第117話 『翼折れし鳩』
閉じられた『亜人禁制の町』の門の前にて、木の根元に座っているナイト。
彼の睨む先には、
「いいか吸血鬼、少しでも妙な動きを見せれば構わず撃つからな!?」
壁の上から銃口をナイトに向けて揺るがせはしない、二人の門番。
その様子に鬱陶しそうに「わかったよ」と返しながらもナイトは、
「……どうして人外を入れねェんだ?」
質問してみる。
これまでの流れなら門番どもは答えないだろうと考えていたのに、
「そりゃ危険だからよ」
「鱗だの、牙だの尻尾だの翼だの……そういう気持ち悪いものを持ったのが亜人だ。見た目も思考回路も獣みたいな汚い存在を、人間と同列に扱えるか?」
ピキッ……とナイトは眉間に皺を寄せるのだが、得意げな門番が気づくわけもなく、
「我らがリーダー、プレストン様は……有害な獣どもを住民に近づけまいとしてくれてるのさ」
目を輝かせて、この町のリーダーの素晴らしさを語るのだった。
◇ ◇ ◇
「――今、なんと言いました? ニック隊長」
そしてこの町のリーダーこと、――誰かさんとそっくりな――くすんだ金髪を持つ男。
彼の体は細く、目の下にはクマ。頬も少しこけているようで、控えめに言って不健康そうだ。
ソファーに座る彼は、対面にニックとリチャードソンを迎えている。
しかしこの『会議』、いきなり険悪なムードからスタートとなってしまう。
「ハントが……死んじまった。そう言った」
明らかに、いつものような覇気も威勢も感じられない雰囲気で、ニックはもう一度同じことを告げた。
――見ているホープは、ニックの話し相手の『くすんだ金髪』を見て妙な既視感に襲われるが、
「俺の親友のブロッグさんも……死んだんでしたよね?」
「ああ」
「死んじまったハントってのは……ハント・アーチのことですか?」
「そうだ」
「『P.I.G.E.O.N.S.』に入隊したばかりで、期待の新人の?」
「その通りだ」
金髪の男は、表情一つ変えずにニックを問い詰める。変な質問ばかりかと思いきや、
「――俺の弟の、ハントのことですか?」
「――ああ、そうだな」
話の『核』となるその質問にニックが頷けば、金髪男の歯を食いしばる音が部屋に響き、
「あんたに任せるんじゃなかった!! こんチクショウがぁっ!!!」
ニックを『隊長』と呼ぶ、つまり『P.I.G.E.O.N.S.』の隊員である男。
そして町のリーダー。
何より、ハント・アーチの兄である男。
――プレストン・アーチの怒号と、彼が立ち上がってテーブルを蹴る音が混ざり合い、部屋の空気を凍りつかせた。
だが一人凍りつかないメロンが、
「ウ〜! これはゾクゾクする光景ですね〜!」
「確かにゾクッとするけど……それとはニュアンスが違いそうだなあ……?」
楽しそうに、興奮するかのように、目をキラキラさせてホープに話しかけてきた。
「まさかこの町のリーダーってのが〜、彼のことだとは〜!」
「有名?」
「あの特殊部隊『P.I.G.E.O.N.S.』の『知略』担当、プレストン・アーチですよ〜!! バカなこと聞かないでください!」
無知なホープに頬を膨らますメロンだったが、すぐに部屋全体を見渡し、
「そのプレストンになぜか怒られている隊長ニック・スタムフォード、リチャードソン・アルベルト〜! 何てファンサービス!」
「声がでかい……」
メロンは、いつも以上に大きな声で、いつも以上に無礼極まりない言葉の羅列。
ホープが注意するまでもなく、
「おい、蹴り娘……お前さん今だけは静かにしといてくれや、話がややこしくなる!」
ニックの隣に座るリチャードソンが、プレストンから目を離さずに掌をかざし、どこか懇願するようにメロンを制す。
――この『応接室』らしき部屋の、厳かな扉の前に立つ、メロン、エン、そしてホープ。
ニックのグループに属する三人の若者を見て、プレストンは立ったまま鼻で笑う。
「フッ……クソみたいなメンバー集めましたね。器用なもんですなぁ、隊長ぉ」
「プレストン! よせ!」
嫌な台詞にメロンとエンがムッとするのを肌で感じるホープだが、どうも若者三人に介入の余地は無いらしく、リチャードソンがプレストンに警告。
が、プレストンは少しも怯まずニックを堂々と指差し、
