第136話 『翻天覆地の一撃』
ジルは、諦めることを悪いことだとは思わない。生きていく上で『諦める』とは悪く言われがちだが、無用かと言ったらそうではないだろう。
諦めが肝心。そんな言葉もあるのだから。
しかし、好きというわけでもない。
諦めなくてもいい状況なら、進んで諦めることを選んだりはしない。
――今はどうだろう。
「あっ……」
迫る二本の剣に、一瞬で手斧を弾かれ、武器を失ってしまった今はどうだろう。
目の前の吸血鬼オルガンティアから、『諦める』か『諦めない』か選択する時間も与えてもらえなかった。
これが人間と人外の『違い』だと再確認。
そして――ジルは『諦める』ことを強制されたのだ。
「っ……」
やる気が完全に削がれて尻餅をついてしまったジルに、オルガンティアは容赦無く迫る。
ジルは首を鷲掴みにされ、
「ぅ」
その苦しさに悶えることも許してもらえないまま、地面に押し倒される。
首から強烈な力が離れたと思いきや、
「うっ!」
どうにか立ち上がろうとしたジルの両手を、オルガンティアの両手がそれぞれ捕まえる。
恋人繋ぎのように指と指が絡まってジルは動けず、また強い圧力をかけられ、後頭部や背中を地面に押しつけられる。
全く動けない。隙も無ければ、勝てる道理もどこにもない。
「さて、腹ごしらえといこうか」
「あ……」
仰向けになるジルに完全に覆い被さっているオルガンティアが、絶望の一言を放つ。
体は体に押さえつけられ、両手は両手で拘束されているジルは、もう口くらいしか動かせない。
「やめて、お願い……」
「何で?」
「死にたく、ない、から……やめて」
「――やなこった」
そして。
その言葉を最後にオルガンティアは大きく口を開き、牙をジルの首筋に突き立てた。
「うぅっ! あ、ああ……ッ!!」
激痛。
激痛、激痛、激痛が走った。
ヴィクターに噛まれたこともあったが、アレはまだ上品な方だったらしい。
オルガンティアの噛みつきは荒っぽく、丁寧さの欠片も無い。敵だし殺すことも兼ねているから当然だが。
「ああぁ……っ、あ、あぅ……!!」
首の激痛はそのままに、体から少しずつ力が抜けていく感覚。
全身から、熱いものが首に集約していき、何か別の体へと移っていく気持ち悪い感覚だ。
味わったことはあるが、あの時とは違う。何もかもが違う。
相手が純粋な敵であること。
吸血のスピードは尋常でなく早く、もしかすると数秒の命かもしれない。
予想でしかないが、それほど絶望的な感覚なのだ。
そして今回は、助けが期待できないこと。
仲間たちもきっとそれぞれの戦いをしていて、こんな目立たない場所で吸血されているジルに気づく可能性は薄い。
万事休す。
「ぅ……ぁぁ……ぁ」
何の抵抗もできず、溢れていく自分の命さえ拾えず、命が、嗚呼、消えかかっていく――――
「おい、こっち向けぇ変態野郎が!!」
声――――オルガンティアがその声に反応し、ジルの首から牙を抜いて顔を上げた。
その瞬間、
ガコンッ――!!
横っ面に唐突に入った強烈な一撃で、オルガンティアの顔は後ろを向かされる。
ぶん殴ったトンカチの持ち主は、
「ジルに何してんだお前……絶対許さねぇ!! このドラク様が駆除してやるぜ!!」
救世主にしては厳つさの足りないただの人間、親指で自分を示すドラク・スクラムだった。
返答もせずただ無言のオルガンティアはゆっくりと首を戻すと、
「――――」
無言でジルに血を全て返し、傷口を塞いだ。
その行動の意味は誰にもわからないが、
「お前……死ぬ覚悟はできてるんだな……?」
殴ってきたドラクに怒りを燃やしているのは間違いなかった。
立ち上がったオルガンティアは首を傾け、眉間に皺を寄せ、血走った目でドラクを睨みつけるが、
「いいや、勝つ気満々だが?」
ドラクは一歩も譲らない。
強がっているのだと、誰もが思うだろう。しかし今の彼はどうにも本気にしか見えず――
「だってよ、ジルの首をペロペロするような変態野郎に負けるか普通? まぁ? そいつは不覚にも可愛いしエロいから気持ちはわからんでもねぇが、男としてその欲に負けちまうのは――」
まるで見当違い。ただのアホである。
オルガンティアが吸血鬼だと全く気づいていないドラクに、倒れているジルさえ呆れそうになっていると、
