第207話 『トラウマ』
昼間。木漏れ日の点在するバーク大森林。
『十三人の傭兵団』に属する一人の傭兵は、パーカーを着た背の低い女を追跡していた。
確か『カラス』から受け取った情報の中に、そんな特徴も含まれていたような気がする。
聞いた情報の人数が多かったため、まだうろ覚えだった。他の傭兵と今一度、情報を共有しなければならない。
しかし真のターゲットは『ホープ・トーレス』一人だし、とりあえず他は二の次なのだ。
パーカーの女はどこかを目指して歩き続けているようだが、少し開けた場所に出た。
朽ちた小屋があり、彼女はその横を通り過ぎようとしている。
足元でも攻撃して、ホープの情報を聞き出そうと試みて――
「――ヒヒヒヒッ! やぁっと見つけたよ、ようやく二人きりだね!」
「え? ……うっ!」
傭兵は息を潜める。
シルクハットを被った若い男が現れ、女を小屋の壁に押し付けたからだ。
だが雰囲気が異様。
男が笑顔なのを見るに敵同士ではなさそうだし、そもそもシルクハットという特徴も聞き覚えがある。
あの二人は同じ生存者グループの仲間?
つまり……仲間割れ、だろうか?
◇ ◇ ◇
「あぁっ」
後ろからいきなり突き飛ばされたジルは、朽ちた小屋の壁に両手をつく。
あまりにも聞き覚えのありすぎる声にすぐ振り返るが、
「う!」
また体を押され、今度は背中から壁にぶつけられた。
直後、吸血鬼ヴィクターは左手を小屋の壁につき、ジルの退路を塞ぐ。
逆方向へ逃げようとジルが横を向くと、
「もう、逃がさないよ?」
「……!」
目と鼻の先、壁に突き立てられた刀の刃に阻まれてしまった。逃げ場は失われた。
過呼吸になり始めるジルだが自分を誤魔化そうと、俯きながらも口を動かすことにする。
「な、んで……私に、こんなこと……?」
「んん?」
声が震えている。恐怖しているのが今にもバレてしまいそうで、恥ずかしい。
「キミは相変わらずバカだなぁ。今までのボクとのやり取りを思い出してみなよ――だいたいわかるでしょ?」
「っ!!」
満面の笑みを浮かべるヴィクター。
思い出したくなくても、それはとっくに思い出されている。フラッシュバックだ。
彼はまた――ジルの血を吸うつもりなのだ。
「ナ、ナイトに、止められた……よね? だからもう、やらないのか、と……」
「あぁ、あったね。何でボクがあいつの言うことなんか聞かなきゃいけないのか非常に理解に苦しむよ。でも大丈夫。今度はバレないようにやるからさ」
「あ……」
ナイトのことを思い出したヴィクターは一瞬イラついた顔をしたが、またすぐジルに向き直った。
両肩をすごい力で掴んできて、顔を近づけてくる。二本の牙が輝く口が大きく開かれて――
「や……やめ、て……」
「ん?」
「ぅ、ぅううっ……」
「んんん?」
白い首筋に、今にも牙が突き立てられ、体じゅうの血が絞り尽くされる……はずだったのに。
異変に気づいたヴィクターは中断し、少し顔を離す。奇妙なものを見るような表情で、
「キミ…………え? 泣いてるの?」
「うぅっ……ぅ……」
「嘘でしょ?」
涙。
なんとジルは言葉を発することもできず、ただ涙を流すことしかできていない。
ポロポロと止まることもない。
「キミ、もっと気が強そうじゃなかった? ボク相手にも反論してきたりして。何というか、こう、もうちょっと気高かったよね」
「うぅ……」
「今はどうだよ。媚びるような顔をして、情けなく泣くことしかできないって言うの?」
抵抗もしない。文句も言わない。
潤んだ瞳の上目遣いで、ヴィクターの怪訝な表情を見つめることしか――
「何だよキミ…………可愛いなぁ」
「っ」
顔を近づけてじっくりと観察したヴィクターの感想だった。
彼は顔をさらに近づける。ジルはせめてもの抵抗で顔を横に向けるが、それはヴィクターの手によって強制的に正面へ戻される。
「ひぅ……っ」
頬をベロリと舐められる。
涙を舐め取ったヴィクターは、そのまま彼女の眼球にまでも舌を這わせる。
気持ち悪すぎる感触を避けることもできない、手に力も入れられないジルは、顔を顰めるだけだった。
「やだ、ぁ……やめて……や、めて……」
「ヒヒヒ、それしか言えないんだ。キミはちょっと特別な女の子かと思ってたのになぁ。そこらの弱い人間以下に成り下がっちゃうなんてね! あの魔導鬼の仮面女はどんどん心が強くなっていくのに、キミは真逆だな!」
「や、だ……血ぃ、吸わない、で……」
「なんて非力! なんて弱者! その立場で、そのなっっっさけない泣き顔で、まだボクに注文をつけてくるのかい!? 傲慢さだけは健在なのかな!?」
「う……」
「いやぁ、キミちょっと面白くなってきたかも! もっと何か言ってよ! 前のキミとの絶望的すぎるギャップをもっと見せてほしい!」
笑ってハイテンションなヴィクターが早口で言葉を重ねるたびに、ジルの中の何かが汚されていく。
何かが壊れていく。壊されていく。
――先程ヴィクターの牙を見てからというもの、震えが止まらなくなったジルは自分について確信したことがある。
他でもない彼から吸血されて……そしてオルガンティアからも吸血され……
ジルは吸血鬼がトラウマになっていたのだ。
その上シャノシェやカーラとの突然の別れ、ホープとのトラブルや、ドラクの腕の件を経て……特に今はメンタルも不安定。
