第189話 『幸せになって』
廃旅館、西棟二階。
非常口がある東棟への渡り廊下――そこに通じる扉は、走るシャノシェのすぐ目の前だ。
到着すると同時、縋るようにドアノブを両手で掴む。
ガチャリ。
鍵など掛かっておらず、拍子抜けしそうなほどにあっさりと開く。
あとは走り抜けるだけ――
「…………」
なのにシャノシェは動かない。
否、動けない。魔法にでも掛けられたかの如く、足がピタリと止まってしまった。
間違いない。
遥か後ろに置いてきてしまった『モノ』に、まだ未練があるのだろう。
本気で見捨てて逃げるつもりだったのに。いや、今だって変わらない気持ちなのに。
どうしてだろうか。
捨てきれない。
「……お姉ちゃんの……せいだよ……」
シャノシェには姉がいた。
同じように栗色の髪をしたカトリーナという名前の姉だ。狂人に噛まれ、例に漏れない最後を迎えたが。
未だにシャノシェは、姉の死から立ち直れない。
ハントという恋人の死も同じくだが――姉の死については特に、自分が縛られていると強く感じる。
この前も、また夢を見た。
こんな感じだ。
『よっ、シャノシェ……元気?』
『お姉ちゃんがいれば、絶対に元気でいられたと思うけどね』
『……人に優しくしてる?』
『全然』
所詮は寝ている間の夢でしかないが、まさに姉が聞いてきそうなお節介な質問だった。
シャノシェが正直すぎて、カトリーナはものすごく悲しそうな顔をしていたが。
そして、疑問があった。
『……お姉ちゃん?』
『ん?』
『どうして他人に優しくしてるかって聞くの? 私よりも他の人の方が大事なの?』
『えっ』
『ねぇそうなの!? 答えてよっ!!』
夢の中だというのに、シャノシェは本気で怒鳴りつけた。もう生きてはいない姉に。
姉は困った顔をするばかりで答えてはくれず、そのままシャノシェの目が覚めてしまった――
シャノシェが怒った理由。
それは、姉カトリーナの最期の言葉を、今でもしっかりと覚えているからだ。
『あんた、し……幸せ……に……なって――』
そう言い残して、姉は狂人に転化し、目の前でコールに撃ち殺された。
――そう言われたのに。
「死ぬ前まで……私の幸せを願ってくれてたじゃん! どうして死んでからの夢では、私以外の人の幸せを願ってるの……何で!?」
さらに憎いのは――
「私の……私の見てる夢なのに! お姉ちゃんはもうどこにもいないのに……夢って、私の意思でしょ!?」
これは単なる夢だ。
つまりシャノシェの脳内にあるもののみで、形成されているはずなのだ。
ということは――
「……ううん! 私の幸せは、私だけのもの!! 他の人がどうなろうと、関係無いよね!?」
死にゆくカトリーナの願いは『シャノシェの幸せ』に限られていた。
でも、どうして?
どうして自分は、そんな夢を見る?
自分で見る夢なのだから、それは紛れもなく自分の深層心理だ。
「良いじゃん別に! ビッチを殺そうとして、ホープ・トーレスの肩を刺したり! 『亜人禁制の町』でも、赤の他人をいっぱい刺し殺したよ! でも、私が幸せなら良いんでしょ!?」
開けっ放しの渡り廊下への扉を前にして、シャノシェは足を止め、独り言。
「い、今でもビッチを見捨ててスケルトンの餌にして、私だけ助かろうとしてるけど! 何が悪いの!? 元々は私からハントくんを奪ったあいつの方が悪者じゃないの!」
独り言を続けているだけなのに。
気づくと世界が白黒になって、スローモーションになっている。スケルトンたちもジルも。
まるで世界が、シャノシェに何らかのチャンスを与えているかのように。
チャンス?
チャンスって、何の?
心の中の蟠りが、語りかけてくる。
(私って今――幸せ?)
姉の最期の言葉を、覚えている。
ずっと覚えてはいるが、その言葉のために努力をしてきたか?
幸せを掴もうと生きてきたか?
そう聞かれてしまうと……
(私は私自身のために、悪いことも色々やってきたけど――それで私は幸せになれた?)
