に出せば、きっとレイは落ち着く。そう予測していた。
――ホープが何度でも、作業場で勝手に破ろうとした約束。
ホープ・トーレスがどんな人間かさえ知っていれば簡単にわかるが、あまりにも拙く、無計画で浅はかで空虚な約束。
なのに、ひょっとすると今は、そんなクソ約束だけがレイの生きる希望となり得るのだ。
――なんて残酷な世界だ。
「あ……! ホープ、ホープだ! 来てくれ……たの、あたしのために!?」
パールホワイトの瞳にしっかりとホープが映る。レイは、表情を喜び一色に輝かせている。
ホープは控えめに顎を引き、
「そうなるかな……うん」
動機が不純だ。レイを助ける気はあったが、あくまで主目的はドラクに自分の無能さを知らせてやることだった。
だがホープはここにいる。いるのだから仕方がない。
「あたしとの約束、守ってくれた……? 約束、約束を……」
「とりあえず……まぁ、守ってるよね。約束守ってなかったら、おれもう死んでるわけだから……」
「そうよね。そうよね……うんっ、うんっ……」
冷や汗そのままに目を泳がせるホープと、縋るようにこくこくと頷くレイ。
精神が不安定な者同士なわけだが、これでちゃんと会話は成り立っているのだろうか?
ホープは判断しかねたが、
「いや、判断とかしてる場合じゃないんだよ」
「……え?」
正常とは到底言えないが、ある程度レイの意識は戻った。
ならば次に考えるのは、今度こそ彼女の解放である。
「君を助ける――」
「いい」
「な、なに?」
「必要ないって、言ってるのよ……!」
レイはおかしなことを言い出した。あり得ない。だって彼女は、ここまで痛めつけられているのに。
「無理しなくて……いいわよ、ホープ。あたし……やっとわかったの。あたし、には……生きる価値なんて無いんだって」
「は……?」
喋り方が、さっきと違う。
レイは完全に意識を取り戻し、声色は正常そのもの。いつものレイ・シャーロットだ。
台詞の内容を除けばの話だが。
「ホープが来るちょっと前……ついさっきまで、殴られてたの……今日だけじゃないわよ? 作業場に連れて来られたあの日から、仮面を剥がされたあの日から、ずっと……ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと……」
彼女は俯き、床しか見ていない。
恨み辛みに憎しみを乗せて、レイは溜まった悪感情を吐き散らかしていく。
「あいつらが……疲れる、まで、休む暇なんてなかったわ……水をかけられて……殴られて……残飯や泥をぶつけられて……唾もつけられたし、殴られたし、蹴られたし、髪の毛引っ張られたし……叩かれて、角、折れたし……」
きっとホープのこの三日間が甘いと感じるくらいには、レイは痛めつけられただろう。
体の傷の量が、比較するまでもない。
何より、
「魔導鬼……魔導鬼、魔導鬼、魔導鬼……毎日! 嫌なことを……悪口、言われちゃって……殴られながら……言われてぇ……それで、それ、で……」
ホープとレイでは人種が違う。
殴られながら罵られた日々を思い出しただけで、レイは弱々しく泣き出してしまっている。それほどだったのだ。
顔を上げるレイ。彼女はホープと視線を交じわせ、
「ホープ……」
「――――」
「あたし、こんなに嫌われ者だし……もう死んじゃった方がいいわよね? あんたもそう思わない? あいつら……みーんなあたしのこと、嫌いみたいなの」
「――――」
死んでしまった方がいいだろうか? こんな質問にどう答えたらいいのだと、逆に問いたくなる。
ホープは全力で頭を回転させ、逡巡という大海原へ船を進めようとする。