「……何でですか? リチャードソンさん。こんなイカツイ見た目して、中身は時代遅れの無謀で無能な、ウスラバカのクソジジイなんか庇って何になります?」
「そりゃニックのことか!?」
「当たり前です。もうこんな能無し、『隊長』と呼ぶことすらアホ臭いんですよね。見てくださいよ、俺のリーダーとしての才覚を」
言いたい放題のプレストンはドカッと座り、ニックやリチャードソンに部下を見せつけるように腕を広げる。
ソファーに座るプレストンの周囲には、なかなかの人数の部下が控えているのだ。
「……手厚い歓迎、だな」
好き放題言われたニックが、絞り出すような一言を発すると、
「あぁ、はい。弱々しい布陣でノコノコやって来たあんたらと違ってね」
絞り出した一言さえ、粉々に打ち砕かれる。
「ニードヘルが良い例だ。あんたやリチャードソンさんの生存を知っても、こいつは俺の下につくことを選んだ」
「……はっ。勘違いすんじゃないよ、ヒョロ男。アンタの方がマシだと思って利用してるだけさ。アタシが部下だって? 笑わせる」
初めからプレストンの横に立っていた、ワイルドな女性。
「え〜っ!? ホントだ〜、よく見ればニードヘル・ギアーズじゃないですか〜っ!! ここ『P.I.G.E.O.N.S.』だらけ〜!」
「何だいアレは……うるさい小娘だね」
どうやら奇抜な髪型の彼女――頭の右半分が紺色の丸刈りで、左半分は桃色の長髪を三つ編みにしている彼女こそがニードヘル・ギアーズ。
またしても例の特殊部隊員であることは、メロンの反応で明らかだ。
ニードヘルの更に隣には、黒髪に眼鏡にスーツ姿で、書類を抱えた真面目そうな長身の女性もいるが、プレストンは彼女には触れず、
「まず俺のために日夜働く、泥臭くて利用価値のある兵士たち! シリウスの強さを見たか? 実力主義のニックだって唸るさ! まぁこいつが選んだのは俺だけどなぁ!」
橋で出会ったシリウスと愉快な仲間たち。
そして、
「こいつらは頼りになる、俺の、町の、守護神たち! 圧倒的な力で悪を潰し平和を築く『四天王』!」
プレストンの後方を固めるように並ぶ、身長が大小様々な四人の人物。
黒い仮面と黒いローブで武装していてシルエットしかわからないものの、一人驚くほどの巨漢の持ち主がいるのだが……プレストンはそれにも触れず、
「さらに最強の用心棒、ロブロ!」
「ゲッヘッヘ……!」
ニードヘルの反対側に立つ、目出し帽みたいな形をした鉄仮面を被った大きな男――ロブロが、拳銃をくるくる回しながら笑った。
「見ろよ、ニック・スタムフォード!! 俺には『強固な壁』『平和な町』『素晴らしい部下たち』全てが揃ってる! 何もかもパーフェクトさ!」
両腕を天高く掲げ、自分の世界に浸っているプレストンだが、すぐに嘲笑を始める。
「ダサいあんたと違ってなぁニック・スタムフォード! ……聞けよ、自分の言葉を」
「ッ!!!」
プレストンが胸のポケットから突然取り出したのは、手のひらサイズのボイスレコーダー。
ニックもリチャードソンも表情を強張らせるその理由は、
《約束する、プレストン……この俺がブロッグとハントを守り抜き、てめえと再会させてやる……必ず》
心を抉ってやまない、ニック本人の誓いの言葉が雪崩れ込んでくるから。
「お、お前さん、あの時……いつの間に録音してやがったんだ!?」
しかも、
《約束する、プレストン……この俺がブロッグとハントを守り抜き、てめえと再会させてやる……必ず》
プレストンが、たった一回ボイスレコーダーを再生するだけで終わらせるはずがない。
わざわざ最初まで巻き戻し、また再生する。
《約束する、プレストン……この俺がブロッグとハントを守り抜き、てめえと再会させてやる……必ず》
その労力は、目の前でニックの精神が崩れていく様を見るのとしっかり釣り合うらしく、プレストンは微笑みながら、巻き戻しと再生を繰り返す。
《約束する、プレストン……この俺がブロッグとハントを守り抜き、てめえと再会させてやる……必ず》
何度でも、何度でも、何度――
「お前さん、いい加減にしろプレストン! 仮にも隊長に向かって!」
「うっ!」
どんどん俯いていくニックの姿を見かね、リチャードソンは手を出す。