ジルやホープや知らない人に、狂ったように笑ったりしながら刃物を突き立てて。
最終的にはホープを利用して、無理やりファーストキスを経験しようとまでした。
迷走、している。
今のところシャノシェの人生は、その一言に尽きるだろう。
(何で自分のために悪いことして、幸せじゃないの?)
自分はそれでいいのか。
(何でお姉ちゃんは、他人に優しくするか聞いたの?)
姉の最期の言葉はどうなのだ。
(他人に優しくすると……何なの!?)
姉が願った『幸せになって』というのは、もしかしてこういうことなのか。
「周りの人と一緒に、幸せになって……って意味?」
気づいた瞬間、シャノシェの心にず〜〜〜っと立ち込めていたモヤモヤが晴れる。
鬱憤を他人に晴らして、仲間との関係も全部断ち切って、好きなだけ狂って暴れたシャノシェ。
それが幸せな人もいるかもしれない。
でもシャノシェには違った。
姉カトリーナの願いとも、違った。
確かにシャノシェは、多くを失った。
姉も恋人もほとんど同時に失って、心が壊れたのは嘘ではない。
――だからといって当たり散らして良いなんて、それは違う。他の仲間たちだって大切なものを失い続けているのだし。
わかってはいた。だが目を逸らしていたのだ。
みんなから当然に嫌われて、恋なんてできないからと見境も無くなって、人を傷付けたり見捨てたりすることが癖になって――
「私、最低じゃん……」
きっとシャノシェは気づいてた。姉の残した言葉の真意に、気づいてた。
でも自分を何よりも優先した。その結果得られたものはゼロだったが、どうして間違えてしまったのか。
答えは簡単。
「お姉ちゃん……今だけ『勇気』をちょうだい……」
◆ ◆ ◆
「シャノ……シェ……?」
ゾルンドナト病の進行により、両目から血液が止めどなく溢れ出てくるジル。
視界が閉ざされ、体力も尽き、少しずつ這って進むことしかできなくなっていた。
シャノシェには見捨てられた。
恨む気は無いが、彼女のことだ。きっともう渡り廊下を走り抜けるところだろうか。
「はぁ……はぁ……ケホッ!」
「ア"ア"アア」
「ウォ"オオ"ォ"ォ」
すぐ後ろにはスケルトンや狂人の群れが迫る。
まだシャノシェに引っ張ってもらい走っていた時でさえ、追いつかれそうだったのに。
今現在の奴らとの距離なんて、考えたくもない。
死は、すぐそこにある。
……死が、音を立てて近づいてくる。
「ウ"ァアアアア!!!」
這いずっているジルの足が掴まれ、熱い息がかかるほど紫色の歯が接近し、
「オ"コ"ァアッ」
噛まれ――ない。
なぜ? なぜ相手の方が動きを止めた。何も見えない、何も理解できない。
「……戻ってきてやったんだから、感謝の一つもしてよね! ビッチ!」
「ケホッケホ……え? シャノシェ?」
ジルには見えていないが――全速力で駆けつけたシャノシェが、噛もうとした狂人にハサミを突き刺していたのだ。
「まったく手がかかる女! このっ! えい!」
「カ"ッ」
「ホ"ァァ"」
握りしめたハサミの先端で、スケルトンや狂人たちの頭部を次々に刺していく。
やはり、ここまで生存してきただけはある。そんな戦闘力だった。
「立てないの!? じゃ引きずってくからっ!」
「ちょ……ケホッ、うぁ、ぁぁ……!」
「我慢してよね!」
ジルの背中を、パーカーを掴んで、シャノシェは乱暴に引きずっていく。
だが、こうでもしないとジルは助からない。多少ケガが増えてもこれが最適解なのだ。
「――あんたにも優しくしてやんないと、私も幸せになれない! お姉ちゃんも、報われない!」
「……!」
シャノシェの声は、自然と震えてくる。
ああ、もしかして。
「私っ……私、さぁ……! 最低だったよね! わかってるよ、今さら何したってそれは変わらないって!」
「…………」
「でも……これが最後でも良いから……っ! 一つでも良いことしとかないとさぁ! 最低なまま私の人生終わっちゃうじゃん!」
「……!」
もしかして自分は、泣いているのか。
