散歩
僕は三日ぶりに家を出た。そろそろ外の空気を浴びないと精神の均衡を保てないと感じだからだ。
しかし、家を出たはいいものの、何をすればいいかわからない。少しの間考え、いつも通り近くの大きな公園に向かうことにした。
歩き出した僕はその公園の名前を思い出そうとしたが、どうも思い出せない。しかし、そんなことはどうだってよかった。ただ歩ければいいのだ。
僕には歩くときに一つ癖がある。僕は下を向きながら歩くことをしない。いや、というよりも、必ず斜め上方を見つめながら歩く。
これは僕なりの精神防衛法である。下を向くと気分もくもりがちになるだろうし、反対に上を向けば何か晴れやかな気持ちになるだろう、ということである。
それに加えてさらに良いことがある。
僕は常々思うことなのだが、人の視界というのは上半分の方が下半分より美しい。
視界の一瞬を切り取ってみて、その下の方にあるものは何かというと、ゴミやホコリや地面のシミである。少しばかり綺麗めなものでも、あまり手入れされていない革靴や排気ガスで霞んでしまった花壇のツツジくらいである。
目線をあと数度上に傾けると綺麗な少女の洋服が目に入ってくるはずのその目には、使い古して角の傷みが目につきはじめた、安物のバックが映り込む。
反対に上を見てみれば良い。女たちのよく手入れされた髪と丁寧に化粧された顔が目に飛び込む。その奥には整然と並べられた四角いビルディング。背景には空という自然が作り出す美しいライブ壁紙が貼られている。
今日もそうだ。この世界は、上半分は美しい。
青い空とまばらな白い雲たち。典型的な快晴だ。人間を穏やかにしてくれる。
気持ちのいい空だ。
こうやって空を見上げながら歩いている僕の耳に楽しそうな声が聞こえてきた。
道の前の方から若い女たちがこちらに向かってきているようだ。遠目でもわかる、あれは若い女の化粧だ。メイクの技法の具体的な名称は知らないが、全体的な印象が共通しているのだ。皆んな共通して華やかな印象を与える。内側から溢れでる彼女たちの快活のエネルギーが良く表現されている。
僕は身構えつつも確信した。彼女たちは女子大生である。
推察するに、この近くの有名女子大学の学生たちだろう。駅前から伸びる大通りを挟んで、僕が行こうとしている公園の向かい側にその女子大はある。この時間はちょうど何限目かの講義が終わる時間なのだろうか。何人かでかたまって移動している。
僕は一人で彼女たちのそばを通り過ぎる。
その瞬間、僕は、僕は…。
ああ、僕はこれが嫌いなんだ。
人間とすれ違う瞬間。これから通り過ぎる相手をいまここで認識しあう瞬間。
この瞬間は人が最も攻撃的になる時の一つである。一人の人間にこれほど不躾な視線をおくることが他にあるだろうか。一瞬の接触だからこそ、遠慮という社会的な装いは、惹起される品定めの本能を隠しきれない。
今もそうだ。
彼女たちは僕を見る。僕は彼女たちを見る。
若い女性に特有のあの強い視線が、僕を切り裂いていく。そして、そこに軽蔑の色をたしかに読み取った僕は、劣等感と怯えを感じながらも彼女たちを通り越すように見る。
僕はこうやって自尊心を守る。
人を通り越すように見る。
これが僕が上方を見る最後の理由だ。僕は視線を人々に叩き下ろすようにして彼らの向こうを見遣る。社会に見下されている僕が小さく卑しい意地でもって社会を見下し返しているのだ。
馬鹿げた被害妄想と子供染みたプライド。
僕の生活に流れる2つの歪な通奏低音。この軋んだ音をこれからも聴き続けるのだろうか。こうやって社会に裏切られた感覚をこれからも積み重ねていくのだろうか。
青すぎる空とみんなどこかへ行ってしまった白い雲たち。重い圧迫感を感じながら、しかしそれでも空を見続けながら歩く僕はやっとの思いで公園にたどり着き、押しつぶされるようにベンチに座った。