プレストンの手からボイスレコーダーを弾いて落としたのだ。
その直後、『四天王』の一人が動く。
「腕……斬り落とされたいか」
黒いローブの合間から滑るように出てきた剣の刃が、リチャードソンの腕を捉える寸前、
「やめておけ。オルガ」
プレストンが四天王の『オルガ』に掌を向けて、攻撃を中断させた。
止められた彼は無言で元の位置へ戻る。
「……甘いです、甘いですよリチャードソンさん……だってこの男、こんな啖呵切った次の日にブロッグさんに死なれてるって言うんですから、笑っちまうでしょう!? チクショウが!!」
くすんだ金髪をグシャグシャとかき乱しながら、怒りを露わにするプレストン。
「え……」
静かに聞いていたホープは、つい声を出す。
どうやらエドワーズ作業場でブロッグが殺された前日にも、ここで話し合いを行っていたらしい。
リチャードソンは、あくまでプレストンの否定はしないが、
「確かに約束もクソッタレもねぇ結果にはなったが、ニックが望んだと思うか!? 約束の破棄を! ブロッグやハントの死を!」
あくまでニックの味方である。
ニックだって――否、ニックこそが誰よりも、ブロッグとハントの死を望まなかったことだろう。
プレストンも辛いだろうが、ニックだって同様以上に苦しいのだ。
とはいえ、
「だから、甘いんですよ! 『約束』『必ず』って言葉はそんなに軽いものなんですか!? 望まれた死なんて、この世界にはそうそうありませんよねぇ!? そうですね!?」
「くっ、そうだがよ……」
やはりプレストンの言葉責めには敵いそうもないのが現状。
そしてプレストンの異常性というものも、輝きを増していくばかりで、
「例えばこの用心棒ロブロが……今この場で、突然ニックの部下を撃ち殺すとする」
またしても部屋の空気が凍る。
プレストンは昔から、たまにこういう面を見せるのだ。
「ゲヘヘッ」
いかにも荒くれ者っぽい鉄仮面のロブロが、目を見開きながら銃を抜き取って、構える。
「そうだなぁ……そこの青い髪のガキだ。そいつの頭が突然吹っ飛ぶとして、ニック・スタムフォード……あんたは許せるか? 俺をぉ!!」
プレストンの命令通りに、ロブロは抜いた銃の銃口をホープの額へ。
「アッハッハハッハ!! なぁ、銃だよガキぃ! 怖いだろう!? そこのウスノロリーゼントのせいでこうなったんだが!」
「ゲヘヘヘ、弱そうなガキ! 銃なんて使うまでもねぇが、まぁ一発で逝けるからな! これは慈悲だぜ!」
ホープやニックが当然嫌がるだろうと考え、楽しそうに笑うプレストンとロブロ。
しかし――その結果は、とんでもないもの。
「知らねえよ、そんな奴。そいつを殺して話が進むってんなら、さっさとやれ」
「やったぁ! 早く撃ってくれ!!」
――完全な異常者であるニック・スタムフォードは、心の底からの無関心を。
――異常者をも超えた異常者であるホープ・トーレスは、何の邪気も無い笑顔を。
「「えぇぇぇぇッ!?」」
調子に乗っていたプレストンとロブロが、情けない絶叫を放つ。
プレストンたちは、もちろん一筋縄ではいかないグループだ。
が、上には上がいるのだった。
そこで話をもっとややこしくするのは、
「ロブロ……でしたっけ〜? それ以上変な動きしたら撃ちますよ〜。彼は殺させません」
「よせ! 蹴り娘!」
メロンだ。
彼女は笑顔を崩さないままに、ロブロの胸に銃を向け始めた。
「ちぃ……っ!」
ホープの額に銃を突きつけるロブロは、まさか自分も銃を向けられるとは思っておらず、舌打ちを隠せない。
彼は当然のリアクションだが、
「メロン!! いいよ、余計なことしないでくれ! 銃を下ろすんだ!」
「は〜!? 何言ってんですかあなたは〜!」
「とにかく君は黙っててくれ!! ……お前、早く引き金を引け! 早く!」
ホープは、どう考えても場違いな言葉を吐きまくる――彼にとっては当然だ、これこそが望んだ状況なのだから。
「え、えぇ!? 頭おかしいのかこのガキ!?」
優位に立っているはずのロブロが、逆に狼狽えているという謎の現象が起こる。
「何してるロブロ!? ニック・スタムフォードの許可は出てる、そのガキ撃ち殺せ!」
プレストンも今一度命令を出す。
『最強の用心棒』と紹介されていたロブロだが、どうも引き金を引きそうもなく、