「――どうかなって思うんだよ、まぁオレはジルと付き合い長いし? 全然そんな気とか起こったりしねぇんだけど、も……?」
「人間……調子に乗るなよ」
オルガンティアが翼を広げた。
「あ、あれ……? な、な、何でございましょうかその翼……おかしいな、ただの人間かとお見受けしていたんだけども……」
「殺す」
「ぎゃあぁぁこっち来んなぁぁぁ!!!」
◇ ◇ ◇
――という経緯があり。
今、ドラクはオルガンティアに抱えられて空を飛んでいる。
「わー、綺麗な景色だねダーリン♡ とか言ってる場合じゃねぇぇぇ!!!」
「騒がしい野郎だ。死ぬ前くらい静かにしてたらどうだ」
「そりゃお前の持ってる剣でスパァッ……とかやられたら静かだったろうさ! だが何だこの仕打ち!? これから叩きつけられる景色を存分にご堪能いただくって!? っざけんな!」
普通に殺すのでは不満らしいオルガンティアは、上空から急降下してドラクを地面に叩きつけるという異例の殺し方に打って出た。
なので今、爆炎や狼煙によって滅茶苦茶な戦場と化している『亜人禁制の町』の上を遊覧飛行するハメになったのだ。
「……頃合いか」
「何のだよ!? 離せお前!」
「離したら落ちるが?」
「あぁっ! 高い! やっぱ離さないで! いつまでもずっと離さないでダーリン!!!」
腕の中でけたたましく暴れるドラクにウンザリしつつも、オルガンティアは降下開始点を見極める。
決定し、ドラクを抱えたまま急降下を開始。
「いくぞ」
「っいやだぁぁぁ――――!!!」
さしずめ『終わりのあるジェットコースター』であろうか。
冗談じゃない。
「もうダメだ……神様……もうダ……メ?」
地面が迫ってくる。
神に祈ってももう遅いとわかっていながら祈り、目を開けて死の着地点を見てみるドラク。
だが、そこに見えるはずのないものが見える。人影だ。あれは、
「嘘……だろ……?」
ドラクは、目を疑った。嘘であると信じたかった。
あいつまで巻き添えを食らって、共倒れになってしまうじゃないか――!
「来るな、そこどけっ! ホープっ!!」
◇ ◇ ◇
空を飛ぶ吸血鬼が、ホープには見えた。ナイトによると、あれこそ四天王の『オルガンティア』だそうだ。
そして奴に捕まり、今にも地面へと叩きつけられそうなドラクの姿も見える。
他の敵と戦っているナイトとニックよりも少し早く、ホープは駆けつけた。
「来るな、そこどけっ! ホープっ!!」
ドラクが自分のことを忘れてホープに忠告してくれる通り。
このままホープが動かなければ、二人一緒にペシャンコになるだろう。
だが、ホープは動く。
右目に眠る魔眼が、赤く輝く。『破壊』の色に。『殺戮』の色に染まっていく。
そして、
『ダメだ! 人に使ってはならん!』
直立するホープの右に立っているドルドが、ホープを真っ直ぐに見つめて注意してくる。
ホープはそちらを見ず、
「……バカか。あいつに直接使うわけない。ドラクまで吹っ飛ぶだろう」
冷たく、幻覚のドルドに言い返した。
何しろ彼はホープの心を縛りつけ、蝕んでやまない過去のトラウマの一部。
そこに居るはずのないドルドの精神体のような体が、奇妙な塵となって『破壊の魔眼』に吸い込まれていった。
――いや、それも幻覚か。
「ああぁあぁぁぁ………」
ホープの顔に、右目を中心として『赤いヒビ』が広がっていく。
思い出すストレスが重ければ重いほど、パワーは研ぎ澄まされる。
そうして生み出されるパワーが強すぎると、恐らく右目の中だけでは収まらずヒビとなって溢れ出すのだろう。
外に出たくてしょうがない。
そんな台詞が右目から聞こえてきそうになるから、
「ああああああぁぁぁぁ――――!!!!」
ホープはその力を、あるべき場所へと解放してやるのだ。
「あの光は……あれはただの人間じゃ……!?」
「ほ、ホープ……!?」
オルガンティアがドラクを落とそうとしている、その地面を凝視して。
「――――――!!!!」
まるで『世界の終焉』を一部分に留めて破裂させたかのような、小規模の大爆発。
視界が真っ暗になるほどの、山のように巨大な土煙が上がった。
自身の急降下による加速で、その衝撃波と土煙を何倍にも強くくらったオルガンティアは、
「ごは……ッ!?」
逆に今は、突き上げられるように吹き飛ばされていた。
何が起きたのか思考が追いつかないまま、白目を剥いて血を吐いていた――