そこへ割って入ったのは、
「見つけたぜ、侵入者ぁ!!」
「俺の手柄な!」
「バカ言え俺の手柄だ!」
「あ……」
「やっちまえ!」
「大人しくしろぉ!」
三人の指導者が、乱暴にドアを蹴破って一斉に入ってきた。
不思議と何も抵抗する気にならなかったホープは顔を殴られ、即座に床に引き倒され、あっさりとうつ伏せに。
その後は幾度となく蹴られ、踏まれる。
「あう、おぐっ……」
憐れむような悲しむようなレイの視線を感じながら、ホープは積み重なっていく痛みに耐える。
食いしばった歯が、ぎりぎりと嫌な音を立てている。閉じた歯の間から、体から逆流してきた血の塊が噴出している。
それでも今ここで何をすればいいのかわからないから、ただ耐えるのみ。
「おいてめぇ、こんなクソ鬼のこと助けに来たのかよ? 悪趣味な野郎がいたもんだなぁ」
「キモいぞ、マジで。それともただのヒーロー気取りで、本当は助けたくねぇとか? どうなんだ?」
「ぎゃははは笑える、お前らサイコー!」
くだらない。こいつらの質問には、答える価値など微塵も無い。
問題なのは一気に覆されてしまった状況の方だ。
やはり、だ。やはりホープはレイを救えない。救えなかった。無能だ。弱い。なんて弱い。バカだ、自分は。
せめて、せめてこれだけは。
「破壊の、魔眼――!」
未だ靴裏の雨に晒されているホープは、ごろんと仰向けになって指導者の一人を睨みつける。
ホープの青い右目が赤く輝き――
『ダメだ! 人に使ってはならん!』
赤く輝くことなんて、なかった。
『いかんぞホープ、忘れるな! お前は何も持っていなくとも、常に凶器を体に宿しているのだ!』
もう一つの過去の呪縛が、ホープの最後の攻撃にストップをかけた。これにて終了だ。
何もできないホープは再び殴られ、後頭部が床に叩きつけられる。
何もかも、終了。打つ手はない。手も足も出ない。八方塞がりだ。計画倒れだ。破綻だ。終わりだ。終幕だ。終焉だ。
「ホープ……ほら、こいつら言ってるじゃない『クソ鬼』って。考えてみてよホープ、こいつらだけじゃないのよ? 外に出たって、みーんな、みーんなあたしのこと……嫌ってるのよ?」
「――――」
「死んだ方がいいでしょ? 死んだ方がいいじゃない! そう言ってよホープ! 言って!」
終焉に支配されていくホープの思考回路を遮断してでも、自分の人生を否定してほしいレイ。
叫ぶレイを見た指導者たちが下品に笑うが、そんなことはどうでもいい。
ホープは彼女の質問に、まだ答えていなかった。
――いや、それもおかしな話だ。
彼女を助けることはできないのに、質問にだけは意地でも答える? 意味不明だ。
答えない方が断然マシではないか。そう思うこともできるだろう。
だが今は、
『自分で動かなきゃ、地獄からは這い上がれねぇぞ――腰抜け』
誰かから貰った知能がある。真っ白の頭にねじくり込まれた、救いの知能。
『ほら見ろ、お前ってバカみてぇに優しいじゃねぇか』
誰かから貰った賢さがある。誰かの、憎いはずの誰かの声が聴こえてくる。
『まずお前が大失敗しねぇくらいの、お前にできることを精一杯やれよ』
ホープを叱咤し、鼓舞し、手を引っ張ってくれるあの男の呪縛。
呪縛のはずなのに、どこかが他と違っている。
自分だけでは手が届かない、力が足りない。
そんな時に彼を信じてもいいのだろうか。彼を頼ってもいいのだろうか。
ホープはよろよろと立ち上がり、『動いた』。
「君たち――いや、お前たちはっ!」
「……あぁ?」
「何だ?」
わからなくてもいい。ホープはもう叫んでしまった。