「いいからやれよ! 撃て!」
「うっ、お、おいおい!?」
イライラしてきたホープが彼の手を掴み、銃口をぐりぐり自分の額に押し付けさせる。
そしてロブロの指を強制的に引き金に掛けさせようとするが、
「待て! やめろ、てめぇ!」
他でもないロブロ自身が、ホープの手から自分の手と銃を離す。
彼には――撃つ気が無いのだ。
それを誰よりも早く判断し飛び出したのは、
「……こっちを見な」
プレストンの横にいる女性、ニードヘル・ギアーズだった。
「え?」
走り出した彼女の言う通りに振り返る、そのロブロの腹に、
「おぼごぉッ!?」
低く構えたニードヘルの掌底が、深く、重く突き刺さった。
威力は相当なものらしく、大男ロブロは血を吐きながら白目をむき、為す術もなく一撃で倒れる。
「だから見てくれだけのハッタリ用心棒なんか、居ない方が良かったんだよ……それから」
一方でニードヘルは、まだ速度を落とさない。
「……アンタも危険だね」
「え」
彼女はホープの目の前まで迫る。
踏み込んだ左足を軸に回転、すると次の瞬間には右足がホープの側頭部を捉えて、
「ばっ――」
気づけば右の側頭部に踵がめり込んでいたホープは、鋭い衝撃に脳を揺らされ、棒のようになって横に倒れた。
一瞬にして二人の男が倒されたこの状況に、応接室内の空気は寒冷化が止まらない。
そう、止まりはしない。
「……お、まえぇ……!!」
誰よりも何よりも、止まらないのはホープ・トーレスだった。横に倒れていた彼はゆっくりと立ち上がる。
自身の桃色の唇を舐めて湿らすニードヘルは――禁忌を犯したから。
「へぇ、立つのかい。割と頑丈だね」
「……てやる」
「ん? 声が小さくって聞こえないよ」
首を傾げるニードヘルの正面に、だらりと俯いたホープが立つ。
ふと顔を上げ、
「殺してやる――――ッ!!!」
咆哮。
ホープは今にもニードヘルを引き千切って粉微塵にしそうな勢いで、彼女に飛びかかろうとする。
が、
「エン! 止めてやれ!」
「あ、ああ」
ニックの怒号に従ったエンが、すかさずホープを羽交い絞めにする。
「あ"あああ! 離せ! ああ"あっ!!」
細身なのに意外と強いエンの力に、狂乱しているホープとはいえ手をバタバタさせながら止まらざるを得なかった。
ラリった両目で、壊れた人形のように体を震わせ、口から泡まで吹いているホープのヤバさに一同が戦慄する中、
「んに、ニック……いったいこの人たちと何の約束をしてたの? そろそろ教えてほしいな」
そのホープを止めながらエンは、冷静に質問をする。まぁ誰もが何となく予想していたが、
「……簡単だ。プレストンの親友ブロッグと、弟ハントは、偶然にも俺が預かってた。そいつらを連れて来れば、俺たちのグループは全員この町で暮らせてたのさ」
つまり、グループの合併。
ずいぶんと軽い条件でニックや仲間たちを町に住まわせてもらえたのは、やはりニックが『P.I.G.E.O.N.S.』の隊長だからというのもあるだろう。
そんな破格の条件なのに、
「プレストンがリーダーのこの町の存在を知ったのはつい最近。約束をした次の日、あろうことかブロッグが死んじまった……偶然にも敵に捕まったナイトを密かに助けに行ってたらしい」
ニックも、ブロッグがまさか危険な敵地へ赴いているなど知らなかったようだ。
「それを知ったハントは『不安定なグループのため』と俺たちの命令を無視しやがって、あちこちに物資調達に行った……俺だって精神がまともじゃねえし、一旦放っといて一人でここに来て、ブロッグの死を伝えといた」
その時も口論にはなっただろうが、とりあえずハントを連れて来ればいいとなったはず。
なのに、
「リチャードソンたちが大都市アネーロに物資調達に行ってる間、俺はハントをここに連れて来ようと思ってたんだが……あの野郎、また俺に歯向かい大都市アネーロに行き、狂人になって帰って来やがった……こういうわけだ」
狂乱状態ながらも、ホープは話を耳に入れるだけはしていた。
――ホープが作業場から脱出し気絶している間にも、色々あったようだ。あの二人の死が、ここまでの意味を持っていたとは。