ジルに向かってなのか定かでない、この言い訳がましい叫びの中で。
泣いてしまっているのか。
「そしたらさぁ! 私に『幸せになって』って言ったお姉ちゃんに……あの世で顔向けできないじゃん!!」
「…………」
「だから……あっ」
「シャノシェ?」
渡り廊下まであと少しというところで、先頭で追いかけてきていた一体のスケルトンが大きく前に倒れ、そのままの勢いでジルの足に噛みつこうとする。
奇跡的に素早く察知したシャノシェは、
「やぁっ!!」
スケルトンを踏みつけ――
「カ"ア"ァァッ」
――られなかった。
スケルトンの不規則な動きのせいでギリギリ外してしまった靴裏の一撃は、床を鳴らしただけに留まり、
「ああっ!?」
代わりに、シャノシェの足が噛まれてしまった。
ふくらはぎの肉を引き千切られる。
「……ぅくッ!!」
「コ"」
激痛。
それでも二次災害を防ぐため、シャノシェは屈み、ハサミを頭蓋に突き刺した。
「シャノシェ……?」
ジルは不穏な空気を何となく感じている様子ではあるが、まぁその目では気づけないだろう。
ギリリッ、とシャノシェは歯を食いしばり、引きずっているジルを前へ送る。少しでも、自分より前へ。
「ぐ……うあぁはっ!?」
今度は狂人に髪を引っ張られ、肩に噛みつかれる。
狂人の顔がすぐ至近距離に見えるが、恐ろしさなど感じる暇も無いほどに……激痛。
それでも。
「うっ、うぅっ! うぅ!!」
「ア"カ"ェッ」
何度もその顔面にハサミを刺して、刺して、やがて顎の力も抜けた。
あとはジルと一緒に扉の向こうへ飛び込んで閉じるだけ――渡り廊下への扉を開けっ放しにしたのが幸いした。
と思ったものの、かなりギリギリ。
やろうとすれば二人一緒に扉の向こうへ行けるが、死者たちも数体侵入してしまう可能性が高い。
シャノシェは、どうせ噛まれているが――ジルは守らねばならない。
その時。
「……?」
突如、不思議な感覚。
シャノシェの唇に、何か熱いものが当たったのだ。
「ん……」
「……っ!!?」
それはジルの唇だった。
シャノシェの眼前に、彼女の綺麗な顔が見える。相変わらず両目は血で塞がっているが、これはどういうことなのか。
一瞬のことだった。ジルはすぐに唇を離した。
「あ……あんた……何を……?」
「わか、らない。ケホッ……やっておかなきゃ、いけない……そんな気がして。ケホ」
「は……ぁ……」
高熱で頭がおかしくなって、ジルは錯乱してしまったのだろうか。
普通の人ならそう思うだろう。
でも。
「う……うぅ……!」
ジルが今してくれたことは、シャノシェが一番欲しかったもの。
偶然だとは思えなかった。
涙が止まらなくなり、どういうわけかシャノシェは自分の役目が終わったような気がした。
「キス、上手すぎ……このバカっ! どこまでビッチなの!?」
「あっ」
シャノシェは両手でジルを突き飛ばし、扉の向こうへ追いやった。
バランス感覚が完全に狂っているジルは簡単によろめき、倒れ込んでしまう。
――彼女が最後に聞いたのは、
「幸せになって。ジル」
少し離れた所から、明らかにジルに向かって別れを伝えてくる涙声と。
――扉が、勢い良く閉じられる音だった。
「え……? え……?」
状況を飲み込めないジルは、這いずって、シャノシェがいるはずの方向へ。
すぐに硬いものにぶつかる。閉まった扉だ。
顔を近づけると、
――バリッ。ゴキッ。ムシャ。グチャ。
「ああぁっ! ああ……あっ、ぁあ! あああっ、ああぁあ! ああ――――」
――メキッ。ボリッ。グシャ。
すぐに顔を離した。
状況を飲み込みたくなくなったジルは、ただ呆然としたが、
「……ひっ」
扉の下の隙間から、無慈悲にも流れてくる生温かいモノ。
手が、足が、そのドロドロした水たまりに浸かり。まるで全身を包まれたかのように感じてしまった。
「……シャノシェ……」
嫌でも、全てを理解させられた。
◆ ◆ ◆
「…………」
今のジルの様子を一言で表すのならば、放心状態。
扉の前でしばらく項垂れたジルは、そのまま扉に背を預けて座り込んでいた。