指導者たちは突然のホープの怒号に戸惑い、レイは絶句して目を丸くしている。
場の空気が一気に変わったことに小気味よいものを感じながら、ホープは続ける。
「お前たちはっ! 労働者の人間だけじゃ飽き足らず魔導鬼まで差別して、見下して、何が楽しいんだよ! この、このクズども!」
「あぁん!? 余計なお世話だよ、実際に俺らが差別してなくったって、どうせエドワードさんは『痛めつけろ』と命令を――」
「どっちにしろエドワードの命令!? お前たちはいつも、ビクビクとボスに怯えてばっかりだ!」
「んなっ、何だとてめぇ!?」
怒って踏み込んだ指導者のパンチが、直立不動のホープの顔面にめり込む。
吹っ飛び、また床を転がされるホープ。それでも立ち上がり、
「ぅ……ボスに! 怯えてばっかりのお前たちと、おれみたいな労働者! ど、どっちが『奴隷』なんだろうな!? おれのこと『労働力』って呼んだけど、お前たちだってエドワードの『労働力』だろう!」
「てっ、てんめぇ調子に乗りやがってぇ!」
顔を鷲掴みにされ、今度は付近の机に叩きつけられる。それでも口だけは動かし続ける。
「こぼ……この作業場にいる指導者は、どいつもこいつも粋がったチンピラみたいだっ! エドワードの飼い犬だから、当然だろうけどね!」
「なぁ、ぁ、何だとぉ!?」
「そんなお前たちに似て、労働者たちまでみんなチンピラみたいになってるぞ!? 良いお手本だよ。犬ならね!」
「黙れ、黙れよてめぇ! 黙りやがれ!」
止まないホープの口撃に狼狽する指導者は、押さえつけたホープの顔にさらに拳を入れる。
――悪口は、言い終わっただろうか。
前後の文章の脈絡とか、そういうのはどうでもいい。何でもいいからとにかく奴らの悪口を言うこと、そこに意味がある。
だからホープは顔を押さえられたまま、本当に話したい者に目を向ける。
「レイ……君は、君は嫌われ者かもしれない。否定はしないよ……事実だろうとは思うからさ」
当のレイは、まだホープが暴言を吐いたことを信じられないのか、口をポカンと開けたままでいる。
ホープはそれでも喋り続ける。まるで臙脂色の髪をした、あのお喋り魔神のように。
「誰からも好かれない人っていうのは……いないとは言い切れないよ」
言った直後、ずっしりと胸に何かが引っかかる。もしかすると、自分のことを言ったのかもしれない。
レイはその言葉に反応し、
「だったら! あたしは――」
「でも少なくとも君は違う! 君のことを嫌わない人はいるから。例えばおれは、作業場で君と会えなくなってからずっと不安だった……できれば死んでほしくないから!」
「――――」
決して嘘ではない。
ホープの心を渦巻くのはいつも二つ。『起きてしまった過去の後悔』と『目の前で起きる絶望』。
遠い場所にいる人を心配する余裕がホープにないだけのこと、他人を愛することがホープには難しいだけのこと。
複雑ではあるが、とにかくレイの安否への不安は心の片隅にいつでも息づいていた。
そしてもう一人、本来ならばホープよりも優先して例に出さなければならない人物が、
「ケビンも……君のことをずっと心配してたよ。おれよりもっと……ずっと心配してた」
「嘘よ!」
「嘘じゃない!」
レイはずっとここで捕らわれていたのに。見てもいないくせに、何が嘘なのだろう。
ケビンほどレイのことを心配してくれる人は、他にはいないではないか。
「ケビンの心配は……仮初よ! だってケビンは……あ、あたしの事情を知らないじゃない……魔導鬼って知らないじゃない!」
――レイの言い分も一理、ある。