「何だそりゃ!? 人のせいにばっかりしやがってチクショウ!! 全部、全部、ぜーんぶお前の失態だろうがニック・スタムフォードぉ!!」
言い訳がましいぞ、とプレストンはニックにまたしても怒鳴った。
表情だけは変えないニックは静かに、
「……そいつ連れて出てけ」
エンに命令。
すっかり使いっぱしりの扱いを受けて納得いかないものの、エンは無言で部屋を出た。
まだニードヘルに向かおうとするホープを、どうにか引っ張りながら。
◇ ◇ ◇
――応接室前の廊下で、二人揃って地べたに座り込んでバタついているホープとエン。
「あ"ああぁぁ」
「くっ……待っててくれホープくん、すぐに落としてやるから」
部屋を出てもなお落ち着く気がしないホープの首を、エンは後ろから絞め始めた。
すると、
「そ、そこまでしなくてもいいのでは……?」
また応接室の扉が開いて、先程から立っていた黒髪ポニーテールに眼鏡にスーツ姿の長身の女性が出てくる。
彼女は目つきだけ凶悪なのだが、性格は風貌通りに真面目で温厚なようで。
パタン、とすぐに扉を閉めた女性は腰を折ってホープに近づき、
「ほら、もう大丈夫ですよ。深呼吸して落ち着いてみてください」
「ああ"……あぁ」
目は充血し、口は半開きで、完全に顔面がヤバくなっているホープの頬を撫でる。笑顔で優しい言葉をかける。
「ふぅ……私も疲れましたけどね。あの場にいると怖くて胃が痛くなってきちゃいます」
頭や頬を撫でられ、甘い言葉をかけられ、ホープはようやく落ち着いてきた。
と思いきや、
「うぷっ……うぉ、オエェェッ、オェッ!」
「きゃーっ!?」
「……あーあ」
ものすごい勢いで嘔吐。
いち早く離れたエンとスーツの女に当たることは無かったが、廊下は汚れた。
「……君、何て名前?」
エンは突然、しれっと彼女の名前を聞き出そうとする。
「え……このタイミングで聞きます? ジリルテアと申します」
「そうなんだ。よろしく」
「は、はい……」
自己紹介も握手もさせられた女――ジリルテアが困惑していると、エンは彼女の肩に手を置き、
「じゃあジリルテアさん。掃除を頼むよ」
「えっ!? どうして私が!」
「だってここ、僕らとは無縁の建物だし」
「う……やっておきます」
少し運命が左右すれば、この町の人々とは仲間同士になったかもしれない。
だが、そうはならなかった。だからこの建物はエンとは何の関係も無いのだ。
ジリルテアが雑巾を取りに行ったところで、
「ったく、何なんだあの空間……胸糞悪いな」
今度は応接室から黒髪の若い男シリウスが出てきて、早々に扉を閉めた。
彼はホープを見つけるや否や、
「お前さ……悪いけど、名前聞いてもいいか? フルネームを、さ」
怪訝な面持ちで聞く。
――実はシリウス、先程のホープの狂乱具合を目にして感じたことがある。
この狂気と殺気はもしかすると、何度も殺人をやった奴のそれかもしれない。
名前は一度も聞いてはいなかったが、お得意の勘である。
アリスとブタとキツネを殺した『ホープ・ト……』とは、こいつかもしれないと踏んでいた。
それほどの意味が込められたその質問に、未だに半狂乱から抜け出せていないホープは、
「は、はは……」
乾いた笑い声と、薄い微笑みで。
「ホープだ……自殺を望む愚か者」
回答。
どう考えても、それは人の名前ではない。
死ねずに痛めつけられて頭のおかしくなった、歪んだ少年の戯れ言だ。
だが、溢れんばかりの怒りで、同じく頭のおかしくなったシリウスは、
「お前……か……!!」
確信した。
もう正式なフルネームなんてどうでもいい。馬鹿にしやがって。『ホープ・ト……』に当てはまってる、こいつが犯人だ。狂っているし間違いない。こいつを殺せばいいんだ。殺す。殺――
「あっ、あの、雑巾とか、持ってきました! あ、シリウスさんもいらっしゃったんですね。ちょっと下がっててください、拭きますから」
そこへ偶然ジリルテアが戻ってきたことで、水を差されたシリウスは次の一歩を踏み出せず、
「ホープくん、ちょっと外の空気を吸ってきなよ。君おかしくなっちゃってるもん。僕は一応ここに残るけどね」
「……うん」
エンの提案に意外とスッと乗ったホープは、早々に出口を探して歩いていってしまうのだった。
――こうして偶然が重なり、衝突は避けられた。




