五、畳の矜持
無数のノイズがさんざめいていた。
それは周波数が合わないラジオではなくて、まるでコンマ下まで考慮したすべてのチャンネルにそれぞれ放送局があって、それらがいっせいに放送されているかのようだった。
『お疲れ様、兄弟。これからは攻守交代だ』
そんな歌が、ノイズの中から聞きとれた気がした。
ーーだが却下する。
攻守交代と言われても、ずっと守っていたのは俺であるし、ただ攻撃していなかったのも俺なのだ。俺は一人で攻守を兼任し、攻撃をサボって防御に徹していた。そもそも攻守兼任、攻防一体、そもそも俺はいったい何と戦っていたのだろうと言った具合だ。
四畳一間の独房は、今やさまざまな音でひしめいていた。
いったいどうしてこんなにも騒がしくなってしまったのだろう。
俺はここにいつからいるのかもわからないし、このそとに世界が広がっていることも想像ができない。ただただ俺がいて数えるべき畳の目があって、窓もなくて、ドアはあってもドアノブのないドアがただ一枚あるっきりだった。
そのノイズはドアの向こうから。それはドアの向こうにはそとの世界か、別の世界があることの証拠ではあるようだが、それが俺の幻聴であるという可能性も残っていた。
そうーー可能性、それは可能性の問題に集約されていた。
しかし、それはどうにも快感とか倦怠感とか、もしくは満足感とか虚無感とか、そういったものを感じさせるような類の幻聴ではあった。
それなら俺は何を感じているのかと言うと、それを感じている俺を感じていると言った具合だったから、まるで判別はできなかった。判別ができないのであれば断定もできないわけで、裁定も審議も断罪もできるわけがなかった。
しかし印象としてたとえることだけはどうにか許されているらしく、俺はそれを何とか断定することにした。
そう、これはーーたとえるならば胎教。
そんな気がした。
しかしそれはそんな気がしただけであって、胎教であるはずがない。だって俺は大人で(子供ではあるかもしれないけれども)、少なくとも生まれる前の赤ん坊であるはずがないからだ。何せ俺はもう考えられる。考えられるからには産まれる前の赤ん坊であるはずがない。もしも産まれる前の赤ん坊が何かを考えられるとするならばーーそれは十分に、と言うか、十二分にもあり得る話ではあるのだったがーー、俺自身がその産まれる前の赤ん坊である可能性はあると思われた。しかし赤ん坊が考えられても、こんな風には考えないだろうから、その点から鑑みれば、俺が産まれる前の赤ん坊であることはあり得ない。
ただし俺が起きてこうやって考えていられる時間はおそらく多分確実に、眠っている時間よりも短いだろうから、眠っている間のことはわからず、その間に、俺はそれこそ胎児のように丸くなって、と言うか胎児に還っていたのだとしても、省みる事が出来ない事柄だった。ということは、俺が実は胎児であるという可能性は十二分に考えられる。
ーー考えるだけアホらしい事柄でもあることも確かなのだが。
そうして俺は立ち上がって鏡の前に立つ(くどいようだが立てると言う時点ですでに胎児であるはずがない)。
その鏡はこの部屋の中で決して忘れてはならない唯一のものだ。
畳の目を数えることをサボっていようが、鏡の存在や俺の存在や世界の存在について、あーだこーだと役にも立たない考えを巡らしている間にも、そいつは唯一絶対に正しい心理のような顔をしてそこに鎮座マシマシいやがられまする。
しかしもちろん、俺はその鏡に対する意識を切ってしまうことがある。
それは眠っている時はもちろんのことだし、起きている時でも正直頻繁にしてしまうことも認めなくてはいけない。それでも、俺が起きていようが寝ていようが生きていようが死んでいようが覚えていようが忘れていようが、その鏡はやっぱりそこに張りついて、その前に立つ俺は、やっぱり自分の姿が映らないことを再認するだけだった。
ないーーハズなのに、どうしてだか今日(なのか昨日なのか明日なのかは分からないが、あるいは一昨日だったのかもしれない)に限って、そこにはーー何も映ってはいなかった。