無いとは言えない。否定してやりたいが、真っ向から否定するには根拠が少なすぎる。
「魔導鬼ってこと知ったら……彼だって、どうせあたしのこと嫌うわよ! ……オースティンみたいにっ!」
やはり、その名前が出てきてしまった。
一年以上付き合った恋人なのに、レイの顔を見ただけで、破局どころの話では無くなってしまった一例。
だが、ホープとて引き下がるわけにはいかない。
「き、決めつけたって、しょうがないよ! そんなこと、まだわからないじゃないか!」
「わかるわよバカっ! わかってないのは、あんたの方じゃないの!」
「……そう。バカか。そうか。わかったよ。じゃあ君は、こういうことについて……考えたことあるの?」
「なによ!?」
客観的に見ると不思議であろうホープの態度に、レイが食ってかかる。
次の言葉を熟考しつつ声を静めたホープは、顔を机に押しつけられたまま深く呼吸をして、
「さっきも言ったけど……こいつらは魔導鬼どころか、人間のことさえ人間として扱わないような奴らだ。エドワードに怯えてばっかりの……人として最底辺の、クズどもだっ!」
「……だ、だから何よ!」
「クズどものクズな言葉を、君は真に受けるの!? そんな君は、おれよりもバカじゃないのか!?」
「……っ!」
レイは驚いて息を呑み、その後も唖然としている。
一方のホープも、自分で今の自分が信じられない。頭が熱を持ち、パンクしそうなほど回転している。レイへの次の言葉を探すのに、常に必死になっている。
「ケビンが君の事情を知ったら……? 外に出ても悪口を言われ続けたら……? そんなの、おれにはわかんないよ……けど、今! 君のこと心配する人がいる」
「――――」
「レイ……君は『君のことを心配する人』と『君に嫌なことを言う人』、どっちを信じるの?」
「どっ……ちを……?」
「信じることも、愛するものも、自分で決めるんだ!」
普段ならあり得ないスピードで回り続けるホープの舌。イレギュラーな光景に、レイは圧倒されているようだった。
いつまでも黙らないホープに嫌気が差したか、顔を押さえつけている指導者は、
「てめぇいい加減にしゃあがれ!」
「ぉぅ……ぐっ!?」
ホープの頭を引っ張り上げてから一発殴り、そして三度床に投げ飛ばす。
三人がかりで押さえつけられ、息が苦しい。
でも喋る。血だらけの口を動かし続ける。
それが、それだけが、ホープにできることだから。
「お……れは……弱すぎて、君を……助けられない……ごめん。だから、おれも、君も……まだ殴られる、罵倒される……二人とも殺されるかも……」
「――――」
「けど、心だけは……折らないで。折られないで」
「――――」
「君は……おれと違って、選べる。おれみたいになっちゃ……げほっ! おれみたいにならないように……君は信じるものを、ぢ、ちゃんと決めるんだ……」
「ホー……プ……」
信じられないことに、レイはホープの言葉に涙を流していた。
この部屋に入ってきた時もレイは泣いていたが、その時とは違う。
今の彼女の瞳には、誰より気高く美しい、『魂』が宿っているのだから。
「とんだお涙頂戴のクソ茶番だな! 鬼と仲良くしてんじゃねぇよ、気持ち悪ぃガキめ!」
「こいつぶっ殺そうぜ、ぎゃはは!」
どうやら指導者たちはホープをこの場で殺す気らしく、懐からナイフなんかを取り出している。
――ああ、きっと弄ばれるように殺されるだろう。痛々しさの極みのような死に方だろう。
こうなることは予期していたはずなのに。
ホープはどうして、レイのためにここまで来て、レイのために奴らと戦い、レイのために叫んだのだろう?