すっかり弱ってしまっているタイミングでもあった。
泣いたまま黙っているのを見かねたヴィクターは笑顔を消し、
「あれ? もう命乞いのレパートリーは尽きちゃったのかな? まぁ元々キミって奴は頭も良くなさそうだし妥当な語彙力か」
「うぅ……」
「じゃあもうキミは面白くないな。その泣き顔もたっぷり堪能させてもらったし……そろそろボクが血を全部吸って、キミのその下らない人生を終わらせてやるよ。死ねばトラウマともおさらばだからね」
「えっ、い、いやっ、いや、だぁ……」
「キミ、顔だけは本当に綺麗だから、血も美味だし栄養にもなる。ボクの『食糧』として糧になれることを光栄に思いなよ」
これだけ色々と話したが、結局のところヴィクターはジルを逃がす気は無かった。
牙が迫る。彼女は目を閉じて身を捩ることしかできない――
「おっと」
突如としてヴィクターは壁に刺さっていた刀を抜き、振り向く。
――ジルの胸を狙って何かが飛んできて、
「っ」
カンッ、とヴィクターは飛んできた刃物を弾いた。図らずもジルを守ってしまった形になるのだが、
「……鎌? あそこの茂みからか」
弾いて地面に刺さったのは、鋭い鎌。
放心状態でへたり込むジルから目を背けたヴィクターは、即座に『敵』の位置を把握した。
「そうか、キミ尾行されてたんだ。ボクが近くにいて助かった、と……顔だけじゃなく運も悪くないらしい」
「…………」
「最近森の中をウロチョロしてる変なのが数人いるとは思ってたけど――恐らくホープが『カラス』とかいう奴に喧嘩を売っちゃったせいで、キミたちも苦労することになりそうだね」
「…………」
「あそこにいる奴――弱者から狙った。ついでにボクが吸血鬼だと気づいて、吸血させまいと鎌を投げたな? ちょっと厄介な相手だ」
「…………」
「悪いね。ボクは邪魔者を追うとする。血を貰うのはまた今度にしてあげるから、キミは自分の惨めさでも反省してなよ」
またしても早口でまくしたてたヴィクターは、興味が移ったのか『敵』をゆっくり歩いて追いかける。
鎌が飛んできた茂みからは、走り去る音がした。
◇ ◇ ◇
力無く足を開いて座り込んでいたジル。
近くの茂みが揺れる。
「――この辺からあの野郎の声がァ……」
現れたのは、中途半端に全身に包帯を巻いたナイトだった。
どうやらヴィクターの楽しそうな声に反応してやって来たようだ。ジルを見つけ、
「ん? お、おい、パーカー女? ここで何してる、まさかヴィクターにまた何かされたか……?」
「…………」
「おい、どうしたァ? 返事しろ」
近づいて屈み、心配そうに具合を聞いてくるナイト。
返事をしたいのは山々なのだが、あまりのショックに口がまだ動いてくれなかった。
唯一ジルが認識できたのは、
(っ!! 二本の牙……吸血鬼……!!)
最悪のことだった。
ジルにとっても、ナイトにとっても。
「?」
突然ジルの顔が恐怖に染まったことに気づくナイトだが、意味がわからなくて、気づいたところでどうすることもできない。
ジルは無様に開かれた自分の両足を閉じ、両手でパーカーの裾を伸ばして、必死に股を隠した。赤面しながら。
そんなものに微塵も興味を示さないナイトは、ますます混乱するばかり。
「っ!」
ジルは壁に手をつき、慌てて立ち上がろうとする。少しでもナイトから距離を取ろうとしているのがわかる。
そのまま無言で歩き去ろうとしている……ナイトから逃げようとしている……
全くもって納得ができないナイトは一歩踏み込んで、
「おい」
「っ!!?」
「どうしたんだ、てめェ」
腕を掴む。
吸血鬼の力に、人間は一旦立ち止まるしかない。けれど、
「っ!!」
「…………」
強い力で、ジルはナイトの手を振り払った。
その程度じゃ引き下がらないこともできた。払われず掴み続けることも、ナイトには容易かった。
でもジルの心からの『拒絶』を感じてしまったから、もう手を離すしかなかったのだ。
振り払った勢いでナイトと目を合わせてしまったジルは、気まずくて俯く。
謝りたかった。彼は吸血鬼でも心優しい男だと知っている。『ついやってしまった。ごめん』と言いたい。
言いたいのに。
やっとのことで絞り出せた言葉は、
「……近寄ら、ないで……」
それだけだった。最低すぎる。
ナイトの表情なんて見れない。袖で頬を拭いながら踵を返し、森の中へ消えることしかできなかった。
一人取り残されたナイト。
「お〜い、ナイト〜! まだ治療してる途中なのにど〜こ行ってんですか〜!」
後ろからメロンが追いかけてきた。
彼女が包帯を巻いてくれていたが、途中で抜け出したのだ。
「治療ったって、包帯巻くだけだろ」
「ま、そ〜ですけどね。あれ? あそこにいるのジルじゃないですか〜?」
「…………」
走り去るジルの背中を、ギリギリで見つけるメロン。
ナイトとしてはあまり見つけてほしくはなかった。なぜなら、
「何かあったんですか〜?」
「…………」
メロンはこちらの表情を覗き込んで、窺ってくるからだ。
そしてバカにしてくる。
「あらら〜。ナイト、失恋でもしました〜?」
「……さァな。あっち戻るぞ」
「は〜い」
空気の読めない発言をしてニヤニヤするメロンを伴って、ナイトは――少しだけ悲しい気持ちで踵を返すことになった。