そうーーそこには何も映ってはいなかったのだ。
俺の姿は無視するクセに、律儀に部屋の中は丹念にいつも映し出していたクセに、今に限っては何も映してはいない。それが何も映していないのならば鏡だとは分からないはずだが、何故だかそれが鏡であるという絶対的な認識こそは俺の中で確立されていて、ためすすがめつしてみても、やっぱりそれは鏡で覗きこむ。
ーーこれは由々しき問題だ。
その鏡こそはまるで唯一絶対に正しい真理のように鎮座しているものであって、と言うことはその鏡が何も映してはいないのは、この世界には(少なくとも俺が存在しているこの四畳一間においては)、正しいものは何もなくなってしまったということ。
いやいや、もしかするとこの鏡こそは間違いのみしか映さない鏡であって、その鏡が映しだしていた以前までのこの部屋こそが偽物であり、ようやく本来の機能を取り戻したこの鏡は、その本分に従って何も映さなくなったと言うことなのかもしれない。
しかしそうなると、この俺はどうなると言うのだろうか。
本物でもなく偽物でもなく、鏡に映ったことはなくて無視され続け、そうして結局鏡の方がその機能を停止するに至ってしまった。
まさしくーー万事休す。
それでいてぶっちゃけ状況は何も変わってはいない。
そんな鏡がなくなって、それによる弊害としては、俺が畳の目を数えることにのみ集中してしまうことで、それはむしろ益で、そうしてみれば、その鏡を気にして体当たりをかまして隣の部屋から、
「うるせぇぞ」
なんて声をかけられる必然性も必要性もなくなってしまうのだから、やっぱりこの鏡が機能しなくなるということは、俺にとって益しかもたらさない。
そうして益体もない考えをつらつらと述べ続ければ、それしかすることのない悲しさと煩わしさに支配されてしまいそうになるけれども、ゴロリと横になる。
すると見えなくなった鏡の代わりに、聴こえてくるようになったノイズの方に耳を澄ませるが、どうにか数粒の単語を取りだせたくらいで、それも有用とはとうてい思えやしない。
それでも見る代わりに聞けるようになったのは、いつも同じ事を繰り返し行っているよりは至極有益にも感じたので、それはそれで良しとしておく。
しかしーー
『お疲れ様、兄弟。これからは攻守交代だ』
『ねぇ、あなたは誰?』
『ねぇ、あなたは私なの?』
そんな猟奇的な言葉と質問を投げかけてくる奴は、病んでいるのかヤんでいるのか止んでいるのか、そんなものは明らかにその全部だ。
しかし誠に残念恐悦至極なことにして、後半の二つは俺に答えられそうもない。
俺は俺が誰なのかも何なのかもわからないのだ。
俺はあんたかどうかを判別する前に、俺が何なのか分からないし、そもそもあんたと会ったことすらない。そんなこんなでは答えようがないというのも当然のことだ。
そうしてだから、俺は代わりに問いかけてやるのだ。
そんなことを言うのなら、俺に問いかけてくるのなら、むしろあんたの方が決めてくれ。
俺が誰なのか分からないのならあんたが代わりに決めてくれ。
そしたら俺はその通りになるから。
俺があんただと思うなら、あんたが決めてくれ。
そしたらあんたは思い通りのあんたになれるから。
そうして最後にはやっぱりこう言ってキメてやる。
「ねぇ、形をちょうだい」
俺は鏡の前に立ち尽くすようにして告げた。何も映さない、鏡と定義できない鏡。それはまるで、小石を投げ込まれたような波紋で、表面を波打たせているようで、そこにさらに無数の小石を落としてやれば、この鏡も鏡として機能するようになるのではないかと夢想する。
そうしてまた問いかける。
「ねぇ、形をちょうだい」
形をくれたのならば俺はそれになろう。
それをあんただと思うのならそれがあんたなんだ。
俺は俺を放棄してただちにあんたになろう。
こんな所で腐っているよりは、それは比べようがないほどに有益だ。
そうして俺は鏡の前から退いて、ノイズとしか思えない、聞いていれば教化どころか狂化されてしまいそうな、脳を侵す雑音に、ジィッと今度は耳を澄ます。