「ま……ぁ……いい、けどね……」
よくわからないが、『やり切ったのだ』という感覚があるように思う。いくらか気持ちがいい。
せめて、痛みが無く死ねれば――
「おいおいおい。アホかよお前らは、俺はお前らに言ったよなぁ? 『泳がせとけ』ってのは良いが、『殺すな』とも言っといたはずだよなぁぁ?」
部屋の扉、つまり廊下から突然入ってきたのは作業場のボス、エドワードだった。
今の口ぶりからすると――
「おれのこと、知ってて……?」
「あぁ、知ってたぜ。お前って奴は……俺のことナメすぎなんだよなぁ、気づかないとでも思ってたんだろ? 残念だが、マヌケはお前だったんだよ」
エドワードが本部に入る前から、どうやら尾行には気づかれてしまっていたらしい。
マヌケでノロマなのは、どっちだ。
――実は、ホープは今も気づかない(エドワードの察しが良いと思っている)のだが、単純なことを失念していただけ。
本部へ忍び込む青髪は、見張り台の上からバッチリ見えていたのだ。
「なるほどなぁ、この鬼女のこと心配だったのか新人くん……まぁ? 気持ちはわからないでもねぇ。杖さえ無きゃあ、こいつは人間とほぼ同じだからな」
勝利を確信しているのか、薄ら笑うエドワード。
彼は動けないレイへと近づいていき、彼女の顎にそっと手をやる。
くい、と彼女の赤い顔を優しく持ち上げて、
「だが……この肌が、『鬼』を証明しちまってんだよ、なぁ!!」
「あうぅっ!」
「レイ……!」
突如、彼女の顔を殴りつける。
そして体を回転させ、そのまま抑え込まれているホープにも近づいてきて、
「ぶっ」
無抵抗の顔面を蹴りつける。
蹴られたホープの瞼や鼻や口腔、あらゆる部分が切れ、裂け、焼けるような痛みとともに、各所から血が溢れ出す。
もう、ダメージの限界だ。
「あらら、顔面がぐぅっちゃぐちゃだぜ新人くぅん! とりあえず今は生かしてやるよ。もう懲りただろうからなぁ。な? 懲りたよな?」
「はぁ……はぁ……」
「よぅし懲りたようだな。おいお前ら、新人くんを外に放り出してこい! 最終判断は、まだしねぇからな」
凸凹の顔面では意思表示などできるわけもなく、疲れ果てたホープは何も返答しない。
だがニタニタ笑うエドワードは勝手に解釈してしまった。不可思議だが、ここでホープを殺す気は本当に無いようだ。
「えぇ?」
「侵入したのに?」
その点について、やはり下っ端たちは疑問を持つ。
が、
「……何か、文句でもあんのかよ?」
「ね、ねぇっす!」
「すいませんエドワードさん!」
「いってきまーっす!」
エドワードが凄むと、三人の下っ端は震え上がり、速やかに血だるまのホープを持ち上げて出て行こうとする。
すると、
「あたし……最後まで屈しないから……!」
部屋を出る直前。
そんな勇気ある少女の声が、ホープには聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「運が良かったなクソガキ! 今度こんなことしたら、ぶっ殺すからな!」
本部のすぐ外へ、適当に放り投げられたホープ。
乾いた砂の上を転がる。転がり終わると蹲り、口に入ってきた砂を吐き出す。
「う……うぅ……?」
瞼が赤く腫れ上がり、そのせいで目が開かない。
両目ともだが、左目の方がやや顕著か。
狭すぎる視界を空へ向けてみると、いつの間にか、美しい夕焼けの茜色に染まっているではないか。
もうそんな時間か。
――傍から見ると、ホープの本部侵入は無駄骨でしかない。
得たものは実際のところ何も無く、殴られ損、蹴られ損、罵られ損。
でも、
「これで……いいよね、ドラク……?」
ホープは『動いた』。
何も得ていないけれど、ホープはホープ一人でできる最善のことをしたのだ。
「レイ……君を助けられないけど……君の中の何かを救えたんなら、おれはもう、それでいいよ……」
未だホープの自殺願望は揺らがないのに、レイという他人の人生にはとやかく言ってしまっていた。
当然ながらほぼ全部、勢いで出た言葉だ。
らしくないことを、してしまったものだ。