「…………」
扉の向こうからは、もう何も聞こえない。
座っている床には赤黒い濁流が止めどなかったが、ようやく流れが落ち着いてきた。
シャノシェという少女に、正直良い印象はほぼ無かったのだが。
どうして吸い寄せられるようにキスしてしまったのだろう。本当に前が見えないのに、どうして唇の位置は正確にわかってしまったのだろう。
どうして、こんなにも、悲しいのだろう。
「…………」
シャノシェの肉を貪ったことで、スケルトンどもは満足したのだろうか。
知能の無い奴らのことだ。少なくとも扉の向こうにジルが入っていったことなど覚えていまい。
このまま静かにしていれば奴らは去るだろうし、とりあえず食われることは――
「おほぉぉ〜〜〜!! カワイ子ちゃぁぁん!! 俺に会いに来てくれたのかよぉぉ〜〜〜!?!?」
「……!」
最悪。
なぜか渡り廊下の中にオリバーがいた。さっき聞いたばかりの声だからジルも認識できた。
ジルを見つけた彼は喚き散らしている。
「ほら見ただろ!? 俺の言った通りだギャハハハハァ!! みんな食われる! みんな終わりだ! 俺もお前も終わりだぁぁ〜〜〜っはっは!!」
呆れるほどわかりやすく錯乱状態に陥っているオリバーが、踊りながら喚いている。
自然と、ジルの座る扉の向こう側もざわめき始める。
「おいおい病気で前見えてねぇのかぁカワイ子ちゃぁぁぁん!? んじゃあ俺が殺してやるよ!? スケルトンに食われるの痛いもんなぁぁ!?」
どうやら彼は棍棒のような鈍器を所持しているらしく、それをブンブン振り回す音がジルに近づいてくる。
ジルは――構うことなく、とにかく扉から離れるように必死で這いずることにした。
「おん!? そっちからも近づいて来てくれんのかよぉ!? 俺たち相思相愛ってコト!? ウェディングケーキはお前のノーミソだぁぁぁ〜〜〜!!」
超遅いが、出せるだけの全速力を出すジルの横に、棍棒を振り上げるオリバーが並び立つ。
ジルは、生きることを諦めるわけにはいかなくなったのだ。
『幸せになって。ジル』
それが、シャノシェの最期の願いだったから。
「ほぉぉい!! さ・よ・お・な…………ら?」
扉がブチ破られた音がする。
オリバーは今やっと気づいたようだが、騒ぐ声に引き寄せられて大量のスケルトンや狂人が雪崩れ込んできたのだろう。
「ひ、ひぃぃっ! 来んじゃねぇ! 来んじゃねぇよクソどもがぁ!?」
「ァア"ァ」
「げぇっ!? シャノシェちゃん!?」
オリバーが怪力で死者どもを薙ぎ払うが――シャノシェの狂人も混じっているようだ。
それを見た途端にオリバーは恐怖心を増幅させ、尻尾を巻いて逃げ出す。
這いずるジルを追い越し、オリバーは非常口がある東棟への扉を勢い良く開ける。
が、
「ア"ク"ッ!」
「っ!? ギャア!!?」
直後に鉢合わせしたスケルトンだか狂人だかに噛みつかれたようで、短い悲鳴を上げた。
「いでぇぇっ! 来んじゃねぇ来んじゃねぇ!!」
「オ"コ"」
「ウケ"ッ」
しかし流石の巨漢。一発噛まれた程度ではくたばらないらしく、オリバーは東棟へ入ってすぐの場所で大暴れを開始した。
おかげでジルが危惧するのは後ろから追ってくる群れのみだ。
「え……オリバーさん!? そっ、そそそれに……後ろの人はジルさんですかっ!?」
スケルトンどもの声にだいぶ掻き消されて聞き取りづらいのだが、恐らくドミニクの声がした。
そういえば東棟に食料を運んでいる最中とか聞いたような。
「あ、あのっ。先に言っておきますが……非常口は誰かに溶接されてて使えませんっ!!」
「はぁ!?」
「え……?」
オリバーもジルも、我が耳を疑った。聞き間違いであってくれと願った。
でも、考えなくてもわかる。そんな大胆な聞き間違いがあるわけないと。
希望は断たれた。
残るのは……無数の人食いのバケモノたちだけ。
それでも絶望だけは加速する。
「――――サナっ!!?」
東棟に、イーサン・グリーンの悲痛な叫びが響いた。




